08
すすり泣くレナの声が寝息へと変わった。
寝付いたレナを起こさないようふすまを閉める。冷蔵庫から缶ビールを二本持ち出し、そのまま廊下へ。二階への階段に足をかけ、三段目にどっと腰を下ろす。
缶ビールをプシュ、と開けると泡が噴き出す。口で迎えに行くほどの量じゃないのを見届け、そのままもう一本開封した。階段の四段目に置いた一本目に、
「乾杯」
軽くぶつけた。
そうして飲み始めたのだが、身体がぶるりと震えた。
乾杯の相手に慄きを抱いたのでなければ、害意を感じたわけでもない。
暖房の届かぬ冬の廊下で、冷たいものを飲んだからだ。
寒い場所でわざわざバカなことをやっているな、と我ながら思った。でも、今は少しでも頭を冷やしたかったのだ。
「まさかあんなタイミングで、遭遇するなんてな」
思わず鼻を鳴らしてしまった。
「あれが、レナの姉か……」
見たのは一瞬。でもその顔は鮮明に覚えている。
思わぬ遭遇に、レナは俺の手を引いて一目散に逃げ出した。逃げ道など考えず路地へ入り逃げ惑った。路地を抜けた先の通りで、息絶え絶えのレナの顔は真っ青だった。
それは運動不足が招いたものではない。恐怖に震え、慄いているのだ。
そんなレナの身を寄せながら、タクシーを捕まえた。最寄り駅の一つ手前で降り、そこからは電車で移動した。足取りを撹乱する目的のつもりだったが、警察に本気を出されたら一発である。
そうやってレナを自宅に連れ帰り、冷え切った身体を温めるよう促した。レナはなにも言うことなく、黙って従ったのだ。
後は入れ替えでシャワーから上がったらあの通り。
交わしたクリスマスの約束を破ったのだ。
なぜか。
憔悴したレナの心を慮る心か。違う。
レナ姉との遭遇に慄き、心が萎えたのか。違う。
一生の思い出となるイベントを綺麗な形にしたかったのか。違う。
いざ戦場を前にしてビビったのである……違う。
今日という一日を送ったことで、思うことがあったのだ。
レナから伝えられた想い。心に宿った依存心。
定義なんて言葉を引っ張り出し、俺たちの二人だけの社会では、恋や愛なんてものに変換した。
俺と一緒に、幸せになりたいなんて言ってくれた。
「幸せ……か」
子供時代、ついぞ知ることのなかったもの。
大人になってからも、意味を知るだけで得られなかった。
でも最近になってなんとなく……いや、今更いい大人がなんて羞恥から目を逸らすため、正しい表現を濁すのは止めだ。
レナと暮らすようになって、俺は幸せになったのだ。
自分のためになんでもやってくれる可愛い女の子。変なご機嫌伺いもいらなければ、大した金もかからない。同じ尺度でものを楽しめ、ただ一心に慕ってくれる。
まるで歪んだ大人の欲望、その擬人化。買った覚えのない宝くじで、一等が当たったかのような奇跡である。
だからこれは、社会の定める真の恋でもなければ愛でもない。こんなにも男にとって都合のいい存在だから、好きになったにすぎない。
そのくらいは、ちゃんと自覚している。
「後十年……いや、九年早く出会いたかったな」
そうしたらレナの一つ上になる。人生のセンパイではなく、同じ校舎の下で学ぶ先輩になれた。
あの日のように、レナがいきなりオフ会を持ちかけてくるのだ。会ってみればあの通り、俺とは縁遠い巨乳JK美少女。現実では誰の理解も得られず、俺だけを心の拠り所にしていた。そして同じ学校の後輩であることが発覚する。
そんなレナのことを、俺はなんとかしてやろうとするのだ。お互い子供同士。家に泊めたり、一緒に外を出歩いても社会的に咎められる謂れはない。
