表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

氷菓

 私は月明かりが照らす公園の池の側で、彼女に名を尋ねた。

「氷菓。君に相応しい名前だろ?」

 外見からは想像し難い口調で言い放つその女性は、体温が低いのか、冷たい手で私の頬に触れた。薄く青みがかった白い服を着ている彼女は、深夜の公園にあっては一層目立って見えたが、周りには誰もいない為にその美貌は私独りが得ることができた。

 彼女と逢うのは今日で二度目で、初めて逢ったのはつい昨日のことだった。場所は今と全く同じで、その時の私は、白い兎が池に飛び込むのに失敗して水面で揺られている様を眺めていた。特筆すべき点のないごく一般的な学生であるところの私は、高校入学と同時に唯一の特徴を深夜の散歩としたのだが、梅雨の合間の晴れた夜に小説のような出逢いを求め公園を彷徨い、そしてどうやらそれを叶えてしまったらしい。

 氷菓は私よりいくつか歳上に見えるが、大学生なのか社会人なのかいまいち判然としない。童顔ではないが成熟した外見をしている訳でもなく、美しいことに変わりはないが、今時の中学生と言われればそうも見えるし、婚約者がいると言われれば納得もするような、そんな不思議な雰囲気をしていた。

 彼女が何故深夜の公園にいるのかは謎だったが、兎に角、初めて出逢った今からおよそ二十四時間前のこと、私は彼女を本能的に求め、そして一夜を共にした。

 親元を離れ、金銭的な支援を得ながら安いアパートから公立高校に通う日々は、私に自分を知る時間を不必要なまでに与えてくれた。それを望む者はおそらくそうはいないだろうし、私も勿論その一人なのだが、そんなありきたりな境遇にあっても自己評価が然程下がらないことに嫌悪を感じていた時、氷菓と出逢ったのだ。

 名前も聞かずに重なり合い、翌朝一人の部屋を出て今後四半世紀は変わらないであろう通学路に流され、家に帰り、そして深夜の広い公園の池を眺める遊歩道を歩き、今に至る。氷菓などという名前はどう考えても偽名なのだけれど、彼女に限って言えば本名とも言えるらしかった。

 彼女は冷たい銀色の結晶を固める雪女だった。

 夜ですら気温が高くなり始めているこの時期に雪女が外を出歩いていても問題はないのか、そう訊いてみたところ、雪女と雪だるまを親戚か何かだと勘違いしてやしないか、と呆れられてしまった。

「違うの?」

 彼女は答える。

「違うよ。雪だるまは地面で泥に混じって溶ける。私は君の中に交じって解ける。別物だよ」

 そう言って、彼女が私の口を伝う。

 それから私は毎夜、池のある公園に出向いて彼女を迎えに行き、家に戻り、安物のベッドの上で氷菓と解け合った。全てが終わると私はいつもすぐに眠ってしまい、氷菓はその間に何処かへ行ってしまう。美しい彼女を求める人間は多いらしく、公園に顔を見せない日もあった。そういう日は決まって関節が痛むので、夏休みも終わろうという頃にはその日が氷菓が来る日かどうか、体の感覚でわかるようになっていた。

 彼女が来ない日は、とても寒い。

 二学期が始まって暫くしてから、私は自制心を取っ払ってしまったのか、校内に氷菓を呼んで、封鎖されている屋上へ続く階段の踊り場で重なり合った。普段と違う場所、違う時間に解け合うのは刺激的で甘く苦く、随分と長い時間、彼女の新鮮な声にただ身を委ねていた。無重力状態の思考回路でおそるおそる迷惑ではなかったかを尋ねると、どうやら丁度暇を持て余している時間だったらしく、これからも呼んでくれればすぐに逢いに来ると約束してくれた。その日の午後は気分が優れず早退したが、日付けが変わる頃には氷菓の影を探して公園に足を運んでいた。彼女はいつものように池を眺めている私の背後から、冷たく心地良い腕で優しく抱き包んでくれた。そして砂嵐のような星々に全身の毛穴を突き刺される私の承認欲求と自己顕示欲を刺激し、それを受け止めてくれるのだ。


 誰しも高校生になれば何かが変わると思っているらしいが、変わるのは精々通学時の風景と制服くらいなものだ。当然、私のような、皮を剥きかけて放置された温州蜜柑のような人間に関わろうなどという社会不適合者はそこらにはおらず、学校に友人がいる筈もない。体操着や筆記用具などが頻繁に行方不明になり、そんな何処にでもある古臭い光景の片隅で、私はいつも、冷たく硬い椅子に座って教室の隅の壁掛け時計の秒針を眺めている。次第に私の生活の中心は、冷たくあたたかい氷菓との時間となり、そろそろ秋になるという頃には彼女は私の家に住みつくようになっていた。学校にはもう殆ど行くことがなくなり、氷菓と解け合う為に時間を作り、そして、朝から晩まで体の芯を氷菓の雪で覆うようになった。

 私は、それまでの人生で想像することすら諦めていた多幸感を氷菓に与えられた。私も彼女に何かをあげられていればいいのだが、そう言うと彼女は決まって「求めてくれるだけでいいんだ」と微笑む。私に求められることが氷菓の存在価値であり、唯一の存在証明なのだと言う。


 依存し、依存される。人間的な愛の本質とは共依存であるべきなんだと思う。それは捨て子が牧歌的な愛を育むようなものではなくて自己愛を池の水面に映すようなもので、だから私には彼女が必要だし彼女にも私がいてあげなくちゃお願いだからもう放っておいてくださいわたし悪いことしてないよあの子は冷たいところもあるけど綺麗な雪なの小さな角砂糖を盗むな泥棒返せよ私のだ触るな性犯罪者クソ変態死ねなんでこの部屋壁にいっぱい落書きしてあんだよ助けて氷菓あたしここにいるから隣すごくうるさいんだ頭痛いよ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