09
『うわああああああ!』
「きゃぁあああああ!」
十数時間前に上げたわたしと同じ悲鳴が、リビングに響き渡る。ただし仰け反った先がソファーだったので、後頭部への一撃はなかった。
そんな夕暮れ時。
ソファーを背もたれにした数刻ほど放心した椛は、
「なんてものを見せてくるのよあんたは!?」
次の瞬間には怒声を張り上げていた。
対面で肩をわなわなと震わている親友は、それはもう顔を真っ赤にしている。
見事に引っかかりドッキリ大成功! なんて思いは湧いてこそいないが、気持ちを共有できたことに満足はした。
「わたしは深夜の暗い部屋で、これを一人で見せられたのよ。そのときのわたしの気持ち、少しくらいわかってくれてもいいでしょ」
「あんたが勝手に引っかかったんでしょ! なんで私まで巻き込まれなきゃならないのよ!」
「椛がこれの当事者だから」
「……は?」
「それ、楓ちゃんが残したものよ」
ポカンとした椛の顔は、信じる信じないの前に、意味を理解していないそれであった。
あの白い顔が脳裏から離れず、眠れたのは朝方。起きたのは昼間で、休み明け早々大学をサボってしまった。
帰ってきたら昨日の話をしよう、というメッセージを椛に飛ばすと、夕方には帰ると返事がきた。予告通り帰ってきた連絡が来ると、すぐに上の階へと上がっていった。
その先でパスを突破できたことを伝え、真っ先にこれを見せたという流れである。
『姉さんへ』『ここで待ってます』。そんな文字に目を瞠った椛に待っていたのが、こんな悪ふざけ。
次に履歴の『姉さんの友人へ』からの嘲りを見せた。
呆然としながら椛は潰れたように喉を鳴らした後、
「楓が……こんなこと、するわけないじゃない」
現実を受け入れられないのか、ノロマなかぶりを振った。
「なら、これはパスワードを突破した某さんが、仕掛けたドッキリだとでも?」
「あ、いや……」
「妹が心配で憔悴している親友に、こんな悪ふざけをしたのなら酷い話ね。それが本当だったら、今すぐそんな相手とは縁を切ったほうがいいよ」
「ごめんなさい……」
椛は咎められた子供のように顔を俯けた。
別にわたしも、悪趣味な仕掛け人扱いされて、腹が立っていたわけではない。椛が差し出されたこの現実を受け入れたくないのもわかる。その気持ちに寄り添ってあげられないほど、この友情は安いものでなかった。
キツイ言い方になってしまったのは、ここから先に進むためのプロセス。まずは現実を受け入れてもらわなければならないのだ。
「『くれないようの日』の意味、まだわからない?」
顔を上げたその顔に、今度は優しい声音を差し出した。
左右に振られる頭を見届けると、
「あなたの誕生日よ」
あっさりと答えを言った。
椛の口と目は、二段階にわけて開かれていく。自らの誕生日であった驚きと、すぐに辿り着いた『くれないよう』の答えにだ。
「まさか自分の誕生日だなんて、思いもしなかった?」
「ええ。そう……楓が、私の誕生日を」
椛の口元は僅かながら緩んだ。
楓ちゃんのことは大好きであっても、その逆に自信がない。なにせあれこれと、引きこもっていた楓ちゃんにうるさく言ってきたのだ。例えそれが優しさであっても、本人にとっては煩わしかっただけかもしれない。
椛はそれを、『こんなにもあなたのことを考えているのに、なんでわからないのよ!』と憤るような性格ではない。
楓ちゃんが自分一人で立ち、歩けるようになった先で幸せになってくれればそれでいい。そのためなら最後には嫌われたっていいのだ。
成人祝い、初めてお酒を口にした先で、椛はポツリとそんなことを漏らした。
そんな矢先の話だから、プライバシーの塊であるものに、自らの誕生日をパスワードとして設定されたのが嬉しかったようだ。嫌われていない。むしろちゃんと自分のことを想ってくれていたのかと。
だから、ここからするのは椛には酷な話になる。
「楓ちゃんは全て読みきった上で、これを残したんだと思うの」
「読みきった?」
「そ。椛本人じゃなくて、椛の友人がパスを突破することを想定して、ブックマークと履歴を残していたのよ」
楓ちゃんは自身の家出を、大事にされることはない。警察沙汰にはされない絶対の自信があったのだ。
椛では辿り着けない問題。でも椛に親しい者なら解けるラインを想定して、謎々のようにヒントを設定した。そうやって問題を問いて、意気揚々とブックマークを開いた相手を、あの悪趣味で驚かせる。最後には履歴の先で嘲笑う。