そしてレナ姉が、実は同級生だったのだ。先輩後輩の関係とはいえ、男の家に転がり込むなんて許せるはずがなく。レナのことで色々とやりあって、面倒見る権利を勝ち取って、学校生活をキャリーして、色んなところへ連れて行って、同じ屋根の下で二人きりの私生活を満喫する。
自分だけを頼りにしてくれている、可愛い女の子との同居生活。
「そんな人生、楽しいに決まってるじゃねーか」
そしたら子供にだけ許された青臭い感情で、この想いを真実のものだと誤解できたというのに。
あまりにも都合の良すぎる妄想だ。俺だけではなく、レナの姉の年齢まで破綻している。
年齢の話どころではない。そもそも俺みたいのが、レナが通うような進学校に受かるわけがない。なにせ両親があれだから、あんな底辺高校をわざわざ選ぶような子供に育ったのだ。せめて片方だけにでも恵まれていれば、あの頃とは違った俺に……いやいや、そこまで設定を弄ると、それはもう田町創の名を冠した別人だ。妄想というよりはファンタジーだ。
俺とレナ。二人の未来ある幸せというのは、つまりそういうことである。
でも……
「あいつには、幸せになってもらいたいよな」
そう望まずにはいられなかった。
陽の光の下で、あんなにも楽しそうに笑うレナに尊さすら感じていた。
ああ、リスクを背負って連れ出してよかったと、心から思ったのだ。ちょっと前までの俺には考えられない感情である。
俺が死ぬほど嫌いな言葉は責任。
罰を受けるなんて死んでもごめんだ。
だからなるべくリスクを背負わない生き方を選び続けてきた。
でもレナのためなら、そんなリスクを背負うのに重みを感じなくなった。
そういう意味では、この生活で変わったのはレナだけではない。俺の生き方がレナによって変えられたのだ。
たとえ真実のものではないとはいえ、こんなに誰かを想ったのは初めてだ。そして、想われたのも初めてである。
だからレナには幸せになってもらいたいと、強く望んでしまったのだ。
「なって……もらいたいか」
自ら繰り返した言葉に、自虐的に笑わずにはいられない。
幸せにしてやりたいではなく、なってもらいたい。その時点で人任せであり、やはり俺には、誰かを背負う器が備わっていないのだ。
未来を見据えた幸せを与えてやれない。
この先の未来でなにかあったとき、俺は踏ん張ることなく、呆気なく堕ちていくだろう。
だから堕ちるときは一緒だと、約束した。それでもいいなら背負ってやると。
レナはそれで構わないと納得した。俺に背負われ、先のない未来へ進み、ダメだったらそこまででいい。幸せを取り上げられたときは、無敵の人となり家族親戚田中を道連れにすると意気込んだのだ。
現状維持こそが、レナが選んだ幸せだ。それ以外を与えることは、全て独りよがりだと言い切られた。
ならこのまま、レナの望みを叶えればいい。
もうこの先、あまり時間は残されていないだろうけど、レナの幸せだけを満たせばいい。
「はぁ……ダメだ、そんなの無理だ」
今日という一日で、俺の中でレナはあまりにも大きい存在になっていた。
ダメなら堕ちればよかったつもりが、なにもせずにそうなるのが嫌だった。自分一人で堕ちていく分には構わないが、レナまで堕ちていくのは許容できなくなっていたのだ。
「でも、約束したからな」
堕ちるときは一緒だぞ。
その約束だけは違えてはいけない。きっとそれはレナが大切にしているだろう約束だから。その一線だけは裏切ってはいけない。
「……なら、このまま堕ちるわけにはいかねーか」
約束を違えず、かつレナが堕ちないためには、俺も堕ちるわけにはいかなくなった。その上でレナが陽の光の下を堂々と歩める幸せな未来がほしい。
「ったく、これじゃあ欲張りセットだな」
どうやればそんな未来が手に入るのか。
自分の中ではとっくに、答えは見つけ出していた。
