07
本日、本作品の書籍が発売いたしました。
そちらのほうの応援も、よろしくおねがいします!
イルミネーションによって彩られた世界。すっかり日が暮れたというのに、道行く先はあまりにも輝かしかった。
日が高いうちは人混みに目を丸くしたものだが、今はそのときよりも輪にかけて酷い。人波はまさに濁流のごとく。なだらかな流れのはずなのに、川上へ逆らい上るのは至難である。かといって勢いよく下ることもできず、人の流れに身を委ねるように、この足はゆっくりと進むしかなかった。
冷たい冬の夜風。それに震えることがないのは、握られた手がとても温かいから。そんな身体の奥底、心から溢れ出したぬくもりのおかげかもしれない。
わたしが抱いた想いを全て差し出した。
今日まで言葉にすることなく、曖昧にしてきた霞のような互いの認識を、この手に掴める形に成した。それを全てセンパイが受け止めてくれた。
とても嬉しかった。
もう迷いはない。
抱く憂いもない。
後は安らかな思いで、身を委ねるだけでいい。そうしたら明日から、今よりも先へ進んだ幸せが待っている。
「今日はとても……本当に楽しかったです」
思い返した一日を、ただ噛みしめた。
「自分の足で外を歩き回るのが、こんなにも楽しいことなんて。初めて知りました」
幼き頃の幸せな時代。陽の光の下で自由であることが、こんなにも素晴らしいことなんて知らなかった。それが当たり前だったから。あの頃はその素晴らしさを知らなかったのだ。
それは沈むことなき船より大海へ投げ出され、溺れた苦しみを知る者だけがわかるもの。息を自由にできる当たり前が、こんなにも素晴らしいものだと知るのだ。
「楽しんでくれたようでなによりだ。危険を犯した甲斐があったってもんだな」
語尾を強めてセンパイは言った。
わたしたちの対比は、大人と子供。兄妹と見られることはあっても、恋人と見られるにはあまりにも形が悪い。警察に呼び止められたら最後である。
だから今日は、外を歩くときはコートのフードをかぶり続けていた。かつてセンパイのもとを訪れたとき着たもの。五月とはいえ早朝はまだまだ寒く、上着を手放せない。だから東京へ降り立ったときは、あまりの暑さ、そのギャップに震えたものだ。
クリスマスだから男女の二人組は珍しくなく、むしろ木を隠すなら森となった。かといって可能性は低くなっただけ。ゼロではない。こうしている今も、いつ見咎められるかわからない。今日一日、センパイはどれだけ周囲に対して気を張ったのだろうか。
少なくとも今浮かべているのは、ひやひやしたものでも、恐る恐るでもなく、とても満足げな顔だ。わたしが今日一日楽しんだのを心から喜んでくれている。
赤信号で立ち止まる。
「年単位ぶりの外出だ。流石に疲れたんじゃないか?」
「はい、もうヘトヘトです」
「なら、疲れて動けなくなる前に帰らんとな」
「実は帰るのが億劫なくらい、足がパンパンです」
「どっかで休憩していくか?」
センパイは心配そうに気遣ってくれる。
休憩という言葉を待っていた。ただしそれはネタのために引っ張り出したので、少し申し訳なかった。
「だったら、三時間休憩できるホテルでお願いします」
「調子に乗るな」
「ふふっ」
意味をちゃんと読み取って、センパイは苦笑しながら返してくれた。
カッコー、ピヨピヨ。そんな青を告げる音がする。
横断歩道を渡り切ると、無理やり足並みを強いる雑踏は薄れていった。センパイの足は早まることはない。疲れたという本音は読み取ってくれているので、足並みに合わせてくれた。
少し無言が続いたが、そこに気まずさはない。
むしろゆりかごに揺られるような心地よさ。
周囲の目には、こんなわたしたちがどう映っているだろうか? 手を繋いでいるのだから、仲睦まじい恋人にでも見えているだろうか? そうだったらいいなと思う自分がいて、そんな風に思う自分がいることに驚いた。
一閃十界のレナファルトは、どんなこともネタにして、ふざけずにはいられない。陽キャを目の敵にして断罪する刃である。
そんなわたしが、どこにでもいるような女の子みたいな願望を胸に抱いた。大好きで愛している人と、ただ睦まじくありたいと穏やかな気持ちで願っている。
今日のわたしは、自分でわかるほどにいつもと違った。
それはきっと、レナファルトとしての手が動いていないから。この手の役割は握るだけで、想いと感情は全てこの口に乗せたからかもしれない。
センパイはそんなわたしを訝しがることも、おかしく思うことも、そして茶化すこともなく接してくれた。だからこんなにも自然に、素直な心で臆することなく楽しめたのだろう。
なら、今日という日くらいは最後まで、この気持ちに突き動かされるがまま、素直でいよう。
駅構内への出入り口。地下へと下りるため、センパイはエスカレーターを選んだ。でもその手を引いて、わたしは階段がいいと態度で示した。なにせエスカレーターは幅一人分しかない。この手を一時も離したくなかったのだ。
「センパイ」
それは自然と漏れ出た言葉。
「来年もまた、二人で来ましょうね」
今の幸せは、社会に背を向けているからこそ得ているもの。最小単位の社会に引きこもり、社会の目に映らぬからこそ、維持できた日常だ。
そんな不徳ものがこの幸せをもう一度、来年に望んでしまったのだ。
楽しい明日だけを望み、未来のことなんてなにも考えていないというのに、今更都合のいいことを。
――だからだろう。
調子に乗った愚か者への罰がくだったのは――
階段で下るより早い足で、エスカレーターは乗員を地下へと送り込む。この目に飛び込み、見つめ合ったのはそんなすれ違った者の一人。
「え……」
喉が震えた。
なんで……なんで、なの?
