鳩の君(きみ) 新作短編小説
コロナ問題で、夏の甲子園が中止になってしまいました。初めてのことだそうです。ショックですね。
薄々はと思っていましたが、決定・発表を知ると、大変残念です。でもこれも試練と思って、ヤシマ作戦を続けましょう。
私は自分にできることをやります。今回は、その証として、初の短編小説を投稿します。私の長年の疑問に答えてくれた本については、少し遅れます。
西暦1913年、6月、ドイツ・ミュンヘン。4月に24歳になったばかりの若者は、気になっていることを確かめるためにO公園に行く仕度をしていた。
身だしなみを整え、画材道具とイーゼルを抱えて階段をコンコンと降りる。階下には仕立て屋を営んでいるヨゼフ・ポップ氏がメジャーを首にかけて、カイゼル髭のミュンヘン紳士の身体の寸法取りをしていた。さほど広くはないが、丹念な仕事を施した上品な色のスーツが幾つか展示され、ヒト型が二~三体ほど立ててあり、広い作業台を隔てて年季の入ったミシンと椅子、そしてこれまた年季の入った文書机が配置されていた。仕事と営業・事務に必要にして十分なスペースだ。
「こんにちは、ポップさん」彼は家主であるヨゼフ・ポップ氏に挨拶した。
「やぁこんにちは。調子はどうですか、芸術的画家さん」と彼に目をやり、気立ての良さそうな声で応えた。
「まずまずといったところですな。今週の家賃(週3マルク)は大丈夫でしょう」とはにかみながら笑顔を見せた。
「うむ。結構結構。頑張りなよ」と父親のような目で彼を見送ると、彼は愛想笑いのまま何度か頷いて、賑やかな通りに出て行った。春の穏やかな日差しと爽やかな風が、背中を押してくれているような気がした。
シュライスハイマー通りを3ブロック西に歩くとO公園がある。彼はそこを目指して歩を進めた。通りは歩道と車道に分かれていて、車道は馬車が多く行き交い、自動車はまだ珍しいので、信号や横断歩道は無い。従って車道を渡る時には、左右を見回し馬や運転手と目を合わせて安全確認してから渡る。
O公園に入ると美しい芝生を横切り、石畳の並木道に出て三人掛けのベンチに腰を据えてイーゼルを立てて画材道具を広げた。彼は主に風景画を描いてそれを売って生計を立てている。だが彼は、パンを得るために絵を描いたことはないと主張して譲らなかった。だから他人から職業を尋ねられると、決まって『芸術的画家』と答えた。どちらでもよさそうなものだが、であればここは譲ることはあるまいという考えだ。
この誇り高き『芸術的画家』は、たくさんの絵を描くことはなかった。せいぜい一日に絵を一枚、絵ハガキを三枚程度だ。それが売れても大した稼ぎにならないが、毎日売れる決まりはないので、食うや食わずの日々のおかげで身体は貧弱に痩せていた。有料シャワー浴びるくらいなら自らの生体反応である体臭を喜んで受け入れ、その身にくすんだシャツにネクタイをきっちりと締め、よれよれのスーツを着込み、すっかりとくたびれた革靴。ただ下着だけは、過去にインキンタムシに苦しめられた苦い経験から、辛うじて毎日取り換えていた。
しかし髪はきちんと整え、顔は毎日洗い髭の手入れを怠らなかった。するとスッと通った鼻の左右にある両の目が際立つのだ。そのおかげで不潔な身なりをしてはいるが、辛うじて物乞いに見られることはなかった。もし誰かに何故そんな暮らしぶりなのかと問われたら(そんなことは一度もなかったが)、迷わず『芸術的画家』を持ち出すことにしている。
今日も朝食をとっていない。水は飲んだ。昼食のことなど考えていない。空腹だが、それは我が用心棒(いつも傍にいる)と受け入れている。絵を描いていればそんなことは意識から立ち退いてくれるのだ。まして今日はなおのことだ。
イーゼルに鉛筆で下絵を施していた画用紙を据え付け、目の前に存在している美しい風景を見て筆で色を付け始めた。近くの芝生、青葉茂る大きな木々、その奥に見える大きな池、そこには七羽の鴨が浮かんでいる。さらに奥には池の対岸の緑、それらがみんな優しい陽光に照らされていた。空はひたすら青く、雲は芸術的に浮かんでいた。彼は何とかその神々しいばかりの瞬間を、作品に封じ込めようとしていた。背筋をピンと伸ばし、目線を遠近にやりながら一心に描いていた。そして集中力が切れたらベンチに腰を降ろして休んだ。
