03
不登校の引きこもりの朝は早い。わけではない。むしろいつもは遅いくらいだ。
今日は日の出前に、特別早起きしただけ。キャリーバッグを片手に家出をするのだから、お手伝いさんに見られるわけにはいかないのだ。
始発の三十分前には最寄り駅へと辿り着き、昼前には上京を果たしていた。
ストリートビューは本当に凄い。まさか空港内まで網羅しているとは。おかげでわたしの足は一切の迷いはない。絶対に人と会話をしたくないという鋼の意思が、入念な下調べのもとわたしを軽々と東京まで導いた。
次はセンパイの最寄り駅までどう向かうか。
最速はモノレール発の、乗り換え一回の一時間。だがこれは却下である。
ルートと立体地図は全て頭に入っているとはいえ、慣れない地での長距離移動。下調べでは足りなかった事態に遭遇し、人に尋ねるようなアクシデントは絶対に避けたい。
なので選んだのは、一本で行けるバスであった。
次の便まで何時間も待たされ、到着する頃には帰宅ラッシュの時間帯。常人なら忌避するところであるが、むしろそれでよかった。端からついでにとばかりに、東京観光なんてするつもりはないのだから。
なにせ平日の日中にも関わらず、空港内はゴミのように人が溢れていた。観光地のどこもかしこもこんな感じなのだろう。秋葉原に興味はあったが、こんなゴミのような雑踏に紛れるなど死んでもごめんである。
下調べの中で、空港ラウンジというものを知ったわたしは、そこで時間を潰すことに決めていた。電源完備でソフトドリンクが飲み放題。しかも無線環境まで整ってたったの千百円。そんな神環境があるのかと目を疑ったくらいだ。
折角東京に訪れたのだからと、美食に走ることこそが王道であろう。しかし店員と会話するなんて難行は耐えられない。セルフレジという神システムが導入されたコンビニで昼食を調達すると、わたしは空港ラウンジへと引きこもったのだ。
受付は受付で苦行であったが、失声症を装って、予め文章を打ち込んだスマホ画面を見せるとあっさり入れた。
平日の日中ということもあり人はまばら。まさに理想的環境だ。
さあ、時間までネトゲをやるぞ! なんてことはない。下調べはどれだけやってもやりたりない。空港内の人混みに圧倒されたわたしは、何度やってもやりたりないとばかりに、下調べを重ね続けた。
センパイとの合流ポイントを吟味し、周辺の地形を頭に叩き込み、無線環境が整った店を調べ上げた。なにせこの先はもう、ネット回線は自由に使えない。
わたしはここでスマホを捨てるつもりなのだ。
近年のスマホの進化は目覚ましすぎる。なにかの拍子で親名義のこのスマホから、潜伏先や移動ルートを探られる可能性を恐れたのだ。
バスまでの空いた時間は、そうやっている内にすぐに潰れた。
トイレに置き忘れたふりをしてスマホを捨てたわたしは、そうやってバスへと乗り込んで、目的地へと辿り着いた。
センパイの最寄り駅。
帰宅ラッシュの時間帯ということもあり、想像を上回る雑多な人混み。観光地でもないというのに、東京はこんなにもゴミで溢れているのかと圧倒された。
周辺の地形は頭に入っている通り。特に迷うことなく世界一有名なバーガー店に潜り込み、メモ帳による筆談でコーヒーを手に入れた。
二時間ぶりにネット環境を手に入れたわたしは、後はもう待つだけだった。センパイが仕事を終え、友人のお店に辿り着くだろうその時間まで。
そこまで来てようやく、そわそわと落ち着きが失われた。
後少しでわたしの未来が決まる。
家族親戚田中道連れエンドか。はたまた延期か。
それだけではない。延期に至ったということは、センパイと対面を果たせたということ。
どんな人なのだろうかと、幾重にも想像を重ねた。思いを馳せた。
わたしがまだ幼き無垢であった頃。テレビで見るようなカッコイイ人を、常にその頭に思い浮かべていた。
ただしネット社会にどっぷりひたり、酸いも甘いも噛み分けてきた今のわたしに、そんな頭お花畑な楽観さはなかった。
ネトゲをやっているような人間が、イケメンなんてことはまずあえりない。期待するだけ無駄である。ステレオタイプなデュフフオタク。はたまた不健康に青白い肌をした、頭ボサボサの引きこもりか。
センパイはしかしオタクなところはあっても、引きこもりではない。一人暮らしで生計を立てている社会人だ。なら、どんな人かは決まったようなもの。
牛丼屋でチーズ牛丼食べてそうな人だ。
わたしはセンパイに救いを求めてやってきた。
叶うのであればセンパイの家へと転がり込んで、現実逃避の日々を送りたいと。
成人男性の家に転がり込む。
わたしはその意味をしっかりとわかっている。どれだけの迷惑をかける行為であるかを。
だからその迷惑をかける代償、その対価を差し出す覚悟は決めてきている。上級国民ジジイの慰みものバッドエンドと比べれば、センパイと戦場を駆け抜けるのは頭ハッピーエンドである。俺たちの戦いはこれからだ!
