06
「よう、昨日と比べて、一段といい面してんじゃねーか」
昨日と同じ店、同じ席に田町はいた。
それこそ酷い顔をしている私の顔が、どこまでも愉快そうに、楽しそうに酒の肴にしているのだ。
それが凄く腹立たしく、苛立たしい。
でも今は、なにも言い返す気力が湧いてこない。
ただ奥歯を噛みしめ、溢れそうな感情をグッと堪える。それが今の私にできる、唯一の抵抗のように。
まどかに付き添われなければ、ここまで来れなかっただろう。
田町のように、昨日の場所に腰を下ろした。
「で、お望みのお話し合いはどうだった?」
「……っ」
私にとって悪い結果に終わったのはわかりきっている。そんな挑発をするかのような一声だ。
「実は……」
貝のように口をつぐみ続ける私に変わり、まどかが語り始めたのだった。
あまり長い話ではない。感情を垂れ流すように語った私の話を、要点だけを捉えたもの。
逐一うんうんと田町は頷いて、
「それは、わたしの幸せではありません……か」
まどかからの話が終わるのを聞き届けて、田町はそう言った。
納得げに、そして感心するように、
「なるほどね。あいつもまた、随分な皮肉を言ったもんだな」
楓の言葉、その裏には真意があったと告げたのだ。
「皮肉……?」
「そ、皮肉だ皮肉。ガミ、わかるだろ?」
「ええ。こういう皮肉は好きよ」
明神さんは愉快そうに口端を上げた。
「クルミちゃんはどうだ?」
話を向けられたまどかは、動揺しながらも気まずそうに押し黙る。それが肯定を示す何よりの態度であった。
「というわけだ。当人だけがわかってないところが、絶妙なさじ加減だな。流石神童だ」
けらけらと田町は笑いながら、グラスに口をつけた。
どういうことかとまどかに顔を向けるも、気まずそうな態度は変わらず。迷った末に顔を俯けた。
わたしだけが、わかっていない。
そこに足りてなかった全ての答えがあると知ったのだ。
「ま、皮肉の解説なんて、しょうもねーことだが教えてやるよ」
グラスを置きながら田町は言った。
「いいか、クソ姉。確かにあいつは、社会の正しいを全うできないから、俺のもとへ逃げ込んできた。たとえ間違っているやり方でも、できないことを求められる辛さや苦しみよりは、先のない未来。現実逃避をしているほうがマシだって、求めてきたんだ」
それはわかっている。
取り返しのつかない一歩手前。私が頼れなかったばっかりに、楓はそこまで追い込まれたのだ。
その追い込まれた場所で楓は成長した。今なら将来について考えて、未来を見据えた人生を歩んでいける。楓自身の口から、それができると言ったのだ。
「でもな、今のあいつが求めているのは、もう現実逃避なんかじゃない。その目的が変わったんだ」
「目的が……変わった?」
「なんでも、俺と一緒に幸せになりたいようだ」
「あんたと……一緒に、幸せ?」
言葉の意味がわからず、ただ顔が強ばるのを感じた。
「そうだ。俺のことが大好きで、愛してるから。恋と愛を掲げて、その幸せを大事に尊んでいるんだ」
それが面白かったのか。田町の顔色は嘲笑に染まり、おちょくるような手振りを見せた。
私をからかうための、バカにするための嘘。……ではないことくらいは、わかっていた。この男がフェアを掲げていると信じているからではない。本当だからこそ、計り知れないダメージを与えられることをわかっているからだ。
それでも、私はそれを否定するよう緩慢にかぶりを振った。
「……そんなの、本物じゃない」
真の恋や愛なんかでは決してない。だってそれは――
「そう、本物じゃない。未来のことを考えた優しさじゃなくて、楽で楽しいだけの、その場しのぎの甘さだけを与えてくれる俺を、『この人だけはわたしのことを理解してくれる』。その都合のよさから生まれただけの、依存心だ」
今更語るまでもないというように、田町は鼻を鳴らした。
わかっているなら、なぜそこまで得意げな顔をしていられるのか。子供の無知と純粋さにつけ込んでいるだけではないか。
「そんなのはな、あいつ自身が一番わかってるんだよ」
それすらも楓は知っており、
「その上で、俺たちだけの閉じた社会では、この依存心は真実の恋や愛。定義なんて言葉まで引っ張り出して、あいつ自身がそういうことにしたいって、決めたことなんだ」
この想いの在り方は楓自身が定めたことだと。
「だから今のあいつの目的は、学校へ行きたくないでも、引きこもって甘えた生活をしていたいでもない。俺という間違いだけを認めてほしい。現実社会の正しいをちゃんと全うするから、その一線だけは譲りたくない」
なんで、そこまでのことを軽々しく口にできるのか。
楓が定義なんて言葉を持ち出して、自らの依存心を、真の恋や愛だと言い換えたのはわかった。
でもこの男がそれを口にして、楓の本当の目的はこうだと言われても……それは全て、この男が自分に都合よく解釈したものとしか思えなくて……
「テメェはな、それをあいつの口から聞くべきだったんだ」
こんなことを自分の口から言わなければならないことに、心底呆れたよう言い捨てたのだ。
「おいクソ姉。俺はな、あいつと話し合う機会をくれてやるって言ったんだ。なのになんでテメェは、あいつと話し合わなかった」
