06
「それは違うわよ、クルミちゃん」
仕方ないので、フォローを入れることにした。
「価値観を飲み込むっていうのは、そういうことじゃないわ」
「……え?」
「価値観を知り扱えるようになる。それがタマが言う飲み込むということよ」
クルミちゃんは顔を上げるも、ピンときている様子はない。
「例えばそうね……昨今の電話のマナー。お友達が一言断りもいれず電話をしてきた。それにまず驚いた、って言ってたじゃない」
「はい。あの椛がそんなマナー違反をするなんて、タダごとじゃないって」
「なんで一言断りもなく電話するのが、マナー違反なの?」
「え……だって、手が離せないときにいきなり電話がきたら、迷惑じゃないですか」
「あら、私が学生のときなんて、そんなことで迷惑がる人なんていなかったわよ。電話を取れなかったら、後でかけ直せばいいだけだもの」
「昔はそうだったかもしれませんけど……今はそういう時代じゃないですか」
「そういう時代かもしれないけど、その昔だって十年も前の話じゃないわ。クルミちゃんの言う昔の考え方から脱せられず、時代の流れに追いつけないのは、そんなに常識外れかしら」
「そ、そこまでは言いませんけど……」
「でも、確かに昔の考え方には違いないわね。新しい常識として取り入れられない人間は迷惑よ。新たなマナーを守らない違反者は、糾弾されるべきね。なにせ昔のやり方に固執しているなんて愚か者だものね」
「ぅ……」
「これが人の価値観を受け入れず、押し付けるってやつよ」
バツの悪そうにしているクルミちゃんに、私は微笑みかけた。
「いきなり電話をかける方はね、相手の都合はどうだっていい、って考えてるわけじゃない。学んできた社会常識に則ってものなのよ」
「社会常識?」
「出られないなら、都合をみてかけ直して貰えればいい。そう思ってかけただけなのに、なぜ断り入れないだけで迷惑がるのか。向こうはね、それが不思議で仕方ないのよ」
クルミちゃんは呆けたように口を開いている。それこそ不思議に遭遇したように。
「けど、一々断りをいれるのが面倒なのも事実かもね。慣れ親しんだ方法を手放したくないから、必死になってその価値観を否定するの。バカみたいだくだらない。なにが現代の電話のマナーだって、上から目線で笑ってすらいるわ」
「やってることはお互い変わらない、ってことですか」
「ええ、変わらないわ。認めず受け入れず、お互いのやり方が押し付けあう。ケンカになるのは自明の理ね。この場合、どちらに軍配があがると思う?」
「力の関係の強いほうです」
「そう、弱いほうがやり方を押し付けられることになるわ」
「弱い方は、いつだって煮え湯を飲まされるわけですね」
「そうなるわね。でもそれは捉え方次第。向こうに悪意があるわけじゃない。そういう考え方があるならと、あわせてやることくらい問題ないじゃない。ぶつかり合ってしこりを残すくらいなら、煮立つ前に飲んじゃえばいいのよ」
手元の冷たいビールで、一口分喉を鳴らした。
「それが柔軟性を持って対応に当たるということ。折れたと思っている内は、飲み込めていない証拠ね」
「どんな価値観も受け止めて、認めるのが大事だと?」
「ちょっと違うわね。知識と一緒で、知っておくことに価値がある。そういうものがこの世にはあるんだなと、飲み込んでおくことが大事なの。そうすることで相反する価値観を相手にしても、ぶつかる以外の対応も見えてくるわ」
私は一息つくため言葉を切った。
「レールやルールを外れた価値観もそれは一緒。正しいだけを押し付けるだけじゃ、動かせないものがこの世にはいくらでもあるわ。だから動かしたいなら相手のことを知らなければならない。なのに肝心な問題から目を逸らしたら、対処なんてしようがないでしょ?」
バカになったネジ穴と一緒だ。
文野椛は妹の引きこもりをなんとかしようと、あれこれとやっていた。でもそれは、バカになったネジ穴にドライバーを差し込み、ひたすら空回りさせていた行為だ。余計にネジ穴を広げるばかりが、本体に負担すらかけている。
一方タマは、ダメになったネジ穴には、どんな道具が有用であるのかを知っていた。当人にこれ以上負担をかけない方法を持って、丁寧にダメになったネジを抜いたのだ。
「なら椛に必要なのは、楓ちゃんのしてきたことを受け入れるのでなく、認めるのでもない。その現実から目を逸らさないことが、一番大事ということ……」
クルミちゃんは独り言のように呟いた。
「楓ちゃんに必要なものをちゃんをわかっていれば、同じ間違いはもう起こらない。正しい生き方に導ける。それで、いいんですよね?」
今度は答えを乞うような目で、正面から私を見据えた。
一度は無責任に語ったことを後悔したのか。また同じ間違いを繰り返さないために、自己採点だけでは終わらせることなく、正しい解答を求めたのだ。
ならば私は、ちゃんとそれに答えなければならない。
「ねえ、クルミちゃん。皆が言う、正しい生き方、ってどんな意味かわかるかしら?」
「正しい生き方ですか?」
質問を質問で帰されたことにクルミちゃんは気を悪くすることはなく、神妙な面持ちを浮かべた。
傾げられた小首を見つめること数秒。
「正しい生き方とは、今身を置いている社会の価値観から外れない生き方よ」
早々に答えをもたらした。時間切れではなく、もったいぶらなかっただけである。
「私はね、やりたくもないことに身を費やし、自らにムチを打って、ダラダラと生かされた先で天寿を全うするなんてゴメンだわ。楽しいことだけをやってこれたと胸を張れるなら、一年先でそのツケを払うことになっても本望よ」
急に自分語りのようなことが始まり、クルミちゃんはきょとんとしている。けれど耳はしっかりと傾けてくれていた。
