第1話 見守っているだけで
かつてない緊張感に胸が締め付けられた。この贈り物を喜んでくれるか分からない、でも気持ちを形にしたかった。あとは手渡す勇気だけが必要だった。
僕は大きく息を吸って吐いた。火力発電所の撒き散らすゴムの焼けた臭いが、鼻の奥にこびりつく。心地よさには程遠い空気でも、高ぶる心を抑える効果はあった。
「よし、行くか……!」
意を決してガラスドアを押し開けた。ここは廃ビルを再利用したオフィスで、中は細かくブースが区切られている。
役所窓口や職安の並ぶ無機質な通路を抜けて、やがて「古物家電取扱所」の札のかかる扉を開いた。
「こ、こんにちわ〜〜」
その小部屋は狭く、そして殺風景だ。スチール製のカウンターと2つのデスクがあるだけ。どれも錆びついていて、陰気な気配を放つようだ。そんな様子を片目に僕は大きな声で告げた。
「遅くなりました、根須麟太郎です。納品にやって参りました」
すると、部屋の奥から返事があった。その声は中年男性のもので、ひしゃげたヤカンを片手に現れた。僕の高鳴る鼓動はみるみるうちに萎んでいった。
「はい根須さんね。モノを見せてくれる?」
受付の男は、ヨレヨレの襟シャツの袖をまくりながら言った。彼が言う『モノ』とは、修理した小型家電だ。作業は僕が代行したので、納品と代金請求も目的のひとつだった。
「こちらです。小型ヒーターがひとつ、ちゃんと直しました」
「はいはい。ええと、仕上がりは……。うん、ちゃんと動くね。ごくろうさん」
男は、プラグをコンセントにさして、ヒーターを稼働させながら言った。それから手渡された伝票、報酬の1500円が添えられている。紙幣に『認』の真っ赤な判があるのを確認した。本物のお金に間違いなかった。
僕はそれを受け取ったのだが、入口付近でモジモジとたむろしていた。それはもちろん職員にすれば不審でしかない。
「まだなにか?」至極真っ当な問いが来た。僕はツバを飲み込んでから、つとめて冷静に返事をした。
「あの、ですね。今日はその、浦城さんって、いないんですか?」
普段から応対してくれる女性職員について尋ねた。今日は納品よりも、彼女に対する用事のほうが重要だった。
「アイツなら外回りに出たばかりだよ。お得意先に配送があるとかで。言伝があるなら聞くけど?」
「あっ、いえ! 大したことじゃないんです、あはは!」
僕は身振り手振りを大きくしながら退散した。居ないなら仕方ない。僕はトボトボと通路を戻り、行き交う人に目をむけた。どこを見ても浦城さんの姿はなかった。
それから家に帰ろうとしたけど、やめた。ガラス面のくすんだ柱時計は2時を指していた。
「今日は時間あるしね。少しくらい待っててもいいかな」
ロビー壁際に並ぶパイプ椅子の端っこに、僕は腰掛けた。とりあえず退屈で、足をブラブラ揺らしながら、行き交う人達を観察していた。
おしゃれなレザージャケットを身にまとう老紳士はお偉いさん。長袖に長ズボンとゴム靴を泥で汚しているおばさんは、たぶん農家かな。ブルーシートを頭から羽織ってるおじさんは、飲んだくれだろう。顔が真っ赤だし足取りも怪しい。
そのおじさんは役所窓口で職員に絡んだ。
「頼むよう、金くれよぉ! もう2日も飯食ってねぇんだ!」
「またアナタですか。いいかげんにしてください。保安部に突き出しますよ?」
職員の言葉に、酔っぱらいは小さく悲鳴をあげては、スゴスゴと退散していった。特に珍しくもない光景を、それからもずっと眺め続けた。
「まだかな、けっこう待ってるけど……」
いつの間にやら柱時計は3時前を差していた。長々と退屈していたせいか、やがて強烈な眠気に誘われた。
背中のリュックには贈り物が入っている。盗まれたらいけないと、それを胸側に背負い直して、抱きしめるように両腕をしめた。
