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雇用一日目。
すぐさま部屋へと引きこもった。早速職務に従事る様は、まさしく自宅警備員の鑑と言えようか。
まさか自分が、ラッキースケベの加害者になる日が来るとは。
五分ほどしてから「落ち着いたら呼んでくれ」と、ふすまの向こうから声がかかった。
雇用主の優しさに甘えながら、一時間ほど職務を全うしたのだ。
昨日と同じ衣類に着替え、『もう大丈夫っす』と送ると、「昼飯にするか」との声が返ってきた。
今更ながら、パソコンの右下に目を移し、お昼時であったことを知る。どうやら本当に、わたしはぐっすりと眠っていたようだ。
狂人リビングに出ると、センパイとの本日二度目の顔合わせ。
顔を真っ直ぐと見据えようとしたがダメだった。すぐに顔を俯かせてしまう。コミュ障を発動したのではない。乙女の恥入りである。
入社早々のトラブル。センパイはそれをからかうでもなく、蒸し返す真似もせず、
「ほら」
とスマホを差し出してきた。
リンゴ印のそのスマホ。トイレに捨ててきた物と同じメーカーだ。
差し出されたそれを受け取ると、ずっしりと重く感じた。慣れ親しんだ物より一回り大きく、小さなこの手に余る一品だ。
「これから家事のなんたるかを教えていくわけだが、パソコンから離れたら受け答えできませんじゃ不便だろ? だからそいつを使え」
マジかこのセンパイ、と思わず目を見開いた。
「普段の会話はそいつでいい。その代わり、一言二言くらいの返事はなるべく声にして慣れてってくれ。どれだけ吃っても笑わん。声帯は筋肉だからな。使っていけば、その内普通に喋れるようになるだろ」
「……は、は、は……はい」
「よし、良い返事だ。この調子でいくぞ」
気持ち悪い吃りに、センパイは嘲笑うのではなく笑ってくれた。
うるさい口だけの父や、優しいが強引に手を引こうとしてくる姉さん。わたしへ抱く感情は相反しながらも、求めてくるのはいつだって同じこと。
両手を使わないと計算できない幼児に、数学を学ばせる蛮行である。愚かにもあの二人は、それで会得できると信じ切っているのだ。
一方センパイは、小学一年生の算数ドリルと共に、計算機を差し出してきた。まずはこれで数字に慣れることから始めろと。これならわたしでもできそうだと、自信とやる気をセットで与えてくれたのだ。
センパイとは五年の付き合い。しかし出会ってまだ二十四時間も経っていない。仮にも生まれてからずっと家族だった人たちとの差に、愕然とすらしていた。
どこまでもわたしの心に寄り添い、全てをお膳立てしてくれるその姿は、まさに神の擬人化である。尊敬を通り越し畏敬の念をこの胸に抱いた。
この環境で頑張ろうと、わたしは改めて誓ったのだ。
自宅警備員の研修はかくして始まった。
お昼ごはんはどうやらナポリタンとのこと。今日は見学でいいからと、横で作られていく様を眺めていた。
家庭科の調理実習すら未経験であるが、調理風景を見たことがない、なんてことは流石にない。母が生きていた頃は、リビングで一緒に調理番組など見ていたし、料理アニメやマンガなどから、偏った知識ながら取得していた。
ナポリタンがどんな風に作られていくか。なんとなくだが想像はできた。が、真っ先にケチャップを炒め始めたときは、なにをやっているんだと目を丸くした。
他にも炒めたソースに水を投入したり、予め水に漬け込んだパスタを取り出したりと、自分では想像もしていなかった工程を経て、フライパン一つで出来上がった。
少食であるにも関わらず、少し多いなと思った量がペロリ。奇抜に映った工程から生み出されたとは思えない美味しさだ。
センパイの意外なまでの料理スキル。誰かに教えてもらったのではなく、どうやら全て独学らしかった。
ネットで調べれば大体のことが、動画解説付きでわかる。こういうのは慣れだ慣れ、という様に感心した。
次は洗濯である。籠に溜まった衣類を、洗濯機に全て放り込んでポチっとな。と考えていたのだが、ワイシャツを裏返し畳んでから、洗濯ネットなる物に入れる工程を挟んでいた。一つ一つその手順と解説を挟み、その必要性が説かれていく。
洗濯機が回っている間に掃除機がけ、トイレ掃除などを行う。それが終われば洗濯物を干しながら、ワイシャツにスチームアイロンなるものをかける。下着類などは週一でまとめてやるが、ワイシャツだけは面倒でも毎日洗っているとのこと。
社会人としてセンパイは、身なりと清潔感を大切にしている。そこにシワや黄ばみがあるのは許せない。下着類はこれからも自分でやるから、ワイシャツだけはこれから頼むなと任された。
社会人の一人暮らし。折角のお休みだというのに、これだけの家事をやらなければならない。いざ手を動かせば二時間かからないとはいえ、週五で働いた先でこなすのは確かに面倒だし億劫だろう。家事を任せられると助かるというのは本当のようだ。
