04
楓を連れ帰る。
そんな当初の目的は達したが、問題はなにも片付いてはいない。
楓を確かにあの家から連れ出したが、私たちはなにも話し合ってはいない。家までの道中、楓は一言も口を聞かず、言われるがまま首を小さく振るだけで、黙って俯いたままだった。
今までどうしていたかとか、元気にしていたかとか。他にも取り留めもない、話したいことは沢山あった。
でもこの喉は、必要以上に震わすことはなかった。
「絶対に許さない」
聞いたこともない楓の声が、今もベッタリ耳にこびり付き、離れることがなかったから。楓が口を開けば、またその音を紡ぐのではないかと怖かったのだ。
家を出る際、楓は昨日の私服に着替えた。ビニール袋に僅かばりの荷物を携えて、部屋から出てきたのを見て、
「荷物はそれだけ?」
明神さんはそう言うと、
「はい。すぐに帰りますから」
視線をそちらに向けながら、楓の意識は私に言い聞かすように向いていた。
そうして楓を連れ、自宅に帰ってきた。
ついに話し合う瞬間が訪れた。
どうやって話を切り出すべきか、その答えを出せないまま、その場に立たされたのだ。
でも、
「今日のところは、休ませてください」
重い口を開いた楓に、私はただ言われるがまま受け入れた。
自分の部屋を与えて、リビングで一人になったとき、ホッとしている自分がいた。頭が熱っぽく、そして真っ白のまま、楓との話し合いにならずよかったと。その日は結局、明日からのことを考えている内に、ソファーで眠ってしまっていた。
次の日、起きると十一時を回っていた。
こんな遅くに起きるのは、それこそ体調を崩していたときだけ。昨日、突きつけられた現実は、それほどまでに精神を消耗させていたのかもしれない。
シャワーを浴び、身だしなみを整えリビングに戻ると、楓がソファーに座っていた。
「あっ」
お互い、目を合わせるとそんな声を漏らした。
お昼前だが『おはよう』こそが、今日の初顔合わせの第一声に相応しいが、それも出てこない。代わりにしどろもどろに、シャワーを浴びるかどうか勧めたら、「はい……」とだけ楓は応え、私たちは入れ替えとなったのだ。
それがまるで、楓を向き合うまでの時間稼ぎのように思ってしまった。
リビングのテーブル前に、ただジッとしていて……戻ってきた楓が対面に座ることで、ついにそのときが訪れたのだ。
「姉さん」
お互いの内情。そんな探り合いをする無言の間もなく、
「わたしは……ずっと姉さんを恨んできました」
「っ……」
楓は話を切り出した。
胸が抉られるような痛みが走る。
真っ直ぐと見据えてくる楓の目。それから逃げるように私は顔を俯いた。それこそ糾弾されることから逃げるかのように。いつも私たちがしてきたことの、真逆を行っていたのだ。
「あの人に死刑宣告をされたとき……姉さんに助けを求めることを考えました。姉さんなら覆してくれる。わたしのことを助けてくれるって」
楓の口ぶりは淡々としたもので、強い感情がこもっていない。ただ、父さんをあの人と評したのは、あれを親と呼びたくないという表れかもしれない。
もし、あのとき楓が頼ってくれれば、私は必ず父さんの宣告を覆す。確かに楓は引きこもり、学校へ行けない問題を抱えてはいたが、それであんな酷い仕打ちを下すなんて、どう見積もっても許せるものではなかった。
「でも……最後には必ず、姉さんが求めてくることがわかっていたから……もう救いはないとわかったから、わたしは現実から逃げ出したんです」
そう、私が最後に求めることは、いつだって正しいこと。それができないから辛くて苦しんできたのに……
私が頼れない姉だったばかりに、取り返しのつかない一歩手前、楓は社会的に間違った手段を選ぶしかなかった。
「姉さんがわたしのことを、世界で一番想ってくれているのはわかっていました。わかっていたから……わかってほしかった」
激しい感情が声に乗らないのが、一層痛々しく胸に刺さる。他人行儀な敬語がただ、無邪気に慕ってくれていた頃とは、もう違うんだと現実を物語っていた。
