ピクニック ~その3~
「はあ、はあ」
クルスは茨の棘に切り傷を作りながらも、鉈を持つ手を動かし続けた。父の残した地図、単に目印を書いたものによれば目的地はこの先だ。
痛みに耐えながら振るった鉈が、茨の根元を何とか切り裂いた時だった。その先に開けた場所が見える。皮の手袋で慎重に棘を避けながら、クルスは這うように茨の下を潜り抜けた。
『こんなところに叔母を置き去りにしたのか?』
クルスは呆然と辺りを見回した。そこには茶色く濁り、ぶくぶくと泡をたてている泥沼と、それを取り囲むうっそうとした森だけが見えている。
クルスは乾いた泥の上に腰を下ろした。まだ幼かった叔母が、ここから抜け出るのはとても無理だ。彼女はどれだけ孤独な時を過ごし、そして最後の時を迎えたのだろう。クルスの目から熱い涙が流れた。
「お前は誰なのです?」
不意にクルスの背後から幼い少女の声が聞こえた。振り返ると、麦わら帽子に白いワンピースを着た少女が、水色の瞳でクルスをじっと見つめている。クルスは一瞬叔母が現れたのかと思ったが、すぐにそんな訳はないと頭を振った。
「ぼ、僕は――」
「分かったのです。お前も蟹が好きなのですね」
クルスの言葉を遮って答えた少女が、ニヤリと笑って見せた。
『蟹?』
もしかして泥ガニの事だろうか? クルスは茶色い泥に覆われた沼へ視線を向けた。泥ガニは高級品で、とても高く売れる。そう言えば、結婚時の支度金に騙されたと、母がぼやいていたのをクルスは思い出した。父の結婚は叔母が行方不明になってすぐだ。
父のホセはここに泥ガニを取りに来て、叔母を置き去りにしたのか!? クルスの胸の内に、父への怒りが湧き上がってきた。
「丁度良かったのです。今日はあれが姿を現す日なのです。分けてやるから手伝うのです」
少女はクルスの胸の内など関係なく、沼を指さして見せた。でもどうしてこんな幼い子が、こんなところに一人でいるのだろう? クルスは辺りを見回した。だが他には誰も見当たらない。
「あの嫌み男の分を、奴への餌にしてやるのです」
そう告げると、少女はクルスに大きな籠を差し出した。そして辺りをキョロキョロと見回す。
「困ったのです。縄を忘れてきたのです」
「縄ならここにありますが……」
クルスは背嚢を下ろすと、そこから準備していた細縄を取り出した。木に目印をつける為に持ってきたものだ。それを見た少女が目を輝かせる。
「おおおお! お前はとっても役に立つのです。あの嫌み男を首にして、お前を執事にしてもいいぐらいなのです」
少女は籠からクルスが見たこともない、とっても美味しそうなものを取り出して見せた。真っ白なパンの間に野菜とベーコン、それに卵をふんわりと焼いたものが挟まっている。
「マルセルが作ったサンドイッチなのです。お前も食べてみるのです!」
少女がそれをクルスに差し出した時だった。
ザブン!
沼の方から大きな水音が響いた。音のした方を見ると、泥が山みたいに、大きく盛り上がっているのが見える。それを見た少女は、ピョンピョンと嬉しそうに飛び跳ねて見せた。
「奴なのです。今日こそ決着をつけて、蟹パラダイスなのです!」
だが泥の山は、すごい速さでクルス達がいる岸に向かって移動してくる。とても何かを喜ぶ状況だとは思えない。
「逃げた方が……」
そう言いかけたクルスの目の前で、泥の中から巨大な岩の柱が突き出された。その先端が大きく開き、黒光りする棘が無数に生えているのが見える。それは岩ではなく、巨大なハサミだった。それがクルス達へ振り下ろされようとしている。
「あぶない!」
クルスは少女の手を引くと、そのまま乾いた泥の上へ転がった。
ドン!
地面が揺れ、すぐ後ろに大きなハサミが突き立てられているのが見える。続けて巨大な槍みたいな足も、泥の中から姿を現した。
「逃げないと!」
クルスは呆気にとられた顔をして、地面に転がっている少女に声を掛けた。
「ななな。前はこんなに大きくはなかったのです。とっても食いでがあるのです!」
そう叫ぶと、少女は無邪気に目を輝かせて見せた。幼くて、どんな状況なのか全く分かっていないのだろう。クルスは少女の手を取ると、沼の岸に沿って走り出した。
ドスン、ドスン、ドスン!
背後からは巨大な蟹が、人の背丈よりもある足で、地面を叩く音が響いてくる。それは刻一刻と、クルス達の背後へと近づいていた。だが沼と森を隔てる茨が切れる様子はない。
必死に走るクルスの前に、沼の岸ぎりぎりまで伸びた茨の壁が顔を出した。
『まずい!』
クルスは思わず後ろを振り返った。ハサミを振りかざした巨大な蟹が、すぐ背後まで迫ってきている。このままでは茨の背後に回る前に、間違いなく追いつかれてしまうだろう。
「沼の中を抜けて向こうへ!」
クルスは少女にそう叫ぶと、腰から鉈を抜いて構えた。今日、ここで少女と自分が出会ったのは、父親が犯した罪を代わりに償えと言う神様のお告げに違いない。そう覚悟を決めた時だ。
バシャン!
