ハチⅢ
「聖奈、遅いよ」
「ごめんごめん、ちょっと混んでて」
授業には間に合っているのにはるを怒らせてしまった。今までならありえないことだ。聖奈がはるの隣に座った。この教室でも男女比がおかしかった。
しばらくすると聖奈の後ろに誰かが座った。振り返ることをしなかったので誰かはわからなかったが、後に関西弁の男が「おー蒼汰、今日は遅刻じゃないやんか」と話しかけていたのですぐに正体が分かった。熊野蒼汰は別の授業で同じグループになったことがある。話したことがないわけではないが、それほど話す間柄ではない。
(てことは関西弁の子は山本君か)
二人は大抵一緒に行動しているが、山本雅哉は時々恋人といるところを見かける。実際に付き合っているのかは聞いたことがないが学校での距離感を見るに恋仲だろう。
(二人もはるちゃんと同じ感じなのかな)
少しの会話では判断できなかった。蒼汰も雅哉も深く関わりがあるわけではない。それでもこの異様な学校の状況を受け入れられているように思えた。
(やっぱり、私とは違うのかな。みんなどうしちゃったんだろう)
聖奈は心から友達と呼べる人はいなかったが、それでも気楽に話しかけられるくらいの人はいた。隣に座るはるも、その内の一人だ。よく学校をサボってはいたが一緒にお昼ご飯を食べたりした。聖奈は隣に座っているはるを寂しそうに見つめた。
講義が始まってしばらくすると突然、廊下が騒がしくなり始めた。学生らがざわざわし始める。徐々に廊下の声が大きくなっている。聞こえてきたのは耳を疑う内容だった。
「人間がいるぞ!逃がすな、蜂にしろ!」
男の野太い声で言った。そして、隣のはるの目が急変した。その目は真っ赤に充血し今にも襲い掛かりそうで、聖奈は恐怖を覚えた。はるだけではない。その教室にいたほとんどの者がそんな目をしていたのだ。誰かがものすごい勢いで走る音が聞こえる。扉の前を二人の男が走り抜けると、学生たちが一斉に後を追うようにして教室を出ていく。
「はるちゃん!」
聖奈ははるにむかって精一杯声をかけたが、まるで聞く耳を持たない。
「なんやあれ?」
後ろで戸惑っている関西弁が聞こえた。聖奈はすぐに後ろを振り返った。
「え?山本君…と熊野君も?」
聖奈は雅哉一人だと思っていたが蒼汰もいた。
「え、どうなってるん?」
雅哉も聖奈も全くこの状況を呑み込めずにいた。二人とも口をあんぐりさせている。
「変な顔」
蒼汰が二人を見て言った。蒼汰、ただ一人はこの状況を冷静に見ていた。蒼汰は席から立ちあがり二人に後をついてくるように促した。聖奈と雅哉は困惑しながらも蒼汰の背を追う。
着いたところは大学内の小さな芝生広場だった。そこにはさっき追われていた人を囲うようにして大勢の者がいる。追われていた人は教授だった。
聖奈は自分の目を疑った。男が教授の腕に嚙みついたのだ。離れていたところでもよく分かる。男の歯はとても鋭く、骨ばった教授の肌にグサリと刺さっている。教授は初め、抵抗していたが少しして抵抗をやめ顔が赤くなり始めた。まるでお酒に酔ったみたいだ。
「何や、あれ…」
聖奈も雅哉も目を白黒させている。男は数十秒ほどで離れ、口についた血を拭った。教授はぐったりしていたがしばらくして何もなかったように立ち上がりどこかへ歩いていく。それを確認して周りの者も校舎へ戻っていった。
(なにが起こっているの…?)