03
時は遡ること二週間前。
前の前の前のか、前の前の前の前か、はたまた前の前の前の前の前だったか。何世代前だったかはもう忘れた。全員の名前は覚えているし、歴代の彼氏が連れて――いや、よくよく考えたら連れて行ってくれたのは、果たして彼氏だったか。その場にいたのは間違いないのだが……四人くらいで行ったものだから、そのときの彼氏の発案かと問われれば自信がない。
ともかく、当時の彼氏と行ったのは間違いない。それだけは変えようのない事実だ。
繰り返しに繰り返すが、わたしは可愛い。それは外見だけでに留まらず、その内面にも着目してもらいたい。
ぶりっ子でもなければ、一番でなければ嫌なお姫様でもない。計算高くやってはいるが、なにも考えない頭お花畑よりずっといい。他人を立てるその様は、媚びるいやらしさを感じさせないのだ。
そうやって異性以上に、同性への気遣いを心がけている。なにせ敵に回したら、一番恐ろしいのは同じ女だ。それは中三のときに、嫌というほど思い知った。例え誰かに言いたくなるような自慢話も、胸の中に留めるようになったほど。可愛いという自認アピールこそしないが、否定しすぎると嫌味になる。その辺の塩梅も上手くやっているつもりだ。
交友関係の立ち回りを、わたしは上手くこなしてきている。つまり同性受けもよく、引っ張りだこであり、そして年上からはよく可愛がられるのだ。
そんな中、お酒の味に慣れ始め、お上品な店にも行き慣れて、交友関係を十分に築いてとにかく色々と慣れ始めた頃。
姉御肌系女子に気に入られ、行きつけのお店へと連れ回されたのだ。
弟分であった当時の彼氏と、姉御の彼氏。あれをダブルデートと呼ぶほど、わたしは純情ではない。なにせ立ち飲み屋なるものをハシゴしたのだ。多くて二杯グラスを空けたところで、次の店を代わる代わる渡っていった。
バカみたいに飲みはしないが、一件につき一杯。そのくらいの礼儀を弁えていたし、自らの許容量を把握していた。記憶を失くし目覚めたら事後だった、は絶対避けるべき愚行である。
そういう意味では、当時の彼ではなく姉御に信頼を置いていた。彼氏を差し置き今日は泊まっていけ、男共には指一本触れさせない、安心して身を委ねろ、みたいなことを仰ってくれたのだ。
姉御がもし男なら、わたしはメロメロのメロメロで、恋に落ちていたかもしれない。そのくらい勇ましくカッコイイ人なのだ。
そんな巡りめく下町情緒溢れるハシゴ酒。その最終駅でそこに辿り着いた。
今までの加齢臭溢れる店とは打って変わり、こじんまりしたその店は、カウンター席のみであった。照明は気持ち暗めで、はしゃぐような会話をするのが躊躇われる。
いわゆるバーであった。
バーに踏み入れるのは初めてではない。遠回しにご褒美を与えてくれとねだられる際、二軒目三件目によく連れてこられる。
だから臆することはないし、物珍しさもない。
いつもと違うのは、出迎えてくれたのが麗しき美女一人であったこと。雑誌モデルのような身体つきに、気品あるその面立ち。お店のママと呼ぶには気後れするほどに若く、けれど学生に見えるほどの幼さはない。まさに大人の女性と呼ぶに相応しい妙齢の美人であった。
姉御はその女性をマスターと呼び、親しげに言葉を交わす。対等ではなく、かといって謙ったものではない。わたしが姉御を慕うような、尊敬すべき年上を敬うそれである。
女三人寄れば姦しい。そうなることもなく、落ち着いた会話を繰り広げ、静かに盛り上がったのだ。
……思い出した。彼氏と行ったのは間違いないは間違いだった。柔軟性を持って前言撤回できる事実である。あの日は姉御が、わたしとしっぽりムフフとしけ込むんだと、男共をシッシと帰したのだ。
朝目覚めると見知らぬ天井。隣には姉御の姿。どうやら姉御と閨を共にしたようであった。
もちろんわたしたちは女同士。そこに何事もなく、あったのは苦しいまでの二日酔いだけ。トイレとお友達になるという、男の人の前で見せられない醜態を晒したのだ。
その三日後、姉御の彼氏に口説かれ迫られ、なんやかんやあって、姉御とは疎遠になってしまった。わたしのことを悪くは言ってこないが、それでも本気の恋であったのだ。破局した原因と顔を合わせるのは辛かろう。
かくして慕える年上女性を失った先で、ふとマスターの顔が浮かんだ。
彼氏が浮気してるかも、可愛くないこの性格が悪いんだ。
わたしの前であるにも関わらず、マスターは姉御から泣き言のような愚痴を引き出していた。そしてわたしは恋の遍歴。中学二年生編まで、気づけば語らされていたのだ。
聞き上手というか、引き出し上手なマスター。
思い出すがままに再訪すると、わたしのことはちゃんと覚えていてくれたらしい。