「わたしは……未来のことを考えて優しくしてほしかったんじゃない。ずっと……姉さんに甘えたかった」
私は楓の未来を思い、優しく諭し続けてきた。でも、そこに甘えなんてものひとかけらもなかった。
甘えを許したくなかったのではない。功を焦るかのように、一日でも早く、楓を社会へ戻すことしか考えていなかったのだ。
「自分が一番悪いのはわかっていました。わかっていたけど……その全てを棚に上げて、いつしか心の中で恨み言を吐くようになっていたんです」
自らを抱きしめるように、楓は胸元で拳を包んだ。
「なんで姉さんは、わたしのことをわかってくれないの? って」
僅かにかすれたその声こそ、初めて見せた楓の感情だった。
「そうやって同じことしか繰り返さない姉さんのことを、段々嫌いになっていって……大好きだったから……それがなにより辛くて、苦しかったんです」
大好きだった。
楓の辛さと苦しみと共に、過去に置き去られた想いが、ただ重くのしかかった。
俯いたこの顔が見えているのは、首元から下だけで。楓が今、どんな顔を浮かべているのか見る勇気がなかった。
「でも、これは仕方ないことだったって、逃げ出した先で教わりました」
それでも顔を上げたのは、話の雲行きが変わったから。あれだけ現実から目を背けていたにも関わらず、それに飛びつくようであまりにも現金であった。
「わたしにとって、どれだけ偉大で、尊敬して、自分がなりたい理想であっても、姉さんもまた、ただの子供にすぎなかったんです」
あの楓が、私をただの子供にすぎなかったと評した。
その思考の帰結はきっと、あの男に与えられたものだろう。
「大人から与えられた正しいを、完璧に応えてきた人だから。あれ以外のやり方を知らなかった。それを知る機会すら得られずに、育った子供だったんだって」
私がずっと、正しいと信じてきたやり方。なにも生み出せなかった方法。
今振り返れば、もっとマシなやり方があったはず。それこそ楓にとって社会の窓口であり続ける。良いことも、悪いことも、なにかあれば遠慮することなく、臆することなく話し合える相手として。ただそれだけで、結果は大きく変わったかもしれない。たとえ高校へ行けず、父さんに同じ宣告をくだされたとき、楓は私に助けを求めてくれたかもしれない。
でも、そうはならなかった。ただ楓を最短距離で学校へ戻すことしか考えなかった。それだけで全てが解決すると信じて、それ以外のやり方を知らず、知ろうという考えにも至らなかったのだ。
「わたしのことをわかってくれなかったんじゃない。姉さんなりに、大人から与えられたものだけで、必死になってわたしのことを考えてくれていた。ただ……その結果が、こうなってしまっただけ。
だから、姉さんを恨むのは筋違いだったんです。……ううん、姉さんを恨まなくてもいいんだって、わかったから」
楓はそんな無知であった私を、仕方のないことだったと許してくれたのだ。
「姉さん、こんなわたしのことを見捨てず、なんとかしようと頑張ってきてくれてありがとう。上手くはいかなかったけど、姉さんがわたしのことを誰よりも想ってくれているのは、ちゃんとわかってるから」
その顔が私からは見えなくなった。
いつものように、黙って俯いたのではない。
「沢山心配かけて、ごめんなさい」
「楓……」
私に頭を下げ謝ったのだ。
「昨日はいきなりのことだったから、あんな風に取り乱しちゃったけど。今はちゃんと頭が冷えたから。今のわたしはちゃんと、姉さんと向き合って話し合える」
次に見せてくれたその顔には、自信が宿った晴れやかなもの。
それを見て、胸の痛みと宿った不安が、全て拭い去ったかのように軽くなった。
「だからわたしにこれからどうしてほしいのか。姉さんの考えを聞かせて」
話し合う機会さえ得られれば、ちゃんとわかってもらえる。またやり直せるんだと。
『どうやら話し合う場さえあれば、自分が思い描いた通りになる。そんな勘違いをして今日という場を臨んだようだからな』
あの言葉の真意を忘れ、考えようともせず、ポンと眼の前に差し出された希望に、目が眩んでしまったのだ。




