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9/22

坂本龍馬について-2

 7月23日、遂に東京オリンピックが始まりました。コロナをはじめ色々な問題がありましたが、始まったからには、応援してスポーツの祭典を楽しもう。


 最近はTV離れが加速していました。だって文句ばっかり言ってるんだもん。そりゃ嫌になるさ。


 YOUTUBE はどんな内容なのか事前にわかるからね。面白くて為になる動画を選んで観ています。


 どちらさんも、御機嫌宜しゅう。



 ペリー来航をきっかけに、幕府は日米和親条約条約締結、その後日米修好通商条約を締結したのですが、天皇の御許し(勅許)を得ていなかったことが大問題となりました。


 この時代は孝明天皇の在位で、征夷大将軍であっても天皇の臣下です。孝明天皇は異人が嫌いだと主張しておられたので激怒したそうです。


 「尊攘」「尊王攘夷」は有名ですけど、天皇を尊び夷狄いてきをはらうです。当時の日本人ならこれに意義を唱える者はいなかったと思います。


 尊王はともかく、問題は攘夷のやり方です。本来ならば、政権をとり武家の頭領たる幕府が、攘夷を実行し、天子様(孝明天皇)の御心を安んじたてまつれば何も問題は無く、その後も江戸幕府は安泰だったのです。


 ところが、当時の異人たちは幕府よりも格段に強く、即座にその差を埋めることはまず不可能。信長公、太閤殿、又神君家康公の時代では、逆に手玉に取っておったものを、太平の世が長きにわたり学術及びその結集である武力の差はもはや歴然。


 鋭い見識を持っている幕閣のエリートにはそこまで見通していたのです。


 問答無用で夷狄を打ち払うのじゃ。と威勢が良い者がいる一方で、そうは言っても、相手の武器は強力で、いくさになったら負けるかもしれないよ。いや多分負ける、したら日本は終わるんだよ。だからここは絶対に戦回避で、のらりくらりでなんとか治めるしかなかろう。


 でもなぁ、そんなこと、下の者共には絶対に言えねえよな。言えば幕府の面目丸つぶれだもんな。下手すりゃ内紛で幕府がすっ飛んじまう。そしたら日本は、異国と戦になって完敗で植民地だ。


 やれやれ、諸外国からは無理難題を突きつけられ、上(朝廷)からは早うなんとかせえ「攘夷」と責められ、下(長州などの外様)からも「攘夷」と突き上げられる。そんで水戸の徳川斉昭様の尊王攘夷の旗の下に志士が続々と集まって来やがった。あやつら酒飲んで暴れておるだけではないか。ただ本気で戦う気だから始末が悪い。どうすりゃいいんだいまったく。


 いったい誰のボヤキなんでしょうね。今で言うところの「ぴえん、ぴえん」でしょうか。幕閣の方の心中を察してみました。こんな大変な時代ですが、キチンと御役目を持っている武士ならば、「尊王攘夷」思想にかられて徒党を組むことはぜずに、自分の仕事をするのでしょうね。だってそれで暮らしていけるのですから。今日も明日も明後日も来週も来年も、これまで250年以上も徳川様の世が続いておるのだから、これからも続くのであろう。と信じて疑わないと思います。


 幕府は異国の強さを認め、戦を回避しつつ異国の要求に対して少しづつ譲歩している状況がおわかりになったと思います。私はここで疑問に思いました。「何故に少しづつであったのか? 」と更に言えば、

「これまで異国とほそぼそと長崎で貿易が出来ていたのは何故か? 」イギリスは既に「アヘン戦争」を仕掛けて勝利し、清を食い物にしています。軍事力の差が歴然であるなら、何故それを日本にやらなかったのか? ということです。


 合理的に考えれば、異国も日本と戦になれば、かなりの損失を被ることがわかっていたからです。つまり、日本の強さを冷静に認めていたからです。武器が劣っているにしても、充分に鍛練した命知らずの侍が大勢いるから一声命令があれば、国内にいる異人は即座に殲滅できることがわかっているのです。


 今はリスペクトされて安穏と日本に暮らせていても、本当に戦となれば自分たちは一番に斬り殺される。本国から援軍が来て最終的には戦に勝つだろうが、自分たちがその前に殺されることを望まないものです。