不意にクルスの右手で水音がした。見ると大きな泥の塊、いや泥団子が、自分たちの方へ向かってきている。
『もしかして、もう一匹いる!?』
クルスは焦った。これではクルスが時間を稼げたとしても、沼に入った時点で、もう一匹に食べられておしまいだ。クルスは少女の体を自分の背後へと隠した。
「茨の茂みに隠れ――」
「お嬢様!」
茨の背後から誰かの声が聞こえた。同時に竜巻みたいな疾風が吹き、クルスの体が地面から浮き上がる。舞い上がった埃を手でかばいつつ背後を振り返ると、そこには執事服をきた男性と、侍従服をきた女性がいた。
「お嬢様、ご無事でしたか!」
女性は少女の元へ駆け寄ると、その体をしっかりと抱きしめた。
ドカン!
今度は前方から岩同士が激突したみたいな音がした。見ると、岸にいる巨大蟹に巨大泥団子が激突している。巨大蟹の足が跳ね上げた泥が飛び散り、クルスの体が泥だらけになった。クルス同様、背後にいた少女や女性も泥だらけだ。
「お、お召し物が!」
女性の口から悲鳴のような声が上がった。そして怒りに燃えた目で立ち上がると、謎の泥団子と格闘している蟹に向かって、つかつかと歩いていく。
「まずいのです。アイネスが切れたのです!」
少女の口から戸惑いの声が漏れた。蟹の巨大なハサミが、歩み寄る女性に向かって振り上げられる。
「許せません!」
女性はそう声を張り上げると、その蟹の頭に向かって、手にした何かを投げつけた。それは巨大な蟹の目と目の間を直撃する。クルスの目には、それがどう見てもアイロンにしか見え無かった。
だがその一撃が急所に入ったのか、蟹の動きが止まった。同時に泥団子が真っ赤な口を開いて、巨大なハサミをパクリと口に入れる。そしてバリバリと音をたてながら、蟹の体をかみ砕いては、咀嚼していくのが見えた。
「モフモフ、それは私の蟹なのです!」
少女はそう叫ぶと、謎の泥団子の元へと走り寄った。少女に向けて泥団子が真っ赤な口を開く。
「危ない!」
クルスは少女に向かって怒鳴った。だが泥団子は「ニャー」と言う猫みたいな声で鳴くと、舌をだらんと垂らして見せただけだ。そして濡れた犬みたいに体を震わせると、泥を辺りに撒き散らした。今度はクルスの体全体が飛んできた泥に覆われる。
「お嬢様のお着替えが!」
再び女性の口から悲鳴が上がった。それにビビったのか、泥団子がしょんぼりと頭を下げて見せる。クリスはあまりにも意味不明な状況に頭を抱えた。もしかしたら、自分は森で道に迷っていて、今は夢を見ているのではないだろうか?
「君は誰だ?」
背後から男性の声が響いた。執事服の男性が、クルスの顔を覗き込んでいる。その背はピンと伸び、身に纏う執事服には皴の一つも見当たらない。
クリスは男性の冷たい視線に、思わず体を震わせた。何も答えられずにいるクリスの前に、泥だらけの少女がダンダンと足を踏み鳴らしながら割り込んだ。
「セドリック、どうしてお前は泥を被っていないのですか!?」
「私は執事ですよ。あの程度の泥を避けられなくてどうするのです?」
「お前はもう執事ではないのです。首なのです。今日からこの男がうちの執事なのです! こっちのほうがよっぽど役に立つのです!」
少女の言葉にクルスは慌てた。
「ゴ、ゴーザ村のクルスと申します」
「どうしてここに?」
「昔、幼かった叔母が、ここで行方不明になったと聞き――」
体中を泥だらけにした侍従服姿の女性が、クルスを見て首を傾げて見せた。
「ホセ兄さん?」
クルスは自分と年がそう違わない、若い女性の顔をじっと見つめた。
「イネスおばさん?」
クルスの口から叔母の名前が漏れた。でも父とは年が離れていたとはいえ、それでも自分よりは年上のはずだ。だが目の前にいる女性は、自分とさほど年が離れていないように思える。それでもそこには父の、そして近所の人がクルスに漏らした少女の面影があった。
「そうか。やっと分かったのです!」
「その鼠以下の頭で、何が分かったのです?」
ポンと両手を打ってみせた少女に、執事服姿の男性が問いかけた。
「鼠以下は余計なのです。誰かに似ていると思ったら、アイネスに似ているのです」
「この泥だらけの姿で、よく分かりましたね」
「セドリック、お前は愚か者なのです。泥を被る前からそう思っていたのです。それに初めて会った時のアイネスと同じなのです。私を守ろうとしてくれたのです」
少女はそこで言葉を区切ると、少し不思議そうな顔をした。
「でもちょっと待つのです。名前が違うのです」
セドリックが少女に、小さくため息をついて見せた。
「アイネスの本名ですよ。舌を噛むとか言って、あなたが勝手にアイネスと呼んでいるだけです」
その台詞にクルスの心が震えた。彼女は、イネスおばさんは生きていたのだ!