自分が残した唯一の手がかりと思わせているのだ。全てを話してそれを託せるのは、よっぽど信頼できる相手。椛を取り巻く環境を考えれば、家族親戚にはいない。姉さんの友人へと残したのは、よっぽどの確信があったのだろう。
「なんで楓は……こんなものを?」
椛は疑問を声に出す。それは現実から目を背けているのではなく、本当にわからないと示している顔だ。
楓ちゃんはなぜ、こんなことをしたのか。
こんなものを残すことに、一体なんの意味があるのか。
パスワードと一緒だ。固定観念の楔。それが胸に深く打ち込まれている椛では、一生辿り着けない答えかもしれない。
楓ちゃんがこんなものを残した理由。
「深い意味なんてきっとない」
わたしは真っ直ぐと椛の目を見据えながら、
「ただの悪趣味な悪ふざけ。それだけの話よ」
おまえの妹は性格が悪いと告げたのだ。
大学をサボったわたしは、ただダラダラと椛を待っていたわけではない。ゲーム好きなネットに詳しい友人と連絡を取っていた。
大学の先輩がこんなことになっている、というていで話を始めた先で、二画面でゲームとかしていたようだと伝えると、パソコンのスペックを調べさせられた。すると二画面でまともにゲームができるような代物ではなかったようだ。
もう使っていなかった物をわざわざ引っ張り出し、仕掛けを用意し、これでもかと見えるところに残していった。
結論として、愉快犯以外の答えが出ることはなかった。
「楓が……あの子が……そんな、子なわけ」
椛はイヤイヤ期の子供のように首を振る。
信じられないのではなく、信じたくない。ここまでの事実を与えられておいて、きっと悪い夢に違いないとすら思っているのだ。
だからわたしは、そんな椛に現実を突きつけなければならない。
「ねえ、椛。あなたの楓ちゃん像って、一体いつからそのままなの?」
「え……?」
「引きこもり始めた小学生から、止まってるんじゃないの?」
その幻想から目を覚まさせなければならない。
「確かに楓ちゃんは社会から逃げ出して、家族にも背を向けきた。外の世界から目を逸らすために、あの部屋に閉じこもってきたかもしれない」
人が成長し、変わるキッカケはいつだって外部からの刺激である。
牢獄のような場所で体育座りなんてし続けていたら、良くも悪くも、いつまでも変わらずにいられるだろう。
でもその話は、楓ちゃんに当てはまることはなかったのだ。
「でもね、あの部屋には外へと繋がる窓口があったんだよ。社会なんかよりもっと複雑で、混沌とした刺激的な世界」
わたしは目を落とし、
「インターネットがね」
パソコンを見据えたのだ。
清濁合わせた情報の海。
同世代が社会の荒波に揉まれ成長していく中、楓ちゃんはその世界で航海を続けてきた。
部屋に引きこもり続けながらも結果を出し、誰よりも社会が求める成果を生み出し続けてきたのだ。
楓ちゃんは優秀なんて言葉に収まるほど、生やさしい存在ではない。
まさしく神童である。
「皆が家族団らんを営んで、学校で交友関係を育んでいる中で、楓ちゃんは画面の向こう側の世界とだけ交流してきたの。そんな子が、社会がいう健全な育ちかたをしているなんて思う?」
かといってそれが椛のように、出来た人間に成長できるかに繋がらない。
社会の営みの中で育てば、それを与えられ、求められる。それから外れるような行為をすれば咎められ、次第によっては罰せられる。
そうやって社会に適応できるよう、子供は育てられていくのだ。
けれど引きこもった楓ちゃんには、それが与えられないし、求められもしない。精々それから外れるとどうなるか。それを知っているだけに過ぎない。
好きなものを好きなように、情報の海から取捨選択しながら、今日まで楓ちゃんは成長してきたのだ。思想や価値観が偏り、ろくでもない性格に育つのは自然な流れだ。
「楓……」
椛はガックリと肩を落とし、ただ顔を俯けた。
パソコンだけを外の繋がりにして育っていく。それがろくでもない成長を促すことくらい、椛も知っていたはずだ。
それでも楓ちゃんに限っては、そんなことだけは起こらない。社交性はなくとも、優しく思いやりのある子に育っていたと信じてきていた。
妄想にも似た幻想から目を覚まし、椛は項垂れている。まるで全ては自らの責任、力不足を嘆くような有様だ。自分のしてきたことが間違ってきたと後悔すらしている。