 幸い今の状況は、武力をチラつかせて話し合いで有利にビジネスが順調に進んでいるのだから、戦争をしなくても済んでいたのです。


 話を戻します。彼の身分は郷士という下士です。武士の身分としては最下層です。上士から蔑まれていたかもしれません辛く悲しいこともあったでしょうが、御役目も責任も殆ど持っていない自由があるばかりの身なのです。普通に嫁をもらって、兄・権平とは21歳も離れているので、家督を継いで堅実に暮す道もあったのです。


 それなのに、彼はその道を選びませんでした。誰に頼まれるでもなく、自分で選んで行動したのです。


 彼が江戸から土佐に帰ったのは安政元年(1854年)。それから翌2年にかけては、大地震や大津波などの大規模な自然災害が起こりました。高知では安政元年10月5日に大地震が起こり、高潮や大火事に見舞われて死者400名近くの甚大な被害を受けています。


 江戸にいた土佐藩主山内豊信(容堂)は、直ちに願い出て帰国し対応にあたりました。彼や家族は無事でした。


 安政元年11月以降、彼は河田小龍という絵師を訪ねています。河田小龍は先の大震災で家を失い、高知城下に仮住まいをしていました。


 河田小龍といえば、彼よりも11年長で、狩野永岳に入門した絵師であり、蘭学の知識もあって、あのアメリカから帰国したジョン万次郎の聞き取り調査を行って「漂巽紀略」を著した方です。このような土佐屈指の知識人と言っても良い人物が、歩いて行ける所にいらしたのは彼にとって幸運と言えるでしょう。


 河田はこの約30年後、「藤蔭略話」という回顧談の中で彼との出会いについて語っています。


 「今日は隠遁として安居する時にあらず。龍馬などは此の如きまで世の為に苦心せりと。遠慮もなく身のことを述べ、僕か様に胸懐を開いて君に語る上は是非に君の蓄えを告げ玉え」


 「今はのほほんとしゆう時ではありません。と龍馬は初対面の挨拶と自己紹介を済ませると、世の為に働きたい。という思いを伝えてきた。しかし何をどうしたら良いのかわからんと。こんなに胸の内を語ったのですから、是非とも先生の蓄え(知識や経験やお考えなど)をお教え下さい。というのだ」


 こんな感じなりますかね。河田もそんな彼を前に驚きながらも悪い気はしなかったようです。この辺りが彼の人徳というべきかな。


 一 開港か攘夷か、国として方針を一本化するべきだ。しかし攘夷実行は難しいだろう。

 二 開港するにしても、攘夷の備えは必要である。ところが現在の国の軍備ではとても不足で脆弱である。それを藩に訴えたところで金は無いし、意識も薄いもんだからどうにもならない。

 三 だから、商業を興して資金を集めて外国船を買う。そして同志を募ってこの船に乗せて運輸業を営むことだ。そうすれば、人件費が賄えて航海の技術や経験も得ることができる。


 という自説を語った。これを聞いた彼は手を打って喜び、大いに賛同の旨を述べて帰った。


 しばらくして、彼は再び河田を訪ねました。


 「船や機械は金で買えるが、人材はどうやって見つけるのがよいか」と問うた。河田は以下の様に答えた。


 「俸禄を貰い慣れた藩士には志が無い。秀才であっても身分が低いために世に出られない者に注目せよ」


 これを聞いた彼は納得し、「人を造るのは河田。船を得るのは自分だ」と約束して別れたという。


 あれあれ? これってその後の坂本龍馬の生き様に似てません? まぁ河田氏の30年後の回想ですからね。でも、「世の為に尽くしたい。働きたい」という意志を示したものとしての意義があると思うし、河田氏もそれに応えて、一筋の光明を得たのではないでしょうか。


 安政三年8月20日、彼は自費での剣術修業を願い出て、二度目の江戸遊学に出発しています。期限は1年でしたが、後日更に1年の延長が認められています。自費といっても当人はお金持ってませんから、坂本家の出資です。何やら楽しそうですね。


 同年9月の終わり、彼は江戸は築地の土佐藩控屋敷にわらじを脱いで、京橋桶町にあった北辰一刀流千葉定吉(定吉)道場に通い、修業に励んだそうです。


 因みに同年7月には、アメリカの初代駐日総領事ハリスが下田に赴任。翌4年10月には江戸に乗り込んで来て、自由貿易を骨子とした新条約の締結を迫っています。幕府は尊攘派から弱腰と非難されるのです。