その夜もまた、ここまで話すつもりはなかったのに、のようなことまで語ってしまっている。お酒という潤滑油がそうさせているのもあるが、こればかりはマスターの人生経験のなせる技か。これから十年も経たず、ここまでの境地に達せられるかと問われれば、わたしには無理だろうと断言できる。
すべての悩みは人間関係の悩みだと、アドラーさんも極端な格言を残すだけあり、人間レベルが高い交友関係は楽しいだけではいられない。キラキラ華の大学キャンパスライフは楽しいが、これでも気苦労は多いのだ。
一番大事にしている友情は椛である。たまに愚痴る分は許されるだろうが、会う度に薬にもならない毒を吐き出し続けば、聞いているほうだって気が滅入る。わざわざ親友に嫌な思いをさせたがるほど、友情に不義な女ではないのだ。
だからといって溜まったその愚痴を、東京で築いた友情に愚痴ることはない。何気なく零したそれが、どんな形で当人の寝耳に入るかはわからない。
女の口の軽さほど信用ならないものはない。もう一度言う、女の口の軽さほど信用ならないものはない。それは過去の全てが証明している。
だからこそマスターの信奉者になってしまったのだ。
たった二度目にして、わたしの恋の遍歴を全て吐き出してしまった。そのくらいマスターと話しているのは心地よい時間であり、憂いることなく愚痴を吐き出し続けられるのだ。マスターもそれを笑って受け止め、人生の先達者として目から鱗の神託を授けてくれる。
そうやって二週に一度。多くて週一ペースで通ってる内に、クルミちゃんなんてあだ名を付けられていた。名字である来宮から取ったものである。安直なあだ名にも関わらず、ちょっと特別扱いされているようで嬉しかった。
心の内を簡単に引き出す大人の魅力。もしマスターが男性であったなら、今頃メロメロのメロメロであり、恋に落ちていただろう。それほどまでに、マスターはそこらの大人とは一味も二味も違うのだ。
そうやってわたしは、すっかり店の常連となっていた。
マスターの店に訪れるときは、チェーンのサンドイッチ店のサラダで夕食を済ませるのが恒例となっていた。そのチェーン店が大好きなわけでもなければ、菜食主義というわけでもない。そこそこの味かつ、軽くお腹に溜められるからだ。
ではなぜお腹に溜めるかと言うと、マスターからの助言である。空の胃にお酒を流すとすぐに酔いが回ってしまうから、軽くでいいから来る前になにか食べてきなさい、と。みっともない酔い方をしないための予防対策であった。
その日もまずは、サラダをペロリとするためにこの足を伸ばしていた。
帰宅ラッシュの時間帯ということもあり、道行き人たちの足取りは慌ただしい。それこそ電車一本乗り遅れただけで、取り返しのつかない災厄に飲まれる。街の雑踏はそう信じ切っているようだ。
この身は階段を下っている。それこそ落ちていく夕日のように、時間に追われずゆったりと。一歩一歩踏みしめていた。
忙しないこの街は、そんなノロマを許せなかったのか。緩慢な動きに相対するように、時間に背中を押された者が駆け上がってきた
端に寄っていたこの肩と、我が物顔で中央を行くその肩がぶつかったのだ。
ふいに襲った衝撃は、バランスを崩すには十分すぎる。後ろに倒れ込まんとしたため、咄嗟に前のめりになろうとしたのが悪かった。
「あっ」
勢い余って、そのまま前に倒れ込もうとしたのだ。下り階段のその先に、転がり落ちていく未来が脳裏によぎった。
かくしてそれは落ちていった。階段に何度も打ち付けながら、終着点まで止まることはない。最後にはコンクリートに叩きつけられて、その回転は終わりを見せた。それはピクリとも動くことはない。
当然だ。なにせ無機物。社会人がよく手にしている鞄なのだから。
呆気にとられながらも感じたのは、腕に込められた力強い熱量。
鞄の行く末を見届けた後、腕を引かれるがままに振り返る。
「大丈夫か?」
わたしを慮る声がかけられた。
腕に感じる熱量はこの身を繋ぎ止めた手。もう一方は手すりを握りしめており、どちらかが鞄を投げ出したものであった。
黄金色に焼けた空。それを背にした姿は、まさに後光を差しているかのように眩しかった。
この胸の高鳴りは、身の無事を案じたものから出たのではない。では一体なにが原因で引き起こされたのか。その想いと向き合う時間は今はない。
「あ、ありがとう、ございます……」
体勢を立て直したわたしは、差し出すべき感謝をまず述べた。
まさに間一髪。考える間もなく、救いの主は手を差し伸べてくれたようである。わたし以上に、この身が無事であることをホッとしてくれた顔だ。
ここは階段の道中。いつまでもいても邪魔である。
落ちていった鞄を追い、通行人の邪魔にならないよう避けた先で、
「本当にありがとうございました」
深々とこの頭を下げたのだ。
「その、鞄が……」
