7 満州の現実
武道の授業には柔道もあった。実は一番興味のある授業だった。
集合して待機しているとやってきたのはゴリラというか蟹というか、とにかく横幅のある方だった。身長が低めで俺達とたいして変わらなかったので余計にそう見えた。
柔軟体操をして、さあ受け身の型からでも始めるのかと思っていると、先生は助手役を立たせて向かい合い、気合と共に右手を水平に振るった。もちろん寸止めだったが。
休む間もなく貫き手でみぞおち、そして一歩近づいて膝で金的を狙った。
この間相手の道着は全くつかまなかった。およそ柔道の技じゃないよね。
「一つ、こめかみ。二つ、水月。三つ、釣鐘」大きく、良く通る声だった。
「打つ、突く、蹴る。これを今から練習する。皆さん二手に分かれ、やってみなさい」
俺たちは二人一組になり、互いの距離を手の届かない間合いに別れ、掛け声をあげながら打つ突く蹴るを行った。先生と助手さんは一組づつ様子を見ながら指導をしていく。
俺の組、相手は例によって坊ちゃんだが、に先生が来てしばらく見ている。
「待て」と言って俺たちの間に入り俺に向かって右の手の平をひろげた。なんか野球で使うグローブみたいに見えた。
「ここに突きを当てなさい」巻き藁がわりかよ。せっかくだから真面目に腰を入れて突きをいれた。当てた瞬間に拳をそのまま握り込まれた。本当に捕手の使うミットのようだった。
「なんだちゃんと撃てるじゃないか。真面目にやんなさい」
先生は全員の様子を見て回ると「休め」と号令した。
また助手役と向かい合い、今度は助手役が技をかけた。先生は寸止めを受けるのではなく、しっかりと当ててくるのを手で払って見せた。
「係り稽古じゃわかりにくいか、君ちょっと来なさい」そう言って俺を指差した。うへ、手抜きをしていたから指導されるのか。
「じゃあ君当てて来なさい」そういって正面に立つ姿に全く隙が無かった。どうするんだよ、これ。
「どうした、それ、打て!」先生の出した気合につられて力が入り、握った拳のまま右手をこめかみ目掛けて思い切り振った。
小坊主時代に師匠から鍛えられたといっても、身体の鍛え方動かし方といったものでしかなく、技のようなものは教えられてはいない。だから中学で何度か喧嘩をしたといっても、力任せに出たら相手が勝手に押し出されて負けた負けたといって騒いだだけだ。例の果し合いだっておれは相手の肩に飛び降りただけだ。
俺の力任せの拳は受け止められるのではなく上に弾かれた。いや、軽くそらされたのか、とにかく空をきった。
「わかるかな、受けるのではなく相手の力をそらすように、さばくようにするんだ」
見ている連中から感心したようなざわめきがおこった。あまり良い気持ちはしない。構えなおして突きを出した。先生は半身体を引いて、ついでのように俺の肩のあたりを引いた。俺はたたらを踏んでひっくり返るのだけはなんとかこらえた。今度は笑い声が起こった。ついカッとなって構えも取らず先生の両襟を掴み膝蹴りを出そうとした。だがどうしたものか取った両襟は簡単にはずされ、膝は空をきり俺は前にはいつくばってしまった。
大きな歓声が起こり、俺は両耳まで真っ赤になった。「どうした子天狗!」つまらんヤジを飛ばすやつまでいた。
「こら!静かにしなさい」先生が一喝し皆は口をつぐんだ。
「彼の敢闘精神は立派である。私に通じないのは仕方がない年季の差である。私だって先年木村政彦と当たった時は手も足も出なかった。だからと言って私を笑うものはいなかったぞ」
すごいな、この人は鬼の木村と試合したことがあるんだ。そう思うと頭の芯がすっと冷え、気持ちが落ち着いた。
「ありがとうございます!」俺は立ち上がって礼をとった。
「よろしい、戻りなさい」
俺が皆の中に戻っていくと先生が話し出した。
「なぜ柔道の授業でこのようなことをしているのか疑問を持つものもおるだろう。誰かわかるものはおるか」
そう問われても皆互に顔を見回すだけで答える者はいない。が、一人手を挙げる者がいた。俺の横にいた坊ちゃんだ。
「君、答えてみよ」
「はい。これは逃げるための訓練ではないでしょうか」
「ほう、何故そう思うのか」
「優勢なる相手に無理につっこんでいったりすると、今の波多野君のように引き込まれてつかまってしまうからです。そうではなくて向かってくる相手の急所を狙い、しかるのちひるんだところを逃さずこちらが逃げるための訓練だと思います」
皆が一斉に騒ぎ出した。
「そんな卑怯な訓練があるか」「敵がひるんだならそこを攻めずにどうするんだ」
先生が大きく手を打ち合わせた。柏手一発で騒ぎは収まった。
「そうだ。その通りである。よいか諸君。君たちがこれから行こうとしている満蒙の地ではこれが必要なのだ。君たちは徒手空拳で彼の地に赴き新しき地を開拓せねばならぬ。だが周りは味方だけではない、流浪の暴徒もおれば武装した馬賊もいる。文字通りの狼の群れさえ出没するのだ。君たちのような少年がいちいち闘っていては幾つ身体があっても足りなくなる。だから吾輩は君たちに身を守る術を教えたい」
正解を出した坊ちゃんが頬を赤くして聴いている。なんだこいつが一番理解していたわけか。
当時の柔道・柔術の試合は随分荒っぽいもので、脱臼などは当たり前だったとのこと。
名前を出した木村政彦の写真を見ると、まさに岩のような身体つきに鍛え上げているのがわかります。
映画「姿三四郎」がスマートに見えるのはその反動なんでしょうかね。




