1 敵中横断300里
空を飛んでいる。
もちろん生身ではなく飛行機で。
まあ一つ問題があって、その飛行機を操縦しているのがこの自分である、というところなのだが。
「ハタノ君、もう少し右へ寄ろうか」
隣の席から小太りの髭のおっさんが指示を出してくる。俺は素直に操縦桿を、軍用機のような棒状ではなくて自動車のハンドルに似たそいつを少しばかり右に傾ける。前方の雲がゆっくりと左に動き機体の向きの変化が判る。怖くて機体を傾けての姿勢変更など出来る気がしない。
「いいね、それぐらいで戻してね」
おっさんの指示は適格だ。なにしろもう三時間もこうやって飛んでいるのだ。
「ちょっと見てくるよ」
しばらく地上を観測していたおっさんはそう言って席を立った。席の後ろは結構広い空間になっていて、ベッドとテーブルに二人掛けの座席があった。
そのベッドに男が一人横になっていた。上半身は服を脱がされ包帯を巻かれている。にじんでいる血が生々しいが、一応毛布をかけられてはいる。
その毛布を剥いでおっさんは包帯をさわった。
「出血は止まったんだがなあ」
「あまりつつかんでください中佐殿、縫わずに圧迫してるだけなんですからね、痛いですよ」
ぼやく男がそもそもの操縦士だったのだ。俺は横に座っていれば良いだけの単なる助手の小僧だったのに、男が銃で撃たれたばっかりに冷汗をかきながら操縦桿を握っている。春とはいえど、高度二千メートルの外気は相当寒いというのに。
おっさんは隣の席に戻り地上を見下ろして地図と比較しながらぶつぶつとぼやき方向の修正を指示してきた。
俺には現在地が全くわからなかった。赤茶けた山々と薄緑の草原が延々と続く地表にはなんの目標物も見えなかった。前方には遥か遠くに山々の連なりが見える。コンパスがなければ文字通り西も東も分からないが機体はほぼ東に向かっている。ということは帰るべき方向に向かってはいるはずだが繰り返して言うが、今どこにいるのかはさっぱり判らない。
確かなのは、今飛んでいるのは広大な蒙古高原の真上のどこかなのだということだけだ。
まったくなんでこんなことになっているのか。出来る事なら数日前に戻って自分を殴りつけてでも止めてやりたい気分だ。
俺はただ休日に街に出て昼飯を食べようとしていただけだったのだ。
ここはハルビン、満洲北部の大都会だ。山陰の山の中で育った俺からすれば夢のような大都会だ。
ここにきてもうすぐ二年にもなるがまだほんの一部しか知らない街だ。
日頃は勤め先と住んでいる寮の間を往復するだけなのだが、休日には余裕があれば出来るだけ外出することにしている。目的はいくつかあるが一番はうまいもの探しだ。十四の歳まで住んでいた故郷で、飯に困った事は無かったが、いかんせん単調な内容だったなと今では思う。
この町の食糧事情はいかにも多彩だった。海が遠いため海産物こそすくなかったが、野菜穀物や肉類の豊富な事、そしてそれらを使用した多彩なメニュー。初めて街に出て食堂に入った時など何から手を付けたらよいのか見事に迷ってしまったものだ。
そんな見事なお上りさんを演じていた自分だったが、今ではいっぱしのハルビンっ子のつもりで街を歩くようになっていた。
恐ろしく寒い冬が明け春になっていきなり気温の上がったところで、何を食べるか決めかねながら行きつけの食堂へ入っていったのだ。だから中に入るまでいつもと違う様子に気が付かなかった。
そこは修羅場だった。
テーブルが十ばかりの店内は八割がたの混みようだったようだがほとんどの客は立ち上がって壁がわにに寄っていた。空いた中央には男が一人倒れている。倒れてうめいている男をはさんで男が二人店の奥側に、入り口側に三人いてにらみ合っていた。目の前の三人は二人が棍棒を一人が短刀を構えていた。刃には嫌な汚れが付いている。たぶん倒れている男の血にちがいない。
対する奥の二人は何も持っていない。その一人が叫んだ。
「おい、大丈夫か1」
日本語だった。
反応したのは倒れている男ではなく刃物を持った方の男だった。
「✕✕✕!」
ちょっと俺には聞き取れない言葉を叫びながら前にでた。よせばいいのに俺は思わず足を出してしまった。
ちょうど男の真横にいたのでそのまま刃物を持った男の手首を蹴り上げた。上手く入った感触があったので多分手首の骨は折れたのだろう、短刀は手を離れ上に飛んで天井に突き刺さった。
「✕✕✕!」さっきとは違う叫び声をあげて男がしゃがみこんだ。棍棒を持った二人は一瞬戸惑ったがすぐにこちらを見て棍棒を振りかぶった。おかげで余裕が出来た。手前の男の懐に入り掌底を顎に突き上げる。返す肘をもう一人の鳩尾に突き入れる。型稽古のままに決まって二人は倒れてくれた。
手首が折れてうなっている男を尻目に奥の二人が倒れていた男を抱え上げた。
「早くこちらに」
手当をしなきゃ、と思って声をかけて店をでた。心当たりの病院へ担ぎこもうとすると逆に声がかかった。
「こっちだ。一緒に来てくれ」
いわれるがままに店の裏手に行くと黒塗りのシボレーが止まっていた。
「どうだ少年。ものはついでだ。ひとつアルバイトをしないか」
しばらく車は走り、とある民家に入った。中には手慣れた様子の医者らしき人もいて怪我人の治療が始まった。
二人の男と俺はべつの部屋で一休みとなった。
お茶が出たのでありがたく飲みながら話をしているとと男のかたわれ、少しばかり年上のほうが言った。
「そうか満洲飛行機に勤めているのか」
「まだ見習いですが」
なんとなく世間話になり自分の身分を話すことになったのだ。みょうに話し上手のオッサンだった。あいての事情も分からぬ間に自分の出身や現在の状況まで喋っていたのだ。
「若いのに強いじゃないか」とか。「どこで修業したのか」とか。いいように聞き取られていた。
「俺は出雲生まれなんだ。中学はMだ。同県人だな」
「物外和尚の孫弟子なら強いわけだ」
いくらでも話を合わせてくる。そして最後にこういった。
「お国のためだ、ちょっと手伝ってくれ。会社の方には話を通しておくぞ」
そして返事も待たずに電話を掛けた。
「先日は失礼しました田中です」一方的に早口でしゃべりだし、途中から俺の話題になった。そして受話器をこちらに差し出してきた。
「君は波多野君で間違いないのかね」
電話の向こうの人は名乗らなかったがたぶん社長その人だと思う。なにしろ二年前にこちらに来た時に挨拶して以来、直接言葉を交わしたことなどなかった相手だ。
「参謀殿の言うことだから仕方がない。せいぜいお役に立って来なさい」
そしてとんでもないことに巻き込まれて、冷や汗をかきながら飛行機を操縦するはめになったのだ。
空はあくまでも青く広い。故郷を出るきっかけになったあの時見上げた空をふと思い出した。
あの空も青く広かったな。今と比べ物にはならないが、地上よりは少しばかり高いところから見上げた空だった。
あの時、田舎の寺としては格別に大きな山門の屋根におれは寝転がっていたのだった。




