07
楓のためを思って、私は今までやってきた。それこそが幸せな人生を歩める、正しい在り方と信じて。
でも、その裏に潜んでいた私の現実。
自覚せず覆い隠してきた私の真実
私の考える最高の文野楓の生き方。そこにあったのは、楓の心に寄り添った幸せは考えられておらず、あったのは、自分の幸せだけを追求したものだった。
それをあなたのためを言っているのと、私は誤魔化してきた。そうしている内は、自分のしていることを正当化できるから。どれだけ酷い中身でも、周りは私のやっていることは正しいことだと見てくれていた。
それを酷い人間だと責め立てられるのは、仕方のないことかもしれない。
だけど、
「でも、あんただって……同じじゃない」
「は? 俺がテメェと同じ?」
この男にだけはこんな風に責められる謂れはなかったのだ。
「だって、あんたは楓の未来のことを考えていないじゃない。やってることは、居場所を与えて甘やかしているだけ。でもそれは仕方のないことだって……自分の間違ったやり方を正当化してるだけじゃない!」
私が非難されるべきなのはわかった。自分のやっていることを正当化しながら、それをまるで自覚してこなかった。自分がどれだけ卑怯なことをしてきたのか、思い知らされた。
でも、そうやって私が正当化してきたことを追求するなら、この男だってまた、自分のやっていることを正当化している。
社会に背いた間違ったやり方を、楓のためを思うなら仕方のないことだって、正当化しているではないか。
昨日から一方的に責められ続けたが、ようやく――
「おいおい、聞いたかガミ」
痛いところを突いたと信じてたのに、
「俺が間違ったやり方を正当化しているとか言い始めたぞ、こいつ」
酷い見世物を前にして、その滑稽さに嘲笑ったのだった。それこそ笑いを堪えきれず、喉に流し込んだものがむせているほどに。
「く、ククッ。……また、えらく的はずれなことを言うわね」
明神さんもまた、口元に手を抑えながら笑いを堪える。
「椛ちゃん。残念ながら、タマにそんな素晴らしい心は宿っていないわよ」
「え……」
物を知らぬ子に諭すような物言いに、ただ呆気にとられた。
田町はグラスの中身を空にすると、薄ら笑いを向けてきた。
「いいか、クソ姉。テメェのいう、間違ったやり方の正当化っていうのはな、社会のルールやモラルを犯しながら、なおも大事に尊んでいるせいで生まれた罪の意識。社会への負い目や後ろめたさ、罪悪感を誤魔化したいお利口さんのすることだ」
すぅ、っと田町は息を吸い込むと、
「バーカ! そんなくっだらないもん、端から大事に尊んでねーんだよ!」
社会の正しさを吐き捨てた。
「ルールなんてのは所詮、皆が好き勝手やったら困るから、社会維持のために生まれたシステムだ。モラルは結局、多数派の機嫌を損ねるような真似はしてはいけませんって思想を、皆一緒に頑張るぞい、って綺麗に形を整えただけの、クソみたいな風潮だ」
田町はそう捲し立てながら、それらを鼻で笑った。
「ルールを破れば罰せられる。モラルを犯せば村八分を食らう。それだけ弁えてりゃ、この社会で生きていくのに十分こと足りる」
ほら、この通りな、と言うような尊大な素振り。
「ま、確かに社会にバレたら困るもんは抱え込んだが、それに負い目も後ろめたさも、罪悪感も抱いちゃいない。正当化したい罪の意識なんざ、欠片もねーんだよ」
田町は左の拳で頬杖をついた。
「俺があいつの未来を考えてないって言ったな。そのとおりだ。十年二十年先のことまで考えていられるか」
「考えてないって……じゃあ、なにかあったとき……楓の人生に、どう責任を取る気なのよ」
「いいことを教えてやろう。俺の死ぬほど嫌いな言葉は責任だ。んなもん、取る気なんてさらさらない」
田町は即答した。
楓の幸せを大事にしながらも、その未来も責任も蔑ろにしたものだった。
「テメェらの正しい在り方じゃ、辛くて苦しい思いをしてでも、長生きするのが美徳かもしれんがよ。俺にとっちゃ、そんな価値ある素晴らしい社会じゃない」
「なら……あんたは、どんな未来を考えて、生きてるっていうのよ……? いざ人生の壁に直面したとき、どうするっていうのよ」
「さあな。そんなのは未来の俺に聞いてくれ。だが辛くて苦しい思いをしてまで、このくだらんレールに必死こいてしがみつくつもりはないからな。堕ちたら堕ちたでそんときだ。未来を消費しながら、社会に向かって中指立てて、楽で楽しいだけの幸せっての享受するさ」
僅かに上げたその顔は、遠い未来を見据えていた。
