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地下鉄からJR。その一回の乗り換え、三十分にも満たない時間で、目的地の駅へとたどり着いた。
帰宅ラッシュと重なり、雑踏の動きはどこか忙しない。
常々思う。彼らは一体、なにをそんなに急いでいるのか。まるで一本乗り遅れたせいで世に災いが訪れる。危機から世界を守る、使命感に駆られているかのようにすら見える。
私たちの足取りは、そんな彼らと比べ、どこか重たい。
なにせこの先に待っているのは、望んだ希望でありながら、苦しい答えも与えられる。
これは私だけではない。まどかもまた、等しく手にしなければならないものだ。
「この人、タマさんなの」
似顔絵を指してまどかは言った。うっすらと口端を上げるその姿が、無理をして感情を押さえつけているのは明白だった。それでも強がりながら、困ったことに、と振る舞っているのだ。
唖然とした。
こんな偶然あるのだろうか?
だって……と。次の言葉を見つけようとしていると、
「マスターにアポは取ってるから。後は呼び出してもらって、それで終わり。ほら、楓ちゃんに会いたいなら早く身支度しなさい」
いつもの調子を気丈に振る舞う。
眠っている間に、全てお膳立てをしていてくれたようだ。私を心配し駆けつけて、あの似顔絵を見て、それですべてを察して……
どんな思いで、私のためにしてくれたのか。複雑なんて言葉だけでは片付けられないし、なにより片付けたくはない。だって間違いなく、苦しさと辛さに満ちた葛藤があったのだから。
言われるがまま身支度を急ぐと、「じゃ、行こっか」とだけまどかが言ったのを最後に、私たちは声を交わしていない。
だって私はこれから、今日までずっとまどかが恋をしてきた相手を糾弾する。まどかがお膳立てして、呼び出してくれた場で。
家を出るときは横並びであったが、こうして目的の駅へ降り立つと、まどかの後ろを歩いている。後ろめたさを感じている、それを体現するかのようだ。
改札を抜け、二択の出口を迷うなく抜けた先で、
「前にね、マスターが言ってたんだ」
まどかは口を開いた。
「楓ちゃんが逃げ出した先で、幸せになっていたらどうするか、って。……きっとマスターは全部知っていた。だからあんな風に、忠告したんだと思う」
声音はいつもの調子だ。けれどそれが、必死に平常心を保っているように聞こえた。
「あーあ、信用して相談したんだけどな。頼ったつもりが、いいようにあれもこれもと聞き出されちゃって……」
まどかは肩越しに振り返ると、
「わたしって、常々人を見る目がないようね」
困ったものだと笑っていた。
それが開き直ったものではない。胸に宿った悲哀を、ただただ押し殺したもの。自分は大丈夫だからというやせ我慢より生み出された、私を慮る心なのだ。
あまりにも痛々しく映った。けれど込み上がる感情を、なんとか喉元で抑え飲み込んだ。
「しょうがないわ。世の中に完璧な人なんていないもの」
まどかの横に並びながら、その在り方に倣った。
本音はどうあれ、いつもの調子でいきたい。まどかがそのように示したなら、場違いであれその思いを無下にはしたくなかった。
「まどかが背負っている罪、その反動かもしれないわ」
「なに、わたしは可愛いだけで罰せられてるの?」
「そう。男運を取り上げて、バランスを取られてるのよ」
「タマさんはともかく、マスターは女なんだけど?」
「きっと、その人は性転換手術をした元男ね」
「会ったこともない相手に、よくそんなこと言えるものね」
「親友の信頼を裏切った相手だもの。例え本人を前にしても言ってやるわ。わかってるぞ、おまえは男だろ、って」
まどかは意外なものを目の当たりにしたよう、上瞼を引きつらした。堂々と人を悪し様に言う宣言、その私らしくなさに驚いたのだろう。
冗談のつもりが、核心をついていた。そんな未来が訪れるとはつゆ知らず、まどかは噴き出した。私もまたそんな様に釣られてしまった。
私たちの間に立ち込めていた暗雲が、それだけで払われるような気がした。
「タマさんの受け売りの話をしたときのこと、覚えてる?」
「ええ」
忘れるわけがなかった。私と楓の間にあった問題点。その解決策。それをまどかからもたらされたからこそ、なんとか顔を上げられたのだ。
「あれってさ、タマさん自身の経験なのよ」
「それって……あの男が喋る側で、楓がキーボードをカタカタしていたってこと?」
「そ。スタートは扉越しだったのも、通知が鳴り止まなかったのも、きっと本当にあったことなんだと思う」
まどかは顎を上げ、
「そうやってコミュニケーションを取りながら、まずは一言二言の返事は声に出させた。楓ちゃんの手を取りながら、一段、また一段と階段を登らせてあげたんでしょうね」
少し遠くを見るような目は、そのときの光景に思い馳せるようであった。
あの日、まどかに諭された後、楓のような境遇にあった女の子の話というものを聞かされた。自らの意思を口に出し、自然と喋られるようになった、と。
それが実は楓の話だったというのなら、五年もの間、私と父さんがいかに不甲斐なかったか。それを突きつけられる現実である。だってあの男は、十五年もの間家族であった私たちができなかったことを、たった半年でやり遂げたというのだから。
楓の家出を受け入れたあの男は、間違いなくろくでもない大人だ。ならそんな大人と比べた家族は、一体なんと呼べばいいのだろうか。
「椛。その意味は、わかってるよね?」
神妙な面持ちでまどかは言った。
「……うん」
もちろんと私は首を振る。
昨日の時点でわかっていたこと。それが明確な形として、今ここで立証されただけ。
楓は間違いなく、逃げ出した先で幸せを享受している。
それはただ、あの男が家出に都合がいいだけだったからではない。
私たち家族がわかってあげられなかったことを、正しく理解してもらえている。
私たち家族がしてあげられなかったことを、できるようにしてもらえている。
楓にとってあの男の家は、雨風をしのぐだけの場所ではない。幸せな居場所とすらなっているのだ。
今からそれを取り上げる。その結果、楓からどのような感情を向けられることになるのかも、ちゃんとわかっている。
あの絵を描くと決めたときから、覚悟はちゃんとしているのだ。
「なら、後一つだけ」
まどかは微笑みながら、
「わたしはいつだって椛の味方だから。それだけは、ちゃんと覚えておいて」
頼もしいことを言ってくれたのだ。




