02
一体、なにが起きたのか。
目の前に広がる光景は、それほどに意識を混乱へ導くものだった。
起きていることを簡潔に説明するなら、抱腹しながらカウンターを何度も叩いている者が出た。ただそれだけのこと。
ただ、それを珍しくないものとして受け入れることができないのだ。まどかもそれは同じであり、ポカンと口を開き狼狽えていた。
日常の風景のようにそれを受け入れているのは、この場において田町一人であった。
「いいのか、こんなところで本性晒して?」
「あー、よくはないが、ダメだ……んなの笑うに決まってるだろ!」
ギャハハハ! と再びその人は、カウンターを叩いている。ついには立っていられず、カウンターの中に沈み込んでしまった。
「ま、マス、ター?」
恐る恐る沈んでいったその人――マスターをまどかは呼んだ。
ハッと目を奪われるほどの妙齢の美女。余裕ある優雅な面持ちは、今は見る影もない。女としての立ち居振る舞いを投げ捨てたかのような、それこそガサツな男みたいだった。
ようやく立ち上がったと思ったら、空のグラスにビールを注ぎ始めた。それを田町のもとへ……引き渡すことなく、一気に呷って空にしたのだ。
「あー、美味ぇ! 最高な酒の肴だな!」
マスターは男らしく、手の甲で口元を拭った。唖然としている私たちなど見えていない風だ。
愉快そうにビールを新たに注ぎ直している。
「あ、あの……」
まどかはおずおずと、また声を発する。
「ま、いきなりこんな姿を見せられたら動揺するよな」
それに応えたのは田町だった。
「でも、これがガミの本性だ。決して憧れていい女なんかじゃない。というか、女ですらない」
「……へ?」
「実はこいつの正体は、人体改造を施した男なんだ」
勿体ぶることなく、あっさりと田町は種明かしをした。
「男……?」
「明神幸之助だ。改めてよろしくな、クルミちゃん」
マスター。明神さんなる人は、自らの身の上を否定することなく、そして女と騙ってきたことを悪びれることなく、けらけらと笑っている。
「で、なんで田中も道連れだって話だったが」
今日の話の主題、筋には関係ないとばかりに、明神さんに向けられた話題を田町は正した。
「ネタだよネタ。ネットのコピペ、面白話。あいつはそれを引っ張り出して、『ここで田中を道連れにしたら、理不尽すぎて面白いだろうな』って、それだけの理由で道連れにしようとしてるだけだ」
「面白いって……」
到底理解できない思考のプロセス。
「人の命を、なんだと思ってるのよ」
楓が言ったことだということも忘れるほどに、この顔が不快に歪んだ。
「エンタメだ」
ピシャリと、田町はおかしそうに言い切った。
楓がそこまで人として、許されない考えを持っていることが、ただ信じられない……いや、信じたくなかった。
それが顔に出たのか、
「あいつはそういう奴なんだよ」
そんなことも知らなかったのかと、田町は鼻で笑ったのだ。
「そもそも人間形成の大事な時期に、学校にも行かずに引きこもってきたんだ。社会への窓口がネットだけ。そんな奴が、社会の示すまともなんかに育つわけがないだろ」
「ま、おまえに出会わなかったら、少しはまともに育ったかもな」
「シャラップ、ガミ!」
余計な茶々を入れる明神さんを、睨めつけながら空のグラスを差し出した。
「それなのにテメェは、自分の妹だけはそんな風に育たない。人の心を慮れる、幼い頃のままだと信じてたのか? ……信じてたんだろうな。それこそタチの悪いカルト宗教の信者のように、盲目的にな」
薄ら笑いを浮かべる田町は、物を知らぬ子供を見下すようだった。
「そりゃ、噛み合わないわけだよな。なにせ現実を見る気がないんだ。いつだってその目が見てるのは過去にだけ。そんな目で未来を見据えた優しさをとか、滑稽すぎだろ」
言い返そうにも、この口はなにも動かない。
だってその通りだから。
楓は大人しく、弱々しくあれ、その胸の内には誰かを慮る優しい心が、幼い頃から残り続けていると信じていた。
でも、それが幻想だという事実は、既に突きつけられている。
ウォーリーを探さないで。
あれでまどかと私は、酷い目にあった。あれにあったのは遊び心。それも人を弄ぶ類のもの。
「唯一自分を思ってくれている相手が、この始末だ。黙って俯いていた顔の裏で、どんな思いで苦しんできたかわかるか? できるならとっくにやっている。それができないから辛いってのに、テメェは正しいことばっか繰り返しやがる」
そう……私はいつだって、楓に正しいことだけを求めてきた。
私ができることくらい、楓なら簡単にできる。やればできると、楓のことを過大評価していた。そうやって私が見ていたのはいつだって、楓に宿った溢れんばかりの才能だけ。その心に目を向けていなかったのだ。
「辛い辛い、苦しい苦しいって。自分が一番悪いのはわかっているけど、なんで姉さんはわたしのことをわかってくれないのって。世界で唯一残っている、大好きな相手に、心の中で恨み言を吐くはめになったんだ」
区切り区切りを、強調するように田町は語った。
こみ上げてきたものを無理やり飲み込んだ。
これだけのことを言われて、わからないなんて通らない。
「おい、聞かせろよ。大切な妹を、正しいって真綿で首を締めてきた、その気持ちをよ?」
楓の心を一番傷つけてきたのは、私だったのだ。
私のことを、大好きだと思っていてくれたからこそ、理解を示さず酷なことだけを求め続けてきた。
