07
時が流れるのは早いもの。
事故物件の恐怖体験は一ヶ月ほど尾を引いたが、鏡や写真にあってはならないものが浮かんだり、なにかに見られているような気配もない。その後何事もなく、不運や災厄に見舞われることもなかったので、かつて抱いた恐怖はすっかり薄れていた。
タマさんの居住とはいえ、もう近づきたくない。そのくらいである。
そうやって何事もないのは、恐れていた心霊現象だけではない。
わたしとタマさん。二人の進展についてにも言える。
まあ、とにかくなにもない。マスターの店から出られないのだ。あくまでお店の常連、そこでお喋りをする仲。親しくこそなったが連絡先の一つも手に入らず、そこから先に一歩も進めない。
流石の椛もこれには目を丸くしながら、
「まさかまどかが、未だ手すら握れてないなんてね。……あんたの恋、五度目の正直かもしれないわね」
わたしに手を出そうとしないタマさんに感心すらしていた。
これが二月頃の話。この頃には椛も、今回の恋はまともな男性に向いたものであると認めていた。一度はタマさんの頭をおかしいと言ったが、不謹慎ネタを相手を選んで語っただけ、くらいに捉えていたのだ。
最近は頑張りなさいと、背中を押してくれるくらいには応援してくれている。
もうちょっと社会的ステータスが高ければね、とチクリと言われたが、それ以上はない。自らの父親があれなので、社会的ステータスの高さがそのまま幸せに直結しない。それをよく知っているのだ。
椛にこの恋を認めて貰えたのは嬉しいが、一向に進展しないことに変わりない。
かといって、肉食系女子みたいにガツガツいけない。なにせ今までは、可愛さ一つで全てを手に入れてきたのだ。恋の駆け引きとか、相手の気の引き方とか、人間性を駆使した経験値が圧倒的に足らなかった。
なので自分から攻めた先で、この恋に決定的な破綻をもたらされるのをビビっているのだ。だから進展しない誘い受けをなおも続けていた。
それでも親しくなり、わたしへの遠慮も砕けてきている。話の流れでその両手が、この両頬を挟み込むようなイベントが発生した。普通であればセクハラ案件であるが、タマさんからされたのならハッピー案件だ。
なにがあったかは後述するとして、タマさんの関係はカタツムリのような速度を持ってしか進まず。されど進んでいることだけは確かではある。
そうやって気づけば、大学に入ってもう一年が経ってしまった。
事件が起きたのは……いや、起きていたのを知ったのは、五月のゴールデンウィークの最終日。その夜のことである。
椛から一本の電話があったのだ。
いきなり電話をするのは失礼だ、なんて論争を前にテレビで見たが、あのときは目から鱗であった。番組の投票で、失礼じゃないが多数を占めていたからだ。
親しい仲とはいえ、手が離せない状況はいくらでもある。そこにいきなり電話をするのは、相手に負担をかける行為である。だから一言電話をかけて大丈夫か。メッセージで一言断りを入れてから、電話をするのがマナーであると信じていた。
常識が覆されたような衝撃を受け、世代の違いなのかと納得もした。メッセンジャーアプリで連絡を取り合う。それが当たり前になったのは、昨今のことなのだ。
わたしたち世代は、少なくともそれと共に育っている。電話をするならメッセージで一言断りを入れる。少なくともそれがマナーである。
だからあの椛がマナー違反をしてきたことに、脱線事故が起きたかのような衝撃が走った。
まさに緊急事態。
なにが起きたのかと着信を受けると、
「……楓が、家出してた」
今にも死にそうな声がこの耳に届いた。
「どうすれば、いいかしら……」
椛は請うように続けざまに言った。
要点は掴めるのに、どこか掴みどころのないような不明瞭さ。
「待って、待って椛。今どこにいるの?」
聞いたことのないような椛の声に混乱しながらも問いかける。
「部屋……」
「部屋ね。部屋にいるのね? 今行くから待ってて!」
電話を切らず玄関から飛び出した。不用心にも鍵を締めず、上の階へと駆け上がる。
引っ越しの際、隣同士の部屋にしたかったのだが、都合よく部屋は空いておらず。それどころか同じ階も叶わず、一つ階層を隔てた部屋をわたしたちは選んだのだ。
椛の部屋は丁度真上。直線距離だけで言えば、隣室より近いかもしれない。
チャイムを鳴らす前に、ついその扉に手をかけた。一人暮らしの女の部屋だというのに鍵はかかっていない。
今はそれがありがたく、そのまま中へと入っていった。
間取りはうちと同じ2LDK。勝手知ったる親友の家ということもあり、リビングへ踏み込んだ。
ソファーに身体を投げ出している椛はこちらを向いた。
強盗のように押し入ってきたわたしに、恐れるでもなく、驚くでもなく、
「まどか……どうすれば、いいかしら」
電話越しの台詞を繰り返したのだ。
クマを作ったその目は、わたしの姿を捉えているだけでわたしを見ていない。痩けているとはいわないが、すっかりその顔は憔悴しきっていた。
「楓ちゃん、いつ家出したの?」
椛の隣に寄り添いながら聞いた。
椛の疲労困憊具合。まるで大切な人を失ったそれに近い。
きっと昨日今日の話ではない。一週間とか、二週間とか……もしかして春休みから、なんてこともありうる。
そう予想しながら次の言葉を待つと、
「――ん前……」
「ん……? 一週間前?」
「一年前……」