 そして、安政五年(1858年)3歳年下の千葉佐那と婚約にまで発展した様です。前述の様に悲恋に終わりましたが、後の文久三年(1863年)姉の乙宛ての手紙に彼女のことが記されています。


 佐那は、馬に乗り、剣は強く長刀なぎなたも出来、力は並の男より強い。顔立ちはかを(平井収二郎の妹でかつての恋人)より少し良い。13弦の琴をよく弾く。14歳で皆伝。絵も旨い。心は強く男子顔負けでいて静かな人柄。とカンペキじゃないすか。( ´∀` )


 彼がもし生半可な男だったら、兄の重太郎さんが黙っちゃいないでしょうから、何とも切ないですね~。


 そして、ここが重要です。彼はこの2年の間に、北辰一刀流つながりで、出羽出身の尊攘派浪士の清河八郎とも交流があったそうです。清河八郎は彼を人柄を認め、将軍家茂公が京都に上洛する際の身辺警護を担当する「浪士組」の候補リストに載っていたのです。


 「浪士組」とは、実際に浪士を募って家茂公の上洛に身辺警護の名目で同行し、上洛後は紆余曲折の末に「新選組」となって、歴史の表舞台で活躍するのです。その主要メンバーである近藤勇や土方歳三よりも前に土人(土佐藩)として名前が挙がっていたのですから、運命のあやとして面白いです。尚、この清河八郎は後に斬られています。


 でも、彼は血生臭い「人斬り」にはまったく興味を示さなかったので、「浪士組」からの「新選組」結成には加わることは無いでしょう。結局彼は安政五年9月3日に高知に帰国しています。


 同年11月23日、水戸藩の住谷寅之助と大胡聿蔵がやって来て、彼と会いました。当時の水戸の過激派は、安政の大獄を進める大老井伊への反撃を企み、同志を募るために各地を遊説していたのです。


 おそらく彼が江戸遊学の際に、一角の人物という評判を聞いていたのでしょう。彼は友人の甲藤馬太郎と川久保為助を連れて、立川で会ったのです。


 ところが、住谷と大胡は彼に大いに失望します。住谷の日記によれば、

「龍馬誠実かなりの人物、併せて撃剣家。事情迂闊、何も知らずとぞ」

 更に12月1日立川を去った住谷は、こう日記に記しています。

「外両人(甲藤・川久保)は国家のこと一切知らず。龍馬とても役人名前更に知らず。虚しく数日を費やし遺憾遺憾」


 という内容で、当時の彼の人柄は認めるが、見識はこんなものだった。という人がいますが、果たして本当にそうでしょうか?


 だっていくら尊王攘夷の本家の水戸から来ました。といってもさ、今で言えばテロの勧誘じゃいか。わしらには何の得も無いぜよ。ここは一つアホウのふりして、帰ってもらうがよかろう。


 私だったら迷わずそうしますね。だからこれ一つを取って、彼なんてそんなものと決めつけるのは良くないでしょう。因みにこれから2年後の安政七年(1860年)3月3日、桜田門外の変によって井伊大老が暗殺されて、幕閣の衝撃が走ったのですが、それを知った時、彼の胸には何が去来したのでしょうか?


 それから元号が文久に変わって元年(1861年)8月17日、江戸の長州藩下屋敷で、武市半平太と久坂玄瑞が初めて会っています。


 この頃の長州藩の久坂玄瑞は、安政の大獄で処刑された師匠である吉田松陰を旗頭にして、尊王攘夷を広めようと「横議横行」展開していました。これは藩や身分を越えて、同志横のつながりをもって攘夷運動をして行こうというものです。


 吉田松陰は攘夷運動の先駆者で、その教えや行動はこれからの日本になくてはならないものである。と、勿論宴席をもって力説したのです。(吉田松陰についてもぶっちぎりに面白いのですが、今回は省略します)


 久坂玄瑞の話を聞いた武市は感激して意気投合し、忽ち江戸にいる土佐藩士で同志を募り、同年8月に盟約書をつくり署名血判しました。これが後に「土佐勤王党」になりました。


