世の流れ 16 肉と香草
左頬に走る強烈な痛みとともに、ブチブチと髪が千切れる音がする。だがこれで、髪を掴んでいたカッシュの手から逃れられた。
常に相手の管理下に置かれるよりは、それが激痛だとしても殴られた方がまだましだ。
「おい、小僧。調子に乗りすぎだ」
カッシュが凄みを利かせる。
「殺さないと言われましたが、気が変わることもあることは承知しています」
ファトストは立ち上がったカッシュを、焦点の合わない目で見上げる。
「死に急いだわけではないみたいだな」
「自分でもなぜしたのか分かりません」
ファトストは左手を突きながら、立膝まで体を起こす。
「なぜだかわからずに反抗してしまったわけか」
「はい」
そう言いながらも、ファトストは悔しさを滲ませる。
「若さとは時に不思議なものだな」
「生きるために必死です」
カッシュの様子を探るようにして、ファトストは右手を背中に回す。不自然なその動きに、武に精通しているであろうカッシュは自然と上体を反らす。
こちらの動きを把握するためか、危険を察知して距離を取ったのか。どちらにしろ、うまく警戒心を引き出せたみたいだ。
見れば、カッシュの表情が先ほどとは違う。それが怒りなのか興奮なのか、それとも別なものなのかを見るために、どうにかして時を稼ぎたい。
「せっかく焼いた肉が勿体無い」
ファトストは敢えて手のひらを見せずに、近くに落ちている串を拾う。カッシュの視線が自分の手を追ったことにより、こちらを警戒しているとの確信を得る。
「せっかくの焼いた肉です。このように捨てられるのではなく、食べてもらいたいのが本心ですね」
「ならば食えばいいだろ」
カッシュは顎をしゃくる。
相手は話に乗った。手の中に何かを仕込んでいたとしても、こちらの体はボロボロだ。不用意に近付きさえしなければ安全だ、と考えるのが普通だろう。相手は感情の起伏が激しいが、それを抑える術も持っている。用心深そうだったから試してみたが、上手くいった。これでしばらくは、話をすることができるだろう。
「これは食べられません」
ファトストは小さく首を振る。
「地に落ちたぐらいで食べられないとは、なんとも育ちがいいのだな」
「それぐらいなら俺だって平気です。ですがこれは、みんなのためを思って焼いたものです」
ファトストは肉に付いた土を吹いて飛ばす。
「だから食えないというのか。どちらにしろ、育ちがよろしいようで」
カッシュは皮肉めいて片方の口角を上げる。
「それならどうです?」
ファトストは肉を差し出す。
「馬鹿を言え」
カッシュは首を振る。「だがその肉も、俺たちに食べられた方が良かったんじゃないのか?」
「まあそうですね。このように捨てられるよりかは、誰かに食べてもらえただけ良かったのかもしれません」
ファトストは目だけを動かして、カッシュの至るところに目を配る。それから突いていた左手を地から離し、乱れているのを直すように服を引っ張る。
「どうした、そんなに俺のことが気になるか?」
「何がです?」
「脅しとしてやっているのかは知らんが、無駄なことだ」
「そんなつもりはありません」
そう笑い返すファトストの右手に向かって、カッシュは顎をしゃくる。
「右手の中には何も隠されていない。暗器を隠し持っている振りだろう?」
「何のことでしょう。見当が付きません」
ファトストは小さく首を傾げる。
「素人が無理をするな。もし隠し持っていたとしたら、手の筋の出方が違う。今まで見てきたお前の動きから、それを隠せるほどの修練を積んでいるとは到底思えん」
カッシュが不敵に笑うと、ファトストも同じように笑い返す。
「バレましたか」
ファトストは手の平を返し、カッシュに見せる。
「何を企んでいる?」
「企むも何も、先ほど生きるために必死だと言ったじゃないですか。今、できることをしているだけです」
「俺は見誤っていたみたいだな。虫も殺せぬようなヤツだと思っていたが、中々に面白いことをする」
カッシュは剣から手を離し、額の汗とともに口元を手で拭う。ファトストはそれを目にする。
それならば次だ。相手に主導権を握られたら、先ほどと同じになってしまう。痛い思いはこりごりだ。
「クセや匂いに特徴があったと思いますが、肉の味はいかがでしたか?」
ファトストの問いかけに、カッシュは訝しげに見詰め返すことしかしない。
「この肉はノコと言われる鹿のものですが、普通は子鹿や雌鹿を食べます。といっても、雄鹿を食べないわけではありません。食べてみて分かったと思いますが、繁殖期に入った雄鹿は独特の匂いを発します。それを嫌う人が多いためです」
だから何だ? といった顔でカッシュはファトストの話に耳を傾ける。当たり前だが警戒心は解かれていない。
「ですが、味に深みが増すのもこの時期です。そのために匂いを抑える香草をふんだんに使ってタレを作り、それに漬け込むのが一般的ですが時間がなかったのが悔やまれます。それでも食べてもらえたので、匂い消しはうまくいったのでしょう」
ファトストは手に持つ串を眺める。「気になりませんでした?」
カッシュは何も喋らすに見下ろしたままでいる。ファトストの考えが何かを探っている様子だ。
「シャクと呼ばれる野草があるのですが、それに似たものにシグという草があります。このような場所に生えているのですが、どちらもニンジンの葉に似ているため葉だけで見分けるのに苦労します。どうやって見分けるか分かりますか?」
「お前の考えが分かったぞ」
カッシュがニヤリと笑う。「単なる時間稼ぎか?」
「そちらの方を見破りますか」
ファトストは思わず笑みが溢れてしまう。
「その顔を見るに、正解のようだな。ダットたちの戻りが遅い。どこかに兵でも仕込んでいたか?」
「それについては答えられませんね」
「そうか、そうか。お前たちは囮だったわけだ。まんまと騙されてしまったな」
カッシュは仲間たちに顔を向ける。「おい、追っ手が来るかもしれん。ここを離れる準備をしとけ」
「それについては必要ないと思いますよ」
「なに?」
カッシュはファトストへと顔を向け直す。「すでに囲まれているということか」
カッシュは辺りを警戒しながら、剣の握りに手を遣る。
「そうではありません」
ファトストは首を振る。
「この話もただの時間稼ぎだとしたら、付き合うつもりはない。お前を斬る」
「そうですか、ならば仕方ありません」
ファトストは串を持ち替えて服の中に右手を入れる。
両者の間に緊張が走る。
「というのは冗談です」
そう言いながらファトストはゆっくりと服の中から手を引き抜く。
「おちょくるのも大概にしろよ」
カッシュは剣を抜く。それと同時にファトストは立ち上がり、すぐさま距離を取る。
「どう考えても、あなたと闘っても勝てる見込みがありません」
かなりの激痛が全身を駆け巡るが、ここは耐えるしかない。
「逃すか」
カッシュはそう語気を強めるが、飛びかかったりはしてこない。
ジリジリと距離を詰めてくるカッシュに対して、ファトストは後退りをする。
後方からえずく声が聞こえると、カッシュは咄嗟に振り返る。ファトストが動く素振りを見せると、それに合わせてカッシュは大きく後ろに飛び退く。
「この状況で反応するのは、さすがですね」
ファトストは近寄ることはせず、さらに距離を取る。それから胸の痛みに堪えながら、取り出した笛を力のかぎり吹く。