「ホセの息子のクルスです!」
クルスは叔母に向かって、頭を下げられるだけ下げた。父が彼女にした事は、決して許されない事だ。
「ごめんなさい! 父さんを、父さんを許してください!」
地面をじっと見続けるクルスの視線の先に、白い手が差し出された。その手がクルスの手をしっかりと握り締める。クルスが顔を上げると、アイネスは泥だらけの顔に、満面の笑みを浮べて見せた。
「兄さんにはこんな立派な息子がいたのね。兄さんは元気?」
「はい。村で狩と小さな畑を耕しています。父があなたをここに置き去りにしたことは、とても許されないことだと思います。だけど、父もずっとそのことを後悔していると思います」
「君は父親に代わって、ここへ謝りにくるつもりだったのか?」
セドリックの問い掛けに、クルスは頷いた。
「謝って済むことでないのは――」
「アイネス!」
クルスの耳に少女の甲高い声が響いた。
「はい。お嬢様!」
「休暇を取るのです。一緒に村まで戻って、みんなに顔を見せるのです!」
「アイネスはお嬢様の侍女です。片時もお側を離れたりは致しません。お嬢様のいるところが私の居場所です」
少女に対して、アイネスは首を横に振って見せた。そしてクルスの方を振り返る。
「兄さんは何も悪くないわ。私が勝手について行っただけ。それに私は兄さんにとても感謝しているの。もしここに来ることがなければ、お嬢様にもセドリック様にも会えなかった」
そこで口を閉じると、クリスの瞳をじっと見つめた。
「だから兄さんに、村のみんなに伝えて。イネスは、いえ、アイネスはここで幸せに暮らしているって。クルス、ここまで来てくれて本当にありがとう。あなたに会えて良かった」
「アイネス、本当にいいのですか?」
アイネスは少女にきっぱりと頷いて見せた。
「はい、お嬢様。それよりもお召し物をすぐに着替えないと、染みになります!」
「着替えはあとでいいのです!」
「よくありません!」
「分かったのです。着替えるのです。セドリック、今日は蟹がうじゃうじゃいるはずなのです。すぐに沼に入って蟹を取ってくるのです」
「なるほど、最初からそれが目的だったのですね。いやですな」
「ななななな!」
「どうして私が、泥の中なんぞに入らないといけないのです。それよりもよほどに良い方法があります」
「良い方法?」
セドリックの台詞に、少女が怪訝そうな顔をする。
「おや? 都合がいいことに、こんなところに縄が落ちていますね。これを使わせて頂く事にしましょう」
そう言うと、セドリックはクルスが持ってきた縄を手に取ると、それを少女の体にぐるぐると巻き付け始めた。
「ちょっと待つのです。どうして縄で縛られないといけないのです!」
セドリックは少女の抗議の声を無視すると、その体を軽々と持ち上げた。そして体を回転させると、そのまま沼へと投げ飛ばす。
バシャン!
少女の体が泥の中へと落下した。すると瞬く間に、その周りでさざ波のようなものが湧き上がる。クルスが目を凝らすと、両の掌ぐらいの大きさの蟹が、少女の体へ集まっていくのが見えた。
「頃合いですね」「はい、セドリック様」
セドリックが合図をすると、モフモフがそれを引き上げ始める。体に蟹を山ほど群がらせた少女の体が、ずるずると岸に引き上げられた。
「セ、セドリック。しゃ、シャレにならないのです。これでは蟹を食べるのではなく、蟹に食べられるのです!」
体に蟹を山ほど群がらせた少女がそう叫んだ。だがアイネスがその体から蟹を振るい落とすと、セドリックは再び少女の体をひょいと持ち上げた。
「あなたのぷよぷよした体は、蟹に少し食べられるぐらいで丁度いいはずです。うじゃうじゃいますからね。次、いきますよ」
「ま、待つのです。とっても、とってもくすぐったいのです」
だがセドリックは少女の言葉を真っ向無視すると、再びぐるぐると回り始めた。
「いち、にのさ~ん!」
「もう、ピクニックには、絶対にピクニックには行かないのです~~~~~!」
クルスは見事な放物線を描いて飛んでいく少女の姿と、それを見て幸せそうに笑みを浮かべる叔母の顔を、呆気に取られて見つめた。そして叔母がとても若く見えた理由も理解する。
こんな日々を過ごしていたら、年をとる暇などないはずだ。
最後に、アイネスの見かけについての一文を追加させて頂きました。




