05
それはこうして椛の部屋を訪ね、トイレに立ったときに一番思い知るのだ。
「はぁー……」
便器を覗き込んだその先に、今日もそれはそこにあった。
流し忘れたそれが残っていたわけではない。水たまりの周辺に黒い輪っかがあるだけ。だけなのだがそれこそが問題だ。
トイレから戻ると早速睨めつけると、
「椛さーん」
「うっ」
椛は肩をビクリと震わした。
これからなにが起こるのか、そんな未知に震えたのではない。これからなにを言われんとしているのか、それがわかっている後ろめたさである。
「トイレ掃除を最後にしたのは、一体いつなのかしら?」
「き、昨日……」
「は?」
「のように覚えてるわ」
目を逸しながら椛は弁解した。なまじ頭が回る分、子供より見苦しい。
「はぁ……」
嘆息が漏れた。
「あの様子だと、前回わたしが来たときが最後でしょう」
「そ、そうね……。あのとき掃除をしたのが最後ね」
「あのとき掃除をした?」
「まどかが掃除をしてくれたのが最後、です……」
声色を一つ落とすと、椛は敬語に切り替わって訂正をした。
掃除を満足にされていないのは、なにもトイレに限った話ではない。不動で佇んでいる家電や家具回りにかぶっている埃とかもそうだ。床はロボット掃除機のおかげでなんとかなっているので、汚部屋でこそがないが全体的に小汚い。
一度外に出れば、身なりは整い、皺一つない衣類に包まれている深窓の令嬢も、部屋の中にこもればこの惨状。
これこそが椛の欠点である。自分だけで完結することになると、途端にだらしなくなるのだ。
掃除だけではない。食生活もそうだ。
初めこそ気合を入れて揃えた調理器具は、一ヶ月もかからず棚のこやし。炊飯器は埃をかぶり、パックご飯が大量常備。それら全て玄米ご飯なのがまた小賢しい。
冷蔵庫の中は、十秒チャージ系のゼリーや健康系ドリンク、炭酸水などばかり。冷凍庫はお取り寄せ系冷凍食品オンリー。湯煎なんて面倒な物はなく、全てレンジでチンできるものばかり
環境に気を使ってのエコ精神なんてなんのその。洗い物一つ出したくない鋼の心を持って、割り箸や紙皿を大量常備。インスタントコーヒー一つ飲むのに紙コップを使い捨てる有様だ。
その上でほぼ外食だ。近隣で食べるときは、椛にお店を任せれば間違いない。ここに居住を構えてから半年しか経っていないのに、老舗から新規店舗まで、とにかく詳しすぎた。普段は健康に気を使ってか、近隣のサラダバーとかサラダボウル系の店など、細かいレビューができるほどに通い詰めている。
とにかく、手間をかけたくない最適化された私生活。こじらせた男たちも、これには百年の恋も冷めるレベルだ。
「椛さ……前から言ってるけど、せめて週に一時間くらい、掃除する時間を取りなさいよ。そこまでの手間じゃないでしょ、そのくらい」
「……明日こそは、って思ってる内に、ね?」
「内に、結局やらないのね」
目を合わせてこない椛に、呆れながらも眉をひそめた。
中学二年生のとき、椛はお母さんを亡くしている。以来、家のことは全てお手伝いさんがやってくれているので、家事の手伝いというものはやってこなかった。
それに慣れきったせいだろうか。やればできることをやらない。身の回りのことは無頓着となり、最低限に抑えようとする。身なりや清潔感など、社交性に関わる見られる部分はしっかりしているが、人に見られない部分はちゃんと手を抜く。それを地で行く有様だ。
「椛はやればできる子のはずなんだけど……なんでやらないかな」
「やろうとはしてるんだけど……ただ、ちょっとやる気が……」
「その言葉、是非楓ちゃんに聞かせてあげたいものね」
「うっ」
チクリと言うと、椛はすぐに怯んだ。
椛の三つ下の妹である楓ちゃん。彼女は世に言う引きこもりなのだが、椛の妹だけあり優秀である。いや……優秀すぎた。
