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1.ましろな夏の夜に僕は空を見上げる

 授業終了を告げる鐘の音が鳴った。


「いいか。数学が簡単だということを信じられないのは、人生がどんなに複雑かよく分かっていないからだ。明日、小テスト行うからな」


 教壇の上で熱弁を振るう女教師は、その言葉を残して教室から立ち去った。

 途端、夏の喧騒を表すように教室がにわかに騒がしくなる。


「……ノイマン」


 僕の隣の席から呟くような声が聞こえた気がした。

 ちらりと目をやると、長い髪を後ろに束ねた女生徒だ。見ているこちらが疲れそうな、ぴんと背筋を伸ばした姿勢でテキパキと机の上を片していく。最後にノートパソコンを鞄に仕舞ってから彼女は誰とも挨拶することなく立ち去った。


「僕も帰るか」


「よぅミナトちゃん。帰るのか? な、今日も一発ヤッていこうぜ」


 教科書やノートを鞄に入れていると、暑苦しい感触が首にまとわり付いた。腕だ。それも不健康な僕とはちがい、筋肉で張りツヤの良い引き締まった腕だ。


 僕は顔をしかめて、不躾な声の主を振り返った。


「ちゃん付けはやめろと言ったよね、翔馬」


「はははー、かわいい名前をしてるやつが悪い。橘湊ちゃん?」


「湊くん、湊さん、もしくは湊さまだ。ちゃんは受け付けてない」


「くく、俺は湊さまでもそそるものがあるからいいけどな」


 そう言って、その男子生徒は晴れやかな顔で口を歪めた。毒気の抜かれる顔だ。僕はわざとらしくため息をついた。


 彼は相原翔馬。僕の数少ない友だちだ。


 翔馬は胸の前で両手をあわせて、

「それで湊さ、ちょっとだけ付き合って欲しいんだよ」


「付き合うって、またパンパンして欲しいの?」


「……俺から振っておいてなんだが、ホモ疑惑かけられるような発言はやめようぜ」


 クラスの隅に集まる女子グループがチラとこちらを見ている気がした。

 僕もホモと勘違いされるのはごめんだ。掘り下げるのはよそう、ホモだけに。


「大会が夏休み入ってすぐなんだっけ?」


「そうだよ。試験前で部活禁止だからって、走るのは俺のルーティンなんだ。五十メートルをたった十本、いや二十本でいい。頼めないか」


 相原翔馬は陸上部に所属している。

 僕の知る情報はたったそれだけだ。担当競技や成績のことは何も知らない。けれど随分と熱心に取り組んでいるのは日々の姿勢から分かっていた。彼はとにかく走るのが好きらしい。


「本数増えてるよ。……まぁ、十回ならピストル鳴らすのに付き合ってもいい」


「マジか! 助かるよ、さすが湊ちゃんだぜっ」


「だから、ちゃん付けはやめろと言ってるだろうに。あと抱きつくの禁止」


 肩に腕を絡めようとしてくる翔馬を押しのけながら、窓の外に目をやった。透き通るような青い空に入道雲、強い日差し。

 良かった。まだ降ってくる気配はなさそうだ。


 ***


 扉を開けると、夏の熱気を雑巾で絞ったような空気がむわっと顔に張り付いた。


 じわりと汗ばんだ感触を気持ち悪く感じながら、端の棚に何十回と鳴らしたスターターピストルを片付けた。陸上部の更衣室にもなっているこの部室で、上半身を裸にして満足気に鼻歌を鳴らすのは翔馬だった。


「いや、悪いな! 結局、三十本以上も付き合わせてしまった」


 持参しているタオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら、ちっとも悪気のなさそうな声でそいつは謝罪した。すこし酸っぱいにおいが鼻をついた。


「まったくだよ。僕も人が良すぎる。今度からピストル一発につき缶ジュース一本ね」


「ははは、たっけー」

 けらけらと翔馬は笑った。

「でも俺にもちゃんと、申し訳なさはあるんだぜ。さっき見た予報だとあと一時間もしないうちに降ってくるらしい。早く帰らないとな」


「そっか、少し遅い周期だね」


 そのことに微かな不安を覚えるも、部室から出る頃には消えていた。


 別れ際に翔馬から奢ってもらった紅茶の紙パックを口につけながら、代わりに頭の中に浮かんでいたのは翔馬の走る姿だった。


 普段の言動からは少し信じられない、ひたむきで紳士で真剣な顔。ピストルの引き金を引くと、音と共に飛び出すのは鋭い弾丸を思わせる彼だった。回数を重ねるたびに動きは洗練されていった。がむしゃらに走っているだけではなかった。