「そうやって堕ちて、堕ちて、堕ちて、堕ちて……これ以上は楽で楽しい幸せがない。辛くて苦しいものしか先にはないとわかったときは、この世界から堕ちてくつもりだ」
そうやって浮かべられたしたり顔は、
「そんな背中で、俺はあいつの人生を背負ってるんだ」
おどけたようでありながら誇らしげであった。
「堕ちるときは一緒だって、約束したんだよ」
「約束した?」
「ああ。これは一方通行なんかじゃない。俺たちは社会に対して、正当化したいもんなんてなにもない。ただそうやって、自分たちの在り方と未来に納得しているだけだ」
「なんで……なんでそんな在り方に、未来に……納得なんてできるの?」
「辛くて苦しい思いはしたくない。嫌なことから逃げ出して、楽しいことだけをしていたいからだ。それを甘えだという社会は言うかもしれんが、好きに言え。認めてもらいたい思えるほど、社会が大事に尊んでるものに、価値なんざ見出してねーからな」
散々吐き捨て、嘲笑っていたその顔は、
「俺が今大事に尊んでるのは、レナが笑って幸せでいられる明日だけだ」
生真面目なまでにそれが全てと語ったのだ。
「そしてこんな俺と一緒に幸せになりたいと、あいつは言ってくれた。堕ちるときは一緒だと約束して、お互い十分に納得してる。ならこのまま間違ったやり方で、先の長くない楽で楽しい幸せな人生を歩むのに迷いはない。ほんと、コスパのいい人生だな」
自らの人生を振り返り、おかしそうに田町は笑った。
そうやって人生を賭けて、楓のことを背負い込んだ。全幅の信頼と共に、あなたとならと人生を託された。
誰の理解なんて求めてない。
社会に認められようとも思ってない。
二人だけで閉じたその社会で糧と定めたものだけ求めながら、最後の最後のそのときまで、一緒に笑って生きていこう……と。
許せないし、このままを許したくない。
社会を味方につけて今すぐ止めたい。でもその行為は、楓を『取り戻す』と『喪失』が同義となっている。
それがわかっているから、この男はここまで全てを話したのだ。
ほら、俺たちの幸せを止められるものなら止めてみろ。どうあがいてもおまえが望む幸せは、戻ってこないんだぞ。
「だったら……どうしたらよかったのよ」
どうあがいても勝てないと、屈してしまったのだ。
「私だって……楓と一緒に……歩きたかった。楽しい人生を、その隣で過ごしたかった」
だからもう、残っているのは負け惜しみですらない。
「母さんが亡くなってから、ずっと……楓との距離は開くばっかりで……どうにかしたかった。正しいと信じてきた……与えられてきたものだけで、なんとかしようって頑張ってきたのに……」
散々抑え込んできた、ただの泣き言だった。
私の人生で初めて立ちはだかった壁。間違ったやり方で、正しいやり方を封じ込められ……それがあまりにも不平等すぎて、どうあがいても乗り越えられない壁を前にして、思わず溢れてしまったのだ。
「それなのに、そんな間違ったやり方で……上手くいって、そんなの……」
……ああ、それはとても――
「ずるいじゃない……」
羨ましかった。
妬ましかった。
あっさりと楓の信頼、私のほしかったものを手に入れて、これみよがしに見せつけられた。正しいことだけを与えられ、守り続け、それだけを手に頑張っても得られなかったものを。
「知るかバーカ!」
間違った男は、そんな私の泣き言を一蹴したのだ。
「どうでもいい他人に恵んでやるほど、こちとら博愛主義者じゃねーんだよ! そうやってずるいずるい泣いてれば、欲しいものを与えてもらえるとでも思ってんのか? テメェにくれてやれんのはな、うるせーくたばりやがれ! こんな罵声くらいなもんだ」
哄笑を響かせながら、これでもかという嘲罵を叩き込んできた。
「幸せになれず、苦しくて辛いっていうなら、天国のママにでも慰めてもらってこい。神もこうおっしゃっている。死こそが真の救いだ、ってな。ラーメン!」
「ギャハハハハ!」
ふざけた言葉で胸に十字を切る田町に、明神さんは堪えきれず高笑いを上げる。
「う……あ、ぁあ……」
それが引き金となり、抑え込んでいた感情の最後の蓋は突き破られた。
熱くなった目頭は、世界を歪んだ形でしか映さない。
嗚咽で震える喉は、もう言語という形を紡げない。
どちらもただ洪水のように溢れ出て、自らの力で抑えることは叶わなかった。
「椛……」
ボロボロと泣き出す私の背に、そっと優しい手が触れる。自分の苦しみのように痛々しさが、その声音に宿っていた。そうやってまどかは隣に寄り添ってくれていた。
「クソザコナメクジすぎて話にならんな」
「昨日に引き続き、また女を泣かせやがって。どんな気分だ?」
