クリス
クリスとは友人の紹介で知り合った。友人と言っても、少し前まではとあるインターネットゲームの中のチーム(ゲーム内ではギルドという。然程珍しい呼び名ではない)で一緒に遊んでいるというだけの相手だったが、そのギルドのメンバーの殆どが都内に住んでいるということで実際に会ってみないかという話になり、夏のある日、池袋西口公園の隣にあるサイゼリヤに集まることになった。所謂オフ会と呼ばれるものである。
結局、ギルド内でもそこそこやり込んでいる者が、私を含めて七人集まった。ゲームの話もそこそこに話題は出逢いを求めるものへと変わり、案の定空気が悪くなり始め、横幅のある司会役によってオフ会がお開きとなったのは二十時を少し過ぎた頃だった。夏とはいえ当然日は沈みきっており、遠くのネオンを反射する無数の水滴と天蓋が東京の上に閉められており、建物の向こう側にある駅の明かりの主張が激しく、煩わしいものに思えた。件の友人が私を家まで送ってくれることになり、池袋駅から西武池袋線に乗った。三十六分発の電車だったと思う。
友人とは現実でも気が合い、話しているうちに飲み直そうということになり、練馬駅の目の前にあるバーに入った。私は然程酒に強い訳でもないのですぐに酔ってしまったのだが、随分と長いこと話に花を咲かせていたのだろう、再び電車に乗ったのは確か二十三時頃だったように思う。気が付いた時には友人の肩を借りていて、その時にはもう駅を出た後だったのだが、どうやら私が本来降りるべき場所ではないことだけはわかった。自分でも聞き取れない、言葉になりそこなった吐息混じりの音を口元に纏わり付かせながら絡れ歩き、住宅街の中で物寂しい木々に囲まれた池が身動ぎしている様が目に飛び込んできて、そこで少しだけ酔いが覚めた。この状態で帰っては親に心配されるどころか、あれやこれやと詮索されあらぬ疑いをかけられてしまうだろう。一人で歩けるようになるまでこの公園で時間を潰そう、と友人は言った。夜の公園がそういう雰囲気にさせるのか、私と友人が距離を縮めるのにそう時間はかからなかった。
前置きが長くなったが、この少し後にクリスと出逢ったのだ。
友人────最早ただの友人ではないが────と一線を越える前に、私達はその身に宝石を宿した。或いはそれは水晶だったのかもしれない。細氷が私達を包み、どれくらいの時間が経ったのか、声が脳の裏側で混ざり合い胃袋が全身を駆け巡る頃に、クリスは現れた。中世的な外見をしており、夜闇に置き去りにされた木製の長椅子の上で解け合う二人の人間を眺めて微笑んでいる。私の半身となった友人は、クリスを水晶の使いだと説明した。クリスを呼んだのは彼だったが、直接声をかけたのは私だった。
ほつれて絡み合った後、気が付くとクリスは何処かに去ってしまっていた。
頭痛が襲ってくる頃には既に日付けが変わっており、終電を逃してしまった私は彼にタクシーを呼んでもらい、東久留米駅の近くで降りた。家に帰ると両親はその日一日の記憶の整理をしており、どうやら私に構う暇はないらしく、私は安心して自室のベッドに潜り込むことができた。
浅い眠りと唐突な覚醒を数度繰り返し、そのうち檸檬色のカーテンの向こうが青白く変化していく。頭痛と吐き気が治らないままシャワーを浴び、浴室から出る頃には母が起きていて朝食の準備をしていた。案の定、昨夜遅くまで何処をほっつき歩いていたのかという話になり、口論に発展したあたりで父が参加し、両親の出勤前まで三人分の喚き声が響いた。
大学からの帰り道、彼からメッセージが届いた。連絡先を交換していたのだが、普段はゲーム内のチャットで会話をしていたことでそれをすっかりと忘れていた私は、危うく人違いではないかと返信してしまうところで直前に思い出し、そのメッセージに目を通す。内容はいくつか寄り道をしていたが、要約すると「今夜予定がないのであれば逢わないか」というものだった。どうやらクリスも連れてくるらしい。
断る理由もなく、私はその日が終わる二十分程前には、今や馴染み深いものとなったあの公園の景観に一役買っている水溜りの隅で、イヤホンから無遠慮に流れ込んでくる電気信号を後頭部に押しやり突っ立っていた。彼が現れるのと日付けが変わるのはほぼ同じだった。彼が言うには、クリスは遅れて来るらしい。どうやらクリスは時間にルーズであるようで、それはいつものことだった。
公園から北に向かい、駅に少し近づいたところでビルに入る。部屋にはベッドやテレビなどが置いてあり、シャワールームも完備してあった。
そしてそこで、今夜も細氷に包まれる。宝石が水晶が、毛細血管に至るまで濡らしていく。視界はキャンバスとなり、私達はそこに脳漿で混ぜ合わせた色彩を撒き散らす。いくつもの名付け親のいない色で壁と床と天井が埋まる頃、部屋の隅にクリスが立っているのに気が付いた。クリスはいつものように微笑みながらこちらに近づき、私の首や背骨をさかさまにしていく。網膜から抜け出した落下する自意識が天井のライトに引っ掛かり、羽虫のように手足を動かして、そうしてより深くまでクリスを受け入れる。彼がクリスなのか私と彼とクリスなのかその境界線が掌の生命線に蛇のように絡み付いて私の中の精神医学を発展させていく。大学のサークルの先輩も教授も父親も呑まれたのだ。私達は紡がれ計られ避けられなくなった刹那と永遠を割り振られて交互に行き来し、どこまでもどこまでも編み込まれていく。
今、私は水晶の中にいる。