10
ソファーに身を投げ出しながら、明かりもつけずただ天井を見上げていた。
時間の感覚が曖昧だ。
街中で楓を見つけたのが遠い過去のように感じれば、数秒前のことのように憶えている。
楓に寄り添っていた男。
二十代後半くらいの、どこにでもいそうな社会人だった。
去年の五月からずっと、楓の居場所を作っていたのはあの男だったのだろう。だから今日までの間、寝床に困らず行方を眩ませられていたのだ。
楓がなにを求められ、どのように居場所を作ってきたのか。生々しい想像ならいくらでもできるが……後ろ姿からでも感じられるほどに幸せそうにしていたのは、無視できない確かなことであったのだ。
母さんが亡くなって以来、あんな姿は見たことがない。
例え社会的に許されないものであれ、楓は逃げ出した先で幸せを享受していた。
そして私は幸せを脅かす、恐ろしい存在と捉えられているのだ。
楓たちは帰路へ着くため、駅構内へと下りる途中で私と出くわした。移動手段が車ではなく、電車であるのは間違いない。そして数時間もかけて、遠方よりやってきたとも思えない。
あの駅から一時間圏内。それがあの男の根城であり、楓がいる場所と考えていた。それだけで見つけられるとは思えないが、なに一つ手がかりのなかったときと比べれば光明であった。もし警察が動けばすぐに見つかるほどの手がかりであり、頼れないのが歯がゆくあるほどの。
だが……
楓が逃げ出した意味。その背中を求め街を彷徨いながら、その事実が一つ、また一つと頭の中でこうして言語化された。気づけば家のリビングで、天井を見上げていた。どのように帰ってきたか。電車内で泣き言のようなメッセージを、まどかに送っていたくらいしか憶えていない。
私はどうするべきなのだろうか、という答えが出ない自問。
ここで諦めず楓を探し続けることが正しい在り方だ。
義務や規則、モラルを鑑みてではない。母さんと、そして楓に胸を張れない真似をしたくないという、私が選んだ生き方だ。
けれど、その楓にハッキリと拒まれた。
ウォーリーを探さないで。それを改めて、本人によって差し出されたのだ。
砂漠で一欠片の砂金を探すように、その姿を追い求めることこそが正しいとわかりながらも、途中で諦め、こうして逃げ帰ってきてしまったのだ。
楓をこのままにしておいてはいけない。そうわかっておきながら……
「どうしたら……いいのかしら」
ぐるぐると、同じ自問が頭の中を駆け巡る。
苦しくて。
辛くて。
胸が締め付けられるように苛まれていると、
『でも、これだけは覚えておいて。椛が辛くて苦しいのを我慢するくらいなら、楓のことはどこかで折り合いをつけなさい』
母さんの言葉を思い出した。
楓の家出。これは間違いなく父さんが悪く、そして私が頼れず不甲斐ない姉であったのが原因だ。今更それを弁解するつもりはなく、楓が家族親戚以外を縋り、助けを求めたのは仕方のないことだろう。
かといって未成年者に大人が手を貸し、匿うのは許されることではない。どれだけ楓が可哀想な身の上であり、同情の余地があれど、社会秩序とモラルの範疇を逸脱している。
いくら自称したところで、楓を成人と呼ぶには無理がある。どう詭弁を弄そうとも、未成年だと知らなかったでは通らない。だから法を犯している自覚がありながら、楓を手元に置いたのだ。
許されない手段を選んだ大人が、まともなわけがない。ろくでもない大人に決まっている。
でもそんなろくでもない大人と……楓は幸せそうに出歩き、手を繋いでさえいた。辛く苦しい思いをしていないのだ。
母さんが亡くなってから、私は楓を苦しめるだけの存在だった。だから楓は私から逃げ出したのだ。
楓を探し出した先で、またあの恐れられた顔を向けられるのが怖い。楓が築いた幸せを取り上げた結果、恨まれるのが辛く、とても苦しい。
今の生活を望み、その幸せを守りたいというのなら、例えそれが間違っている生き方であれ……
ここでもう、楓のことに折り合いをつけてもいいのではないか?