これを、レナのためを思って、なんて言葉を使うつもりはない。
これはあくまで俺の望み。
俺の考える最高の文野楓の幸せだ。
それを得るためには、一度、お互い辛くて苦しい思いをしなければならない。でもそれを乗り越えた先には、素晴らしい幸せな未来が待っている。
よく考えれば、社会で幸せになるのはそういうものだ。
受験だったり就職活動だったり、出世争いだったり。辛くて苦しい思いをして、僅かな椅子を掴み取る。乗り越えられたものだけが、限られた幸せを得られるのだ。
社会での幸せを得るための通過儀礼。今まで散々怠ってきたものに、俺たちは挑まなければならい。
「幸せはー、歩いてこない……ってか」
誰もが耳にしたことがあるだろう、いつか聞いたことのある曲。
向こうから歩いてこないのなら、こちらから歩いていくしかない。
元々、今の幸せは危ういバランスで成り立っていたのだ。
レナをこの家で匿い、一年と半年、飛んで一ヶ月。
よくもまあ、ここまで近所に不信がられずきたものだ。ちょっと前には警察やマスコミとかで溢れていたというのに、レナの存在はまるで気取られていない。
しょうがない。なにせなにがあってもおかしくない。ここはそんな家なのだ。
「……今まで、ありがとな」
階段にもたれ掛かりながら、二階を見上げる。
飲み込まれそうな暗闇があるだけで、今まで通りそこには誰もいない。
でも、目に映らないだけで、そこにはきっと今日までレナを守ってくれたなにかがいるはずだ。
「後は、ちょっくら自分で頑張ってみるよ」
乾杯、ともう一度置いたビールに空の缶をぶつけたのだ。
◆
目が覚めると、見慣れぬ天井で映った。
身体を起こすとそれは敷布団。レナに与えている部屋でどうやら眠ってしまったようだ。
頭が痛くて気持ち悪い。
昨晩は一杯目を飲みきった後、流石に身体が冷えたのでキッチンへ引っ込んだ。そこからダラダラと、これからの思索に耽りながら飲んでいたが……さて、結局何杯飲んだのか。いつ布団に入ったのかも覚えていない。
そんなだから二日酔いで、気持ち悪いし頭が痛い。
重い頭を抱えながら、リビングに出る。
「おはようございます、センパイ」
そこにはいつもと変わらぬレナの姿があった。
昨日のことなどまるでなかったかのようで。それが元気な姿なのか、空元気なのか判別つかぬところだ。
「おう、おはよう」
レナの元気さとは対象的な姿で、だらしなくひらひらと手を振った。
顔を洗って戻ってくると、
「どうぞ」
とコップを渡された。
中身の確認もせずに飲むと、いつものはちみつレモン水であった。俺が二日酔いなのはお見通しだと言わんばかりだ。
時間を確認すると、昼間を回った一時過ぎ。どうやら遅くまで、深酒をしてしまったようだ。
「なにか食べますか?」
「軽く食べれるもんで頼む。後、コーヒー。濃いめでな」
「はい、わかりました。少し待っててくださいね」
レナはキッチンへと引き返し、俺の遅い昼食を用意してくれた。
食べた後はダラダラと、同じ部屋でゲームをやったり、動画投稿サイトの新着をチェックしたり、ネットのまとめ記事を見たりと。
そんな、いつもと変わらぬ日常の一幕。
明日の心配や、憂いなどない。そう信じ切っていた、昨日までの毎日。
そういえば今日は平日で、有給を取ってこその休みだったと思い出した、普段なら帰路へ着いている時間帯。
この毎日を終わらせるベルが鳴ったのだ。
俺のスマホにかかってきた着信。画面を見ると『ガミ』と表示されていた。
躊躇いなく電話に出ると、
「今から店に来なさい」
ガミは不躾なまでに簡素に告げた。
「おう、すぐに行く」
だからこちらも簡素に応え、電話を切った。
……案外、早かったな。
