19 夏の予感
『八月、待望の移動命令が出た。やっと東京を脱出し大陸に渡ることが出来た。赴任先は半島の砲兵連隊ではあるが、何その先は何とでもなる。とにかく東京では身動きがとれなかった。
蒙古での失敗から一年、捲土重来である。先ずは連隊を把握し動ける体制を整えることからだな。後々のことを考えると地理的には良い場所かもしれない。北支では戦いの火蓋が切られている。しばらくは高みの見物となるだろう。上海や満州との連絡を密にせねばならん。
男は着任した連隊の連隊長室で一人思いにふけった。』
体調の戻った俺は忙しい夏を送っていた。社内で一番の下っ端なのでやることが多いのだ。春の終わりに寝込んだのが悪かったのか。会社としての仕事量が大幅に増えていたのが原因だと思いたい。特に製造部門は大忙しだ。
飛行機というのはとにかく世話がやける乗り物だ。なにしろ使わずにただ置いておくだけでも劣化していく。特にここ満州のような気候の変化が大きなところでは。防水布にくるんで倉庫に保管していても、半年も過ぎれば潤滑油は固くなり、どこからともなく侵入する埃が可動部に溜まっていく。脚のタイヤは凹み、風防のガラスは曇ってしまう。
かといってしょっちゅう動かしていては、それこそあちこちがすり減り物理的にがたが来る。まああきれるほど手間のかかる奴だ。
だから整備や修理を待つ機体は文字通り列をなしている。これを片付けていくのは当然熟練の整備士たちだ。
そして広い工場の半分以上を占拠しているのは組み立て中の新型機の群れだ。ここでは陸軍機や海軍機の区別なく骨組みから製造し完成機を作っている。三菱や中島にいた職工さんがゴロゴロいる。組上がればすぐに隣接している飛行場に運び、即試験飛行を行い出庫となる。
内地の工場ではこうは行かないそうだ。工場で機体が完成するとまず飛行場まで運搬するのは同じだが、驚くことに運ぶのはトラックなどではなく牛なんだそうだ。牛なら俺も実家近くでよく見かけたものだ。生き物は可愛いものだが、この場合非効率が過ぎる。先輩たちに何度も聞き返したが本当のことらしい。
ここの飛行場ならやたらと広いからよほどのことがない限り、その気になれば夜間でも二十四時間発着できる。というのでたまに軍が訓練に使っている。休憩中にそれを見るのは楽しいが夜はうるさくて閉口する。
というわけでそこら中に熟練の大人たちがいるので、俺を含めた見習いたちはあちこちでこき使われることになる。ネジを締める、リベットを打つなんてことも、まだまだ一人では任せてもらえない。まあ俺には特技があるのでそれなりに重宝してもらっているのではあるのだが。
「おーい、ちょっとこいつを持ち上げてくれ」
倉庫から部品を出してきたところに声がかかった。とりあえず小走りで向かう。
フレームを組んでいるようで、チェーンブロックをかけて持ち上げているのだが、少しずれているようで固定に手間取っている。
「じゃああげますよ」いくら飛行機の部品は軽量化されているといっても、金属の骨格はそれなりに重い。
「よーし、一寸あげて五分右じゃ」俺は言われるままに微調整していく。
「こうですか」
「よっしゃ。そのまま固定しとけよ」こういうのが一番大変だ。しばらく頑張っていると「OKもうええぞ」と声がかかる。やれやれと力を抜いて、小休止していると熟練工のおっさんに頭を撫でられた。
「おみゃあはほんまに便利じゃな、また頼むぞ」ほめてくれるのはいいけど手の油ぐらい拭いてからにしてください。
「すまんすまん、ポマードがついてしもうたな」
いつの間にか俺が普通より力持ちだと知れてしまい、ちょいちょい便利に使われるようになってしまった。
「おーいジャッキ小僧、いいところにいたな。ちょっと手伝ってくれ」次はなんだよ。
部品を本来の現場に運び終わったら「遅い」と怒られた。サボってたわけじゃないのは分かっているくせに。早く一人前にならなくちゃな。
食堂でいつもの連中と卓を囲んでいると近くの話し声が聞こえて来た。
「で、ソ連さんには結局勝ったんかい」
「そら領土は守れたんやから勝ったんちゃうか」
「なんじゃ、上から見て来たんと違うんか」
「アホな、あんなとこ危のうて近づけるもんか。ソ連さんのアブがブンブン飛んでくるわ」
「なんでもやたらと頭の太い奴らしいな」
「ああ、馬力もあって早いぞ。小回り効かんからようおとされとったけどな」
ガハハと笑い声が響いた。東の国境近くで事件というには結構大規模な戦闘があったらしい。丘一つの取り合いで双方合わせて千人以上死者がでたらしい、というのはここでは機密でも何でもない。
北支あたりなら我が満州飛行機のスーパー機部隊も偵察や爆撃までこなしたらしいが、相手がソ連赤軍ではまずかろうな。通称アブ、I-16といえばソ連が誇る戦闘攻撃機じゃないか。車輪は格納式で、急降下してくるときは時速500キロ近く出せるらしい。95式じゃあ追い付けないそうだ。そりゃスーパー機なんて安全な地域で輸送任務に就くのが精いっぱいだったろう。なにしろ見た目はともかく金属フレームに布張りだからな。「撃たれても貫通するだけだから平気じゃ」という笑い話は聞き飽きたよ。
この時は他人事だと思っていたんだよな。
ここで話題になっているのは張鼓峰事件のことです。規模の小さい国境紛争は日常茶飯事だったようです。




