06
唯一わたしの問題に向き合ってくれた姉さん。必死になってわたしを導こうとしてくれたのはわかっていた。でも、いつだって姉さんは同じことしか繰り返さない。どれだけ優しくても、提示する解決手段は同じだった。
学校へ行きなさい。通い続けている内に、わたしが抱えている問題は解決する。
わたしのことを世界一想ってくれていたのはわかっていた。
でも……ほしかったのは未来を思う優しさではない。
昔みたいに手を引いて、甘えさせてほしかった。
姉さんは憧れの人で、わたしがなりたい偉大な目標だった。そんな人がわたしを想ってくれているのに、なんで自分のことをわかってくれないのか。自分が悪いのはわかっていても、それを棚に上げた胸の内で、いつしか恨み言すら吐くようになっていた。
けど、わたしは忘れていたのだ。
「ぁ……うっ、ぅ」
その事実に喉が震える。
それは決して辛いからではない。
かといって苦しいからでもない。
「姉さんも……ただの子供だったんですね……」
そんな真理を与えられて、救われた気持ちになったからだ。
姉さんもまた、わたしと変わらぬ子供である。
だからわたしを導こうとしてくれるその手には、始めからわたしを導く術など宿りようがなかったのだ。
重力に引かれるがまま、頬に流れる雫。それは空に広がる世界から滴り落ちてきたものではない。
それはずっと深く、この胸に突き刺さっていた棘。
「うっ……う」
そこから流れ出たものが、目頭から溢れたのだ。
センパイの胸に顔を寄せる。それはかつてのように飛び込むものではない。その胸元を置きどころにしたのだ。
「センパイ……」
棘が抜けた今ならわかる。
「わたしはずっと……勘違いしていた、みたいです」
あんなにも辛くて苦しかったのは、
「大好きな姉さんを……」
姉さんがわたしのことをわかってくれなかったからではない。
「嫌いになっていくのが、辛くて……苦しかったんです」
吐き出した言葉と共に、感情が濁流のように棘の穴から流れ出した。
わたしを苛んだ辛苦は、大好きなお母さんを喪ったときと似たもの。大好きな姉さんを失い、大好きだったという過去となった。
勘違いが正された今なら、それはもう過去のものではなくなった。
もう姉さんを恨まなくていい。
それが今日センパイから与えられた、なによりの希望だった。
◆
そうしてレナは泣き出した。
決して叫ぶそれではない。ただ、堪えきれない感情に突き動かされるがまま。静かな嗚咽を漏らしている。
そんなレナの顔は見えない。小柄な体躯が、この胸の中に収まっているから。けれどかつてのように抱き合っているのではなく、胸を貸すような形だ。
泣き止んだのは、そうやって五分ほどか。
ひとまずレナは落ち着いた。その顔を上げたとき、赤く腫らした目でありながらも、清々しい微笑が広がっていた。
水槽越しに差し込む夕暮れ色が、その顔にとても映え綺麗だった。
……と、レナの容姿も伴い絵になる光景なのだが、水族館は俺たちの貸し切りではない。人目を引いてしまっている。
俺たちの間に流れているのは険悪ではなく安穏としたもの。周りには正しい形で映ってくれているようで、その視線はクリスマスを満喫しているなと微笑ましい目が送られている。
悪い風に映ってはいなくても、俺たちのセットは注視されたくない。はにかむレナの手を引いて、引き返すように屋内へと撤退したのだ。
そうやって後は、ゆっくりと館内を見て回った。
一つ一つの水槽、展示物に逐一足を止めながら、物珍しそうかつ楽しそうに見ているレナ。それに倣うようにしながらも、俺の意識は水槽に向いてはいなかった。
かつて俺は、レナに姉の元へ帰る道を示した。でもレナはそれにかぶりを振った。
現実には帰りたくない。
楽しいだけに引きこもりたい。
一閃十界のレナファルトのままでいたい。
今更開かれた未来に希望を見出すことなく、社会に復帰する道を拒んだのだ。
でも、今同じことを繰り返したら……と思ってしまった。
文野楓としての人生の分岐点。それを分けたのは父親にくだされた宣告ではなく、姉への想いである。
その想いが足りなかったから、レナは姉に助けを求めることなく、俺の元を訪ねてきた。 姉とやり直す手段、道を差し出されても、俺の元を離れなかった。
けど、その想いを取り戻した今なら?