 翌9月には土佐に帰って同志を募り180余名が血盟し、その筆頭が坂本龍馬直陰だそうですが、実はその姓名簿の原本も写本も残っていないので、(こんな大事なものの原本が無いわけがないそうです)明治以降、坂本龍馬が英傑として祭り上げられる中で、彼の名をトップに据えることで、土佐勤王党やその生き残りが結成した瑞山会を引き立てようとしたのではないかと言われています。


 彼と武市は近所に住んでおり、縁戚関係だったことは事実です。なので、「おまんも一緒に、攘夷運動やるぜよ」「そりゃええじゃいか」くらいのノリで9番目に署名血判したようです。


 長州藩の久坂玄瑞の「横議横行」活動は成功して、江戸では吉田松陰ブームが起こりました。そして、土佐藩の武市半平太、薩摩藩の樺山三円と共に自分たちの藩論を「勤王」にまとめあげて藩を挙げて京都に集結することを誓いました。


 ところが、そうはうまくいきません。長州藩の藩是は、直目付長井雅樂の「航海遠略策」が採用されました。又土佐藩の武市は、参政吉田東洋に建白したのですが無視されました。薩摩藩からは音沙汰無しです。


 久坂玄瑞は萩で、自分の思うようにならないことで失意にあったところに彼がやって来たのです。文久二年(1862年)1月14日のことです。久坂としては彼の顔を見て、嬉しかったことでしょうね。


 彼はキチンと土佐藩から剣術修業の名目で許可をもらっていて、その実は武市からの書状を届けにやって来たのです。実際丸亀城下の矢野一之進道場に立ち寄っています。


 彼は1月14日~23日までの十日間、萩城下に滞在しました。最初の一泊は松本村の旅館、二泊目からは久坂の配慮で藩営の文武修行者宿に移りました。(宿賃が格安だったのでしょう)


 この十日間で、彼は明らかに変わったそうです。久坂や堀真五郎などと話をしながら飯を食い酒を酌み交わし剣術でもやれば、自然に仲良くなり打ち解けます。話す内容は、吉田松陰の思想や教え、そして水戸学について、そして国事。


 最初は「ほうほう、そいでそいで? 」と聞き役でしたが、徐々に理解を深めキチンと自分の意見を持つことが出来るようになったのです。勿論勤王の志士としてね。これ洗脳じゃね? という気がしますが、これが龍馬覚醒と呼ばれているそうです。彼は28歳でした。


 これがなければ、後の活躍も無いのです。全て自分で考えたつもりでいても、その下地になるものはその前に何かあるものです。元来世の為に何かしたいと願っていたものの、具体的に何をすべきかわからなかった彼は、この十日間で勤王の志士として生きることを見つけたのです。


 そして長州藩とも深いつながりができたと言えるでしょう。彼の大冒険は、ここからじゃかすか痛快で面白くなってゆくのです。


 その前に、薩摩藩の動向について書こうと思います。必要だから。


 安政五年(1858年)、日米修好通商条約締結の際、アメリカ公使タウンゼント・ハリスが、幕閣に対して「イギリスが日本に戦争を仕掛けようとしている」と伝えました。


 当時イギリスは世界最強(アヘン戦争からの南京条約で清を食い物)→幕府は心底ビビっていた。


 安政六年(1859年)5月、通商条約批准のために使節団が到来しました。全権使節は、ラザフォード・オールコックという老練な外交官です。


 同年6月12日、オールコックは江戸市中で140人編成の大パレードを敢行し、赤い軍服で武装した衛兵は、オールコックの前後を固めて江戸城内に入りました。


 幕府はこれを止められませんでした。→高輪東禅寺に居を構えた。(当時欧米列強では初)


 こんな威圧的な行動をとったオールコックには、実は弱みがありました。


 自慢の軍艦が一艘もなく、孤立していたのです。(ガーン)イギリス艦隊は、オールコック使節団を降ろすと、すぐに清に引き返したのです。


 というのも。清では第二次アヘン戦争中(アロー戦争)で、それどころでなく、オールコックはせめて一艘だけでもと嘆願しましたが、無視されたのでした。


 その頃の薩摩藩では、島津久光が藩主に就任。琉球との密貿易で情報を得ていて、イギリス艦隊を警戒していた。自前で独自に武装の近代化を進めていたのです。(鉄、大砲、蒸気船、水雷などの製造技術)