このまま放っておいて、楓が行方不明になる前の生活に戻る。そのほうがお互いのためになる。
母さんもきっと許してくれる。
そう、心が折れそうになったとき、また一つ思い出した。
『だから安心して。そのときはちゃんと、楓の手は私が引くわ』
一度は始まりの理由を忘れてしまい、違えてしまった約束。
『これだけは間違えないって約束するわ』
それをまた間違えてしまうような真似をしたくない。このままにしたら二度と母さんに胸を張れなくなる。
上体を起こし、両頬を思い切り叩いて、
「ダメよ、文野椛」
折れそうになった心に新たな芯を打ち込んだ。
「楓を……ろくでもない大人なんかに任せちゃいけないわ」
私と父さんがあの始末で、頼れる相手は誰もいない。そんな中、都合がいいだけを与えてくれる者がいれば、『この人だけは自分のことをわかってくれる』。そう盲信し、依存してのめり込んでしまってもおかしくない。
あの男が楓を食い物にしているのか、はたまた心から慮っているのか。この際横に置いておこう。
捨て置けない事実は、楓の未来をまるで考えていないことだ。
今の現状は楓にとって幸せな時間かもしれない。けどそれは、一生保証されたものではない。なにかの拍子で崩れ落ちるような脆い床であり、遠くない未来で途切れる道なのだ。
未来というものは、そのときが訪れれば、ポっと都合のいい世界が生まれてくるものではない。この現在から一歩一歩進んだ、地続きの先にある。積み上げてこなかった手で輝かしい未来を生み出すのは、一握りの者にだけ許された、奇跡を描くようなものなのだ。
私はかつて、はいはいしかできない赤子に、自分の力で立って歩けると信じて、それを求めていた。まどかはそれを優しいだけで、甘くはなかったと言った。
ならあの男は、自分の力で立たなくてもいい、そのままでいいと甘やかしているだけ。十年、二十年先を考えず、この社会で生きていく上で大切なものを積み上げる機会を、取り上げているようなものだ。
私が優しいだけなのなら、あの男は甘いだけ。
まさに無責任。ろくでもないことこの上ない。
私は一度、間違ってしまった。楓の心に寄り添っている気になって、苦しめてきた。
でも、もう同じ間違いは繰り返さない。
甘いだけの幸せ。それを取り上げると私は恨まれることになるだろう。それを受け止めた上で、私はちゃんと楓と向き合いたい。今まで独りよがりな真似をして、苦しめてきたことを謝りたい。
今度こそ間違いないからと、私にその手を引くチャンスを与えてほしい、と。
必ず楓を探し出す。
再びそう決めた先で、この目は数時間まで遡っていた。
手を引かれるがままに、階段を駆け上っていった男の顔。たった一秒だけしか捉えることはなく、日常であればすぐに思い出せないような、どこにでも見るような顔だった。
でもあの瞬間の光景は、ハッキリとこの目が憶えている。
なら、私がやることは決まっていた。
唯一の趣味であり特技を活かして、あの顔を描きあげるのだ。
楓のことを大々的に探すのはできない。けどあの男なら話は別。楓の名誉を貶めることなく、大衆を味方につけ探すことができる。それこそまどかを頼れば、ネットの世界で拡散することは容易いだろう。
かつては求められてまで、沢山描いてきた人物画。上京してから機会なく、風景画に方向転換し一度も描いてこなかった。それをこんな形で、人を描き出す機会を得るとは皮肉なものだ。
今日ほど、絵を趣味としてよかったと思ったことはない。
ずっとしまい込んでいたリアルデッサン用の道具の数々。引っ張り出したそれらをリビングのテーブルに広げ、すぐに作業に取り掛かった。
これは記憶が薄れる前の、時間との勝負。
頭の中身を吐き出せ。
特徴を正確に捉えろ。
雰囲気をも形にして。
この目にしたものはこんなものではなかったと、一枚、また一枚と紙をくしゃくしゃにしながら、新たな一枚を描き続けた。
描いているのは芸術ではない。捜査用資料とも言える似顔絵だ。
少しでも完成度を高めることこそが、楓へといたる道へと繋がる。一ミリでも近づきたいという想いこそが、私を突き動かしている。
どれくらいの時間をかけたのかは憶えていない。
次に意識が目覚めたときは、毒々しいほどの茜色が天井を染めていた。
いつの間に眠っていたのか。
ボーッとした頭はすぐに、眠る前にしていたことを思い出す。飛び跳ねるようにソファーから身を起こすと、テーブルへと目を向けた。
「ああ……」
記憶に残っていなくても、この手は確かにそれを完成させていた。
楓に繋がる男の顔。
昨日見たままの光景が、その薄い紙一枚に描きあげられていたのだ。
「おはよう、椛」
一人暮らしのはずの部屋でかけられる、起床の挨拶。
「悠々自適な一人暮らしなのはわかるけど、ちょっとたるみ過ぎじゃない?」
おかしそうな顔をしながら、まどかがからかうように言った。
なんでまどかが? と首を傾げそうになり、すぐに自分のしたことを思い出した。
楓に逃げられ、探すのを諦めた帰路。どうにかなることではないとわかっておきながら、かつての電話のように、まどかにメッセージを送ったのだ。それを見て、心配して駆けつけてくれたようだ。
一晩かけて散らかしたリビングも片付いている。どうやらソファーで眠る私に毛布をこうしてかけてくれただけではなく、掃除までしてくれたようだ。
本当に、素晴らしい親友である。
つい頬が緩み、感謝の念を述べようとすると、
「起きて早々あれだけど、すぐに出かける準備をして」
いきなりそんなことを言い出したのだ。
あんなメッセージを送り、心配をかけてしまったはず。だから流れに相応しい話があるはずで、まどかの発言が突拍子もなく聞こえたのだ。
「出かけるって……どこに?」
だから困惑しながらもそう応答するしかなかった。
まどかはテーブルに近づくと、
「この人を呼び出せる場所よ」
一晩かけた似顔絵に手を置いた。




