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黒姫

 家賃を限界まで滞納し、大家に直接怒鳴り込まれて部屋を追い出されたのは、今から二週間程前のことだった。家族との折り合いが悪く、義務教育課程を終えてからすぐに小さな派遣会社に雇ってもらったのだが、どうやら僕は就労者には不向きであったらしい。それは詰まるところ人間社会で真面に生きていくことができない人間ということだ、という認識をもったのは、深夜の公園のベンチでどうにかこうにか瞼を重くしようと試みている時だった。

 住んでいたアパートから駅四つ分程離れた大きな公園で、僕の眼球を濡らしていた水を呑み込んだ黒い不定形の塊の表面を、上半身をベンチに放り投げたままに視線でなぞる。そこには薄紅色の切れ端が数えるのも億劫になる程へばりついている筈なのだが、太陽が呑み込まれてしまってから随分と時間が経っている為、その切れ端達は精々鱗にしか見えなかった。衝動的にそこに身を投げてしまいたくなるが、臭いがつくだけだろうと自分を説得する。

 暫くの間そうしていたが、意識が途切れてしまわないことで、被害者意識と妄想が葉桜の合間を縫って僕の口元に突き刺さる。仕方がなく上体を起こし、汚れて、ところどころに小さな穴が開いてしまっている迷彩柄のリュックサックを(まさぐ)って、日の落ちる前に道端のスーパーマーケットから拾ってきたコンビーフの缶を取り出す。この数日、家があった時よりも良い物を胃袋に押し込んでいるのでは、と考えてはそれを虚無感で調理し続けている。深夜にそれなりに高カロリーな食事を摂っているというのに、何故か若干肉が落ちた気がするなと一人で呟いて、空になったコンビーフの缶を遊歩道に投げ捨てる。そして、誰もいない公園で、腕を抱えながら、気が触れたように叫び散らす。

 「うるさいな」

 幻聴のような空気の膜で覆われた、アクアリウムを思わせる声が、肩甲骨から鎖骨へと透過する。僕は一丁前の羞恥心を指先でこねくり回し、リュックサックを体の横に擦り付けた。先程までは確かに誰もいない筈だったのだが、今は背後数メートルに人の気配を感じる。僕は叫び散らしているところを見られたことよりも、コンビーフの缶を投げ捨てたのを見られてしまったことが気になって、頭頂部辺りで立ち上がって缶を拾ったり、リュックサックを抱き寄せて走り去ったりしていた。

 気配はやがて真隣まで迫ってきて、それは上下に揺れる視界の端で黒く細長く変わり、僕はそれが折れ曲がる(さま)に意識を向けた。

 「あんた臭うよ」

 声の主は無遠慮に感想を口にする。最後に風呂に入ったのは二ヶ月以上も前のことだが、臭うのはまだ僕が存在している証明にもなるので然程大した問題ではないように思う。そもそも自然界からすればこれは普通のことであり、僕が特別おかしい訳ではない。

 「嫌われるタイプだね」

 頭の中だけでタイプライターを打っていた筈が、あのどうしようとも言い訳にすらならない言葉の羅列は、どうやってか僕の舌を乗っ取ってしまっていたらしい。そこで初めて、僕は横目で隣を睨んだ。黒く細長く日本語を解するそれは、僕よりも身長が高いらしい女性だった。長い髪も服も黒一色で、肌だけが氷のようで、そして、半分が瞼に隠れている二つの球の表面には咎めるような紅い円がくっついていた。

 彼女はその瞳で僕の筋繊維の一本一本までをも弛緩させ、「食事としては最低な部類だ」と囁いて、僕の首筋に歯を立てる。僕の中の赤黒い羊水は、コップ数杯分程度、彼女によって吸い出されてしまった。そうやって脳髄を舐めとられたまま、僕は彼女に従って彼女を求め、粘膜を接着剤にして眼球の裏側を雲の中に置き去りにした。酷い悪寒と倦怠感が関節の隙間に詰まっていた。


 黒姫と名乗った吸血鬼を知ったその夜以降、僕はどういう訳だか活力を取り戻し────或いは新たに与えられ────公園の蛇口の水で体を洗い、どうにか仕事を得ることができた。以前と同じ派遣だが、住み込みで働くことができ、履歴書も何も必要ないというので応募してみたところ、無事に採用して頂けることになったのだった。最近は建設業も好調を極めているらしく、どこも人手が足りないのだという。


 あの公園にはあれ以来足を運んでいなかったのだが、二度目に蝉の声が消えてしまった頃、僕は再び青だったり灰色だったり黒かったり燻んだ橙色だったりする、落ち着きのない天井の下で眠る生活を送ることになっていた。毎週末に網の上で家畜の死骸の一部を焼いて頬張っていたというのに、今では潰されて混ぜられた黄色と白のタンパク質を固めた小麦粉に挟んだ質素な食生活にまで落ちてしまった。

 黒姫を忘れたことはなかったが、記憶は足早にその色素を劣化させていた。今はもう復興も遠い昔のことで、目に見える時代を表す二文字すら変わっている。彼女との僅かな記憶は、その小汚い茶色の四角い紙切れの中に収まっていた。

 だからこの夜に、あの池のある公園に足を運んだのは、ただ眠る場所を求めてのことだったのだが、そこで僕は吸血鬼と再会した。

 黒姫は相変わらず、病的なまでに美しく、蠱惑的で、僕はその髪と腕に絡め取られることを望まずにはいられなかった。

「来ると思ってたよ」

 あの声が鼓膜を包み込む。僕の背骨をなぞって、肩甲骨を粉末にして星座達に与え、築き上げた骨組みを崩して溶けかけた蝋燭を背中に縛りつける。小麦粉の塊は僕が求める黒姫の全てで、グラスに注がれているのは僕が無為に消費した泉の水だ。

 僕は彼女を呑み込み、骨と筋肉が乖離していく様を感じながら、彼女をそこに挟んでいった。

 黒く美しい彼女は、僕を包み込んだ。

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