「クソ姉の不幸で酒が美味い! まさに勝利の美酒ってやつだ」
悲哀に包まれている私たちとのバランスを取るように、対岸からは楽しそうに賑やかだった。
こんなろくでもない大人に、手も足も出ない自分が情けなくて、悔しくて、それが苦しくて辛くて、それが一層涙を促した。
そんな私を見かねたわけでもあるまいが、
「でも、いいのか。窮鼠猫を噛むって言うくらいだ。一時の感情に流されて、警察に駆け込まれたら一発だぞ」
「それは困るな。いくら先がないとはいえ短すぎだ。クソ姉、警察沙汰だけは勘弁してくれ。この通りだ、なんでもする」
下手に出るよう頼み込んできたのだ。
その声音に真面目なものなんか一切ない。先程から変わらぬふざけきったもので、グラスを呷っているだけの音が届いた。
この男はどこまでも、私をバカにしたいだけなのだ。
「例えば――」
そう思ったら、
「テメェに最後のチャンスをくれてやる」
こちらを試すような甘い言葉を吐き出したのだ。
「最後の……チャンス……?」
「ああ。それを手に入れた先には、大好きな妹の信頼を全て取り戻し、関係をやり直し、陽の光の下を一緒に笑って歩ける、そんな素晴らしい未来が待っている」
もう手に入らないと信じていたものを、ポン、と差し出してきたのだ。
「どうだ、ほしいだろ?」
水気を帯びたこの目には、それがどんな顔をしているのかは映らない。ただ意地の悪そうな口ぶりが、私が思い描いているだけのものではないと告げていた。
でも今はそれに縋るしかなく、うつむくように黙って首を振ったのだ。
「ならあいつの人生に」
勿体ぶるように鼻を鳴らしながら、
「黙って俺の存在を受け入れろ。そうすれば俺が全て、望みを叶えてやる」
そんな受け入れがたい条件を突きつけたのだ。
「あいつの目的は、俺と一緒に幸せになることだ。その一線さえ守られるんなら、テメェがしてほしいことは、レナは大抵受け入れる。未来のことを見据えた人生ってのを、ちゃんと歩んでくれるだろうさ」
もう手に入らないと信じていた楓との幸せ。
それを目の前にちらつかせながらも飛びつかなかったのは、この男が気に入らない。ただその一点だった。
「俺としても、テメェがいるほうが色々と都合がいい」
ゴクリと喉が鳴る音。一拍置くと、
「テメェっていう保護者がいてくれれば、レナは社会から隠れるようにコソコソしなくて済むからな。そうやって、当たり前のように陽の光の下に歩かせてやりたいんだ」
思いやりに満ちた声音だった。自分の都合だけを考えたものではなく、楓の幸せにだけ目を向けられたもの。それこそボロボロになるまで追い詰められた身としては、そんな機能がこの男に備わっていると驚いた。
「なにより、これが一番大事なことだ」
田町は言葉通り大事なものを差し出すように、
「レナの本心はテメェとやり直したがっている」
「……え?」
「なにせこう言ってたからな。大好きな姉さんを嫌いになっていくのが辛くて苦しかった、ってな」
「あ……」
震えたのは声ではなく胸の内。
楓にできないことを求め続けて、私はずっと辛くて苦しい思いだけをさせてきた。そんな私のことを、これは仕方なかったと許してくれた。
まだ、こんな私のことを想ってくれていたのだ。
それを私の無知でまた傷つけた。たった一言をかけてあげなかった。
私の問題を全て暴き立て、自らのやっていることを正当化すらしようとせず、間違ったやり方を取り続けたこの男。私にとって、とても受け入れがたい存在。
でも田町は社会的に形が悪くても、いつだって楓の中身だけを考えていた。傷つけてきただけの私を、それでも楓の幸せには必要だと言い切った。
ようやく理解できた。
私たちが求めているのは、同じ楓の幸せかもしれない。でも見ているものが違うのだ。
私が見ているのは自身の理想であり、この男が見ているのは現実であった。現実的にどうやれば楓が幸せになれるのか、それだけを追求しているのだ。
今目の前にぶらさげられているものは、たった一つの瑕疵がついただけの、私の考える最高の文野楓の幸せ。
「俺の間違いを認めろとは言わん。ただ我慢しろ。俺のためでも、テメェ自身のためでもない。あいつが願う、最高の幸せのために」
同時にそれは、楓自身が考える最高の幸せだ。たった一つの我慢の先には、私自身の幸せも眠っている。
それを手に入れるためには、たった一度だけ、社会が定めた教えに背くだけでいい。
この男が差し出したチャンスに、「我慢する」と口にするだけでいい。
「それがテメェの幸せに繋がるっていうなら」
ああ、それはまるで……
「悪い中身じゃないだろ?」
悪い蛇の囁きのようだった。