 万延元年(1860年)、オールコックは富士登山を実行→日本人の怒りをかう→攘夷運動激化しました。オールコックはそれに気がつきません。更に日本を視察として各地を旅して、更に日本人は怒ります。


 そして文久元年(1861年)7月5日にイギリス公使館が襲撃されます。謎の浪士14人が公使館員とオールコックを斬りつけて3人が重傷でオールコックは無傷で済みました。これでやっとオールコックは、反感を持たれていることに気がつくのです。( ´∀` )


 オールコックは命の危険を察知し、イギリス艦隊を要請しますが、あえなく無視されまして、イギリスに帰ってしまいました。翌文久二年(1862年)ニール陸軍中佐が代理公使として着任しました。このニールも強気な外交を継続します。


 そして文久二年(1862年)8月21日、あの生麦事件が発生するのです。薩摩藩島津久光の大名行列が生麦峠に差し掛かった時、何も知らないイギリス人達馬で乱入したため、なんとか追い払おうとしましたが、言葉が通じない不幸が重なって無礼討ちにしてイギリス人1名死亡、2名重傷。


 イギリス側は激怒しますが、千人からの大名行列に勝つ力は無く、本国に緊急事態発生の報復措置として艦隊を要請したのですが、断わられてしまいます。清では第二次アヘン戦争は終わったのですが、太平天国の乱があったからです。


 ニールは歯ぎしりしますが、内情を知られると、幕府に舐められるので

おくびにも出さずに艦隊で攻撃してやるからな!と脅します。通詞のイギリス人アーネスト・サトウは、侍の恐ろしさに震撼したそうです。


 文久三年(1863年)3月、遅れに遅れてイギリス艦隊が12艘で遂に来航しました。江戸や幕閣は大混乱です。ニールは世界最強の艦隊をバックにして薩摩藩に2万5千ポンド(今の約3億円)の賠償を要求します。今まで紳士的な話し合いで進めていた外交が、その仮面を外して武力外交を突き付けるのです。


 ところが、薩摩藩主島津久光はこれを拒否しました。驚くニール。震撼する幕閣エリート。その理由が凄い!


 今回の一件によって、貴国人に死傷者が出たのは、誠に遺憾のこと。しかしながら、大名行列を邪魔する者を無礼討ちにするは、武門のしきたりに従ったまでのこと。これは日本の国で知らぬ者はおりません。それに賠償を求めるのであれば、このしきたりを定めて執行してきた幕府に求めるべし。


 幕閣は薩摩藩から巨大なブーメランを喰らい、ニールの怒りの眼差しは、薩摩藩から幕府に向けられたのでした。( ´∀` )


 ビビりまくった幕閣は、イギリスに対して10万ポンドの黄金を支払いましたとさ。


 狼狽し、ひたすら穏便に治めようとする幕府に対して、その支配下にあるはずの薩摩藩がイギリスに対して跪かないことを、不思議に思うと同時に気に入らないニールは、以下の様な書簡を薩摩藩に送りました。薩摩に英語がわかる者がいなかったため、あの若きインテリ福沢諭吉が和訳しました。


 我々イギリス人に襲いかかりし諸人中の長立おさだちを速やかに捕らえ、吟味し、女王陛下の海軍士官の眼前にて、その首をはねるべし。更に2万5千ポンドの賠償をせよ。


 というものでした。これを読んだ薩摩の中枢は激怒しました。というのも諸人中の長立のことを藩主島津久光と理解からです。しかしニールが求めたのは、実際に斬りつけた者の処分でした。悲しい誤解でしたね。


 薩摩は本気です。藩主の首を差し出すなど言語道断! それは薩摩藩が滅ぶということ、ならば全てをかけて戦うべし、例え敗れて薩摩が滅んでも同義である。今では何とも凄まじい論理ですが、本当だったのです。