 ぼくはその光景がまぶたに焼き付いていた。


 帰宅した後、階段をあがって自室のパソコンの電源をつける。階下から声がしたけど聞こえないフリをした。汗ばんだ制服から着替えてパソコンの前に座ると、無意識に指が勝手に操作していく。ニュースサイト、SNS、そして掲示板。ここ一年で定型化した流れだった。それぞれで同じ単語を調べ、そしてため息をついた。


 そこで気づく。掲示板の新着欄にスレが立てられていた。


『終わる世界で考える、明日の我々について374』


「1.20XX年、紫泡という未曾有の異常気象が世界的に発生しました。生体に極めて危険な特性を持つことから、ここ一年間の経済指標は苛烈に悪化しました。国内死亡者は今日で約X万人、行方不明者は約XX万の報告があがっています。……」


「2.自殺者のほうが多い定期」


「3.いや行方不明者も紫泡が原因なら超えてるだろ」


「4.慣れた。今さら気にしてるやついんの?」


「5.そして誰もいなくなる」


 リアルタイムに更新されていく掲示板をぼんやりと眺める。ここ最近は何も変わらない不毛な掛け合いが今日も画面で繰り広げられている。思うことは何もない。僕も彼らと同じで、とうにおかしくなったのだ。

 手だけが別の生き物のように勝手に動いた。


「74.もし明日死ぬとしたら、何をする?」


 少し経過してから、反応したコメントがひとつあった。


 ──77.昨日の私が、今日の私でなかったことを悔しいと思う一日を。


 なるほど。

 それは確かに、そうかもしれない。


 僕は掲示板を静かに閉じて仕事に取り掛かった。数分ほど開始が遅れていた。それを取り返すように、僕はプログラムの世界に没頭していく。


 仕事のきっかけはSNSだった。少しパソコンの扱いに長けていた僕は、フォロワーさんから「報酬は丸ごと渡すのでやらないか」という言葉に踊らされ、彼が抱えきれなくなった小さな仕事を引き受けるようになった。小遣い稼ぎとはいえ、仕事は仕事だ。


 本日は二件の作業を完了し、彼にメッセージとデータを送る。


 返事を待っている間、小説投稿サイトに訪問するのが通例だった。それは僕自身が小説を投稿している人間でもあるからだけど、フォロワーの彼が投稿サイトのランキング上位者で文庫化が決定しているプロという理由が大きいように思う。


 プログラムの仕事も抱えており、創作も妥協せずに結果を出している。もしかすると僕は、そんな別世界のような住人と仕事をしていることで近くなった距離を、正しく再認識したいのかもしれない。……なんの為に?


『確認したのだ、にゃんにゃんミナト氏! 満点なのだぞ☆』


 彼からメッセージの通知がきていた。


 ミナトというのは僕のネット名義だ。カタカナ表記なだけで本名だけど、リアルの僕を知らない人には関係ないことだ。僕はひそかに中庸的な名前が気に入っていた。とはいえ彼は僕のことを男だと知っている。


『その甘ったるい接頭語はやめてくれませんか、厨ニ』


『何を言うのだ! ぱおんがついてる男子でありながら可愛い名前をつけ、フォロワーを惑わす令和の大和撫子よ。骨抜きに守りたくなるような丁寧口調で話すミナト氏が全面的に悪いのだ! 名付けるならこれは漆黒駄天猫──』


『はい、厨ニ厨ニ』


 彼の名前は片月厨ニ。名前のとおり厨ニの香りがぷんぷんする人間だ。これで彼のつむぐ物語は繊細な人間模様を描くローファンタジーなのだから不思議だった。


『ミナト氏は厨ニ心というのが足りない気がするのだぞ』


『いりませんよ。高校生ですよ?』


『ふっふっふ。肉体的年齢なぞ関係皆無なのだ!』


『そうみたいですね。反面教師として精神年齢も高くあろうと努めます』


 厨ニはこれでいて、僕以上の仕事を終えているはずだ。なのに疲れも感じさせないテンションの高さは見習うところがあるかもしれない。


『ところでミナト氏。小説を書くのはやめたのだ?』


 軽快だったキーボードを叩く指が固まる。

 それを強引に動かし、錆びつく動作で緩慢に入力した。


『まぁ、こんな世の中ですから。お金がないと不安で……』


『それは残念』


 見透かされているような淡白さだった。

『厨ニはミナト氏の物語が好きだぞ。ファンであるからして、再開を楽しみにしてるぞ』


『ありがとうございます』


『投稿したら必ずメッセージを送るのだぞ』


 まぁ通知が届くようにしているのだがな──得意げな厨ニの言葉にいくつか当たり障りのない返事をして、やり取りを終えたのだった。


 パソコンから視線を外すとカーテンが開かれた窓。

 深夜に差し掛かる夏の夜景は見慣れた白色に塗りつぶされていた。

どうか最後までこの物語がつづきますように。

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