03
レナの首が僅かに動く。
こちらを見上げるまどろんだ目。唇の次は、その水気を帯びた瞳に目を奪われる。
レナはどうやら、未だ夢心地なのだろう。
俺の指先を両手で包み込むと、
「んっ……」
唇でついばんだのだ。
はむはむと甘えるような唇の感触が、波のように指先を刺激する。心地よさを通り越して、その刺激は官能的であった。
手を引いて何事もなかったかのようにレナを起こす。それが正しい選択であるのはわかっているが、メドゥーサと睨み合ったかのように身体が動かない。
そうやって身を任せるというよりは流されていると、指先は少しずつ、奥の方へとくわえ込まれていく。ついには唇とはまた別な、柔らかな感触と共に水気に感じたところで、
「……あ」
醒めた音が耳朶を打った。
まどろんでいたレナの薄目が、今やハッキリと見開かれている。
俺の硬直が伝染したかのように、レナは微動だにしない。まるで時間が止まったかのようだ。しかし時間停止モノのAVの9割以上がヤラセである。レナはその多数派の存在であり、
身体は微動だにせずとも時間は確実に動いていたのだ。
レナの顔が秒単位で赤くなっていく。
超能力者ではない身であれど、今のレナの思考を言語化するのはあまりにも容易いものであった。
『くぁwせdrftgyふじこlp』
◆
「とりあえず風呂入ってくるから、それまでにふじこった頭を冷やしとけ」
それだけを言い残し、センパイは自分の部屋を後にした。自らのベッドで眠りこけていた闖入者を、追求することなく恩赦を与えてくれたのだ。
自宅警備員の本質を取り戻すかのように、すぐに自らの部屋に引きこもった。わたしの部屋はセンパイの隣室。隔てるのはふすま一枚だけ。薄くともその一枚が、今はなによりの精神安定剤だ。
犯した醜態。何度首を振るっても記憶から抜け落ちてくれないし、一層脳裏に刻み込まれてしまう。
心臓は早鐘のように鳴り響き、顔にはその熱が一層高まっていく。
センパイの指先の感触が唇から離れない。心を落ち着かせるため忘れたいのに、心の底が惜しんでいるかのようだ。
ふと、気づけば人差し指をくわえていた。
「うっ……!」
慌てて唇から指先を離す。
無意識下の行動。なぜこんなことをしてしまったのか、すぐに自己分析ができてしまう。
比べていたのだ。自分のものとはまるで違う、ゴツゴツとしたあの感触と。
ジッと指先に目を落とす。
こんなことをして、気持ちが落ち着くわけがないとわかっている。それでも底なし沼にはまったかのように、変な思考から抜け出せずにいると、
「ふぅ」
隣室からの声でようやく我に返ったのだ。
プシュ、という音に続いてゴクゴクと喉が鳴っている。行水を終えたセンパイが、どうやら一杯始めたようだ。
それを呼び水にして、この手はキーボードの上を走り出していた。早く言い訳をしたいと心が逸ったのだ。
『外が騒がしくなったのは、四時くらいっすね』
だから第一声となるメッセージが、突拍子がないものになったのだ。
「ついさっきのことじゃねーか」
けれどセンパイは、ちゃんと話に応じてくれた。あの醜態にはわけがあり、その説明のため順序を踏んでいると受け止めてくれたのだ。
『パトカーが近隣で止まるのは稀によくあることっすけど、ここまでのサイレンの大合唱は初めてっしたから。外の様子を見に行けなくても、ただ事じゃないのはすぐにわかったっす』
「実際ただ事じゃないからな。ホラーハウスに住み着いてから、一番の惨事だ」
『ついにお迎えが来たのかと思ったっす』
「それな。今回ばかしは、流石に肝を冷やした」
『チャイムがしつこいんで、マジで戦々恐々。庭にまで回ってきたときは、ガチで焦ったっすね』
「エアコンの室外機が動いてるからな。向こうも誰かいると思ったんだろ」
『ま、実際いたのは間違いないっすからね。あんときは自分の部屋までの距離が、千里にも感じたっすよ』
長文は言い訳がましく感じるので、一度区切って送信した。
『そういうわけで、近くのベッドに緊急避難。気配を押し殺しながら、気づけば震えて眠ってたっす』
「ああ、そういうわけか」
センパイは得心がいったようだ。腑に落ちた声を鳴らしている。
わたしが頭から布団をかぶっていたのは逃げるため。なにかと問われれば現実から。あのチャイムはまさに、夢を醒ます警鐘に聞こえたのだ。
わたしがなにより怖いのは、夢から醒めること。その先にある現実だ。それから目を背け耳をふさいでいる内に、意識を途絶えていた。
次に目を覚ましたとき、夢か現かわからぬまま。あのような醜態を晒してしまったというわけだ。布団に潜り込んだ経緯はともかくとして、それについては弁解の余地はない。
『そういうわけですみません。ご飯の用意できてないっす』
だからその追求されたくないので、矛先を逸らす。
「それは仕方ないから気にすんな。あれだけ外に警察が湧いてるんだ。呑気にいつも通りにしているほうが問題だ」
『そう言ってくれると助かるっす』
「今日のところは、弁当でも買ってくるからゆっくりしてろ。あ、それともピザでも頼んでみるか?」
わたしの精神状態を慮って、センパイはそんな提案をしてくれる。
その気遣いはとても嬉しい。今日くらいは甘えてみようと思ったが、その考えにかぶりを振った。
『そんな贅沢不要っすよ』
食費を預かる身として、それは許せないと心が叫んだのだ。
『幸い、冷凍ご飯のストックはありますから。そのおかずくらいなら、パパっと作れるっすよ』
「大丈夫か? 無理はしないでいいぞ」
『モーマンタイっす』
精神ダメージはそれなりにある。それでもジッとしているよりは、動いているほうが気持ち的に楽なのだ。
冷蔵庫の中身を思い浮かべ、使いたい食材をリストアップしていく。その先ですぐに作れる料理を考える。炒めものか、丼ものか、いっそチャーハンか。
そうやって頭を切り替えていた先で、
「あ……」
今回の根本的な問題を思い出した。
センパイはその答えを知っているであろうことは、先程の会話の中でわかっている。
『そういえばセンパイ』
遠慮するほどの問題でもないので、ここは黙って聞いてみた。
『外のあれって、結局なにが起きたんすか?』
「ああ、あれな」
ホラーハウスに住み着いてから、一番と言った惨事。
「向かいの家の子供が、家族親戚を皆殺しにしたんだってよ」
センパイはよくある事件を語るように、なんともなさげに告げてきたのだ。