「浦城さん、喜んでくれると良いな……」
贈り物はだいぶ背伸びした。少ないお金をやりくりして、やっと貯めた高級品だ。好みかどうかは知らない。女性なら喜ぶだろうと店員がオススメしたのだから、間違ってないと信じたかった。
ビル内は少しうるさいけど、過ごしやすくはある。窓はピッチリ閉じて、電気ヒーターも稼働している。おかげで指先まで暖まっていた。ボロ服ボロ靴ボロ帽子の僕にとって、暖を取れるのは非常にありがたい。
あまりの心地よさに僕は寝入ってしまった。そんなひとときは、何者かが僕の肩を揺さぶるまで続いた。
「ちょっと君、起きなさい」
「えっ、はい!?」現れたのは男の役人だった。大きな体つきで、白い襟シャツが壁のように見えた。
「浮浪者か? 困るんだよね、こんなところに居座られると」
「あ、すいません! でも僕は大人だし、ちゃんと家もあります。つい眠たくなっちゃって」
「どうだか。さっきから何もしないで、ここに居るじゃないか。浮浪児か何かだろ?」
「あの、僕はその、知り合いをここで待ってまして――」言いかけた矢先、ガラス戸が押し開かれた。そこには、念願の姿があった。
「あの人です! 僕が用事あったのは!」
役人の脇の下をすり抜けて、入口まで駆け寄った。浦城さんは今日もキレイだ。栗毛色の長い髪、凛とした顔立ち。厚手で裾の長いワンピースも、スラリと伸びる手足によく似合っていた。
僕は傍まで寄ると、自分の服を両手で払った。それでも染み付いた黒ずみは落ちず、ツギハギの縫い目でほつれる糸も頼りなく揺れた。身なりの悪さはもう仕方ない。その代わりに最高の笑顔を見せようと決めた。
「浦城さん、おかえりなさい!」
「あら根須くん、どうしたのこんなところで?」
彼女は驚きつつも足を止め、こちらに柔らかな笑みを向けた。耳に髪をかける仕草にドキリとさせられた。
僕は慌てて目をそらして、リュックの中から1輪の真っ赤なバラを取り出した。
「まぁキレイ。もしかして生花?」
「そうだよ、造花じゃなくて本物だよ」僕はバラをさらに前へ突き出した。
「これを、私に?」
「うん。喜んでくれるかなって」
「あぁ、なるほど。そうねぇ……」
小さな沈黙を挟んでから、彼女は済まなそうに言った。
「気持ちだけ受け取っておくわ。ありがとうね」
「えっ、でも、せっかく買ったのに!」
なおも縋ろうとする僕だったが、浦城さんは誰かに呼ばれた。そして「ごめんなさい、また今度ね」と言っては、足早に立ち去っていった。
こうして、身分不相応な生花を手にした僕だけが、ロビーに残されてしまった。この後はもう、肩を落として街なかをさまようばかりだ。
「頑張ってお金を貯めたのに、無駄になっちゃったな……」
路地裏の片隅、ひとりきりで腰をおろした。辺りは紙やら空き缶が散らばり、酔っぱらいが寝転がるという最悪のロケーションだ。
ここでボヤいても仕方ない。バラをリュックに戻すと、家に帰ろうと決めた。
「夜まで時間あるけど、他に用事もないしね」
さきほどのビルは、中央区の大通り沿いにあった。僕の家は南地区の貧民窟なので、そこそこ遠く、30分も歩くのが億劫でしかたなかった。
だが皮肉なことに、僕は大通りで足を止めた。いや、止まるしかなかったのだ。
「お前ら道をあけろ! 外征部隊が帰還するぞ!」
騒ぎを聞きつけた群衆が、辺りの沿道を埋め尽くした。わざわざ2階窓を開く人もいて、誰も彼もが高らかに声援を送った。
「我らがアームズ! 今回も勝ったんだってな!」
「これからも頼むぜマジで! ゾンビどもを皆殺しにしてくれよ!」
これは大戦果をおさめたうえでの凱旋らしい。だから祝福の声も熱狂を通り越して、どこか狂気じみていた。称える声も度が過ぎれば絶叫と同じだった。
