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「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
十二月、その始まり。
いつものようにセンパイを労うと、ジャケットを受け取った。浴室へ向かう背中を見送り、センパイが帰宅後のルーティーンワークをこなしていく。今日は金曜日だから夕食はいらない。代わりにはちみつレモン水を用意するだけで、この日の職務は終わったみたいなものだ。
就寝までの居場所は、今やすっかりとセンパイの部屋で落ち着いている。そこでシャワーを終えた部屋着姿のセンパイを出迎え、
「今週もおつかれさまです」
「おう」
改めてねぎらいの言葉をかけたのだ。
机に用意していたハチミツレモン水を、センパイは一気に呷っていく。一度も口を離すことなく中身は空となり、そのまま背中から倒れ込むよう椅子に腰をおろした。
「パァー!」
「今日は早かったですね」
一息ついたのを見計らい問いかける。
ガミさんのお店に寄る金曜日は、短針が高いところを回るとは言わずとも、横向きになるのは珍しくない。それがまだ八時を回ってない。
「ああ。ガミに店を追い出されたんだ」
「追い出された?」
「クルミちゃんの前で、口を滑らしかけてな。今日のところは帰れって言われちまった」
センパイは失敗を思い起こすかのように苦笑した。
クルミちゃん。ガミさんのお店の常連である女子大生。ちょっとした縁があり、お店ではお酒を飲み交わす仲となっているようだ。底辺社会人たる自分には、不釣り合いなほどの陽キャ美少女だと言っていた。
それがまさか、姉さんに繋がる人だと明らかになろうとは。
来宮まどか。小学生から続く姉さんの親友。まだお母さんが生きていた頃、家に遊びに来たまどかさんとは、何度も会ったことがある。人見知りであったわたしは挨拶だけで、ほとんど話すことはできなかった。
今回、わたしを探すのに動き出した姉さんの情報をもたらされたのもまどかさんから。意外なところから姉さんに繋がる、リスクが生まれてしまった。でもセンパイは下手に避ける道よりも、姉さんの動向を窺うのも兼ねて、これまで通りの距離を保つことを選んでいた。
それが五月のこと。危なげなく接してきたようだが、ここに来てセンパイは下手を打ちそうになったらしい。
「あの、その……」
「大丈夫だ。おまえの存在を匂わせる真似まではしてない」
不安を隠しきれずにいるわたしに、センパイは片手をひらひらと振った。
それでも一抹の不安は消えない。まどかさんはわたしたちの関係には危険な人だ。できるのであれば、姉さんの動向を窺うのはガミさんにお願いして、もうまどかさんとは会ってほしくない。
「なによりガミが、世話を焼いてくれたらしくてな」
そんなわたしの思いを感じ取ったのが、センパイは安心しろと言うように笑った。
「俺のいる時間にはもう来るなって、クルミちゃんを諭したらしい」
センパイはスマホを取り出し、強調するよう振って見せた。
「陽キャJD美少女と酒を酌み交わすのは、楽しいイベントだったんだがな」
自らしてきた行いを省みたのか、その笑みは自嘲的だ。
「危ない橋を渡り続けるのが、そもそも俺らしくなかったんだ。……ま、潮時だな」
あっさりとそう言い流したが、その横顔はどこか寂しそうだった。
お店内だけとはいえ、まどかさんとは親しくしていた。センパイは勘違いしないよう自制していたようだが……見方によっては出会いと再会がドラマ的だから。あるいは……なんて思わないでもなかった。
まどかさんは姉さんの親友として、堂々と隣に立てる人だ。そんな人に慕われたら、男なら楽しいし嬉しいに決まっているだろう。センパイの来歴を考えるとなおさらだ。
だからこうなって、ホッとしたと同時に、嬉しいという感情が湧いていた。
「それはそれとして、レナ」
「はい?」
「クリスマスのことだが」
「……っ」
いきなりクリスマスの話題を出され動揺した。
あのときは羞恥心もなくセンパイに勝る勢いだったが、就寝後になってから我に返り、布団の中で何度も悶えた。煩悶は一晩だって収まることはなく、毎日のように抱えている。予定は未定ではなく、確定しまったから日毎にもどかしさが募るばかりだ。
クリスマスという言葉を、センパイの口から出てきただけで、お腹の奥から熱が込み上がってきた。
