03
センパイが家を出てから、一時間ほど経った。
楽しい日々だからこそ、いつもならあっという間に過ぎ去る時間。それが今や、薄く引き伸ばされたようであり、一秒が十秒、十秒が一分、そしてそれが一時間のようにも感じた。
その原因は二つある。
一つは、センパイが出ていったときの宣言。昨日超えられなかった一線。それを『次会うときは戦場で会おう』と言って、ムードもへったくれもなかった。それがセンパイらしくて、どんな甘い囁き、綺麗な飾り付けよりも嬉しかった。
今度こそは……と。楽しみと喜びと、そして乙女の恥じらいが、そのときを待ち遠しいと言っている。
そして、もう一つは不安。
センパイが呼び出された要件。それを察していた。
逃げ切ったと思っていた現実が、すぐそこに訪れている。センパイは今、姉さんと対峙しているのだ。
センパイはどこまでも自信満々に、憂いなく家を出た。決して強がりでも、空元気にも見えなかった。だから……大丈夫だという信頼を寄せながらも、社会の正しさ一つその手に持たぬ身で、どう姉さんと戦うのか。それがわからぬからこそ、胸が締め付けられるような不安を拭い去れずにいた。
ぎゅっと、胸元の衣類を抱きしめる。
センパイが着替えて残していった、部屋着のシャツ。その匂いに倒錯した思いではなく、安心を求めていた。
「大丈夫……センパイなら……大丈夫」
そうやって何度も自分に言い聞かせながら、牛歩のように進む時間を、やり過ごしていた。
身体が発する音がうるさいほどの静寂。
そこに、待ちわびた音が訪れる。
玄関の扉が開いたのだ。
バッと立つと、わたしはリビングへと駆け出した。玄関へ繋がる扉が、今まさに開かれようとしたのだ。
「あぁ……」
扉を開いた主は、そんな吐息を漏らした。
わたしはそこに、大好きな人を求めていた。
愛する人がその扉を開けてくれることを、ずっと待ちわびていた。
「え……」
でも待っていたのは、
「姉……さん」
昨日逃げ出したばかりの、受け入れがたい現実だった。
血の気が引いていくのを感じる。昨日の再現をするかのような……いや、あれよりも酷い負の感情に飲み込まれた。
姉さんが見せたのは、間違った道を歩んだわたしへの、怒りでもなければ悲しみでもない。幼い頃から変わらない、わたしを慮った優しさ。どこまでもわたしの身を案じ、無事を願い続けてくれた心からの安堵だった。
今はその顔がこの屋根の下に現れたことが、どんな悪鬼羅刹よりも怖かった。
「帰りましょう。楓」
そして優しさに満ちたその声音が、幾万の呪詛より恐ろしかった。
「や……」
恐怖に当てられたわたしは、一歩後ずさった。
その距離を詰められようとしたことに、
「嫌……ッ!」
悲鳴を上げたのだ。
こんな機能が備わっていたのか。そう驚くほどの声量だった。いいや、身の丈にあわぬ力を発揮したのだ。
「なんで……なんで」
だから喉が裂けそうなほどに痛いのだ。
「……姉さんが、なんで……」
それは姉さんに投げたものでもなければ、自問自答でもない。ここにはいないあの人に向かってのもの。
吹雪の前に晒されたように、この身体は小刻みに震える。小さく、小さくゆっくりと、わたしは後ずさった。ここで背中を見せてしまったら、もう取り返しのつかないことになると信じているのだ。
でも背後に逃げ道なんてものはない。
だからその手が伸びてきたことに、
「楓、お願い話を――」
「やっ!」
精一杯抵抗するようにこの手で振り払った。
ジンジンとする痛みが、この手に走った。でも、そんなもの心に苛むものと比べれば大したことはない。
昨日、取り除かれたはずのものが、再び胸を襲ったのだ。
わたしがずっと抱えていた辛苦。その真の正体は、大好きな姉さんを嫌いになっていくことで生まれたものだ。わたしのことを想ってくれているのに、理解してくれない。心に寄り添ってくれないことに、いつしか恨み言を吐くほどになっていた。
センパイがそれは仕方ないことだったと教えてくれた。姉さんも結局、ただの子供だったから。それしかやり方を知らない。それ以外の術を、正しいを全うしているだけの子供に宿るなんて、酷な話だったと。
わたしたちの関係がこうなったのは、自分のせいでもなければ、姉さんのせいでもない。親と社会が悪いでいいんだと、言い聞かせてくれた。
だからもう、わたしは姉さんを恨んではいない。本当はやり直したい。また、昔のように仲良くしたい。
でも、それはもう無理なのだ。
だって姉さんは、正しい人だから。この幸せを選んだわたしを、絶対に認めてくれない。
そうしたらわたしは、また姉さんを嫌いになってしまう。それがどれだけ辛くて苦しいかは、嫌というほどに知っている。
