雲の行き先 25 師と弟子 上
「どうしたというのだ? そんな切羽詰まった顔をして」
ドロフの努めて明るい返答に、リュゼーは浅く深く息を吸う。
「お願いがあります」
その一言を言うだけのために、リュゼーは肺に溜めた空気を全て使う。
「何だ?」
低く優しく、喉を震わせた声が響く。
「失礼しました。なんでもありません」
慌ただしく述べられた言葉が、虚しく闇に散る。
馬が石畳を蹴る音だけが暫く続く。
「そうか、それならこれで終わりだな。これよりデポネルまでの道のりは、これといって注意すべきところは無い。晩餐会について話でもしようではないか」
寂しそうなドロフの声に、リュゼーは己の気持ちを必死で押し殺す。
これは本家が決めたものだ。エルメウス家の一員になってもいない者が、ひと時の感情で動いて良いものではない。悔しいが、仕方がない。リュゼーは自分に言い聞かせる。
「はい。申し訳ありません」
リュゼーは、ドロフが苛立っていた本当の理由が理解できた気がした。しかし、自分の実力ではどうにもできないのが悔しくて堪らない。幼き頃は、人より優れているという自負があった。しかし、エルメウス家に招かれた時に、上には上がいると痛感した。
体は熱いはずなのに、心はどんどんと冷えていく。夏なのに手は悴んだようになり、力が上手く入らない。
「なぜ謝る必要がある」
いつもと変わらぬドロフの声に惨めさを感じ、喉が締め付けられて上手く言葉が出てこない。
「まあ、そのような役割だ。美味いものでも食べて元を取るが良い」
「はい」
リュゼーは声を絞り出す。
「穀物が豊富なことと、畜産が盛んなハオス公国がエルドレよりも近いこともあり、リチレーヌには美味いものが豊富にあるぞ」
「そうなのですね」
二人はいつもの口調で会話をする。
「見栄っ張りのヘヒュニのことだ、上等なものを用意してくれるのではないか。楽しみにしていろ」
「はい」
「それに、俺たちは酒が飲めないから、ヴェーデぐらいは出してくるのではないか」
「何ですかそれは?」
「リチレーヌとハオスを隔てる山の裾野にある、フランクリンと呼ばれる地域のアッサルプスで栽培されている、花の香りがする変わった茶だ。確か、ヘヒュニの取り巻きのデゴジと言う者が、この茶のことが好きだったな」
「そうなのですね」
「取り巻きの片割れであるウタニュは、海産物が好きだったかな。特に肝や魚の卵が好きらしく、その所為で足の病を患ってしまったらしい」
「あれは発症すると地獄の苦しみらしいですね」
「あいつが患ったところで可哀相とも思わんがな」
「確かに」
二人はいつもの様に笑う。
「でも、この様な内陸で肝ですか? 新鮮なものでないと、腹を壊しませんか?」
「それがな、態々海の近くまで行って食すらしいぞ」
ドロフは笑う。それにつられて、リュゼーも段々と心が軽くなる。
「かなりの物好きなのですね。あれ? でも奴等は海の民を毛嫌いしていませんでしたか? それなのに海の食べ物は好きなのですね」
「そうだよな、可笑しな話だよな。これには訳があってな、女神トゥテェクレを信仰する以前の古代リチレーヌでは、神は天に住んでいるものとなっていた。そのため、今でも天に近い食べ物ほど格が高いとされている。格の高い順に、空を飛ぶもの、水のもの、地の上のもの、地から生えるもの、地の中のものだ。海は地より低いが、海の元となる雨は天から降り注ぐため、天の次に格上とされているらしい。だから、海の民を野蛮だと下に見ていても、海の幸は別なのだ」
「何だか、込み入った話ですね」
「その通りだ。それだからこそ、劣等感を拗らせているんだ。自分たちに富をもたらすものであり、大切に扱わなければいけない穀物は、格からしたら海のものより下だ。奴等はそれが気に入らない。その所為で、自尊心の塊であるヘヒュニは海の民を一方的に憎み、対抗心を燃やしている」
「それでエルメウス家に対しても、あの様な態度をとったのですね」
