09
可哀想な人、という形に当てはめられるほど不幸ではない。センパイみたいな人は、この社会では珍しくはないのだろう。同情されるほどの人生でもないと、本人は思っているかもしれない。
それでも幸せな時代があってほしかった。幸せを分かち合う相手がいてほしかった。いっそ大きな挫折でもあれば、まだ傷を舐めあえたかもしれないのに。センパイには傷を負う余地すらなかったのだ。
頑張らなければいけなかった理由はあっても、頑張りたい理由が一度としてない。
こんなわたしでも、本当の幸せを知っているから。センパイがそれを知らないのが、とても悲しかったのだ。
『センパイが桃色とは無縁なのは知ってたっすけど、まさか友達ゼロ人だったとは。画面と向き合い続けてきた青春は、まさに無味乾燥な日々っすね』
「おまえ、ブーメランって知ってるか?」
『友だけではなく愛する者も得られず、ネットに毒され続けた子供時代。純真だったその心はいつしか歪み、他者の幸福に僻み妬みを募らせるようになった。その果てにリア充陽キャの不幸を願い請うさまは、まさに人の心を失ってしまっている』
この手は自然と、いつものように動いていた。
『まさに聞くも涙語るも涙な、陰キャモンスターの誕生秘話っしたね。自分、涙がちょちょぎれんばかりに悲しいっす』
「もう一度聞いてやる。おまえは俺をなんだと思っている」
『クリスマスが近づくと、必ず呪術師に転職する人』
「クリスマスは本来、家族と過ごす大事なイベントだ。それがこの日本じゃ、恋人と過ごす日。それができない奴は、負け組なんて価値観が根付いてやがる。その本質を忘れるどころか知ろうともしない有様だ。悪貨は良貨を駆逐するとは、まさにこのこと。正しい文化を後世に残すことが、正しい社会の在り方だ。そんなクリスマスを勘違いした奴らには、失敗と祝福あれ」
『失敗と祝福?』
「性の六時間に生の誕生」
『流石クリスマス負け組の常勝無敗』
今動いているのはレナファルトの手でありながら、突き動かしているのはレナファルトの思いではない。
『素直に破局を望まない辺り、祝福の捉え方がひねくれてるっすね』
なにせレナファルトはお調子者すぎるから。そんな望みを自ら得ようとしても、手が止まってしまうのだ。
『でも今回は、祝福は望まないほうがいいっすよ』
「なんでだ?」
『今年のセンパイは勝ち組っすから』
「は?」
肩越しに振り返るセンパイの目を、正面から真っ直ぐと捉える。
……うん、大丈夫そうだ。
これなら臆することなく、日和ることなく告げられる。
『だって』
むしろどんな顔をするのだろうと楽しみですらあった。
その感情を堪えることをせず、
「センパイには、わたしがいますから」
吃ることなく、文野楓としてこの口は動いてくれたのだ。
センパイの目が大きく見開かれた。
わたしの口から告げた言葉、その意味をすぐに受け取ったのだ。レナファルトの手が起こしたものではないからこそ、思惑を測りかねているのかもしれない。
吐息すら漏らさず、ただわたしたちは見つめ合う。それこそ逸らしたほうが負けみたいな空気感。いつもならわたしが負けるところだが、今日は負ける気がしない。
「あっ……と」
先に喉を鳴らしたのはセンパイだった。重たいほどではないが、それでも空気に耐えられなかったようだ。わたしが口にした意味と共に、気恥ずかしさに飲み込まれたのか。その顔が紅潮していく様すら見せてくれる。
自らの放熱を感じ取ったのか、センパイはモニターに顔を向けた。その姿がどこかわざとらしく、
「ふふっ」
勝った、なんて満足感が湧いてきた。
わたしにとって、センパイは特別な人だ。自らに宿った依存心を、真の恋や愛と定義するほどに。
これはセンパイが楽で楽しいだけを与えてくれるからこその想い。身勝手な自己愛に過ぎない。唇を合わせたいのも、身体を重ねたいのも、盲目的に恋人ごっこに耽って、戻れないところまで依存したいだけ。それがセンパイの欲望を満たすのに繋がるのなら、後ろめたさを覚える必要がない。お互いの望みを叶えるのに、凹凸が綺麗にはまっただけの話である。
でも、今は違う。
わたしはわたしの幸せのためではなく、センパイの幸せを望んでいた。
与えてあげたいなんて、偉そうにするつもりはない。押し付けがましくしたいわけでもない。
欲望を満たすのではない。人と人の間でこそ生まれる幸せ。あれがどれだけ素晴らしいものであるかを知っているから、センパイにも知ってほしかった。
堕ちるときは一緒。そんな人生を選ばせておきながら、頑張らなければいけないではなく、センパイの頑張る理由になりたかった。
そのためにはまずは、形から入りたいと思ったのだ。
『センパイ』
なにかの拍子であっけなく崩れ去るほどに脆い足元。そんな道を進んでいるのだから、明るい未来なんてきっとない。踏み出しているのはいつだって、不確かな明日だけ。いつ醒めるかなんてわからない。
それでもわたしはこの人の側でいつまでも、
『今年のクリスマスは楽しみっすね』
「……そう、だな」
ずっと、終わらない夢を見ていたい。
この素晴らしい夢を、改めて願ったのだ。