そして上げた先で、代わりに犠牲となったスケープゴートに目をやった。
今回の出来事は、わたしの不注意で起きた出来事ではない。それでも見ず知らずの他人を助けるために、咄嗟に鞄を投げ出されたのだ。申し訳ない気持ちが湧く善良性くらいは持ち合わせていた。
「ああ、いいよいいよ、気にしないで。どうせ安物だ」
けれど救いの主は、あっけからんと鞄を叩いて汚れを落とすだけ。
そこで初めて、救いの主の姿をまじまじと見た。
社会人。それ以上形容しようがない、スーツ姿の二十代男性だ。その外見に尖った特徴こそ見いだせないが、どこに出しても恥ずかしくない清潔感溢れる身なりは、それだけで好印象であった。
特にその社会人装備。決して高い物ではないだろうが、クリーニングに出したてのような佇まい。今日が特別なのか、はたまたいつもこうであるのか。もし後者であるならば、手放しで褒められるほどだ。
さて、誰もが知る通り可愛いわたしであるが、まるでドラマのような展開で助けられた。
可愛いなんて挨拶のように言われ慣れているが、このまま続けて、
『可愛い女の子の身体が傷つくほうが、よっぽど問題だよ』
なんてキザったらしい台詞をさらっとかけられようものなら、メロメロのメロメロになってしまうだろう。
ただしそうはならなかった。
「じゃあ、気をつけて」
救いの主はあっさりと立ち去ってしまったのだ。
ドラマのような展開で、ドラマのヒロインのように可愛い女の子を助けながら、下心を抱くことも、次の縁を繋ごうともしてこない。
まさに当然のことをしたまで。
そう言わんばかりの背中に、この胸は再び高鳴った。
熱を帯びているのを感じているのだ。赤く染まっているはずのこの頬は、夕焼けのせいなんかではない。
まさにメロメロのメロメロである。
「あっ」
と階段から落ちそうになったときの音を漏らした。
この身の代わりに落ちたものに気づいてしまったからだ。
恋。
二年ぶりに会得したその感情は、この胸を満たしに満たしていたのである。
もう忘れんとしていた恋の情熱、その甘さ、満たされたときの幸福。それを思うと胸が踊って仕方ない。
が、同時に失敗したと思い知ったのだ。
余韻に浸り一歩も動けずにいる内に、恋した背中を見失っていた。
二年ぶりの恋に出会えたというのに、二度目の出会いかたがわからない。
後十秒早く恋心を自覚していれば、その背を追って、お礼をさせてくださいからの次に繋げられたのに。
「あぁ……もう!」
自らの愚かさを責めるように頭を抱えた。
会いたいがどこで会えるかもわからない。歩道橋でこの時間、偶然を装い待ち伏せしようかと考えたが諦めた。毎日ここを通っているとは限らない。むしろあの身なり、営業職の可能性もある。たまたま今日はこっちに足を伸ばしていただけ。一回きりの可能性もありうる。
新たな恋に出会いながらも、早速逃してしまった。
その後悔は悲哀という名の槍となり、恋する胸に深く突き刺さる。
漏れ出した嘆息と共に肩をすぼめた。
枷をつけられたような足取りで、トボトボと予定の地へ向かう。
エビとアボカドサラダを突き回しながら、何十ものため息を吐き出し続けていると、あっという間に夕日は沈んでいた。
黄金色に焼けた空を背にした、救いの主の姿が頭から離れない。
ドラマのような展開は助けられるまで。その後あっさりと別れてしまった。
恋を愛する乙女であれど、ある日ばったりなんて偶然を期待するほど、ハッピーな頭ではない。もう二度と出会えないくらいの諦めがこの胸をしめていた。
どこか意外な場所、それこそ足繁く通うお店などでの再会なんて、ドラマの世界だけ。もしそんな奇跡がこの身に訪れようものなら、まさしく赤い糸で結ばれた運命である。
運命の赤い糸。どうやれば手繰り寄せられるのか。
予定とは違った相談、という名の愚痴話。マスターが喜びそうなそれを手土産に、日常と非日常の境界線たる重厚な扉。それを開け放ったのである。
「あら、いらっしゃいクルミちゃん」
「こんばんは、マスター」
慣れたように挨拶を交わし、定位置に付こうとしたところで先客に気づいた。
オープンしてまだ三分と経っていない。一番ノリだと思っていた先での先客だ。
別にそれは驚くほどのことではないのだが、空にしたグラス、それをマスターに差し出しているところであった。
いくらなんでも、提供から空にするまでが早すぎる。
面を食らいそうになった先で、
「あっ」
その横顔に驚嘆した。
本日三度目の漏れ出た音。
新規客に見向きもしなかったその横顔は、その音に注意を引かれたようにこちらを向いた。
「あれ、さっきの?」
救いの主がそこにはいたのだ。
赤い糸によって手繰り寄せられたとしか思えない。まさにドラマのような運命の再会が、ここで果たされたのだ。