心が開ける相手として、センパイのことは尊敬している。わたしの人生の唯一の彩りであるとも言えるほどに。
わたしはだから、こう願った。
お願いします神様。どうかわたしに、チー牛社会人をお与えください。
いくらセンパイを尊敬しているわたしでも、生理的嫌悪感を抑えるにも限界がある。イケメンだなんて高望みはしない。チー牛でいい。だからステレオタイプのオタクや引きこもりは勘弁してください。
心にそう強く願ったのだ。
センパイと会えるのは凄い楽しみである。だが開けてみるまで、どんな姿が眠っているかわからない。まさにシュレディンガーの箱だ。
そして良くてチー牛面なので、わたしのセンパイ観に大きな傷が入ってしまう。そう思うと会いたくないような気もしてきた。
シュレディンガーの箱と二律背反の煩悶を背負いながら、時は流れ、わたしの見込んだ時間になっていた。
PCのメッセンジャーアプリを開き、
『センパイ、オフ会しましょう』
までタイプして、エンターを押せずにいた。
なぜか。
オフ会ゼロ人を恐れたからか。イエス。
センパイ観を壊したくなかったからか。イエス。
シュレディンガーの箱が開くのに物怖じしたのか。イエス。
ようは直前になって、ビビったのだ。
飛行機の距離まで救いを求めに来ておいて、センパイと会うのが怖くなった。それ以上に、今更センパイを巻き込むのを躊躇ったのだ。
そうやって十分、二十分と覚悟が決まらぬうちにうだうだとやっていると、
「ひゃっ」
「あ、すいやせーん」
突如としてこの背中が打たれたのだ。
どうやらよそ見をしながら歩いていた、陽キャ集団の一人の肘がぶつかったらしい。ヘラヘラしながら、軽薄な謝罪だけが残されていった。
「……あっ!」
小さな悲鳴をあげてしまった。
置いていた指がエンターキーを押し込んでいた。覚悟が決まらぬままメッセージが送られてしまったのだ。
頭を抱えんばかりの焦燥感。
お願いしますどうかこのメッセージに気づかないでください、とまで強く願ったのだが、
『いきなりどうした?』
一分もかからないレスポンスを持って、その返事は返ってきたのだ。
センパイにとってのわたしは、一閃十界のレナファルト。
ネガティブなことだって陽気で明るくネタにする、ボケなければ死んでしまう重病者。
ここで間を空けると、レナファルトの沽券に関わる。
『親と将来の話でちょっと。現在敵前逃亡中』
十秒かからず、わたしはそう返したのだ。
一切の嘘を交えず、かつ陽気に。なにやってんだこいつ、と思われるくらいが丁度いい。
『おまえ住みは札幌とか、前に言ってなかったか?』
ネットリテラシーを遵守しているとはいえ、ざっくりとした居住区くらいは伝えていた。だから飛行機の距離をどうするのかと疑問符を掲げるのは当然だ。
『ダイナミック家出っすよ』
『ダイナミックすぎだろ』
予想通りの反応につい、ふふっと笑いが漏れてしまう。
さっきまであれだけ躊躇していたのに、レナファルトがいつもの会話を繰り広げていた。
『いつからそんな計画を立ててたんだ?』
『昨日。初めて飛行機乗ったわ』
一分ほど返事が途切れた。
おそらく画面の向こうで、声を上げるほどに驚いているのだろう。もしかすると「はっ!?」なんて叫んだかもしれない。
『行動力すごすぎだろ』
『せやろ?』
『こっちに頼れる友だちでもいるのか?』
『パラヒキニートに友だちなんているわけないだろいい加減にしろ!』
すっかりこの手には、レナファルトがログインしていた。
センパイは今頃、こんなレナファルトに呆れ、そして心配してくれているかもしれない。
どれだけ行動や言動がハチャメチャでも、いつだってそれはネットの世界の中で完結してきた。それが実態を持ち、現実でレナファルトが動き出したのだ。
文野楓では決してありえない。
レナファルトだからこそ、ここまでわたしは来れたのだ。
だから次に差し出すメッセージは、レナファルトにしかできない願い事であった。
『そんなわけで、センパイ、自宅警備員の雇用はいかがですか?』
名前も顔も歳も声もわからぬ、現実ではほぼ他人の相手に、雇ってくれだなんて頼んだのだ。
『まさか俺をアテにして家出してきたのか?』
『イエス。毎晩の宿をヘルプミー』
センパイの返信は一度止まった。
流石のわたしも『ほんとファンキーな奴だ、いいぜ雇ってやるよ』なんて甘い返事がすぐにもたらされるとは思っていない。
いきなり家出を助けてくれと求められ、センパイは戸惑っているだろう。
今頃ため息をついている、よくてチー牛面が頭に浮かぶ。
それでもセンパイは、そんなレナファルトを無碍にしない。卑怯なわたしはそれがわかっているのだ。
わたしは神童だ。センパイの思考をトレースし、次の行動はすぐに予想がついた。
会話の引き伸ばしだ。
ならやるべきことは決まっていた。
会話に乗せ、一発で釣り上げることだ。
『図々しすぎて笑う。これはオフ会ゼロ人ですわ』
『ええんか? 実はワイ、巨乳JK美少女なんやで。今なら初回特典で処女膜がついてくる』
『秒で迎えに行くわ』
『センパイチョロすぎマジ笑う』
思い通りになりすぎて、口元を両手で抑えるほどに笑ってしまった。
父や姉さんが見たら、わたしにこんな機能がついていることに驚愕するだろう。
改めてわたしはこう思ったのだ。
やっぱりセンパイと、こんなバカみたいな会話を重ねているときが一番楽しい。
『今夜は俺のグングニルが火を噴くぜ』
『ヤベーよヤベーよ。長年守り通した城門がついに破られる』
それこそ涙が出そうになるほどに。
センパイとの時間があまりにも眩しかったのだ。