18 機密
山寺の朝は早い。
住職は夜明け前から本堂の掃除を行いその後勤行を始めている。
芳は朝食の用意をし、読経が始まると本堂へは入らずに台所で住職に合わせて経を唱える。
朝食は一汁一菜となっているので汁にいつも工夫をしている。今朝は溶き卵を入れた。
二人分の陰膳があるので自分たちの膳は少なめだ。
今は住職、芳、三男の家族だけの食事である。修行僧が逗留している時は多少賑やかになるが、次男坊がいたころとは比べ物にはならない。
三男は春から中学へ通っているので弁当を渡すと「行ってきます」とさっさと出かけていく。二人して山門からそれを見送ると住職がつぶやくように言った。
「何か言ってきたのか」
「あら、ご存知でしたか」
「夜明け前から鳥がうるさく鳴いておったし」
「まあ、気を付けておきます」
「第一機嫌が良いじゃないか、今朝は」
「私はいつも機嫌よしですよ」
以前尋常小学校の教員をしていたころ、毎朝職員室に受け持ちの子供が偵察に来ては芳の様子を確かめ、教室に戻って「機嫌よし」だの「あし」だの報告をするのが有名になった。女学校を出てから幾らも経っていなかったから気が張っていたのかもしれない。子供たちに怖がられるのは残念だったが、いつもニコニコでは誰も言うことを聞かなくなる。なかなかベテランの先生がたのようにはいかなかった。子供が出来たので怖い先生のまま教員を辞めてしまったので、いつまでも「機嫌あし」なのは悔しくもある。
「便りの無いのは良い便りだよ」次男はめったに手紙をよこさない。満州に渡ってもう二年を過ぎたというのに年賀状以外には絵葉書を二枚ばかり送ってきただけだ。
「そうかもしれませんが」長男の方は季節ごとに近況を報告してくる。本山での修行中だから書く内容に困らないのかもしれない。いちいち修行内容を夫に尋ねなければ何をしているのかさっぱりわからないが。
「それでなにかわかったのか」
「本採用になったようです。お友達も出来て楽しくやっているようです」風邪で寝込んだことは黙っておいた。
山門近くの杉の木にとまっていた鳥が鋭い声で鳴いた。
前年に始まった北支事変は戦線が拡大し上海や南京へ戦火は広がっていた。飛び火したわけでもないだろうが夏には満州でもソ連との間で事件が発生していた。国境争いである。
ハルビンにはもともと居住していたロシア系の住民と、革命後のソ連から逃げて来た難民と、二種類の白系ロシア人がいる。あとロシア人にはアジア系も多いが俺達には区別がほぼつかない。ウルグダイ君でも「話してみないと」わからないそうだ。
社内ではかなり詳しい話が伝わってくる。中国の話もソ連国境の話も。なにしろ半分参戦しているような会社だからな。戦場帰りみたい人が食堂でしゃべっていればいやでも耳に入ってくる。
「あれで軍機には触れてないそうだから恐ろしいな」
「それが軍機じゃないのか」
週遅れで届く内地の新聞では触れていないことだらけだ。
だから街中では話題に注意しなければならない。
だからと言って話題を俺に振ることもないと思うがな。
「それで結局結核検査は無事だったのか、良かったな」
「こんなところで結核となったらどうなるんだ」
「そりゃ内地送りだろう」
「高原のサナトリウムで静養の日々か」
「堀辰雄かよ、ありゃ結局どうなったんだ。途中までしか読んでないんだ」
「そりゃ死んじゃうんだよ」
「高原療法もだめか」
「なんでよ、ハルビンや奉天にも大きな病院があるじゃないか」
「そうだ医大だってあるんだから試験体として送ってもらえばいいじゃないか。医療費はタダだぞ」
「そういや陸軍の大きい施設だってあるな」
「あそこはだめだよ」坊ちゃんが小さな声で言った。「帰ってこれない」落とし噺かよ。
「今回分かったことはだな」
「なんだなんだ」
「ハタノサンの特効薬だ」
「そりゃなんだ」
「「「饅頭」」」
みんなで大笑いしてやがる。
「それは違いますね」ウルグダイ君がたしなめてくれるのか。言ってやってくれよ馬鹿どもに。
「正しくは、淑華の饅頭ですね」お前もか。頼むから外ではやめてくれよ。
「軍機並みですからね、取り扱い注意ですよ」