手間が省けたとも言えるかもしれない。
レナに視線を移す。昨日のことをなかったかのようにしていたそれが、今にも泣き出しそうになっていた。
「ガミからの呼び出しだ。ちょっと行ってくる」
俺はやれやれと肩をすぼめると、私服を取り出した。レナは金縛りのように動けずいるので、レナの部屋で着替えた。
リビングに出るとレナが待っていた。
電話の意味を察しているのだろう。
立ちふさがるというよりは、戦地へ向かおうとする者に、行かないでと請い願う顔色だった。
そんなレナに近づいて、素通りするでもなく、どけと払い除けることもなく、
「あ……」
思い切り抱きしめたのだ。
こうして抱きしめるのは二度目だが、改めてレナは小柄な女の子だと実感した。なにせあのときは、お互い座っていた。それが立ってするだけで、お互いの差がより際立った。
あのときより遠慮ない包容。レナの小ささ、一部大きさを実感した。
さらさらな髪が撫でていて心地よかった。
吐息を感じるほどのぬくもりが気持ちよかった。
ああ、もう! と叫び出したいほど、人生が狂ったなと嘆息するほどに、理不尽なまでになにもかもが愛おしかった。
あまりにも田町創らしくない感情が渦巻いたことに、清々しさすら感じていた。
いつまでもこうしていたいが、流石にそれはできない。断腸の思いでレナの肩に手を置いて、幸せとの距離を置いたのだ。
「覚悟しておけ、レナ」
泣き出しそうだったその顔。今は突然のことに、ただ呆然としているそれに、
「もう俺は、戦いを前にビビったりしないぞ」
これでもかというドヤ顔で俺は笑ったのだ。
そのまま歩みを進め、レナを背中にしたところで、片手を上げひらひらと振った。
「次会うときは、戦場で会おう」
場の空気にそぐわぬ、道化を演じる低音。
最後に約束を交わしたのだ。
背中にしているその顔が、今どんな風に変化を見せているのか。
目をパチパチとしながら唖然としているのか。
それとも顔を真っ赤にして憤っているのか。
はたまた、なに言っているんだこいつと訝しげにしているのか。
どうやらその答えは、
「もう、敵前逃亡は許しませんよ」
今俺が浮かべているものと同じのようだ。
◆
そうして日常と非日常。それを隔てる重厚な扉。
くぐり抜けた先にいたのは、日常の侵略者ではない。俺たち非日常を正さんとする裁定者だ。
社会的善悪、大義と正義を掲げ、おまえのやっていることは許されないことだ、と裁きに来たのだ。
俺が社会的に間違っているのは決まっている。根っこをいくら掘ろうとも、社会を味方につける術どころか、言い訳すら眠っていない。レナが可哀想だったから、なんて弱者の心に寄り添ったセリフを吐いても無駄だ。
なにせこの社会は、正しい以外のやり方で辛苦を取り除くことは等しく悪である。死に救済を求めるなんて甘えも許さない。なぜなら秩序が乱れるから。秩序が乱れるくらいなら、おまえは一生苦しんでいても構わない。文字通り死ぬ思いで秩序を守り続けなさい、と。
この腐った中身を、綺麗な言葉で整えたものこそが、この社会の正義である。
そんな血も涙もない法の番人、その狗共に襲われれば、俺なんて瞬殺だ。勝ち目なんてまるでない。
でも、目の前にいるのは絶対正義ではない。大義と正義を掲げただけの、家族を取り戻しにきただけの血の通った小娘だ。
勝負は五分五分ですらない。
迎える結末は黙って二つだけ。
それがどう転ぼうとも、最後に笑うのは俺である。
なにせ俺はどうでもいい他人に恵んでやるような、くだらない心なんて持ち合わせていない。
だから俺の考える最高の文野楓の幸せのため、
「昨日ぶりだな、クソ姉」
現実を突きつけて、その心が折れるまでとことんまで追い込んでやる。