小学校以来、学校の教室に足を踏み入れていないにも関わらず、中学のテストでは常に学年首位。誰の教えを受けずともこの結果なので、最近まで引きこもりを許されていた。
しかし元々が引っ込み思案の娘である。長い引きこもり生活は、家族と満足に受け答えできないほどに、社交性に深刻な欠陥を抱えさせた。
いよいよ高校受験を控えた先で、お父さんもようやく危機感を覚えたようだ。椛と同じ大学進学を望み、それが実現できる能力はあろうとも、大学生活を営める社交性が備わっていない。高校からはちゃんと通い、社交性を身に着けろとお達しをくだしたようである。
楓ちゃん自身、高卒認定、通信高校辺りで妥協したかったようだが許されず。わたしたちの母校を受けさせられた。簡単に合格したようであったが、
「そういえば楓ちゃん、ちゃんと学校に通えてるの?」
ふと気になった。
中学校すら満足に通えていなかった楓ちゃんに、あの校風は厳しいだろう。それこそ千尋の谷から突き落とす行為であり、身の丈を考えていない蛮行である。とてもじゃないが楓ちゃんが這い上がって成長できる環境だとは思えない。
椛は妹想いであり、楓ちゃんの引きこもりをなんとかしようと、あれこれと手を尽くしてきた。実を結ばない話を聞いていたが、大学に入ってからは一度も楓ちゃんの話をされていなかった。
「ええ、ちゃんと通えてるわ」
椛は背けていた顔を向けてきた。そこに浮かぶ喜色は妹の近況か、わたしの叱責から逃れられたからか。どちらか判断がつかない。
「へー、よかったじゃない。その様子だと、ちゃんと楓ちゃんと連絡を取ってるのね」
聞いた手前であったが、椛の返答に面を食らった。
ここ数年椛は、楓ちゃんと満足な会話ができていない。基本部屋に引きこもってばかりで、椛から話しかけても顔を俯けているだけ。か細い声で辛うじて、YESやNOに準ずる言葉が出てくるくらい。学校の話になるとそれも出てこないとのことだ。
そんな楓ちゃんと連絡を取れている。電話をしている姿も想像できず、メールとかで近況報告を受けていると思ったが、
「いいえ。こっちに来てから一度も取ってないわよ」
なんともなさげに首を横に振られた。
眉をひそめどういうことかと小首を傾げ、
「あれ……あ、そっか。お父さんから?」
「あの人が、娘の近況を一々報告してくるわけないじゃない。楓のことで連絡があるとすれば、問題があったときだけよ」
閃いた矢先の答えをあっさりと切り捨てられた。
母を亡くし父一人だけとなったが、そこに親子の絆は皆無。優秀な娘であることだけを求められ、椛もそれに淡々と応えてきた。
養って贅沢させてくれる感謝はあるらしいが、『成功報酬を受け取ってるそれと同じね』と前に語っていた。その後、『父親としてはあれだけど、社長と考えれば良い職場だと思うわよ』と自らの親子関係をそう評する始末だ。
常々思う。よくそんな父親のもとで、ここまで真っ直ぐに育つものだと。それもこれも全て、亡きお母さんの育て方がよかったのだろう。
それはそれとして情報源は、本人からでもなくお父さんからでもないとのこと。
「じゃあ……誰から話を聞いてるのよ」
「便りが無いのは良い便り、って言うじゃない。なにも連絡がないってことは、ちゃんと通えているってことよ」
心配なんてまるで知らない顔で、にこやかに椛は言い切った。
愕然とした。それこそ信じられない物を見て、目を剥いてしまうほどに。
「今だから思うの。楓のこと、ちょっと甘やかしすぎたかもって。せめて服くらいは、せめて身なりの手入れくらいは、せめてせめて、くらいはくらいはって、あれもこれもと過干渉に世話を焼きすぎたのよ」
椛は自らの過ちを反省するように息をつく。
