3 退学そして
何故山門の上などに登れていたのかは、こういう事情で昔からちょくちょく上っていたからということです。
何故果し合いなんぞになったかというのは隣町の中学なんかは仲が悪いにきまっていたからです。
詳しく描くと無駄に長くなりそうなので端折りました。
駐在さんのところに連れていかれ、すぐに本署から応援が来て、しっかり調書をとられました。
「これは立派な傷害事件だからね、子供の喧嘩じゃすまないよ」と、脅かされたところで奥様が割り込んできてとりなしてくれた。「なんとか子供の喧嘩にしてください」まだ子供なんだからって。
さすが奥様、県警にだって.顔が利いたらしくて聴取が終わった俺はそのまま帰してもらえることになった。
この話を母親に報告したら「顔が利くなどと下世話なことを言ってはならん」とえらいこと怒られた。
「姫姉さまにご迷惑をおかけして申し訳ない」と言って涙をこぼしたのにはさすがにあせった。それまでだまってやり取りを聞いているばかりだった親父が「近々顔を出してくる」と、言い出したのには驚いた。
まあそれは翌日以降の話だ。
「今夜は泊まっていきなさい」と言われて、俺は素直に従った。平気な振りをしていたものの、正直疲れ切っていたのだ。このまま家に帰るぐらいなら野宿でもしたほうがましだと思っていたので、円光寺に帰れるのはありがたかった。
なにしろあそこは八つの年から丸三年暮らした場所だから。
俺は行儀見習いというか坊主修行というか、あそこで小坊主をしていたのだ。
海潮山勝音寺というと立派だが実態は小さな山寺だ。親父はそこの住職で、おれは男ばかりの三兄弟の次男だ。兄は真面目で今は本山に修行にでている。弟はのんびり屋でよく虫を捕まえて遊んでいる。真ん中の俺だけが根っからのいたずら者で、母親は随分と手を焼いたんだそうだ。
何かの折にそんなボヤキ話をした際に「ならうちでしばらく預かりましょう」となったらしい。「うちにも力のあり余ったのがいますから」ちょうど良い、との次第。
行ってみたら、有り余っていたのは住職その人だったのだが。
全国的にはどの程度知られているのかわからないが、広島や島根などの中国地方における幕末の有名人の一人に物外和尚という宗教家兼武術家がいる。とにかく力持ちで、エピソードに事欠かないが、その一つに拳を署名代わりにしていたいうのがある。分厚い碁盤や太い寺院の柱に拳を打ち付けると、はっきりと指の形が分かるほどに跡が残ったそうだ。いまでも永平寺に行けば柱に跡が残っているとか、どこそこの分限者の床の間に拳型に裏が凹んだ碁盤があるとかというのは、この地方ではよく聞く話だ。
そしてついたあだ名が拳骨和尚。で、円光寺住職はそのお弟子さんになるのだそうだ。法統ではなく不遷流柔術という武術の方の。
円光寺という名刹の住職になるくらいだから元々の氏素性も立派なもので、藩の重職血筋らしいのだが、本山修行の折に拳骨和尚にもひかれたらしく本山を下った際にそのまま和尚のもとを訪れ薫陶を得たらしい。
「物外さんの最後の弟子」というのが自慢の人だった。そちらの修行もしっかりと修めたようで、裸になった時の体つきなど子供心に巌のようにみえたものだ。その人に八つの時から鍛えられた。
「経などは意味が分かるようになってからじっくりやればよろしい。体作りは早いうちに始めるに限るから日々精進すべし」というお師匠様であったので、力だけはしっかりと付いた。おかげで「あなたがいたときは水くみが楽だった」と奥様が言ったことがあった。それを聞いた母が「うちは山水を直接引いているから役にたたんな」と言って嘆いたというのはどこまで本当なのか。
久しぶりの円光寺の飯は旨かったが、ずっと説教つきなのには閉口した。なんでも相手の両肩は骨にひびが入って全治三か月ほどのものらしい。「なんだ折れてなかったのか」とつい口走ったらまた怒られた。
どこまでもたたる奴だなあと思っていたら、とうとう中学を辞めるはめになった。
「波多野君ちょっと来なさい」と言って担任に連れていかれたのは教頭の部屋だった。また説教かと構えていたら、話は全く別のものだった。
「君これを読んでみたまえ」と目の前に置かれた紙にはこう書かれていた。
(満蒙開拓青少年義勇軍)
「どうだ興味がわかないか、波多野君」
中学時代(旧制)の話もこの際カットしてさっさと満州を目指します。