やがて眼前の大通りを装甲車がゆるやかに走った。ボディを鉄板で補強したワゴン車。あちこちの塗装が引っかき傷で削れているが、それも勲章なのだろう。
「てめぇら、祝えやオラーーッ! 大勝利だぞ!」
窓から身を乗り出した隊員が、空に向かって自動小銃を撃った。それだけでも耳が痛いのに、黒煙を吐きながら回る装甲車のエンジンも、ひどくやかましい。
それらは僕にとって死と暴力の象徴だ。嬉々として眺める気にはなれない。しかし、眉を潜めるのは僕くらいのもので、辺りは歓声で揺れるほどの騒がしさだ。
「どこかでコッソリ通り抜けられないかな……」
辺りを窺っていると、僕はいきなり背後から押された。「どけよ貧乏人のクズ!」という暴言つきだ。それは2人組の少女だった。
「いたた、なんだよ今の……。あっ! 花が!」
思い切り突っ伏したせいで、バッグの中でバラがへし折れてしまった。
そんな僕の事なんて構わず、その2人組は、強引に群衆をかき分けていった。そうして車道の方まで出ると、どちらも自分の両手首をくっつけて、頭上に掲げた。
それは特別なサインで「絶対服従」を誓うものだった。2人の姿はよく目立つ。もちろん、アームズ達からも注目を浴びた。
「おいおい、結構なガキが来たぞ。どうするよ?」隊員が車内に呼びかけた。
「オレは好きだね、コネクト」
車内から誰かが言った。すると、2人の少女は飛び跳ねて喜び、凱旋する列の最後尾に続いた。
僕はもう、2人に対する苦情を引っ込めた。あぁなってしまえば、彼女たちはアームズの「所有物」だ。そこにちょっかいを出したら、良くて殴打、下手すれば撲殺が待っている。
結局、僕は黙って見送るしかなかった。5両の装甲車と、10人以上の女性の列が、北の一等地に消えていく姿を。
「はぁ。やっと終わったよ……」
僕は散々な気分をぶら下げながら、ようやく帰路についた。自宅のある南地区に向かう最中に、空は夕暮れに染まった。ぼやけた太陽は赤黒い。火力発電所が垂れ流す煙が空を覆うからだ。
「ケホッ。今日は風向きが悪いな。臭いがきつい……!」
僕は黒ずんだハンカチで口元を覆って、足早になって歩いた。乱雑に並ぶ掘っ立て小屋の群れを通り過ぎていくと、市街地をすっぽり覆う大壁が見える。
そこからほど近い場所に僕の家はある。家賃が最も安い区域のひとつだ。
「はぁ、ただいま……」
僕は暗闇の中で呟いた。電灯を付けると、裸電球が天井でユラユラと揺れた。
中央区の騒がしさとは打って変わって、驚くほど静かだった。キィンと尾を引く耳鳴りが胸を刺す。僕はたまらずラジオのスイッチをつけた。
そっちはそっちで、やたらと騒がしかった。
――エデンにお住まいのみんな、ばんばんワァ!
今日も夕飯時に最新情報をお届けする満腹満足なレディオ! お相手はこのオレ、アマトー坂下だ! よろしく頼むぜ、ヘイッッ!
ラジオを切るべきか悩ましい。それでも無音よりはマシかもしれない。何度かスイッチに手を伸ばしたけど、結局は聞き流すことに決めた。
――お前らもちろん聞いたよな?! アームズは連戦連勝だってよ! もう周辺のゾンビはあらかたブチのめしたって言うから、オレたち人間の領地もだいぶ広がったんじゃねぇの。
そのあまりの話は初耳だった。最近はプレゼントにばかり頭を悩ませていたので、少しだけ浮き世離れしていた。そんな言葉を、小皿にブロックレーションを並べながら呟いた。
――オレたちの住まう『エデン』の人口も、とうとう5千人を超えたっていうし、だいぶ狭くなってきたろ? でもゾンビどもが消えりゃ、いくらでも街を増やせるぜ。だからもうちょっと辛抱だ。そのうち誰もが広い家に住めるようになるだろうよ!
