09
あの父親は昔からそうだった。
自ら起こした事業と、上級国民との繋がりを求めることに人生を捧げている。家族全員で食卓を囲う、なんて団欒があった記憶がない。食事を共にするときは、外へ向けたアピールで連れ出されたときだけ。母よりインプットされた子供の生み出した結果と成果を、知った顔でアウトプットするのだ。
それでもわたしの人生は幸せだった。
なにせ母がいた。いつだってわたしを守ってくれた。いつだって甘えさせてくれた。父は育児や教育方針の全てを、母に丸投げしていたおかげだ。
結果や成果は出しているので「引っ込み思案なところに困ってるんですが」と父は笑って、わたしを外部に紹介していたのだ。
実際、幼き頃のわたしは引っ込み思案だった。今みたいに絶望的なコミュ障ではなく、学校もしっかり通えていたのだ。
可愛がってくれる姉さんのことも大好きだった。しっかりと意思を示し、押し通せるカッコよさに憧れていた。いつだってこの手を引いてくれたことが嬉しかった。
母が亡くなったことで、そんな幸せが崩れ落ちたのだ。
死因は深く語るようなものではない。ルーチンワークのような買い物、そんな出先での事故に巻き込まれただけである。
それを知らされてから、納骨までの流れも語るほどでもない。よくある被害者家族のそれだ。
忌引き明けを待たず、父はすぐに仕事へ復帰した。その様はまるで、突発的なトラブル処理が終わったかのようだった。
忌引き後、すぐに姉さんは学校に復帰した。悲しくて辛いのと、与えられた権利の過剰行使は別だとばかりに。
一方、わたしはいつまでも塞ぎ込み、現実を受け入れられずにいた。
二週間、三週間、一ヶ月。
いつまでも学校に行かないわたしであったが、父に学校に行くよう促されることはなかった。
わたしは神童である。少し長く休んだところで、遅れはすぐに取り返せるだろうと放置されていたのだ。
姉さんもそんなわたしを励まし、寄り添い続けてくれた。
しかしそれが、三ヶ月、四ヶ月となると、父もその痺れを切らしたようだ。
死んだ人間のことを、いつまでも引きずっている。さっさと学校へ行け。結果と成果を生み出せと、わたしをなじり罵ってきた。父にとって母とは所詮、家族システムの部品に過ぎない。失ったところで大きな損傷がないものと捉えていたのだ。
姉さんはそんなわたしに優しく諭すのだ。貴女がどれだけ辛くて悲しいかは、よくわかっている。だって私たちは姉妹だもの。その気持ちは誰よりも理解している。でもいつまでも塞ぎ込んでいてはいけない。天国で見ているだろう母のためにも、この悲しみを乗り越えないといけないの。
正論である。
どこまでも正しく、模範的な社会の解答だ。
姉さんに手を引かれるがまま、社会の箱庭に戻されたのである。
わたしに親友はいない。それでも引っ込み思案なりに、グループには所属はできていた。受け答えだってしっかりできていたし、神童として教えを乞われるのも日常茶飯事だ。
そんな彼女たちから、復帰を喜ぶ声と、そして慰めの声を沢山かけてもらった。数カ月も顔を見せずにいたわたしを、厭うことなく受け入れてくれたのだ。
素直にそれは嬉しかった。姉さんに手を引かれてきて良かったと、喜びすら感じていた。
だからわたしは、彼女たちにお礼の言葉を告げたのである。
「あ、あ、あ、あ……あり、がとう」
自分でも初めて聞いた、吃ったその声で。
姉さん相手にすら、満足に会話を重ねてこなかった。だから舌の回りが深刻なまでに錆びついていたのだ。
彼女たちはそんなわたしを、未だ母の死から立ち直れていない、ただの悲哀だと受け入れてくれた。
だから、
「あ、あ、あ、あ……あり、がとう。だってよ!」
ギャハハと笑ったのは、お調子者の男子だった。
「あ、あ、あ、あ……」
吃った部分だけを再び彼は繰り返す。
頭も素行も悪いその男子のことが、昔から大嫌いであった。なにかにつけて絡んできて、わたしで笑いを取ろうとするのだ。
そんな彼はクラスの中心的存在である。彼が笑いをもたらせば、それを呼び水に男子たちが追随する。教室が笑声で包まれるのだ。
今回もまた、同じことが起きただけ。
