01
大変おまたせしました。
第二部開始です。
我が誇りたるこの胸の内を支配しているのは、奪われたことによる悲哀ではない。
たどり着くはずだと信じていた未来が、この手に落ちてこなかったことによる失意。そして虚無感であった。
神童たるわたしがあれだけの最善を尽くしながらも、なぜこのような終わり方を迎えてしまったのか。
わたしは自らの行いすべてを棚に上げられる生き物だ。ただし今回ばかりは、責任転嫁の必要はない。わたしに非があるとあげつらう者はいないだろう。
ああ、だから。
こんなにも虚しい思いをしているのは、全部全部全部――
「センパイの……バカ」
堕ちるときは一緒だぞ。
そう誓ってくれながらも、なにもしてくれなかったセンパイが悪いのだ。
◆
遡るは数時間前。
衝動を抑えきれず飛び込んだ胸元。慈しむように頭を撫でられながら、わたしはセンパイと抱擁を重ねていた。
自分にとって都合がいいからと、胸に抱いたこの想い。社会はこれを恋でもなければ愛でもない。ただの依存心と定義している。
でもそんな定義など、わたしには関係ない。母を亡くしたあの日から、レールから外れてしまった。だから皆が尊ぶ社会に属していないのだ。
わたしの社会は、センパイと二人だけで完結している。自分たちのことは自分たちで決まればいい。
だからわたしは、社会では依存心と呼ぶこの想いを、真の恋や愛だと定義した。
盲目的に大好きでいればいい。
無条件に愛するだけでいい。
それだけで楽で楽しいから……心から込み上がるこの幸せが証明していた。
それこそこの時間が永遠に続いて欲しいと願うほどに。わたしは人生の幸福というものを享受していた。
でも、それは一時の衝動にすぎない。
「センパイ……」
この先へと時間を進めたい。そう示すように、センパイの胸元から顔を上げた。
「わたしは……あなたに会う前から、未来を捨てていたんです」
「俺と会う前から?」
「死ぬつもりでした」
センパイは驚くように目を見開いた。予想通りの反応に、わたしはくすりと笑ってしまった。
「未来に問題を投げ続けて、人生がいよいよ詰んで……これ以上はどうにもならない。わたしにはもう……無敵の人となる道しか残されていませんでした」
「そこは一人で逝くところだろう」
「黙って一人で逝く選択肢なんてありません。なるべく多くの道連れを作って、この名を歴史とwikiに刻むつもりでした。そのまま家族親戚田中道連れです」
「また、とんでもない選択肢だな。田中が理不尽すぎる」
「一閃十界のレナファルトの名にかけて、そこだけは譲れませんから」
「まったく……そんな理由で道連れを増やそうとして。おまえは人の命をなんだと思ってるんだ」
「だって……ここで田中を道連れにしたら、絶対に面白いじゃないですか」
センパイはへの字の眉を見せてくる。困った子供に、呆れた奴だと笑うそれだ。
「でも……そんなときに唯一の心の拠り所を思い出したんです。顔も声も名前も知らない相手に、最期に会ってみたいって」
「当時のクソザコナメクジコミュ症が、またとんでもない考えにいたったもんだな。五年の付き合いだぞ? 会わんくても、ろくでもない奴だってくらいわかってただろうに」
「そのろくでもない人との時間だけが、人生唯一の彩りだったんです」
「それはまた、ろくでもない人生なこった」
あざ笑うような皮肉。しかし頭を撫でる手は、あまりにも優しくて……それがとても愛おしかった。
目頭は未だ熱く濡れている。なのにこの頬がこわばることはなく、喜びで緩みきっていた。
「これはろくでもない人生で見ている、最期の夢。醒めた先の終わり方は決まっています。未来なんていらない。少しでも長く、この夢に耽りたい。
――だからいつか堕ちるそのときまで、こうして側にいさせてください」
愛しすら感じるその顔。
ずっと眺めていたいとすら願っている。
でも……今は、そっとこの眼を閉じた。
新たな幸せの形を受け止めるために、身を委ねたのだ。
一秒、二秒、三秒……
寄せる期待の大きさに対し、心臓の音はとても静かである。それはきっと、わたしたちの間に流れる時間が、とても穏やかだからだ。
四秒、五秒、六秒……
この短い時間に、焦らされているかのようにもどかしさを感じた。それが同時に、これからたどり着く幸せへの期待を高めていた。
七秒、八秒、九秒――
「わかったよ、レナ」
頭頂部に触れていたその手が後頭部へと滑ると、
「その夢ってやつに、ちゃんと最後まで付き合ってやる」
優しくも力強く、その胸に引き寄せた。
そしてわたしたちは、再び熱い抱擁を重ねたのだ。
あれ……と思わず声を漏らしそうになった。
嬉しい。想いを寄せた相手とこうしているのは確かに嬉しくはある。
いつまでもこうしていたいし、これからも何度だってこうしたい。
不満はない。ないのだが……思っていたのと違う。
この顔が距離感をゼロになると期待していたのは、この胸の中ではない。もう三十センチほど上にある、センパイの発声器官だ。