「それが間違いだったのね。わたしが手なんて引かなくても、楓はちゃんと立てる子だった。むしろ私が、あの子の成長を阻害してたのかもしれないわ」
次はそんなかつての失敗の中に、喜びを見出すように笑った。
「神童だなんだって昔から言われてきたけど、私はそんな立派なものじゃないわ。やるべきことをしっかりやった結果、その成果がついてきているだけ。ただちょっと人より要領がいいだけなのよ。それは大学に入ってから、嫌ってほど思い知らされたわ」
自慢話、あるいは嫌味にも聞こえそうな話だが、椛に限ってそれはない。肩をすくめるその様は、最後の台詞こそ本命であるようだ。
「だけど楓は違う。皆が遊ぶ暇を惜しんで九十点を取り、私が寝る間を惜しんで九十五点に届いた横で、遊びの片手間で百点を取るような子なのよ。まさに神童っていうのは、あの子のためにあるような言葉ね」
そこに皮肉めいた声音はない。むしろその顔は誇らしげにすら映った。
「結局、社交性もそれと同じだったのよ。今まではやらなくてもいい教科だったから、放ったらかしにしてきた。それを高校という場で、遅れを取り戻さなくちゃいけなくなった。自分でどうにかしなければいけない状況に立たされた。普通の子だったら絶望的かもしれないけど、あの子に限っては大丈夫だった。それだけの話ね」
不安も憂いもそこにはない。明るいものを目の当たりにしているような、確信すらしている椛のその目。それには覚えがあった。
恋をしているときのわたしと同じだ。
「いくらなんでも、そんなに上手くいくかな……」
見ているこちらのほうが、不安になるそれである。
「学校だけじゃない。いざというとき、最後の最後で泣きつける相手も家にいないのよ。椛にしては、ちょっと楽観的すぎない?」
「大丈夫よ。こっちに来る際、なにかあったらいつでも連絡しなさい、って伝えてきてるから。あれから半年も経つのよ。それがないってことは、上手くいってるってことでしょ」
「……一度くらい、椛から連絡を取ったほうがいいんじゃないの?」
「したいのは山々だけど、自分で立てる内は自分で歩かせてあげたいのよ。余計な甘えを抱かせて躓かせたくないわ」
「でもさ……ちゃんと通えてるか、やっぱり心配ならない? お父さんにくらい、近況を聞いたほうがいいんじゃないの」
「高校は義務教育じゃないわ。出席日数が足りず留年なんてことになれば、私の耳に入れてくるわよ。それがないってことは、ちゃんと通えてるってことじゃない」
あれこれと不安要素を伝えてもこれである。
まるでさっきとは逆。新たな恋をしたと伝えたとき、椛にされたことと同じことをしていた。どこかに落とし穴があるのではないかと、あれやこれやと指摘する。盲目的になりすぎている相手に、客観的な目線でつつくのだ。
椛がわたしに抱いた不安、その気持ちがよくわかった。
一応、椛の話は筋が通っている。ちゃんと学校に通えているんだろうと思わないでもない。
それでも楽観視しすぎでは、と強く感じてしまう。
椛は昔から特別扱いされており、皆に一目も二目も置かれ続けてきた。本人も驕りこそはないが、客観的にその事実を受け止めている。
結果を生み出し成果を出したゆえの特別扱い。なら自分より才能溢れる妹は、まさに特別の中の特別。やる気にさえなれば、それこそできないことはない。
楓ちゃんのことをそんな風に、過剰なまでに信じているのだ。
だから学校にさえ一度通えれば、それだけで全てが解決すると思っている節がある。
それを危ういと感じているのだが、家族の問題である。親友とはいえ他家の事情。あまり突っ込んで口出しするのも躊躇われた。
それこそ椛が、わたしの恋にうるさく口出ししてこないように。
一抹どころか、大きな不安はわたしの中から消えることはない。
そしてその不安は正しい形で、来年の五月に当たることとなったのだ。




