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2.神はサイコロを振らない

『神は絶対にサイコロを振らない。そして赤点は言い訳にはできない』


 これはどこかの数学教師が気まぐれに言った台詞だ。

 そしてその夜、世界は謎の白景色に包まれた。もう一年前のことだ。


 白といっても霧状ではなく、雪のようでいて、温度はまったく感じさせない。重力もなく、感触もない。五感から得られるのは見た目の情報だけ。


 害はないようでいて生命を簡単に脅かすものだから、世界は未知の恐怖に陥った。


 白い悪魔が舞い降りた初日、およそ世界で百万人を越える行方不明者が出た。どうして消えたのかと問われても、誰も正しく答えられないだろう。


 これが神さまの明示的な采配であるなら、なんの意味があるのだろうか。

 神さまは答えない。沈黙したままだった。


 ***


「ほむ、なるほど」


 と、丹羽しぐれが鷹揚に頷いた。

 漆のような深色の髪をもつ童女だった。小さく膨らんだ鼻頭の位置で切り揃えられた前髪の奥からは、年齢に相応しくない理知的で静謐な色を瞳にたたえ、僕を真っ直ぐ見つめている。

 身長は僕の頭一つ分以上低いはずなのに、見下されているようだった。


 けれどそれより目を惹くものが丹羽しぐれにはあった。矢絣模様の着物に、深緑色をした袴を着こなし、黒いブーツを履いている。随分とハイカラな童女だ。まるでどこかの物語から抜け出したような異質感が彼女にはあった。


 ああ、どうして僕は話しかけてしまったのだろう。

 言葉を探しても、魔が差したとしか言いようがない。


 僕はこの場にいるもうひとりの、ガタイが良いエプロン姿の男性に目を向けた。駅前に露店として構える、この辺りでは珍しいたこ焼き屋の店主だ。


「この珍妙な女の子ってお兄さんの妹? ダメだよ目を離しちゃ」


「はぁ」


「それにちゃんと教えなきゃ。お金は払える? って聞いたら『馬鹿にしないで』って自信満々に言うもんだから、おじさんたこ焼き作ったんだよ。そしたらこれ、ゲームセンターのメダルみたいなものを渡されて参ったよ」


「はぁ、はい」


「まぁ、おじさんもコスプレには寛容だから? ここまで大正時代の娘になりきるのは大したもんだと思うけどさ。実際さ、心にグッとくるものはあったよ。いや、なかなか見事なもんだ。けどさ、それとは別にお金は払うものでしょ?」


「そうですね……」


「というわけで、ワンコインぽっきり。まいど!」


 にっこりと営業スマイルを浮かべてこちらに手を差し出す店主に、僕は何だかよく分からないまま財布を取り出して五百円を渡した。透明のプラスチックに入った五個のたこ焼きの上に、「おまけだよ!」と一つ乗っけてくれる。いやおまけじゃないだろこれ。


 とぼとぼと踵を返して歩いていると、後ろから足音が聞こえた。


「もし、君よ。しぐれに提案がある」


 ため息をついて振り返った。童女がそこにいた。彼女は着物の袖を振って小さな手を出すと、ある方角を指差した。


「あそこに噴水があった。座るところもある」


「うん」


「ひらけていて良い場所だった。しかもなんと、誰もいない」


「それで?」


「君はしぐれから良い情報を知らされた。その対価は、それ」

 ぴっ、と指を差した先にはたこ焼きがあった。


 僕は返事をやめて噴水まで歩みを伸ばした。適当なベンチに腰掛けると、たこ焼きが入ったパックの蓋を開けて、爪楊枝でその内のひとつを刺した。


 なぜか同じように隣に座った童女は、こちらを期待するように見上げていた。それを横目で見た後、僕はたこ焼きを口に放り込んだ。


「あ、あぁ……っ。ずるい、ずるいずるい……っ」


「わ、分かった分かった。悪かったよ、だから腕を小刻みに揺さぶるなって!」


 きーっ、と涙目で抗議されては僕もこれ以上の意地悪をやめるしかない。意地悪というか、お金を正当に払ったのも、無銭飲食を働こうとした童女を助けたのも僕で、咎められるいわれは何ひとつないと思うんだけどな。


「もぐもぐ。……おいひい?」


「いや僕に聞かれても」


「おいしい」

 それは良かったですね、お嬢様。


 なんだかわがまま娘に振り回される執事のような気分だった。

 僕はふぅと息を吐き出して、自然と手をこすり合わせる。


 寒いわけじゃない。

 茫洋と見つめた眼前の景色は一面が真っ白で、今も空からは天使の羽のように、ゆらゆらと白い結晶が舞い散っていた。


 白い悪魔。あるいは紫泡と呼ばれる異常気象だ。


 ある人は死に至らせ、ある人は神隠しのように消し去り、ある人には何もしない。気まぐれで解析不可な白い結晶は発生して二ヶ月が経過した今も、初日ほどの勢いはないとはいえ世界に猛威を奮っていた。


