8 出発前夜
剣道の授業でやたら太い木刀を使わせたのも、鍬の柄で戦えということかもしれません。こののち八万六千人の少年たちは、鍬の柄一本を持って大陸へと渡っていくことになるのです。
午後の授業は今日も農作業である。皆ひたすら鍬をふるい土を耕している。ただいつもと違いあちこちで話す声が聞こえる。俺の横でも坊ちゃんが話しかけてくる。
「やっぱり僕たちにはあまり必要性がないんじゃないかな」
武術の授業のことだ。昼食や昼休みの時にもあちこちで同じような声が聞こえていた。先生方や他の隊員たちに聞かれては良くないと皆わかっていて、話は広がらず、ただ繰り返されるばかりだった。
「僕たちは開拓地に行くわけじゃないんだから……」護身術などいらないんじゃないか、というわけだ。
俺はそういった声には耳を傾けずひたすら飯を食べ、今は一心に土に向かっていた。体を動かすのは嫌いではないし、じっとしているより考えることが出来るたちだ。で、何を考えていたかというと、なんで開拓していると馬賊や暴徒に襲われるんだということだ。
授業の後、先生はもろ肌を脱いで岩のようにごつごつとした身体を見せてくれた。自慢のためではない、油断するとこうなるという見本を見せるためだ。ひきつったみみずばれや刀傷、明らかな銃創まであった。
「浅い傷ばかりで助かった」と言うのだ。だから技を覚え身につけよと。
そりゃあその通りだろうけどなあ。でもおかしいだろう。なんで百姓してるとおそわれるんだよ。金目のものなんか持ってないだろうが。
「そりゃあ波多野君、恨まれているんだよ。日本人は」坊ちゃんがそう言った。小休止の時間になって少し人の輪ができた時だ。
「開拓村はどこにあると思います?荒野の荒れ地にでもあると思ってるの」いつになくしっかりとした口調で坊ちゃんは俺の疑問に答えた。
「もちろん一から開拓するところもある。でももともとの農地も没収していくらしいよ」現地の農民から奪うってことか。
「お前なんでそんなこと知ってんだよ」むきになって誰かが言った。
「僕の実家は大阪で薬品を扱ってるんだ。シナや満洲は良いお得意様だ。そんな話いくらでも聞くよ」
いままでかなりの開拓団が日本から大陸に渡っている。その人々全てに都合よく肥沃な土地がいきわたるわけがない。ハワイや南米に行った移民の人々が苦労しているという話は聞いたことがある。よそ者にそうそううまい話が転がってくるわけがない。
「でも僕たちが行くのは日本の工場や会社だろ。安全だと思うんだけどな」というのが坊ちゃんの理屈らしい。
そうかなあ。農村であぶれた人々の流れていく先は都会じゃないのか。江戸時代だって食い詰めた流民の行き先は江戸や大阪じゃなかったのか。
「俺たちこそ一番危ないんじゃないかな。義勇軍はそれぞれの開拓村に集団でいるわけだろ。俺たちはバラバラだ。仕事先から外に出ないなら安全だろう。でも満洲の大都会にいてそれで済むわけないだろうと思うぞ」一人で街を歩く時が一番危ないのじゃないかな。坊ちゃんの顔がちょっと引きつったぞ。
ところで俺たち五十人の小隊は工場などの会社に派遣されることになっている。だが今まで誰が何処に行くのか全く話題にならなかった。連日の疲れでそういった話をする余裕もなかったのだが、そもそも俺たちは出身地がそれぞれどこなのかもよく知らなかった。
他の隊員たちは、この研修所に来る時から集団でそれぞれの地方から来ている。県庁所在地にでも集合して団体行動で列車に乗り、ここ茨城の内原駅に降り立ち列を作って行進して来るのだ。だからその間にいくらでもおしゃべりもするだろう。
だが俺たちは実家を出た後、一人で案内の紙切れ一枚を頼りにここまで三々五々たどり着いていた。誰が何処から来て何処に行くのかなんて話し合う余裕もなかった。だから坊ちゃんが大阪出身というのも初めて知ったわけだ。まあ大阪弁である程度は見当がついてはいたけどな。
で、行き先だ。
「お前は何処に行くんだ」
「俺は奉天だ。繊維会社に行くんだ」
「俺は哈爾浜だ」
「大連」
「✖✖」
「〇〇」
バラバラだが七、八人ぐらいずつはまとまりそうだ。
「向こうに行ってもたまには会おうな」
「同じ釜の飯を食った仲間だからな」
「出来るだけ助け合おうぜ」
突然仲良しになったな。もう太鼓がなってるから早く散らばれよ。
「まあ波多野は大丈夫だな」晩飯の後向かいに座っていた奴が言った。
「お前ならこわいもんなしだわ。なにせ小天狗だからな」
「え、なんで小天狗なんだ」
「だって母親が天狗姫なんだぞ。空を飛んで雨を降らしたんだぞ」
「本当か」
「ああ、親父が言ってたからな。こいつだって少しなら飛ぶぞ、俺はこの目で見たんだからな」なんだこいつ。何を言い出すんだ。
「へへ、波多野君。俺はH中学なんだ。そんであの時俺も近くで見てたんだ。空を飛んであいつを倒したじゃないか。あれは凄かったな」
こいつか、あることないこと言いふらしてたのは。
彼とは同じ列車に乗り合わせていたのですが、波多野君は全く気付いていなかったのです。