いつものように友人たちが代わりに憤る。他の女子生徒も味方について「ちょっと男子ー」と声を上げ、性別による対立が起こる。
わたしはその影に隠れて、笑いの台風が通り過ぎるのを待つのであるが、今回ばかりはそうならなかった。
教室に響いた笑声が、わたしには嘲笑にしか聞こえなかった。
母の死を乗り越える。そんな模範的な社会の解答を出すために、姉さんに手を引かれながらも箱庭へと戻ってきた。
なのになぜ、こんな仕打ちを受けねばならないのか。
模範的な解答を求めてやったきた場所で、啼泣という形で応えたのだ。
嘲笑は白けるように収まった。次の瞬間にはざわめきだし、ことの発端の男子は責め立てられ、彼は道連れを作るかのように、笑った全員が同罪だと喚き出した。
担任が来るまで騒ぎは収まらず、最後にわたしは保健室へと送られた。気持ちが収まったら、教室に戻ろうと優しい声をかけられたのだ。
次の日も、
次の日も、
そのまた次の日も、
ずるずるずるずると教室への階段を登ることができずにいた。
わたしは神童である。授業なんて出なくても、遅れの全てをすぐに取り戻した。元々、その先すら一人で走り抜けていたのだ。やってることは復習と変わらない。
優秀すぎるがゆえに、先生がたも成績を盾に取り、教室へ戻るよう促せなかったのだ。
父もまた、結果と成果を出すそんなわたしに、箱庭に戻ることを強いてこなかった。自走だけで結果と成果を生み出せるのなら、好きにしていいとまでお達しがくだった。
かくしてわたしは、二度と教室に足を踏み入ることはなかった。
週に一度だけ登校し、保健室でテストだけ受ける学校生活。三桁以外の数字なんて見たことがない。自分の教育方針はこれで正しかったのだと、父は己の偉業のように誇ってすらいた。
姉さんはこのままではわたしのためにならないと、父を説得しようとしたようだ。だがそれは全て跳ね除けられた。あんな猿どもにわたしの才を潰されてなるものかと、理解者ぶって語っていたようである。
ならばとわたしを説得しようとしたが、無駄である。この頃には最強スキル、顔を俯かせて黙って乗り越える、を会得していた。
わたしのことを誰よりも想ってくれる姉さん。憧れてきた。いつも優しく引いてくれるその手が大好きだった。
いつしかその引いてこようとする優しい手が、嫌になった。煩わしくなった。放っておいて欲しかった。
姉さんから逃げるように、部屋に引きこもる日々。
こうして日々の会話の相手を捨て去ったわたしは、日に日に発声スキルや、自己主張の術を衰えさせていったのだ。
絶望的なコミュ障を育てる土壌は、かくして誕生したのである。
姉さんはやはり間違えていなかった。間違ったのは楽な道を選んだわたしと、父の教育方針である。教育や子育てを知らない男が、ある日ポン、と大きな子供を託されたのだ。ある意味、当然の帰結である。
父が失敗を悟ったのは、高校受験を控えた最後の一年。その始まり。高校は義務教育ではないと思い出したのだろう。
急遽教育方針を変えようとも、わたしには最強スキルがあるので無駄であった。父も父で忙しい時期であったので、いつまでも相手をしていられない。
だから思い出したように説教をしてくる様は、まさに滑稽であった。だってそうであろう。教育と子育てを頑張ってきた、父親の真似事をしているのだから。
よくもまあそんな恥知らずな真似ができるものだ。そんな真似をして許されるのは亡き母や、わたしのことを想い続け、どうにかならないかと模索してきた姉さんだけである。
心に寄り添った結果の失敗なら、また話は別だ。だがそんなことは一切ない。父が今日までしてきたのは、子供が生み出す結果と成果を買ってきただけである。黙って払えば買えていたものが、このままでは非売品になると焦ったに過ぎない。
以上が、我が家の実情である。文野家でまともなのは、姉さんだけなのだ。
こんな話、いくらレナファルトでも陽気に茶化して語るには、あまりにも生々しすぎる。
なのでこれ以上は、センパイに語るつもりはない。折角噛み合った歯車が、またズレるのはごめんである。
「待て、東京の姉さん?」
だからセンパイが、そちらの方に気を取られてくれて助かった。