 粉骨砕身夷賊誅伐 → 久光の命で薩摩軍5万は戦闘準備を開始しました。


 この返答を知ったニールは、「この人たちはクルクルパーなの? 」と思ったことでしょう。


 ニールは、世界に冠たるイギリス艦隊12艘の内主要7艘で、文久三年(1863年)6月、江戸から薩摩へ出港しました。


 といっても、イギリス側は完全に物見遊山気分でした。謎の強気な薩摩でも、我が艦隊を見せつけてやれば恐れをなして、たちまち降伏するだろう。と高をくくっていたのです。艦隊では毎晩のように上等なワイン、豪奢な食事が出て大好評でした。


 しかし薩摩はやる気満々です。今でいう鹿児島湾沿岸に築かれた10個所の台場には、85門の大砲が据えられ、最大150ポンドの巨砲が一門ありました。70kgの砲弾が撃てるこの大砲は当時世界でも稀だったのです。


 又、砲撃訓練を重ねており、海に的(旗)を浮かべて、全ての砲の有効射程を熟知して、砲の仰角度毎の着弾位置を割り出していました。


 そして文久三年(1863年)7月2日正午、薩英戦争が勃発したのです。油断しきったイギリス艦隊は、のこのこ85門の有効射程内に入り込んだので、一斉に砲撃が始まりました。


 まさかの砲撃に艦隊は泡を喰らい、その正確さにも舌を巻きました。暫く反撃さえできず、一方的にやられて大混乱です。というのも幕府からせしめた10万ポンド分の黄金が武器庫の戸を塞いでいたのです。


 艦隊が反撃できたのは、およそ2時間後。自慢のアームストロング砲の威力はやはり絶大で、城下は火の海になりました。それでも薩摩は怯まずに攻撃してきます。そして薩摩の砲弾が旗艦ユーリアラス号に命中し、なんと艦長と副艦長が戦死したのです。これがこの戦の帰趨を決しました。


 負傷者は双方多数で、死者は英側13人、薩摩側は5人という記録があります。三日後の同月4日午後4時、イギリス艦隊は満身創痍、碇の鎖を断ち切って逃げるように鹿児島湾から撤退したのです。薩摩は甚大な被害を被りましたが、藩主は無事で防衛に成功したといえるでしょう。


 それから3カ月後の同年10月5日、薩英の講和交渉が行われました。勿論通訳を通じてです。イギリス側はアーネスト・サトウが活躍したことでしょう。


 ニールは、自慢の艦隊をボロボロにされ、旗艦艦長と副艦長をはじめ多数の死傷者を出していたために、実質的に敗北に近い結果に恐々として身構えていると、薩摩側は意外にも賠償金(例の2万5千ポンド)の支払いに応じたのです。


 そして、これから貴国と戦うよりも手を結びたい意向を表明し、椎の実型の砲弾(アームストロング砲弾)と砲塔(特に内側のらせん状の溝の作り方)の製造方法を教えて欲しいと伝えたのです。


 普通に考えれば、国家機密に相当する技術を教えるなど、考えられないのですが、命を賭けて戦った者同士の間で、友情と尊敬に近い感情が生まれたようです。


 ニールは何故それ(アームストロング砲に代表される軍事技術)が欲しいのか? と薩摩藩の代表に問いかけます。代表は笑顔で応えました。


 「おはんらともっとマシな戦がしたか」


 ニールはジョークと捉えて笑ったのですが、薩摩藩側は半分本気だったかもしれません。このやりとりはキチンと記録に残っています。通訳もさぞやハラハラしたことでしょうね。


 国も人種も異なりますが、騎士道精神と武士道精神が融合したのでしょうか。イギリスは薩摩藩の呼びかけに応じるのです。


 イギリスも貿易相手を幕府に限らず諸藩に広げることで、より大きな利益が得られると考えたのです。


 藩主島津久光は今後無謀な攘夷を禁じ、領内に異人館を建ててイギリスから技術者を招いて当時の最先端の技術を貪欲に吸収し、軍艦やミニエー銃も輸入して急速に軍事力を強化しました。


 幕閣は頭越しで勝手に両者が取引しているのを、黙認するしかありませんでした。


 私はこの史実を知って、非常に感動しました。そしてとても味わい深いものを感じました。ここには脚色はありませんが、今と同じ感覚で時が流れていて、その中で先のことなど全然わからないのに、多くの人々が関わった結果、幕府そっちのけで、イギリスと薩摩藩が手を結んだのです。いや~凄い。


 薩摩藩に、よくぞやってくれましたと拍手を送りたいです。いや、拍手喝采です。感謝です。ありがとう!