そんなレベルではなかったと思い知らされたのだ。
一年前に家を出た。それはもう家出とかそんな甘いものではない。
行方不明。それこそが一番適当な答えであろう。
そうしてポツポツと椛は語り始めた。
大型連休たるゴールデンウィーク。年末年始、春休みすら帰らなかった椛も、そろそろはと一年ぶりに帰省していた。
お父さんだけなら呼ばれるまで帰ることはなかったろうが、実家には可愛い妹が住んでいる。
大きな成長を果たしたであろう妹の顔。
それを楽しみに帰省し、椛を待っていたのは、一年もの間使われていない妹の部屋だけであった。
『東京の姉さんのところに行きます』
楓ちゃんはそんな書き置きを残して、一年前に家を出ていたのだ。
便りのないのは良い便り。学校へ通えていたと信じてきた椛は驚愕した。
便りのないのは良い便り。お手伝いさんは椛の家にいるのではなかったのかと驚愕した。
便りのないのは良い便り。警察からの連絡もないので、椛のもとで過ごしていると放置していたお父さんもまた驚愕した。
便りのないのは良い便り。誰も楓ちゃんの居場所がわからないのだから、便りのないのはよくもなんともなかったのだ。
どうやら楓ちゃんは、入学式一日目して心が折れたようで、二日目には不登校となっていたようだ。案の定というか、あの校風は楓ちゃんにはハードルが高すぎた。
不登校に痺れを切らしたお父さんは、学校に行かないのなら二周りも上の相手へ嫁に出す、と発破をかけたらしい。当人は脅しのつもりだったと言い訳したが、椛はそれを信じていない。なにせとっくに退学届が出されているのだ。間違いなく本気であった。
そして楓ちゃんにもまた、その本気が伝わったのだ。
人生で初めて追い詰められた楓ちゃんの行動は、とにかく早かった。次の日には家出を決行し、以来行方を暗ませている。
楓ちゃんの口座を調べると、ATMの限度額が、二日にかけて引き出されていた。それだけあれば東京どころか、日本国内どこにでも行ける。
手がかりはゼロ。現在の居場所どころか、最初の行き先も突き止められない。
こうして楓ちゃんの行方不明が発覚したが、ここからがまたろくでもない。すぐにでも警察に届けようとした椛を、お父さんが止めたのだ。
聞こえのいい言葉を駆使しながら、理由をくどくど、あれこれと言っていたらしいが、要約するとこうだ。
「近々政界へ進出するんだ、こんな醜聞、世間へと晒せるわけがないだろ」
娘が行方不明になっているのにこれである。まさに父を父としてみていない椛の気持ちがよくわかった。その姿はまさに、社員の不始末を隠匿する社長である。
椛が警察に駆け込もうと無駄だ。全てを握り潰すとハッキリと言われた。
もし大事にしたなら、楓ちゃんが戻ってもタダじゃ済まさない。椛の手の届かない誰かに託すと、含みを持たしながら言ったのだ。代わりにもし内々でことを収められたなら、楓ちゃんの今後は椛に任せる。金も出してやるとの約束を取り付けたようだ。
……が、楓ちゃんの行方に皆目見当がつかない。
行方知れずになってから一年である。綺麗な身体云々以前に、身体に魂が残されているかの心配をせねばならない。
足取りは不明。
それでも一縷の望みをかけて、椛が持ち帰ってきたものがある。
「パソコン……?」
「ええ、楓の机に残されてたの」
わたしと話しているうちに、椛は元気とは言わずとも、少しは活力を取り戻していた。俯いたままではいけないと、踏ん張ったのかもしれない。
バッグから取り出し、手渡されたそれは銀色のノートパソコン。どこにでもあるような、明日にでも忘れてしまいそうな面白みのないデザインだ。
椛の顔を見ると頷いてくれた。
電源をつけると、すぐに見慣れたOSのロゴが浮かんできた。
ただしデスクトップ画面に辿り着くことはない。
「パスワード……やっぱりかかってるよね」
わたしは肩をすくめた。
電子扉が開かれた先には、楓ちゃんの行き先を示す履歴が残されているかもしれない。まさに今の椛にとって、金銀財宝に値する品だ。
ただし、開けゴマの呪文がわからない。
なにかヒントはないか、と悩むことはない。なぜなら入力画面の下に、堂々とパスワードのヒント、と書いてあるのだ。
「くれないようの日……?」
椛と顔を見合わせるが、そこには答えが書いていない。むしろわたしの顔に、答えが書かれているか期待されていた。
お互いにため息をつく。
一定回数打ち間違えられると、制限されるということはなさそうだ。だから散々思いつく限りのものは、椛も試したに違いない。
椛が帰省したのはゴールデンウィーク初日。楓ちゃんのことで色々と追われ、相当疲弊したのだろう。その顔がなによりもの証明だ。
「わたしも色々と試してみるから。今日のところは休みなさい」
あてなんてまるでないのに、任せろとばかりに胸を張る。
明日からまた大学である。そんな顔を大学の友人たちに見せようものなら、余計な心配をかけるだけ。ことがことなだけに、周りに気軽に相談できるものではない。
そういう意味では嬉しかった。
椛がするとは思えぬ、マナー違反の電話。あれは無意識にかけてしまったものだろう。解決策を求めてではない。弱音を吐く相手として、わたしを選んでくれたのだ。
なら少しでも椛が前に向くための役に立ちたかった。
「ありがとう、まどか」
なにせ黒歴史に泣いてきたわたしを、いつだって慰めてくれたのはこの親友なのだから。