わかっている。センパイのもとで幸せを満たす人生を選んだわたしに、明るい未来なんてないことくらい。その終わりは一年後か、半年後か、一ヶ月後か。はたまた……明日なんてこともありうる。
それでも……よりにもよって、今日でなくてもいいではないか。
せめて今日だけは、楽しいままで終わりたかった。幸せな日として思い出に刻みたかった。
これが陽の光のもとを歩み、幸せを謳歌した代償か。
社会の集合的無意識が『よくもルールを破ったな』と、
「姉、さん……」
一番辛くて苦しい形をもって裁定がくだしたのかもしれない。
◆
家までの道筋は覚えていない。
覚えているのはただ、センパイの手を取り、その場から逃げ出したこと。車に乗っていたような気もしたし、電車に揺られた気もした。
気づけばわたしは、こうしてセンパイの布団に潜り込んでいた。
それこそ悪い夢から覚めたようであり、ずっと見続けていたかった夢から醒めたかのように。
今の格好は家を出たときの着のままではない。シャツとショートパンツという、就寝前のラフな格好だった。肌のベタつきがないことから、どうやら無意識で汗を流してから着替えていたようだ。
部屋の明かりは灯されていない。ただリビングの光が薄っすらと、閉じきったふすまの隙間から差し込んでいた。
そんなふすまが、ふと開いた。
「……センパイ?」
「なんだ、人のベッドに潜り込みやがって」
部屋着姿のセンパイは、おかしそうに言った。もしかしたらシャワーを浴びてきたのかもしれない。
そうだった。
今日は楽しいだけのお出かけじゃない。センパイと一つになって、明日からまた、新たな幸せな日々が始まるのだ。
ああ、本当に……なんて楽しみだろうか。
センパイはベッドに腰を下ろした。
ゆっくりと、慈しむように、その手が頭を撫でてくれた。
その顔はわたしを見下ろすことなく、ただ物思いに耽るよう中空を見つめている。
いつまでも、いつまでも、その手は優しいままで。なにも進まぬことに焦れったさを覚え、わたしはその手を取った。
「ん……ぅ」
人差し指に口づけをする。
ついばむように、唇でその感触を確かめる。
わたしの指とはまるで違う、ゴツゴツとした指先。それがとても、今は愛おしかった。
どれくらい、そうやっていただろうか。
いつまでもアクションを起こさぬセンパイに、ついに痺れを切らしてしまった。
「ビビってるんですか?」
寝言のような声音で、センパイを煽ったのだ。女性とは無縁の人生を送っていたこと揶揄するように。いざ戦場を前にして、心神喪失したのかと。
こう煽られて黙っているセンパイではない。きっと強気な発言をするはずだ。それをわたしは、更に煽り立てるのだ。
軽口の応酬の末に、引けぬほどにセンパイを追い詰めて、後はもうなし崩し。わたしたちの攻城戦は始まるのだ。
まったく、子供にここまでお膳立てさせるなんて……世話の焼ける人だ。と、わたしは心の中でくすりと笑うのだ。
「ああ、ビビってる」
なのにそうなることなく、センパイはあっさりとわたしの煽りを受け止めた。
「ほんと、参ったよな」
困ったようにその横顔は苦笑いを浮かべていた。
「一回くらい大丈夫だろって、引き金を引いてみたらこのざまだ。まさか一発で当たりが出るなんてな」
センパイは嘆息をついた。
「御天道様の下でルール違反は許さんぞってことか。こうやって逃げ切れたのはいいが……ここで新たなルールを犯すと、今度こそ『テメェは許さん』って家まで怒鳴り込んできそうだ」
やれやれと、センパイは肩をすくめた真似をする。
それがどういう意味を示すのか。
「……いいじゃないですか。そんなの、今更です」
察したわたしは縋るように喉を震わせた。
「わたしと、社会のルールを破ってください」
「俺は保身に走ることに関しては一流だからな」
センパイは自らの在り方を引き合いに出し、
「嫌な予感がする内は、ルールを守って様子見だ」
これからの予定を白紙にしたのだ。
啄んでいるその指が離れていく。
ポン、とまた頭にそれが置かれた。
優しく、優しく、ただ慈しむように優しく撫でる。
「うっ……ぅ、あっ……」
今はその優しさがあまりにも愛おしくありながら、涙が出るほどに厭わしかった。
「センパイの……バカ」