 これから彼が脱藩して大活躍をするところを書こうと思っていたのですが、その脱藩の理由が納得できなかったので、図書館に行って更に調べていたら、新史料が発見されたという事実を知りました。(といっても平成一二年8月古い)土佐史研究家・松田智幸氏です。本も出てますよ。


 おかげで私個人の納得するしない件はすっ飛ばします。(後で)


 その新史料とは、安政三年(1856年)~四年にかけての土佐藩公文書の写しと同時期の土佐藩郷士二人の日記です。


 その内容は、安政三年(1856年)8月、土佐藩は全藩士及び全郷士を対象に臨時御用を命じています。これは常の参勤交代とは異なり、攘夷の軍役を兼ねた江戸への表出足です。当然その中に坂本龍馬や武市半平太も含まれています。


 当時幕閣はアメリカのハリスと、通商の自由と通貨交換比率の取り決めを談判中で、もしもこの談判が決裂したら、攘夷戦争が勃発するものと国内では一般的に解釈されました。


 その備えとして山内容堂は臨時御用を命じたのです。勿論戦となれば、死ぬかもしれないので、家族と真剣にお別れして出立したのでした。


 ですから、彼が二度目の江戸遊学はありえないし、武市半平太も士学館で剣術修業もありえないことになります。


 藩命による武役なので、抜け出して剣術修業などできるわけがないのです。これ私だけが発見とか、諸説有りとか、そんなことではないですから、納得いかない人もおられるでしょうが、事実はこうです。


 自分としては注意していたつもりでしたが、まんまとひっかかってしまいました。でも新史料見つけられて良かったですよ。前に書いた、坂本龍馬二度目の江戸遊学の件はそのままにしておきます。(通説として)


 でも実際、幕府は譲歩して攘夷戦争は無かった。この間彼らはひたすら砲術訓練をしていました。朝の7時から夕方4時すぎまで、月に18日でしたから、割と休みもありました。


 月を30日とすると12日はお休みでしたから、その間剣術修業していたのではないか? と考える人の為に書いておきますが、軍役なのですから休日といえども、いつでも出陣できるように身柄は管理されています。剣術修業など許可されませんでした。


 無事に高知に帰って来れたのは、安政五年(1858年)9月でした。良かったですね。


 文久二年(1862年)1月23日に萩を出立したところまで話が進んでいました。このわずか2カ月後の3月24日、彼は沢村惣之丞と脱藩してしまうのです。


 なんでじゃ? 脱藩らぁおおごとぜよ! 実はあの頃は「脱藩」と言わず、「出奔」「逐電」とか言われていたそうですが、現代では脱藩を使います。もっと言えば、「藩」という概念もあまりなく、小さな国の集まりという感じだったようですが、現代では「藩」を使います。これは藩や殿様に対する裏切り行為で大罪です。


 捕まれば死罪もあり、その家族縁者も罰せられたので、多分みんな止めたと思うのです。そればかりか、二度と故郷へは戻れず、収入も無くなり、「藩」という後ろ盾も無くなれば、孤独で危険な日々を覚悟しなければなりません。


 その恐ろしさが、わからないはずはないのです。それでも彼は知人から金を借りて決行しました。私にはその理由が納得できんがです。


 その理由とは、近々薩摩藩主島津久光様が挙兵して上洛し、攘夷に消極的で異国に押されっぱなしの幕府を倒すための戦をする。という情報でした。こんな情報があったのは事実で、長州の勤王派は乗り気でした。


 「わしらも勤王の志士として戦に参加して戦おう。その為には、脱藩して京にのぼるぜよ」


 そんなあやふやな情報で脱藩なんかするもんかえ? ほんまに戦が起こるんかえ? 起こらんかったらどうする? わしらぁただのあほうじゃいか。


 私はそう思います。脱藩という大事をしたからには、もっと他に理由があったのかもしれません。それを調べていたのです。


 せっかくですから、実際薩摩は何をしたのか以下に書きます。知っている方は飛ばして下さい。


 薩摩国父島津久光上洛の情報は、かなり誤解されていました。兵を率いて京都に上り、天子様(孝明天皇)からお墨付きをいただき、それから江戸に下って、天子様の権威と薩摩の軍事力を背景に幕府改造を迫る。という計画でした。