料理はともかくとして、今日教えられた洗濯掃除はすぐに実践ができそう。センパイがそれで助かるなら、このくらい毎日でも喜んでやれる。成人男性の下着類を手に取ることについて、乙女の煩悶はあるが『全部頑張るっす』と引き受けた。
センパイは少しずつ覚えて、やれることを増やしていってくれればいいと言ってくれた。こんな重荷を背負い込んだにも関わらず、よちよち歩きを許してくれる。
でも自分なりに、早くセンパイを楽にさせたい、役に立ちたいという意気込みがあった。
料理についても、すぐに覚えたいと乞うた結果、そこまで言うならやるだけやってみるかと、夕方を待たずして実践の場に立たせて貰えた。
今日は定番のカレーである。
生まれて初めて包丁を握った。これを扱うときは絶対に、無敵の人となったときだろうと信じてきたが、最初の犠牲者は玉ねぎくんだった。
親切丁寧にお手本を見せて貰った後に真似をする。指を切らないよう見守られながら、センパイなら十秒で終わるだろうそれを何分もかけて。
その繰り返しの果てに、初めての料理を完成させた。
ほとんどセンパイが作ったような物なのに、
「うん、美味い。初めてでこれは上出来だ。流石神童だな」
とわたしの手柄のように手放しで褒めてくれる。
初めて作った料理。お手伝いさんが作ってくれた物の方が味が良いはずなのに、比較にならないほど美味しく感じた。
それこそ遠い過去とすら感じる、母が作ってくれたご飯に似ている。
ああ、と。この美味しさの秘密にすぐに思い至った。
温かいのである。
ただの栄養補給として口にするそれではない。楽しさと幸せという温かみこそが、この美味しさを生み出すのだ。
泣きそうになるのを堪える。
気を使ったセンパイが、食事のときは別々にしてくれた。お昼のご飯のときのように隣部屋で、折りたたみの机の上で食していた。
だからここでもし泣いてしまえば、その音がセンパイに伝わってしまう。こんな形で心配はかけたくなかった。
その後、洗い物を教えて貰い、なんだかんだで十七時を越した辺りか。
「レナ。一人にして悪いが、ちょっと出てくる」
『買い物っすか?』
パパっと返信すると、センパイのスマホが通知音を鳴らした。
「いや、ガミの店だ」
ガミ。センパイの友人の名だ。
どうやらガミさんのお店はバーらしく、金曜日は必ずそこで過ごしているとのこと。
確かに今のセンパイは、ちょっとそこまで買い物に、という格好ではない。部屋着のジャージから一転、カットソーのシャツの上にジャケットを羽織っている。バーでのTPOに相応しい姿であった。
「一応言っておくが、ただ飲みに行くわけじゃないからな? 流石の俺も、そんな理由でいきなり一人きりにする真似はせん」
ここはホラーハウス。二階で一人になるのすら恐れたわたしを、慮ってくれているようだ。
「自宅警備員雇用について、ガミに説明してくる」
「え……」
ついそんな声が漏れ出した。
センパイは保身に走ることに関しては一流である。未成年の家出娘を匿っているなんて、絶対に知られてはならない。一時の優越感のために、誰にも言うなよ、というつもりではないだろうが……どういう意図だろうか。
「大丈夫だ、おまえが思う心配はない。ガミは非遵法性の享楽主義者だからな。後から知って、なんでこんな面白いことを隠していたんだ、ってなるほうが厄介だ」
非遵法性の享楽主義者。
また凄いパワーワードが出てきたが、確かにその通りかもしれない。
ガミさんはセンパイの幼い頃からの友人で、人体改造を施し男から女になったようだ。それも精神上の性の不一致でもなく、女に目覚めたわけでもない。男をやるのにも飽きたから女になってみた、だ。センパイはそれを、ソシャゲの性別変更の感覚だと語っていた。
わたしたちの状況を面白いことで括るであろう辺り、そういう人間性なのだろう。姉さんとはまさに真反対である。
「ならいっそ全部ぶちまけて、協力を仰いだほうがよっぽどいい。男じゃ足を踏み入れられない聖域にも、ガミなら問題なく踏み込めるからな」
この屋根の下にどれだけいられるかはわからないが、長期滞在するのならば目を背けられない問題が出てくる。
女性用品の購入だ。下着類から始まり消耗品などあげていくとキリがない。センパイにそれらを手に入れて貰うには、お互いに難易度が高すぎた。
「遅くなるかもしれんが、大丈夫そうか?」
「は……は、はい」
センパイは避けては通れない問題を、解消しようと動いてくれるのだ。なら怖いから一人にしないでくれ、なんて甘えを許してはならない。このような形でセンパイの足を引っ張る真似はしたくなかった。
「いい返事だ。その調子で自宅の警備は頼んだぞ」
雇用主はかくして、職務を全うしろと言い残していった。