「わたしが思うにね」
そんな親友の隣に移動して肩を並べた。
「椛は優しいだけで甘くはなかった。楓ちゃんは自分を上回る天才。その場にさえ連れ出せれば、必ず乗り越えられる能力を発揮する。そうやって楓ちゃんを信じてきた」
横目でわたしを伺う椛に、
「椛のそれは、まさにわたしの恋と同じね」
「まどかの恋と、同じ?」
「盲目的ってこと。椛は楓ちゃんのことを買いかぶりすぎなのよ」
抱えてきた問題をハッキリと告げた。
「誰が見ても無理だとわかるのに、楓ちゃんなら大丈夫って。はいはいしかできない赤子に、自分の力で立って歩けると信じて、それを求めてたのよ」
「私、楓にそんな酷いこと……」
震えた椛の声は、そこから先を紡ぐことはなかった。
酷いことをしていないと、否定したいわけではない。自らやってきた行いを振り返り、そんなことをしていたのかと愕然としているのだ。
ここまで椛に現実をつきつけて、一つ気づいたことがある。
お父さんに追い詰められたとき、なぜ楓ちゃんは椛を頼らなかったのか。
なにかあったら連絡しろと伝えられていた。それが上辺だけの言葉ではないのは、楓ちゃんもよくわかっていたはずだ。
残されたパソコン。
その先に残されていた悪趣味とも言える悪ふざけ。
姉さんへと残された先にあったブックマーク。
『ウォーリーを探さないで』
楓ちゃんにとって椛は……きっとそういう意味なのだろう。
椛は頭がいい。わたしが今気づいたそれに、とっくに辿り着いたのだろう。
「う、うっ……」
今にも嗚咽に変わらん音を、その喉で鳴らしていた。
椛は体育座りをしながら、伏せるようにして顔を俯かせている。
全ては妹を想ってやってきたことが、なんのためにもなっていなかった。それどころか楓ちゃんを追い詰めていただけ。
そのせいでこんなことが起きてしまった。全部自分の責任だとすら考えているかもしれない。
「結局、椛もただの子供だったということね」
だからそれは違うと、教えなければならない。
「高校までは教師を神と崇めて、現世のルールを学んできた。偉そうな神様に社会とはなんぞやと語られる場所で、真面目にやってきただけ。そんな椛に、子供を導けなんていうほうが酷な話だったのよ」
盲目的に楓ちゃんを信じ、買いかぶってきたが、それでも当時の椛にできることなど限られていた。
なにせ価値観が偏っている。社会がその価値観だけでいいと、一つしか与えて貰えていなかったのだ。
人間は自らの価値観と知識でしか物事を測れないし、その範疇から逸する物は生み出せない。江戸時代の田舎者が、洋食を作れないのと同じである。
「結局、ああなった楓ちゃんをどうにかできたのは、酸いも甘いも噛み分け、社会のレールやルールから外れた価値観をも飲み込んだ大人だけ。社会で生きていく上で大事なものを知りながらも、お勉強ができればそれでいいと、ずっと放置してきた大人の責任ね」
だから洋食の存在を知り、調理方法をわかっている者が作らなければならなかった。
かつてSNSで回ってきた学生時代と社会人。求められるものが反転する現象。
それを身に沁みておきながらも、その経験を生かされることはない。かつての大人たちに求められたものを、そのまま子供たちに求めた。負の遺産をそのまま後世へ継承していったのだ。
「だからさ、楓ちゃんがああなったのは、親が悪い、社会が悪いでいいじゃない。椛が責任を感じる必要なんてないのよ」
「まどか……」
俯けていたその顔は、今やわたしを見据えていた。
その目元は僅かに濡れながらも、零れ落ちるような雫はない。
雨模様となるはずだったそれは、快晴とまでは言わずとも、曇り空に微かに光が差し込むくらいには回復した。
椛の頬には小さなえくぼができる。
「あんたにこんな風に慰められるなんてね。……これじゃあいつもと逆ね」
「たまにはこんなことがあっていいでしょ」
「ええ。まさに色んな価値観を飲み込んだ大人みたいだったわ」
「ふっふっふ。わたしも大学に入ってから、色んな経験を積んでるってことよ」
「そうらしいわね。知らない間に、色々と差をつけられたみたい」
椛は手放しに褒め称えてくる。皮肉もなく、その目には尊敬の念すら宿っていた。
それに後ろめたさが湧いてしまい、
「ま、ほとんどがタマさんの受け売りなんだけどね」
あっさりと白状してしまった。