だからわたしは現実社会に戻れない。
あんな思いはもうしたくないから……大好きなままでいたいから……もう二度と、姉さんに会いたくなかったのだ。
あまりにも辛くて、苦しすぎて。その痛みに耐えきれなくて、熱くなった目頭が映す世界が歪んでいった。
姉さんがここにいることは、センパイはきっと……
「助けて、センパイ……」
そう思いながらも、助けを求めずにはいられなかった。
この身を支える足元から力が抜け、ペタンと座り込む。現実を直視したくないと、ただ顔を俯けた。イヤだイヤだ、と。まるでダダをこねる子供のようにかぶりを振った。
嗚咽を噛み殺しながら、受け入れられない現実を遮断しようとした。
そこに、
「予想通りの展開ね」
聞き慣れぬ声が届いたのだ。
「ぇ……?」
予期せぬ第三者の登場に唖然とした。
現実から背けた顔を上げると、姉さんの後ろから女性が顔を覗かせた。
とても綺麗な人である。立ち居振る舞いには大人の女性のカッコよさがある。年齢は、多分センパイくらいで……
「ガミ、さん……?」
それに思いいたり、縋るように声を出す。
「ええ、そうよ。こうして顔を合わせるのは初めてね、楓ちゃん」
満足そうにガミさんは頷いた。
「それとも、一閃十界のレナファルト。レナと呼んだほうが、ここはよかったかしら?」
その問いに、わたしは首肯した。文野楓に戻りたくないという、強い思いが突き動かしたのだ。
「……センパイ、は?」
「今頃店で、お酒を好き勝手飲んでるわよ。可愛い女の子を隣に置いてね」
ガミさんは朗らかなまでの声音。今この雰囲気において、あまりにそれが似つかわしくなく、
「安心なさい。結果はタマの圧勝よ」
わたしが抱いていた負の感情を、吹き飛ばすかのような光だった。
姉さんを一瞥すると、顔を俯けていた。奥歯で苦々しいものを噛み締めているかのようだ。
その顔が楽しかったわけではないが、それでも喜びを抑えきれずにいられない。
「でも、じゃあ、なんで……」
頬を伝う水滴を拭いながら、疑問を差し出した。
主語が抜けた曖昧な言葉。
「タマからの伝言よ」
ガミさんはそれをすぐに解読した。
「『辛くて苦しい真似なんて、したくないのはわかってる。でも、ここが幸せを得るための踏ん張りどころだ。ちょっと話し合ってこい』」
ガミさんはすらすらと伝言を告げる。その背中にセンパイの影が見通せた。
ホッとした安心感を抱くも、不安は拭い去れない。
ちょっと話し合ってこい。それはここで話し合えということではない。一度姉さんのもとへ戻れという指示だろう。
センパイがいない場所で、姉さんと二人きり。そうやって話し合ってこいと。
自分を信じられないからこそ、それが不安でたまらなく、
「『大丈夫だ、今のおまえなら、ちゃんと話し合える』」
こんな自分を信じてくれる、センパイを信じたのだ。
「『後。おまえを正規雇用したときの約束は、ちゃんと守る。それだけは絶対に破らんから安心しろ』。以上が、タマからの伝言よ」
全ての伝言をもたらされ、目頭が再び熱を帯びた。
それは先程とは違う熱。苦しみやら辛さが生み出したものではない。
「……わかりました」
安心と、信頼と、そして未来への希望がもたらしたものだった。
現実なんてものとは向き合いたくない。ただ最後まで目を背け続けた先で、楽で楽しいだけの幸せを得たかった。
辛くて苦しい思いなんてしたくない。……でも、この幸せの先を得たいのなら、それに立ち向かわなければならなかった。
これがわたし一人の幸せなら、身勝手なだけの望みなら、この顔は俯いたままだっただろう。
でも今のわたしは、自分の幸せだけがほしいんじゃない。わたしを背負ってくれた人。センパイにもまた、幸せになってほしいのだ。わたしなんかで与えられるものなら与えてあげたい。そのためなら、辛くて苦しくても頑張ろうと奮い立てる。
だって、その結果足元が崩れ去ろうとも、堕ちるときは一緒だから。そこに恐れも慄きもなかったのだ。
「ちゃんと、姉さんのもとで話し合ってきます」
姉さんと話し合う、向き合う覚悟が決まった。
複雑そうでありながら、姉さんの目には希望が宿っていた。大好きだから……わたしの手で、
「でも、これだけは忘れないで、姉さん」
それを曇らせるのがとても心苦しかった。
「わたしは……恨みつらみは絶対に忘れない。もし、センパイになにかあったら……」
それでもわたしは……わたしたちの幸せのために、線引きをしなければならない。取り返しのつかないことが起きる前に、しっかりとわたしは宣告したのだ。
「絶対に許さない」
そしてわたしは、初めて姉さんと戦う道を選んだのだ。




