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11 奉天小景

 奉天での生活は大変快適なものだった。とりあえず放り込まれた部屋こそ四人まとめてだったが、食事は三食共会社持ち。授業のほうは午前中は座学、午後からは実習と、時間割だけは義勇軍と似ていたが、内容は全くちがうものだった。「工業でやるのと変わらんな」と坊ちゃんが言っていたが、図面の見方や書き方から始まって道具類の説明と使い方など実践的なものであり、事実午後からの実習では午前中に習ったことを現物で体験することが出来た。

 俺たち以外にも実習生がいて同じ授業を受けているのだが、日本人だけではなく満人や蒙古そして白系ロシア人までいるという、いかにも満州らしい顔ぶれだった。

 だから語学という科目はなく、強いて言えば日本語や英語などで書かれた図面を、それぞれが離解出来るようにするというのが語学の授業のようなものだった。飛行機の設計図面は米英独のメーカーのものだったから、まず何の部品なのかの解読から始まったのだ。

 そんな授業は面白かったが、俺は皆について行くのが難しかった。俺たち以外はこの春からの入社組で既に三か月以上の実習を経験していた。そして義勇軍組も、俺以外の三人は出身が工業学校だったので図面書きなどはお手の物。十数人いた教室の中でおれは完全な劣等生だった。

 特に試験などでの順位付けなどはなかったが、成績トップは坊ちゃんだった。図面作成についてはいつも講師に「すぐに現場に出れる」レベルだと褒められていた。俺などは鉛筆の削り方から注意されていた。

 坊ちゃんは大阪の工業学校を中退して義勇軍に参加したのだが、もともと文系の点数が悪くて帝大進学を諦めていたのだそうだ。飛行機の設計をするには帝大にいかねば話にならない。だから義勇軍で満州航空機に派遣されるというのは千載一遇のチャンスだというわけだった。

 その話を聞いていた俺は素直に感心した。また他の二人も似たような動機だった。満州に来る道中でそれらを聞いたときは自分の動機との落差に愕然としたものだ。俺なんか単に中学の教頭にたぶらかされただけのお調子者だものな。いまからでもどこかの開拓団に潜り込んだほうがいいんじゃないかと思ったぐらいだった。

 「君はそれでいいんだよ」と理由にならない理屈で慰めてくれたり「図面だけが現場じゃないさ」と、はげまされてなんとか日々を送っていた始末だ。仲間といううのはありがたいものだ。


 そんな劣等生にも見習いとしての給料が出た。会社の中にいる限りはお金の使い道などなかったので休日には必ずと言っていいくらい街に出た。連れだって、時に一人で、奉天を歩いたものだった。この方面では俺は優等生と言えた。映画館も食堂も商店も先頭に立って開拓していった。


 調子に乗って旧市街へ足を延ばしたときは危なかった。俺達以外に満人の研修生も一緒に連れ立っていたのでつい気が大きくなっていたのだ。

 気が付くと十人ぐらいに囲まれて、あっという間に一人、羽交い絞めにされてしまった。捕まったのは坊ちゃんだ。

 「✖✖✖✖✖!」

 全く聞き取れない言葉で喚かれた。まあ意味は分かる。分かるがだからと言ってどうにかなるものでもない。俺一人なら隙を見て逃げ出せなくもないが、この状況ではどうにもならない。仕方がないから財布を出そうと懐に手を入れた。

 「○○○○○○」後ろから声が聞こえた。やっぱり聞き取れないが落ち着いた声で何か話しかけている。連れ立っていた満人の研修生だった。彼は話しかけながら俺の肩に手を置いた。そして俺の目を見ながら首を小さく振った。

 「○○○○○○!」少し強い調子に変わって俺の肩を叩きながら喋っている。意味は全く分からない。相手側からも怒鳴り声が出てあたりは騒然としてくる。人だかりができてあちこちからも声が飛び交った。こっちは少し聞き取れた。

 「日本人か」「やっちまえ」「やめとけ兵隊がくるぞ」…

 遠くから笛の音が聞こえた。囲んでいた連中は互いに顔を見合わせて「✖✖✖✖✖!」やはり聞き取れない言葉を吐きながら蜘蛛の子を散らすように姿を消していった。坊ちゃんは突き飛ばされてはいつくばっている。

 やがて満人の警官らしいのがやってきて息を荒げながら怒鳴りつけてきた。どうも子供だけでこんなところをウロウロするな、と言っているようだ。

 坊ちゃんを抱き起していると、満人の研修生が警官と何かやり取りをしてから「帰りましょう」と笑いながら言った。「冒険はここまでです」

旧市街すべてが危険地帯というわけではありませんが、右も左もわからない子供がうろつくところではないということです。どこの都会でもありがちですね。波多野君はおのぼりさんですからこんなことにもなります。

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