12 ハルビン転属
寒い。
起床にはまだ早いが、あまりの気温の低さに身体が反応してしまった。
無意識に布団の中に潜り込んでいたようだが、頭を出すと一瞬で顔が凍り付いたような気になった。
これでも寒さには強いつもりだったのだ。生まれ育った山陰地方は夏が暑いため寒冷地仕様の住居ではなかった。真冬ともなれば積雪もあり、日本海の荒波を越えて北風も吹き荒れる。そんなところで育ったんだ。内野の研修所でも聞かされてはいたが、自分は寒さには強いと過信していた。満州の寒さなど何するものぞと。
いくら寒くったって山陰の大河、江の川は凍らない。もちろん生家の山寺のふもとに流れる川だって。
ここでは海から船が登ってくるという大河松花江が全面氷結している。人が歩こうが、馬が橇を引こうがびくともしない凍りっぷりだ。
明日こそもう一枚毛布を調達せねば。
俺は日本からの仲間たちと離れ、一人、満州航空ハルビン工場に来ていた。まあ、奉天で出会った満州人のウルグダイ君が一緒ではあるのだが。
短い秋が終わり寒さの増した奉天からわざわざ北のハルビンに転属となった理由は判然としない。
「やっぱり素行不良のせいだろう」しつこく言い立てるのは坊ちゃんだが、ほかの連中もニヤニヤ笑いで同意してやがる。
「追い出し会」と称した送別会を開いてくれたのはありがたいが、目的は俺をからかうのと満州料理を食べるために違いない。さすがに工場の社員達もいる中で酒は飲めないからな、ざまを見ろ。日頃休みの度に街に繰り出して怪しげなところに入り浸ってるのはお前らじゃないか。実家に仕送りをせびってるのはばれてるんだぞ、まったく。
「まあ、あれだ、波多野君。ハルビンには新型の機械もあるから期待していけよ」なんでもアメリカ製の新しい旋盤が入っているらしい。俺たちは呑気にしているが、お隣の中国では戦火が広まってとどまるところを知らない。我が満州航空も飛行機の修理だけではなく、義勇軍飛行隊を派遣して活躍しているらしい。
「まあ今に始まったことじゃないしな。改造したスーパー機で爆撃までこなしてるんだから」
自分たちだけは酒が入って口が軽くなった社員の皆さんが結構きわどいことを話している。
「いろんなものを積んで飛び回っているのもいるしな」坊ちゃん、食べるか聞き耳を立てるかどっちかにしなよ、食べ物をこぼすんじゃないよ。
「波多野がいなくなると、いよいよ旧市街には行けなくなるな」
「そうだな、ピストル波多野がいないと安心して遊びに行けないよ」
なにを馬鹿なことを。社員さんの話題がこっちに振られたじゃないか。
「なんだ冗談か、びっくりするじゃないか」
「あたりまえです。ピストルどころか小刀一つだって持ってません」
「でもな、君が懐手で構えているといかにもな」
「そうそう、あれはそう見えるよ」
「そういや二十人ぐらいに囲まれたことがあったな。あの時は絶対こいつなにかやると思ったよ」
「そうだよ。ウルちゃんが止めなかったら血を見ることになってたに違いないんだから」
おまえら話を作るなよ。何が二十人だ。あの時は財布を出そうとしてただけなんだから。何を勘違いしたんだか、一緒にいたウルグダイ君が俺の手を抑えて、で、チンピラ相手に一席ぶったんだ。何のことはない彼が一番のお手柄じゃないか。
「だから今回もウルちゃんがお目付け役なんだな」
「たのむよウルちゃん。こいつをよろしくな」
「大丈夫です。お任せください」何を勝手なことを。
俺は相変わらず設計が苦手で、油まみれが専門のようになっている。会社の方針ではライセンス契約の飛行機製造だけではなく独自設計の新型機を作ろうと目論んでいるから、設計屋はいくらでも欲しいところだろう。となると俺みたいなのは製造や整備に回るのが順当なんだろう。となるとウルグダイがおかしいよな。こいつは俺たちよりも年上でしかも優秀だ。来年出来る建国大学へ推薦されそうなのを断って満州航空に来たという変わり者だ。「建国大学は文系ですからね。僕は飛行機の方が良いのです」とは言うが、これからの満州にとっては彼のような人材は貴重なんじゃないかな。少なくとも俺に付き合わすようなのは大間違いだろう。
ハルビンに着いたら彼はあっさり内勤のほうに連れていかれた。何のことはない幹部候補生じゃないか。
で、俺は奉天よりなお十℃ばかり寒いというハルビンで今日も震えているわけだ。会社の中は暖かいけどね。外に出るとマイナス二十度ぐらい当たり前の世界です。
それでも休みの日には街に出るけどね。凍った道を滑らないように歩くのにもだいぶ慣れたよ。
この年盧溝橋事件があり大陸情勢は風雲急を告げています。お気楽なのは波多野君だけなのかもしれません。