 それが、島津久光様は攘夷派、それが兵を率いて上洛、これはきっと弱腰幕府を倒す挙兵ぞ。我らも勤王の志士として加勢せねば! となるのです。その数が、まぁまぁ多くて土佐藩の武市半平太の知るところになったのですが、「挙藩勤王」土佐藩一致で勤王活動しないと大したことはできん。と動きませんでした。


 ところが、長州の久坂玄瑞は、この誤解情報を中枢に伝えて薩摩藩への対抗心を巧みに煽って二百の兵を上方へ派遣させることに成功しました。


 文久二年(1862年)4月16日、島津久光は一千の兵を率いて上洛しました。そこで京の治安を乱している浪士取締りの「勅旨」を得た久光は、4月23日草莽の志士と結び、挙兵しようとした薩摩藩士有馬新七らを伏見の寺田屋で上意討ちにして暴発を防ぎました。


 これで予定が狂ってしまった長州の久坂玄瑞や草莽の志士、そして二百の兵は自らを封じ込めるほかありませんでした。


 一方、孝明天皇の信頼を得た久光は、幕府改革案を上奏し了承される。幕府に改革を実行させるために、勅使を得ることに成功。久光と兵はその護衛として6月に江戸に乗り込みます。


 「勅使」は、朝廷からの使者ですから、幕府はその命令(中身は久光が出したもの)に従わないわけにはいきません。


 これによって、安政の大獄で失脚していた松平春嶽を政事総裁職、一橋慶喜を将軍後見職として幕閣に復帰させるなどの改革に成功したのでした。


 このパフォーマンスは、天皇の権威を抱え込めば外様(久光は大名でもなかった)でも幕府の人事に介入できることを世に示したのです。


 島津久光は情報通りに一千の兵を率いて上洛しましたが、討幕の為に挙兵しませんでした。それどころか寺田屋騒動で、草莽の志士達を上意討ちにしたのです。そこに薩摩藩士がいようと容赦無しです。彼は既に脱藩浪人ですから、草莽の志士ということになり、もしここに加わっていれば、殺されていたことでしょう。


 彼の思想は、長州譲りの「勤王攘夷」です。そして盟友武市半平太率いる土佐勤王党と同じ思想です。


 ところが武市半平太は、「挙藩勤王」を目指して参政吉田東洋に何度も建白したのですが、はねつけられます。武市は徐々に焦り始めます。


 そして、武市は邪魔な参政吉田東洋を暗殺してでも、挙藩勤王を実現させようという考えに至ります。彼はこの考えに「間違うちゅう! 」と反対・説得します。


 自分の意見を通そうとして、反対する上の者を暗殺するのは、短絡的で恐ろしいことです。そもそも暗殺そのものが大事で恐ろしいですが、それをやってしまったことで、まっとうな道から外れるからです。


 まっとうな道から外れてしまうと、もう世間の支持は受けられず、結局大義である挙藩勤王も瓦解してしまう。これが本当に恐ろしいことなのです。


 しかし、あれ程時勢を語り合った仲でも、凝り固まってしまった武市の考えを変えることはできませんでした。党内の意見は、挙藩勤王実行のために参政吉田東洋暗殺すべし。で一致して、彼は孤立してしまいます。


 自分の思いが伝わらず、武市に歯向かう者として白眼視されるのは、さぞ辛かったことでしょう。


 その上に決定的なのは、吉田東洋を三人ずつで監視し、機と見れば斬れということになり、彼もその暗殺グループに入るに違いないと知った時です。


 私はこれが脱藩という大事の最大の理由だと思います。通説では、彼は藩という規格に合わなくなった。という曖昧な表現ですが、もっと身近な武市半平太・土佐勤王党との訣別と、吉田東洋暗殺メンバーに引き込まれそうになったから。というべきです。


 文久二年(1862年)吉田東洋は、武市半平太の指示で刺客(那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵)によって暗殺されてしまいます。


 彼が脱藩後、二週間後のことでした。


 





 暇なので坂本龍馬について調べています。ネットはもとより、ちゃんと図書館に行って本を借りています。勿論読んでますよ。その情報量は膨大で、彼の人気の高さをわかります。


 そして、多くの脚色や矛盾がわかるようになってきました。

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