「くだらぬよな。だからこそエルメウス家は、あいつのことを端から相手にしていない。それに似たもので、奴等は水菓子を頻繁に食べる。これも訳はくだらないが、食べ物の中で個別で格が決まっているものがあって、果実などは天に近いところに実をつけ、熟れて実を落とす時に宙に浮くから水のものより格は上、との理由からだ」
「所変われば品変わるというか、肉が美味いから肉を食べるとかではないのですね」
「お前みたいに若かったり、民などは気にしないだろうが、貴族様は色々と気を使わなくてはいけないのだよ」
ドロフは呆れたように肩を竦める。
「格で食うものを決めるとは、金持ちの道楽とはこのことですね」
「まさにその通りだな。荷車に寝っ転がって、月を見ながら干し肉に齧り付く俺たちとはえらい違いだな。食べ物の話で思い出したが、晩餐会に出席する者の中で、食い道楽が何人かいたな」
ドロフは数名の名前と特徴を口にする。
「次にフパンという者だが、見れば分かる。腹がでっぷりとしているからな」
「その見た目なら趣味は聞かずとも分かってしまいますね」
「そうだな」
二人は笑う。リュゼーの笑い声も、いつものものに戻りつつある。
「そのフパンという者は、足は患っていないのですか?」
「それはないみたいだが、甘い物を食べ過ぎて小便が甘い香りがするらしいぞ」
「えっ! そんなことがあるのですか?」
「俺も聞いた時は、どれだけ不摂生をしたらそうなるのかと笑ったな。蟻も喜んで寄って来るとの、笑い話もあるらしい」
「色々と個性的な人達がいるのですね」
「海鮮付きの足患いは他にもいるぞ」
再びドロフは、幾つか別の名とその者の特徴を口にする。
「ヘヒュニの館は病院か何かですか?」
「上手いことを言うじゃないか。全てが全てそうではないが、変わった奴は多いかもしれないな」
含みを持たせてドロフは笑う。
「他にどんな人がいるのです?」
「気になるよな?」
「はい」
リュゼーの声が弾む。
ドロフはリュゼーを気に掛けつつ話をする。
収集癖がある者に対しては、話が分かりやすいように品物を説明した後、それを絡めて話をしてリュゼーを驚かせ、変わった趣味の持ち主ならば、いかに変わった趣味なのかを面白おかしく話して聞かせた。
名前の他に特徴なども詳しく話してくれるため、どんな人物なのか頭の中で思い描きやすく、リュゼーは相槌を打ちつつ笑いながらその話を聞いた。
ドロフは他にも、多くの笑い話をしてリュゼーを笑わせる。馬車にはエルドーサで行われた催し物の時と同様の、楽しげな雰囲気が漂う。
そのお陰で先ほどの憂鬱な気持ちはどこかへ去り、リュゼーは自然と笑える様になっていた。
「こんな私のためにありがとうございます」
リュゼーはドロフの優しさに、胸が満たされていく。
「何、気にするな。ただの世間話だ」
ドロフは素っ気なく答える。
「いくら愚かな私でも、ここまで優しくされれば気が付きます」
それについて、ドロフは何も答えない。
「師はボウエーンで開かれた会の時と同様に、私を救おうとしてくれています」
師はまだ自分を見捨ててはいない。師の優しさに感謝してもしきれない。
「ここにいない師の話をして何になる。俺はこのままではその師というものがあまりにも不憫だから、四方山話をしたまでだ」
「それでも伝えさせて下さい。再三の教え、ありがとうございます」
リュゼーは深々と頭を下げる。それを見たドロフは、口を曲げて顔を掻く。
何やら不満がありそうな顔をしているが、操縦についてとやかく言わないところを見ると、不満というよりは別の感情を堪えている様に思える。
「奇妙なことを言いやがる。それでは何か? 師でもない者に何度も教えを乞うたのに、成長した姿を見せて恩返しもしない、お前の師というのは難儀だな」
「はい。出来損ないの弟子ですが、師の優しさに応えられる様に努力し、ドロフさんに弟子と認めて頂けるまで己を高めていきたいと考えています」
「ふん、全く」ドロフは他所を向く。「お前はくだらないことを言いやがる」
ドロフがどんな顔をしているか確認出来なかったが、馬は気持ちよさそうに石畳を蹴り、力強く馬車を引く。




