08
「ま、わたしの恋は置いておくとして、椛のほうはどうなの?」
「私の?」
「椛のことだもの。辟易するくらいには、恋情の雨あられに晒されてるでしょ? 試しに傘を閉じてみようって相手は、まだ見つからない?」
「恋情の雨あられ、ね。残念ながら、そんな上等なものに出会ったことはないわ。あれはまどか風に言うなら、ご褒美を求めてるだけのものね」
「目的が透けて見えすぎて興ざめ?」
「散々、得をしてきたんだもの。今更中身をちゃんと知ってから好きになってくれ、なんて自分勝手なことは言わないわ。でも、恋に恋する乙女ってわけじゃないの。日照りに苦しんでるわけじゃないんだし、身を削ってまで雨乞いをしようとは思わないわ」
「……なんか椛って、いざアラサーになったとき、やってこなかった後悔をする典型よね」
「周りが次々と結婚して焦るとか?」
「いざ恋愛沙汰に直面したとき、経験のなさをコンプレックスにするのよ。いい歳をして本気の恋愛とかって、色々とこじらせてさ。年下に恋をした日なんて、変な見栄ばっかり張っちゃいそう」
「……うっ」
長い付き合いなだけはある。まどかの未来予測は的確すぎて、自分でもそうなるかもしれないと胸が痛かった。
「だからって、適当に恋愛ごっこをしても、それはそれでわたしみたいに黒歴史を築きそうだし。進んで経験したいわけじゃないなら、自然の成り行きに任せるのが一番よさそうね」
試しに恋愛を経験してみろ、と押し付けがましくないところが、やはり私のことをよくわかっている。
恋に恋などしてないが、降ってくるのを期待する乙女心くらいはある。私の恋愛観は、宝くじを当たるのを願うようなものだ。
「結婚が女の幸せだなんてものは、時代錯誤な考えよ。ペットに癒やされながら、趣味に生きるのも悪くないかなって、最近は考えてるの」
「……椛、それ、二十歳で達する人生観じゃないから」
まどかより送られるのは、手遅れの患者を見るそれである。
「趣味といえば、こっちにきてからなにか新しいことでも始めたの?」
「誘われて新しいことをかじることくらいはしたけど……どれもピンと来なかったわ。趣味らしい趣味といえば、相変わらず絵を描くことくらいかしら」
「それにしては、こっちに来てから完成品を見せてもらったことがないけど。あんまり描いてないのかなって」
「こっちへ来てからは、気の赴くままに描いてるの。完成度もそれなりだから、わざわざ見てもらいたいものじゃないだけよ」
将来を見据えた大学生活というものは、なにかと忙しい。絵を描くのは好きであるが、自己満足を満たすためのもの。未来へ繋がる勉強や人間関係構築と比べれば、優先度は低い。
高校までは頼まれて描くことも多かったが、今はそんな相手はいない。だから写真のようなリアルを追求した絵を描くのは止めて、もっと気軽にできる路線へ変更した。スケッチブックを持ち出して、気の赴くままに風景を描く。それなりに形にはなっているが、前と比べれば雲泥の差。妥協の産物。見られて恥ずかしいわけではないが、わざわざ見てくれと差し出すほどのものではないので、話のネタにもしなかっただけだ。
「描いてるかどうかって言うのなら、今日だって描いてきた後よ」
最寄り駅から一駅。観光スポットにもなっているほどの、大きな国民公園。上京してからはずっと、そこで自己満足を満たしている。
「へー、どんなの描いてるの? ちょっと見せてよ」
「ただの風景画。面白いものじゃないわよ」
「いいのいいの。大事なのは椛の描いたものってことだから」
「隠すほどのものじゃないからいいけど、あんまり期待しないでよ」
ソファーに上がっているスケッチブックを差し出した。これを見越して控えさせていたのではない。帰ってきたときに、そのまま投げ出したままになっていただけだ。
開いたスケッチブックを、まどかは最初のページから捲くっていく。逐一感想を漏らすことはないが、感心したように喉を鳴らしている。これまで見せてきたものと落差はあれど、見ていてつまらないものではなさそうだ。
「……ん?」
そんなまどかの手が止まったのは、私のグラスが残り一口分になった頃。機嫌良さそうにしていたその顔に、物憂げな影が差していた。
「これって……?」
おずおずとこちらの顔色を伺うように、まどかは気になったページを見せてきた。
池のほとりの向こう側に広がる、生い茂る木々。それを背にした一人の少女。背景は実物の風景の模写であるが、佇んでいる人物は妄想の産物だ。
「楓のつもりで描いてみたんだけど……上手くいかなかったわ」
最後に見た妹の姿。記憶を引っ張り出しながら描いたものだ。
気を使うまどかの素振りは、ただ行方不明の妹を想ってこんな絵を描いたからではない。中途半端な未完成品だからだ。
「あの子が笑ってる顔が、どうしても浮かばないの」
楓の絵は、のっぺらぼうなのだ。
「前に私の楓像は、小学生で止まってる、って話したじゃない? この絵を描いているときね、改めて思い知ったわ。母さんが亡くなって以来、あの子が笑った顔って、見たことないのよ」
「椛、それは……」
「今更後悔しても、仕方ないのはわかってる。……でも私は今日まで、そんなことにも気づかなかったのよ」
まどかは始めから、子供であった私にできたことはない。親と社会が悪いでいいんだと諭してくれた。少しは救われた気持ちになったが、それで全てを割り切れることはないし、流していいものではない。
自らしてきたことを棚に上げたままでは、また同じことの繰り返しになる。どれだけ受け止めるのが苦しい失敗でも、楓に辛い目にあわせてきたのは私自身。だから楓は、行方を晦ませる道を選んだのだ。
「頼ってもらえなかったのも、当然ね」