「この生き方を大きな声で叫ぼうなら、皆こぞって『その考えはけしからんことだ』なんて喚くでしょうね。なにせ必死に働いて、家族を育んで、老いた先で子供たちに看取られる。これこそ人の幸せ、無常の喜びだと教えられて、辛くて苦しい思いをしながら生きているんだもの。それを否定するような生き方で、幸せになってはいけないとすら信じているわ」
私はグラスで唇を湿らせた。
「特に家族こそ、そんな生き方は許さないでしょうね。どれだけ本人にとって幸せな終わり方でも、そんな考え方を持ったことが不幸だとすら断ずるわ。なぜなら家族を失うと悲しいもの。だから正しい生き方をしなさい。そうすればいつか自分たちの気持ちがわかる、必ず本当の幸せを得られるからって。
家族の愛というのはときに、そんな生き方を束縛する鎖になるわ。正しい生き方という呪縛にね」
「なら社会の価値観は自由な生き方を縛るだけで、ないほうがいいものなんですか?」
「いいえ。もし皆が好き勝手な価値観に走ったら、文明的な社会というものが崩壊してしまうわ。だから倫理や道徳だけではなく、法律を持って社会の価値観を維持させようとしているの。根底から揺るがす価値観を罪と定め、外れたものを罰するのよ。良くも悪くも社会は、皆のためのものだからね」
皆でルールを守り社会を維持する。それは義務であり放棄は許されない。始まりは人々のために生み出されたものとはいえ、時代にそぐわないものだって多くある。それに不満を覚える者たちも出てくる。
倫理や道徳と違い、法は簡単に変えられていいものではない。時代にそぐわない、問題を抱えているものだからとあれもこれもと変えてしまえば、どこかでまた歪が生まれ、損を被る者たちが出てくる。
年金問題がまさに、わかりやすい例だろう。将来の破綻が目に見えている。だから自分はそんなものが必要ないからと、各々が納税の義務を放棄すると、その制度が崩壊してしまう。そうすると困る者が出てくる。
結局、誰が損をするのか。それを押し付けあっているにすぎない。そして問題は未来に投げられ、誰かにツケを払わせながら社会は帳尻を合わせている。
社会の価値観の中だけで生きるのは、まさに取り分の少ないゼロサム・ゲームだ。
真っ当な方法では報われるのが難しいからこそ、秩序維持を兼ねて、幸せな人生モデル、という幻想を社会は与えてきているのだ。これ以外の人の幸せはありえない。それ以外の方法で幸せを得ようとするのは、まさにヤクザのやり方だとばかりに。
昨今はネットという情報社会の発達によって、そのメッキが剥がれてきているが。
「だからね、嫌な思いをして苦しみながら、必死になって社会の価値観に従い、維持している横で、レールを外れて楽しそうにしている人たちを許したくないのよ。こんなにも苦労して手に入らないものを、そんなやり方で簡単に手にするのはずるいってね」
「まさに羨ましい妬ましい、ですね」
クルミちゃんはくすりと笑った。私とタマがよく使う言い回しを、覚えているようだ。
こうしてオチがついたようにクルミちゃんは笑ったが、私は社会語りをしたかったわけではない。あくまでクルミちゃんに考え方と価値観を与えたに過ぎない。
この先の本題、それに必要なものであるからだ。
「ねえ、クルミちゃん。お友達はこう言ってたのよね。自分の将来の邪魔になるからじゃない。いつまでもこの暮らしが続かないから、自分一人で歩いて貰えるようになってほしかったって」
「はい。椛はただただ、楓ちゃんの幸せを願ってやってきました。そのためなら最後には、嫌われたっていいとまで言い切って」
「でもその幸せって、正しい生き方をしている前提よね」
「え……」
クルミちゃんは目を見開いた。
私の言わんとしていることを、すぐに受け止めきれなかったのか。賢い子なので時間を与えれば自ずとわかるだろうが、わざわざ自らに気づいてもらうほどのことではない。
「もし外れた先で幸せを掴んでいたら、そのときはどうするのかしら」
「それ、は……」
クルミちゃんは喘ぐように息を漏らした。
「それは正しい生き方じゃない、間違っている幸せだからといって取り上げる?」
疑問符つきつけたようでありながら、私は答えを待たずになおも口を動かし続けた。
「正しい生き方に戻るのに、本人が納得しているのならまだ救いはあるわ。でもね、押し付けられただけのものであれば、それほど苦しいものはないわ。幸せな生き方を取り上げられたのならなおさらよ。
彼女は唯一の味方であるお姉さんとも、まともに言葉を交わせないような娘なのでしょう?」
次の言葉を恐れるようにクルミちゃんは首を振った。
「ならいくら追い詰められたからとはいえ、誰でもいいから助けてくれって、相手を選ぶかしら?」
「あ……」
私の言わんとしているその意味を、すぐにクルミちゃんは受け取ったようだ。
あの娘が頼ったのは、家族親戚ではないのはクルミちゃんも承知済み。親にも姉にも頼れないから、追い詰められた先で、画面越しに知り合った相手をアテにして、彼女は逃げ出した。
クルミちゃんはおそらく、ここから先のことを考えていなかった。
皆が学校で交友関係を育み、得難い親友というものを手にする裏で、インターネットという世界で、彼女なりの得難いものを手にしていた。
「だからね、お友達が考えなければいけない心配は、生きているか死んでいるか。綺麗だとか、汚れているとかだけじゃないわ」
助けを求めて逃げ出した先は、そんな誰よりも信頼している相手だという可能性を。
「逃げ出した先で幸せになっていたらどうするか。許されない生き方を否定するのか、肯定するのか。どちらにせよお友達は、辛い想いをすることになるわよ」