 最初は政府から外出禁止が敢行されたけど、経済に著しい悪影響が見られた結果、仕方なしに緩和する方向性で進んでいる。


 幸いというか、不可思議な現象が起きるのは紫泡が降ってくる時だけだ。それ以外では問題なく生活が送れることもあり、次第に僕たちの感覚は麻痺した。


 とはいえ、紫泡が降っている時にたこ焼きを売っている店主や、街を出歩く僕のような物好きはそういないだろうけども。


「しぐれは、丹羽しぐれという」


 たこ焼きを残り二個残したところで、しぐれは口を開いた。

 そして、精巧なお人形のような顔をした彼女はその眉間にしわをつくった。


「にぶいひと。自己紹介は知らないの?」


「知ってるよ。……僕は、橘湊」


「ほむ、なら湊と呼ぶ」


 なんとなく分かっていたけど、呼び捨てなんだなこの童女。

 僕もしぐれと呼ぶことにしようと心に決めた。


「湊、この天候は」


「ん?」


「とても不思議」


「……知らないの?」

 まさか、と思って顔を覗いてみた。冗談を言っているわけじゃなさそうだ。


「しぐれは変なこと言った? 非常識? 流刑?」


「いや島流しとかしないけど。でも、紫泡を知らないのはびっくりした」


「紫泡?」


「この天候のことだよ」


「ほむ、どうして紫泡?」

 その質問に答える前に、僕は地面をつま先で蹴った。


「ネットで誰かが言い出したから、詳しくは知らないんだ。けどきっと、この世界がこのまま白く塗りつぶされて、泡となって消えそうに思えたからじゃないかな」


 しぐれはたこ焼きをじっと見つめ、こちらを見上げた。


「紫色が入ってるのはどうして?」


「さぁ、どうしてだろう」

 首をかしげてみせた。


 こればかりは僕も知らない。どうして紫なんだろう?

 僕の回答を聞いたしぐれはまた手元に視線を戻した。

 そして再び顔を上げ、


「はい」


「へ?」


「あーん」


「なな、なぜに?」

 後ずさった。どうして急にあーんされるのだろう。


「たこ焼きは全部で六つ。均等に分配されるべき」


「うん、それは正しいね。いやでも、僕にはあーんされる理由がない」


「理由がないとだめ? いけないこと? これは流刑?」


「いや島流しとかしなくていいけど」


「なら、湊が流刑?」


「あーんを拒否したら流刑なんて聞いたことないかな」


 ある男どもにこの話を聞かせたら「流刑だ!」なんて喜んで言いそうだけども。


 それはさておき、この状況は精神上よくない。幼い女の子に上目遣いであーんされるなんて、誰かに見られたら通報されかねないからだ。


 結果、突きつけられたブツは指でつまんで処理することにした。空になったパックはそのままゴミ箱へ捨てた。


 噴水のベンチで戻ると、着物姿の童女というのは改めて目立つ姿だった。牡丹雪のような紫泡のなかで彼女は今にも消えそうな幻想的存在にも見えた。


「その派手な格好はどこで買ったの?」


「?」

 派手な格好というのが彼女のなかで自分の着物と結びつかなかったらしい。しばらくしてから返答があった。


「流行っていたから?」


「いや僕に聞かれても」


「流行っていたから、買った」


 僕は曖昧に頷いた。

 十歳ほど離れているし、流行りとはそういうものかもしれない。


「しぐれも湊に聞きたい」


「なに?」


「魔法使いはいると思う?」


 その問いかけは奇妙なものだった。

 普通に考えて魔法使いなんて存在はいない。けれどこの流れで物語の話をしたいわけでもないように思う。ない、と思う。……少し自信がなくなってきた。


 難しく捉えるのはやめた僕は、頭に浮かんだ言葉を口にした。


「いるんじゃないかな。魔法使い」


「いるの?」


「いるよ、きっと。だって」


 だってこの世界はもう終わるのだから。

 だからそんな不思議なことも、存在も、あってもいい。

 きっと今この世界のひとたちは、そんな異常をすんなり受け入れると思う。


「そう」


 しぐれは静かに頷いて言った。


「ならしぐれは、その魔法使いという役割をもつらしい」


「らしい?」


「しぐれも自信がない。でもたぶん魔法使い」


 なんだか不思議な言い回しだった。

 視線を外すと、白んだ景色は徐々に本来の街を映すようになっていた。


「僕はそろそろ行くよ」


「?」


「しぐれはまだここにいるの? 帰るの?」


「帰る……帰る……?」


 しぐれは眉根を寄せた。立ち上がろうとして、地面に座り込む。

 なんだか様子がおかしかった。呼吸も浅い。


「お、おい、しぐれ、大丈夫かっ」


 しぐれは頭を手でおさえて小さく苦鳴をあげていた。彼女が地面に倒れ込まないように支えてベンチに座り直させる。しばらくして呼吸がゆっくりになった。


「じょうだん、でした」

 にへらと口を横に伸ばした。


「そんな風に見えなかったけど」


「大丈夫、もう心配ないから」


 僕が何かを言う前に背後から声がかかった。


「湊ちゃん」


 その声に僕は弾かれたように振り向いた。紫陽花柄の傘を差したひとりの女性。ウェーブがかった栗色の髪に、ひだまりのような柔らかい笑顔。

 それは本来ここにいてはいけない人物だった。


「水琴姉さん?」


 橘水琴。

 少し歳が離れた僕の姉さんだ。僕と違って社会人として働いていて、今は同じ家で暮らす唯一の家族でもある。


「何してるのさ、姉さん」


「うふふ、湊ちゃんを探しにきちゃったの。そんなに喜ばないで、ね?」


「この天気のときは出歩かないでって、お願いしたよね」


 姉さんの冗談のような言動に僕は取り合わなかった。

「退院したのも、つい最近なんだよ?」


「もう元気なんだから」


 それに、と水琴姉さんは付け加える。


「久しぶりの三人家族なんだから、仲良く帰りたいじゃない」


 ね、と僕の後ろに向けて笑顔を振りまいた。


 しぐれは無言のまま水琴姉さんを見つめ返していた。唖然としているのかもしれない。やがてリスのように、こくりと頷いた。


「帰ろう」


 と、しぐれが言った。

 この日から僕たちは三人で同じ家に住むことになった。


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