ぐるぐるぐるぐると、それを口にするかどうかを決めあぐねている。
楽なほう楽なほうへと、選択することなく流される。その積み重ねが今こうしている、俺というろくでもない大人だ。レナも自ら選び、納得している今の道を、わざわざ切り替える必要なんてないではないか。
「なあ、レナ」
でも……レナのことを本当に想うならいう自分が、
「前と同じことを聞くが」
気づけばこの口を突き動かしていた。
姉の想いと共に、姉妹の関係を取り戻した先。高卒認定を取って、日本一の大学へ行って、沢山友達を作って、仕事ははて……どんな業種を選ぶのかはわからぬが、自身で選んだ道なら必ず上手くいくだろう。そして、いい出会いを見つけて……なんて。
誰もが羨むよな、社会の成功者としての人生が待っている。
俺みたいな奴の隣にいたら、待っているのは精々破滅くらいなものだ。
本当にレナのためを想うなら、その道を示すべきだし……そんな未来に進んでほしいと想っている自分がいたのだ。
なにせ陽の光のもとを歩いたレナは、あまりにも眩しく輝くのだから。いつまでも日陰の地に置くのは勿体ないと思ったのだ。
「これからおまえは、どうしたい?」
「このままがいいです」
悩む素振りを見せずレナは答えた。
「わたしは帰りたくない」
あのときと同じ答えを繰り返した。
姉への想いを取り戻したとはいえ、現実への希望まで抱いたわけではない。
だから現実には戻りたくないと、あのときと同じくその口は告げる。
「だって、大好きだから」
そう確信すらしていたのに、
「愛しているから、あなたの側を離れたくありません」
まるで違う答えがもたらされた。あまりにも穏やかな微笑みで、愛おしげに見上げてきた。
初めて向けられる異性からの好意。
世界で一番可愛いと思っている女の子から、まさかの恋愛感情を告げられたのだ。
胸が高鳴った。今すぐに抱きしめて、その唇を重ねたい。その衝動が胸の底から火山のように湧き上がった。
「レナ、それは……」
そんなことはない。
レナの好意を疑ったわけではない。嘘偽りない想いを告げてくれたのだ。抱いた恋と愛を差し出してくれたのだ。
けれどその想いは勘違い。レナのためを想うのなら、その正体を正しく教えなければならない。
「わかってますよ。この想いが、真実の恋や愛でないことくらい」
でも、そんなのは俺が今更教えるものではなく、
「未来のことを考えた優しさではなく、その場しのぎの甘さだけを与えてくれる。それを、この人だけはわたしのことを理解してくれる。自分にとってあまりにも都合のいい人だから、こんなにも慕って、抱いてしまったこの想い。
社会はこれを、依存心だと定義している。ちゃんと、わかってますよ?」
自らに宿った想いを正しい形で捉えていたのだ。
「でも、それは陽の光の下にある社会定義。わたしが久しく属していない、現実社会の定義にすぎません」
だからレナはその先まで考え抜いていた。
「わたしが今属している社会は、センパイと二人きりの最小単位。ルールもモラルも全て自分たちで決めてきた治外法権じゃないですか。だからこの社会に属している限り、この依存心は真の恋や愛。わたしがそう定義したんです。現実社会の定義なんてクソくらえです」
その小さく、愛らしい顔にはおよそ似つかわしくない言葉を操って、レナは現実社会の定義を踏みにじっていたのだ。
悪戯っぽい口ぶりで、けれどその覚悟は本物だった。
佇まいを直して、レナは改めてこちらに向き直った。
「かつてのわたしは、楽で楽しい幸せを手放したくないから、センパイのもとから離れませんでした。でも今は――」
柔らかなその手に力が入った。
「大好きだから、愛しているから。あなたと共に、幸せになりたいんです」
その顔は願い請わんとするものだった。
「お願いです、センパイ」
この先に明るい未来なんてあるわけがない。
「あなたの考えているそれは、わたしの幸せではありません。ただの、センパイの思う最高の文野楓の幸せです」
だから明るい未来を示してやりたかったのに、
「どうかそれを、わたしのためを思って言っているんだと、言わないでください」
レナは独りよがりなことは止めてくれと望んだのだ。
これが未熟な子供なりに精一杯考えた答え、その結論。自ら宿った想いを満たすため、こんな俺と共にあることこそが自分の幸せだと言ったのだ。
「わかったよ、レナ」
ふっ、と息が漏れた。
レナの意思は揺るがない。
どれだけ道を示しても、それはレナの望むものではない。自ら選んだ幸せを否定し、取り上げる行為でしかないと悟り、
「この先なにがあっても、おまえのためを思って言っているんだ、なんてことは言わないよ」
それ以外の幸せは、俺自身の望みだと自覚したのだ。