「どっか、遊びに行かないか?」
「……え」
でも、その熱は頬に達する前に落ち着いた。
「えっと……どこにですか?」
「はるばる北の大地から、東京にやってきたんだ。行ってみたい場所くらいないのか?」
「行ってみたい、場所……」
この家に来てから、そんなこと考えたこともなかった。
だってわたしはこの家から出てはいけない。わたしのような子供が、この家を出入りしているのを周りに知られるわけにいかないから。出入りの数だけリスクは増える。それこそたった一回で足元を踏み外すほどに。
「でも、なんで?」
リスクを誰よりも厭うセンパイの口が、なぜそんなことを急に言い出すのか。
「おまえのメイド王っぷりには助かってるからな。こんだけの世話、やってもらって当たり前と思うほどバチ当たりじゃないってことだ」
センパイは満面な笑みでもなければ、ニヤついたものでもない。
「折角の機会だ。こういうときくらい羽を伸ばして遊ぶのも悪くないだろ」
「あ……」
心地よいほどに穏やかな表情に、ドキリとした。
わたしたちはクリスマスに一線を越える。これはセンパイではなく、わたしから望んで言い出したこと。センパイはその見返りなんて用意する必要はないのだ。新たなリスクを背負うような真似ならなおさらである。
それなのに、センパイは折角の機会だと言った。
わたしたちにとって、特別となる日。その日をもっと、楽しいものにするために。
……それはきっと自分のためではない。わたしのために、外に連れ出したいと望んでくれたのだ。
「大盤振る舞いだ。夢の国でもスカイツリーでも、どこでも連れてってやる」
その想いが、ただ嬉しかった。
それこそ声にすると喉が震えそうなほどに。手を動かすことで誤魔化した。
『今、どこでもって行ったっすか?』
「言っとくが、常識の範囲内だからな」
『なら都内のタワマン八十五階で、ディナーと洒落込みたいっす』
「そんな場所はこの世にない」
『センパイって車の免許ありましたっけ?』
「電動ランボルギーニでフルパワー閉扉でもしたいってか」
『ネタを潰すの止めろ!』
「ま、その調子で考えといてくれ」
ケラケラ笑いながら、センパイはパソコンモニターに顔を向けた。
遊びに行きたい場所。
元から引きこもり体質のわたしには、そんな場所はすぐに思い浮かばない。有名な観光スポットや娯楽施設にも心は強く引かれない。人混みが嫌いなのだからなおさらだ。
それでもこの胸は踊っていた。
同じ屋根の下で過ごしながらも、センパイと遊びに行くというのが、どこか夢みたいだったのだ。
それからの毎日は、クリスマスの観光スポットやイベントを調べてばかり。そのどれもがわたしたちには不釣り合いで、興じているのが想像できず。それでもセンパイと計画を立てるのは、それだけで楽しかった。
時の流れが長いようで早く。
抱いていた煩悶はすっかり影を潜め、ただただその日を心待ちにしていた。
それは穏やかな春の午睡のようで、とても暖かで幸せな時間だった。
◆
玄関で腰を下ろしながら、足元に手を伸ばした。
紐を固く結んだ靴。足はすっぽりと収まり、窮屈さは感じられなかった。かつてのような履き心地でよかったと捉えるか、はたまた成長していないことを悲しむべきか。悩ましいところである。
そんな感慨に耽っていると、
「レナ」
目の前に手が差し伸べられた。
頭を上げると、そこにはセンパイの顔があった。それがいつにも増して優しげで、この胸には憂いも不安もなく、その手を握るのに躊躇はなかった。
わたしよりも大きな、ゴツゴツとした男の人の手。それに惹かれるがまま立ち上がると、センパイから込められていた力がスルっと緩んだ。
ふと、悪戯心が湧いてしまった。
握手のように握られた手を、この指で絡め取ったのだ。
「っ……!」
面食らったその顔がおかしくて、くすりと笑ってしまった。すぐに気を取り戻したセンパイは、しょうがない奴めと言うように苦笑していた。
かつて、おどろおどろしさを感じながら飛び込んだ口。それを今、手を引かれるがままに抜け出した。
「あ……」
思わず空いた手を頭の上にかざす。
かつて逃げ出した陽の光。その下にこの身をさらけ出したのは、実に一年半以上久しく。懐かしさを覚えるほどに眩しくて。
――その日をもって、わたしは夢から醒めることになるのだった。