「それは……ちゃんと話し合おうとしたけど……」
「あいつが話し合いに応じてくれなかったってか? 嘘つけ。あいつはちゃんと言ってくれたんだろ? 『姉さんの考えを聞かせてほしい』って」
「……あ」
ポンと、足りなかったピースが埋められた。
あのとき、なんでそんな簡単なことを、私はしてあげなかったのか。
「だがテメェはそれをしなかった。自分の要求を一方的に言い放って」
なんで考えもしなかったのか。あまりにも自分自身が愚かすぎて、
「『あなたはどうしたいの?』。そのたった一言を、かけてやらなかったんだ」
あのとき浮かんだ失望の色の意味に、心が押しつぶされそうになった。
自身の不甲斐なさで、また、楓を傷つけてしまったのだ。
「レナだってな、最初から認められるなんて思っちゃいなかったろうさ。それでも今まで顔を俯け、逃げ続けてきた相手と向き合える。話し合えるって、そんな期待を抱いていたんだ。ちゃんと望みを自分の口から伝えて、話して、話して、話して、お互いの譲れない最後の一線を、ちゃんとわかりあって、それからどうするか決める。それが話し合うってことだと信じて」
睨めつけるようなその目は、
「失望しただろうな。ようやく話し合えるようになった途端、向こうは人の話を聞こうとしないんだ。そりゃ、レナもこう思うわけだ。そんな奴といくら話し合おうとしても無駄だってな」
途端に小馬鹿にしたものへと変貌した。
そういうことだったと、今更になって気づいたところでもう取り返しがつかない。あまりの愚かさに肩が震えた。
「なんでそんな簡単な言葉も出てこなかったのか、わかるか?」
問いかけてくるその目には、どうせわからないだろと言っていた。
「テメェは社会が認めていないやり方で、幸せを得ている連中を見下してるからだ」
「……そんなこと、してない」
「してるんだよ、無意識の内にな。だからテメェは、あいつの話を聞いてやるなんて発想にいたらなかったんだ」
そんなこと、していない。
自分に言い聞かせるように、胸の内で繰り返す。でも今は、そんな自身の言葉すら信じ切ることができなかった。
「社会の正しい在り方を全うできるなら、それ以上の幸せはない。間違った方法で得ているものは、正しいを全うできないゆえの妥協の産物。それが人類共通認識だと勘違いしているから、正しいものを差し出せば、間違ったものを捨て喜んで飛びついてくると信じてやがる」
心に蝕んでくる毒のようなそれを、振り払うようにかぶりを振る。
違う……そこまで極端なことは、私は……と。
「世の中にはな、多数派が大事にし尊んでいる幸せはあっても、絶対的な幸せなんてものはない。多数派から外れた少数派には少数派なりの、幸せっていうのがあるんだ。奴らはな、そんな方法でしか幸せを得られないことに、嘆いているわけでも、悲しんでいるんでもない。かといって多数派たちに哀れんでほしいわけでもない。
ただ、認めてもらいたいだけなんだよ」
知っている。
神の教えに則り、排斥されてきた人々がいる。神の死んだこの世界で今、彼ら類する存在が結びつき、一致団結して、自分たちの生き方を社会に組み込む。認めさせようと躍起になっている。
私は恵まれている。
なぜなら正しいことをしているだけで幸せになれるから。今この瞬間、多数派に正しいと認められていない、そんな彼らと比べて。……そう、思っていたのだ。
「でも、多数派目線から見れば、あまりにも形が悪い幸せだからな。それこそ見ていて気持ち悪い。許したくない。なぜなら、こんなにも自分の機嫌を損なうものが、この世にあってほしくないんだ」
彼らの生き方が社会に正しいと組み込まれるまでは、多様性と認めなくてもいい。受け入れる義理はないんだと。
ああ、確かにそれは、見下していると言われても仕方のないことだった。
「テメェの考える最高の文野楓の幸せは、まさにそれだ。俺のような間違った異分子はあっていいものではない。たとえ幸せという中身が伴っていても、あまりにも形が悪い。ルールやモラルを逸脱したその形は、私の機嫌をとてつもなく損なうものだから」
そうだ。楓が帰ってきてくれる。私の考えるこれからの楓の人生に、この男はあまりにも余計であった。その恋や愛に中身が伴っていたとしても、子供と大人というその形は、筆舌に尽くしがたい形の悪さであった。
「でもそんな中身をそのまま言葉にすると、あまりにも外聞が悪いから、無意識の内に形を整えた」
言葉にしようとすらしていなかった、私の本音が暴き立てられた。
「あいつの皮肉の意味、わかったか?」
全ての問題が……私が抱えている問題が俎上にあげられた。
「それは、わたしの幸せになる方法じゃありません」
私の考える最高の文野楓の幸せ。
「あなたが幸せになる方法です、だ」
それを全うしている楓がいてくれることに、私は幸せを感じたかっただけなのだ。
「それをあなたのためを思って言っているの、なんて本気で言っているつもりでいるんだ。……ああ、本当に――」
これでもかと嘆息を吐き出した後、
「自覚のない奴はタチが悪い」
侮蔑と嘲笑が込められたその瞳に、ギロリと睨めつけられたのだ。