そんな日が来るのかな、と思う。こんなにも狭くてボロい掘っ立て小屋でも、しっかり家賃をとられる。エデンの中でも最安値だけど、やはりバカにならない金額だった。
冬の寒さを思えば、2度と野宿はするまいと決めていた。そしてその冬も、そう遠くはない。
――それにしてもアームズはすげぇ人気だよなぁ。オタノシミの女が何人いたよ? マジ羨ましいぜ。オレも一度でいいから、あんなふうに女をはべらかせて……
僕はそこでラジオを切った。そしてブロックレーションを立て続けに3個ほおばった。チョコ味だけど味わいは薄い。舌が渇くと思っただけだ。
食事はそこでお終い。もう他にやることもなく、寝るだけだ。
「はぁ。やるせないな……」
ベッドからはシンク台が見えた。そこには、茎の短くなった赤いバラがある。転倒して押しつぶしたけど、幸いなことに花びらは無事だ。今のように空き缶ではなく、花瓶に差していたら、中々の見栄えになったと思う。
それでも、咲き誇る花はやがて枯れるだろう。造花の方が長く残るというのは、何となく皮肉に感じた。
「浦城さん、どうして受け取ってくれなかったのかな。やっぱり僕みたいなヤツに、恋愛なんて贅沢なんだろうな……」
吹けば倒れる小屋、粗末な身なりに貧相な食事。背は低く筋肉も薄い。胸を張れる所が何一つとしてない事は、自分自身でよく理解していた。そのせいで嘲笑われたり、なめられたりする屈辱も骨身にしみている。兵役検査にも落ちたので、兵士として活躍する道も閉ざされた。今は電機修理でどうにか食べていける状態だった。
そんな自分が果たして、浦城さんとつり合うだろうか。答えはノーだった。
「分かってるんだよ。僕なんか相手にもされないって」
もう一度、彼女の顔を思い浮かべた。それだけで鼓動が高鳴り、切なさに胸が締め付けられた。
それでも希望はある。アームズに連れて行かれた人の中に、浦城さんの姿がなかったことだ。簡単になびくような人じゃない。それが分かっただけでもホッとした。
「釣り合わないなら、それでも良い。これからも彼女の役に立とう。あの人が笑顔で居られるよう、力を尽くそう。だからこれからも、傍にいても良いよね……?」
答えのない問いを浮かべてるうち、考えるのをやめた。それからは強引に目をつぶった。まんじりとして、ベッドを右に左に何度も転がった。
押し寄せる眠気は頼りないほどに弱い。それでも微かな導きにすがって、意識を手放した。そうして夜は更けていった。
「あんまり眠れなかったから、身体が重たいな……」
あくる朝。のろのろとベッドから這い出ては、蛇口をひねった。縁の欠けたコップに、鉄臭い水を汲んでから一気に飲み干した。
「今日は仕事があるかな、どうだろう?」
ハンチング帽を被ってから、中央区へ出向いた。役所には毎日、依頼の紙が張り出されている。そこで仕事にありつけるかは運次第だった。
それから役所のビルまで辿り着くと、ガラスドアを押し開けた。だが、それと同時に呼び止められた。
「あっ、根須くん。ちょうど良いところに」
「浦城さん? 僕になにか用事でも?」
「ちょっと配達を頼まれてもらえない? 私がやるべきだけど、今ちょっと立て込んでて。無理にとは言わない――」
「もちろん! 任せてよ!」
僕は前のめりになって快諾して、大荷物を受け取った。彼女が笑顔でいられるよう、力を尽くしたい。その誓いに偽りはないのだ。
「ありがとう、じゃあお願いしようかしら」
柔和な笑みに少しだけ見惚れてから、僕は配達の仕事に就いた。ミスの無いように説明はキッチリ頭に叩き込んでいった。
この安請け合い、実は後々に大問題に発展してしまう。僕の貧しくも慎ましい日々と、そして浦城さんとの関係性も、全てが破綻する事になるのだ。
そうとは知らず、僕は能天気にも荷物を運んでいくのだった。