「それとも聞かせてやろうか? あいつがどんな思いで、俺のもとを訪ねてきたのか? 顔も名前も歳もわからん、大人の男のもとに、どんな覚悟でやってきたのか。助けてくれなんて、甘いもんじゃなかったぞ。どうせ死ぬんだから、その前に現実逃避がしたいって」
酸素を求めるように喘ぐ。でもそれを音にしてしまったなら、飲み込んだものが目頭から溢れ出てしまう。それを必死に堪えていた。
「身体を差し出すからお願いだって、自分をろくに出せない子供が、そんなことを言ってきたんだよ」
そこまで……そこまで楓は追い詰められていた。
私の中に溜まっていたものを抑えつけるのに、もう、限界だった。
目を閉じ、耳を塞ぎたい。そんな衝動にかられていた。
「それもこれもテメェが、あなたのためを思って言っているの、ってしか言わないから。頼れないクソ姉だったばっかりにな!」
「もう止めて!」
店内には甲高い悲鳴が響いた。
心の軋みが限界を迎え、抑えきれなくなったもの……ではなかった。
「タマさん……言ってましたよね?」
震えるほどに叫んだのは、この喉ではない。まどかだった。
「椛が……学校で正しいだけを教えられた子供に、楓ちゃんみたいな子を導くなんていうのが酷な話だって」
その声は水気を帯びた、今にも泣き出しそうなものだった。
一歩、一歩、遠い場所へ進むように、まどかの足は田町のもとへ進んでいた。
「楓ちゃんをどうにかできたのは、大人だけだって……だから親が悪い、社会が悪いでいいんだって」
「ま、確かに言ったな」
私に対するものより、田町の声音は和らいだ。
「なら……!」
「でも、今日までレナを一番苦しめてきたのは、そこのクソ姉だって現実は変わらないんだよ」
けど、その勢いまでは止まることがなかった。
まどかに向けていた目は、すぐに私を捉え直し、嘲笑の色を宿したのだ。
「そうだそうだ。昨日、あいつがテメェの面を見つけた後、大変だったんだぞ。なにせ泣きながら眠って――」
パン、と乾いた音がした。
暴力的に、攻撃的な、肉を叩く音。
私に向けられていた田町の顔は、いつの間にか明後日の方向へ。
「……いくらタマさんでも、これ以上そんな風に……椛を責めるのは許さない」
振り抜いたその手の痛みか。まどかが涙声で宣言した。
抑えきれない嗚咽が、ボロボロと泣き出しているのが感じ取れる。
まどかは一年以上も、恋をしてきた相手にビンタをしたのだ。追い詰められていた私のために。この店に踏み入る前にした約束通り、私の味方として。
「あーあ、泣かしちまったな」
明神さんがそんなまどかを見て、おかしそうに言った。まどかをバカにしているのではなく、友人がどんな反応をするのか楽しむように。
田町は打たれた頬を擦りながら、
「流石にくるみちゃんを泣かしたのは、罪悪感が湧くな」
「なんだ、おまえにそんな素晴らしい心が宿るのか」
「これでも宿るんだな。俺もビックリだ」
軽薄におどけて肩をすくめた。
それは言葉だけではなく、本当に感じているのか。まどかを慮るように一瞥した後、
「ま、しょうがない。くるみちゃんの涙に免じて、テメェに話し合う機会をくれてやる」
挑戦的に私に視線を投げたのだ。
「どうやら話し合う場さえあれば、自分が思い描いた通りになる。そんな勘違いをして今日という場を臨んだようだからな」
身の程知らずを嘲笑うように田町は鼻を鳴らした。
「悪いがガミ。こいつに着いて、俺んちまで行ってくれ」
「別にいいが……なんだおまえは行かないのか」
急に話を振られた明神さんは、意外そうに目を丸くした。
「その場にいたら、レナは俺に縋ってくる。そして任せてくるだろうからな。そうなったら、こいつの望んでるお話し合いにはならんだろ。こいつには、現実を見てもらわんとな」
「いいのか? おまえがいないならいないで、パニックでも起こすんじゃないのか?」
「俺の帰りを当たり前のように待ってるからな。ま、十中八九起こすだろうな。だから伝言を頼む」
ポケットから取り出したのか。家の鍵と共に、田町はそれを差し出した。
「辛くて苦しい真似なんて、したくないのはわかってる。でも、ここが幸せを得るための踏ん張りどころだ。ちょっと話し合ってこい」
その声音は、今日一番の優しさを秘めており、
「大丈夫だ、今のおまえなら、ちゃんと話し合える」
揺るぎない信頼を寄せたものであった。それこそ私たち姉妹の関係性、その差を見せつけるかのように。
「後。おまえを正規雇用したときの約束は、ちゃんと守る。それだけは絶対に破らんから安心しろ。そう伝えといてくれ」
「わかった」
田町の伝言を受け取って、明神さんは首肯した。
約束。
それがどんなものかはわからない。でも、お互いにとって大切なものである。そう感じ取った。そしてそれこそが、二人を結ぶ絆のように。私と楓の間に失ったものを、強調するかのようだ。
「テメェの都合がいいように、お膳立てはしてやった。だがな――」
田町はこちらをギロリと睨む。
そこにはもう、侮蔑も嘲笑もない。
「いいか、クソ姉。よく覚えておけ」
楓が苦しみ、辛いを思いをするのをわかっているから、私を前もって責めているものだ。
「もうレナにとってテメェは――」
そしてこれから待ち受けている、正しい現実を告げるだけのものだった。
「幸せを脅かす、血が繋がっているだけの敵なんだよ」




