9 出発
丹那トンネルは開通していましたが、関門海峡はまだでした。大陸に渡るルートはいくつかありましたが下関から関釜連絡船で行くのが一般的だったようです。もう少し早く、20時間程で東京下関を走る特急があったそうですが少年達には縁がなかったようです。約一名以外は。
過ぎてしまえば短い研修期間がようやく終わりを告げた。
今、俺たちは広場に集まり所長からの言葉を聞いている。内容自体は特別なものではない。そりゃ毎回新しいことは言えないよね。それでもこの人は天性のアジテーターなんだろうな、何人も泣きながら聞いているぐらいだ。まあ、俺の横にいる坊っちゃんはケロッとしていたけどね。
そして俺たちは隊列を作り広場を出て駅に向かった。研修所外での初めての団体行動だな。
東京駅には夜遅くに着いた。ここで東海道線に乗り換えて下関まで列車の旅となる。
「あーあ、せっかくの夜行列車なのにな。寝台車に乗りたいよ」贅沢を言うのは坊ちゃんだ。
「お前来たときは寝台だったのか」いちいち相手をするやつも出てくる。
「まあね、なかなか良い寝心地だったよ」
「そんな贅沢は義勇軍には許されないんだよ」
「波多野も寝台だったのか」つまらん話を振るなよ。
「そんなわけないだろ。俺は山寺の小坊主だぞ」
座禅のつもりで明日の夜まで静かに瞑想でもしていようよう。予定では22時間程だ。研修の疲れが少しでもとれるといいな。
「波多野、ちょっと果し合いの件詳しく教えろよ」
「いやそれより天狗がどうとかって何のことだよ」いやうるさいから。他の乗客に迷惑だろう。
貸し切り状態の車両であった。引率までどっかに行ってしまっている。
結局、まわりのおしゃべりに巻き込まれて瞑想どころではなかった。
しゃべり疲れていつの間にか寝ていたようだ。気が付くと夜が明けて列車の外が明るくなっていた。海が進行方向の右手に見えていた。なんか変だな、まさか山陰線を走っているのか。列車を乗り間違えているのか。しかし穏やかな海だな。ああそうかありゃ琵琶湖か。上京の際にも見たはずだが夜明けでは感じがちがう。そういえば富士山は夜中で見損ねたな。もう一度見ておきたかった、次がいつあるのかわからんものな。
京都で一時停車をする頃にはほとんどの連中が目を覚ましていた。まだ行程の半分も来ていないのに手持ちの握り飯を食べ始める奴もいる。いいのか、先は長いぞ。
山陽線に入ると車窓に海の風景が増えてきた。大小の貨物船の間に小さな漁船がときおり見える。故郷の海で遊んだ小舟を思い出した。あれよりは大きいな、日本海は波が荒くてちょっと怖かったけど、ここらなら俺でも漁師が出来るかな。満州に行けば海を見ることなんかないよな。これも見納めになるのかもしれない。
下関には夜の九時過ぎに着いた、ここからは連絡船に乗り換えて海峡を渡ることになる。引率の指示に従い隊列を作り移動する。船の待合まではすぐだった。随分人が多いなと思ったら俺たちの見送りの人々だった。手を振って次々に声をかけてくる。皆の家族たちが来てるんだ。
「全体とまれ。ここで大休止を行う」引率が号令を出すと隊列が崩れ、それぞれの家族を求めて走って行く。大騒ぎだな。
「宏信!」
え。
「こっちだ」
親父がそこにいた。思わず早足になった。
「あまり時間がないからな、こっちへおいで」言われるままについていくと長椅子のある待合室があった。お袋が立ち上がって微笑んでいるのが見えた。
「あら、少し背が伸びたかねえ」お袋は俺を軽く抱き寄せて背中を叩いた。そして頭をなでる。
「北関東は空っ風だからな、吹かれて伸びたか」親父の軽口など珍しいな。一か月やそこらで伸びるものなら今頃大男になってるぞ。もう少し身長は欲しいところではあるが。
「さあ、これを食べなさい」折詰に巻き寿司が入っていた。まるで遠足の弁当だな。もちろん有難くいただいた。
簡単に研修の報告をする。両親からは近況をあれこれと聞かされた。本山で修行中の兄貴は順調で、今度首座になったらしい。弟は相変わらず野山を駆け回っているようだ。世はこともなし、俺だけがわけのわからんことをしているようだ。波風立ててすいません。
「かまわんよ、次男坊とはそうゆうものだ。お前の爺さんもそんな風だったようだぞ」
「怪我には注意しなさいよ。あまり無茶はしないでね」
「自分に恥じない方向にはいくなよ。お師匠が言っておったろう、風に向かって歩けとな」
いつも見極めろってね。子供に無茶を言う人だったよ。おかげさまで丈夫に育っております。
風呂敷包みを渡されて集合場所に向かった。
夜が明ければ新天地だ。
研修所にも家族の面会などあったようですが、彼らの研修期間が短かったので機会がなかったんですね。
下関とは限りませんが出発直前の見送りはあったそうです。