わかっている。わたしたちの未来はここが終着点ではない。この先、問題しか積み上がっていない未来を歩んでいくこととなり、思わぬ不幸一つで、全てが台無しとなり終わりを迎えてしまう。
どれだけ今日という日を綺麗に締めくくろうが、それらがなくなるわけではないのだ。
でも、だ。ここは一度、
『二人は幸せなキスをしてハッピーエンド、完。俺たちの戦いはこれからだ!』
と締めくくる場面である。
どれだけわたしたちの関係が許されないものであろうとも、そういう流れだったはずだ。今の状況はその下位互換。階段を上るどころか立ち止まってすらいる。ここは年上として、そして大人らしく、ビシっと決めてほしかったのに。
なぜセンパイは、この手を引いて階段を上ってくれなかったのか。
わたしは神童である。センパイの思考をトレースすれば、その辺りはちょちょいと導きか出せる。
わたしの心を慮ってか? 違う。
積み上げてきた関係性が拗れるのを厭うてか? 違う。
成人男性が十六歳少女にわいせつ行為の事案を恐れてか? 違う。
彼女いない歴年齢という経験不足から、男らしさを見せるところを日和ったのだ。
まったくもって、センパイらしいというか。こんなときにセンパイらしさを見せるのはいかがなものか。
でも……そんな人だからこそ、わたしは依存してしまったのだ。
ほんと、仕方のない人だ。
「センパイ……」
そしてその顔を再び見上げることで、仕切り直したのだ。
「わたしはあなたに出会うまで、ずっと弱いだけの子供でした」
「なんだ、まるで強い子供にでもなった口ぶりだな」
「だって、弱いだけの子供のままだったら……姉さんたちから逃げることすら、できませんでしたから」
かつてのわたしは、自分を持っていない子供だった。
ただ大好きな姉さんの真似をばかりをしていた。
大好きなお母さんが褒めてくれれば幸せだった。
でもある日、お母さんを失った。そこから立ち直ることができなかった。
一度は姉さんに手を引かれ、社会の箱庭へと戻った。そこで模範的な社会の解答を出そうとしたのに、酷い仕打ちを受け心が折れた。
以来、わたしは社会の繋がりを一つ、また一つと断っていった。ついには姉さんとの繋がりも厭うて、わたしはあの狭い部屋一つに、世界を完結させんとした。
これはもう、嫌なものから逃げるなんて上等なものではない。楽な道を選び続け、楽に流されてきただけ。
そして楽な道への選択肢を失ってしまった。
弱い子供のままだったら、わたしはなにも選べなかった。たとえ流された先が苦しい道だとわかっていても、どうにもできず苦しいに流されていただろう。
ああ、だから。
その道から逃げ出す。そんな選択肢を見つけ選べたのは、自我の弱いだけの子供ではなかったから。嫌なことから逃げ出せるほどには、わたしの心は強く育ったのだ。
かつては語らなかった過去と共に、
「姉さんたちから逃げる強さを、センパイに与えてもらったんです」
こんな強いわたしを育ててくれたのは、あなただと告げたのだ。
そうして期待を胸に、そっと目を閉じた。
「そうか」
頭に乗せられた優しいその手は、
「それはまた、ろくでもない強さだな」
この顔をそっと胸に引き寄せた。
どこまでも穏やかで、優しい時間が流れていく。
傍からわたしを見れば、幸せに耽っていると見えるだろうが違う。なぜ同じことが繰り返されているのかと、頭を悩ませているのだ。
「センパイ……」
三度目の正直を求め、わたしは顔を上げた。
「あの日……わたしは嬉しかったんです」
「あの日じゃわからんぞ」
「レナファルトとの関係を、大事にしてくれたことです」
わたしは覚悟を決めて、センパイのもとへ訪れた。
迷惑をかけるのだからなにもしないわけにはいかない。そんな文野楓の本心を漏らしてしまった。
だからセンパイは、攻城戦は無期延期だと告げた。その理由をかっこいい言葉で飾っていたが、本当は違う。わたしたち二人で築き上げてきた関係が、変に拗れるのを厭うたのだ。自惚れかもしれない。それでもこれがわたしにとっての真実である。
そうやってあのとき、わたしがどんな思いであったかを告げた先で、
「わたしにはセンパイだけがいればいい。だから……これからもずっと、わたしだけのセンパイでいてください」
そっと目を閉じたのだ。
「言われんでも」
そして三度目の正直を求めた先で、
「おまえみたいなろくでもないコーハイは、そうそうできねーよ」
二度あることは三度あったのだった。
男女の熱い抱擁。
それがどれだけ反道徳的であろうと、外から見たらそれはもう幸せな二人に見えるだろう。内から込み上がっているこの感情を、それこそ大きく誤解するほどに。
それを今、レナファルトの発言に変換させるとこうなる。
『マジでいい加減にしろよこいつ!』
◆
それから同じことを二度、挑戦したところでわたしの心は折れたのだ。
毎晩見上げる天井のシミを数えるという、虚しい思いをしながら。果たしてわたしに悪いところはあったのだろうか、いやない。と悶々と繰り返し、
「センパイの……バカ」
なにもしてくれなかったセンパイを、初めて声にして罵ったのだ。