やがてフラウエン教会が正午の時を告げる鐘を鳴らし始めた。彼はそれで昼が来たと知ると、「いよいよだ」と思って注意を絵から外して周囲を見回した。
すると彼女がやってきた。
彼女に気がついたのは先週のことだ。どこからともなく鳩が数十メートル先のベンチ集まってきて驚いていると、既に彼女がその中にいた。彼女は次の日の昼にも現れて、同じベンチに腰掛け、一人で昼食をとりながら、パンを小さくちぎって鳩にやっていたのだ。その時の表情が、いかにも鳩を慈しみ且つ己も癒されているという風情で、それが強く印象に残った。彼女はそれを日課にしているとわかった。そしてパンがなくなっても暫くそこに佇み、午後一時が近づくと立ち上って西側の出口に向かって去って行った。
おそらく自分がここにやって来るはるか前から、ずっとそうしていたのだろうと思った。彼は勝手に『鳩の君』と名付けた。
彼女はドイツの女性の中では中背で、地味な色のワンピースを着ていて、ブロンドの髪を無造作に後に束ね、大きな黒縁メガネをかけて化粧っけは全くなかった。大人しく控え目な性格だと思ったが、鳩にパンをやっている時の楽し気な表情が何よりも印象的だった。彼は『鳩の君』をもっと近くで見ようと翌日はベンチを近くに移動した。それでも彼女は同じベンチに座って日課をこなして去って行った。
彼はもっと見たくなって更に近くのベンチに移動した。この日も彼女は同じ日課をこなして去って行った。その時、ほんの一瞬ではあるが、彼女のこぼれるばかりの笑顔を見ることができて。図らずも胸を何者かに掴まれた気がした。その日は一日ポーっとして、夕食のねじれパンと牛乳は格別だった。
そして今日、彼はいよいよ彼女のベンチのはす向かいのベンチに陣取った。これ以上近づくとすると真正面ということになってしまうから、さすがにそれだけはできなかった。こんなに自分の位置を移動しては絵の構図がはなはだずれてしまうのだが、そんなものはどうでもよくなっていた。もっと彼女の顔が見たい。そしてあわよくば声などかけてみたい。彼は昨晩からそんなことを計画して中々寝ることができなかった。
果たして『鳩の君』はいつも通りに鳩と共にやって来た。そして自分のことを気にする様子もなく、同じベンチに腰を降ろしてバスケットからサンドウィッチを取り出して食べ始めた。愛想のない淡々とした食事。時おり水筒を口に付けて飲む際にわずかに顔を上げるだけの所作。鳩どもは彼女の食事を邪魔することはなかったが、やがて彼女が食べ終える頃には徐々にざわつき始めた。それを察した彼女はバスケットからパンを取り出し、小さくちぎって鳩に撒き始めた。愛想の無かった顔がみるみる笑顔に変わり、彼はそれを立ったままポカンと見ていた。
彼女はパンを啄ばむ鳩を見ているうちに、彼の視線に気がつき少し顔を上げた。意図せず目が合ってしまって、彼は大きく動揺した。
「こんにちは。良いお天気ですね」思わず月並みの挨拶が口から出た。
「こんにちは。本当にそうですわね」彼女は微笑みながら応えた。
彼女が自分に挨拶を返してくれたことが驚きであり、この上のない喜びであったが、それきり何も口をついて出てこなかった。彼は笑顔で会釈をすると、再び目線を絵に戻して筆を動かした。本当はもっと話をしたかったのだができず、仕方なくそうするしかなかった。彼女も又鳩と戯れて、暫くすると立ち上がって去って行った。その時彼女は去り際に彼に笑顔を向けたのだ。彼もしっかりと目線を合わせてそれに会釈で応じた。言葉はなくとも心が通ったと思った。彼女の姿を追いつつ明日もここに来ようと決めた。
彼は自分が彼女に恋をしていると自覚した。もう24歳なのだから、それは自然なことだ。だが彼については、それがわかるだけで大きな成長というべきだった。(勿論それで俺は成長したなとは思わない)それは彼の性格にあるのかもしれない。
彼は少年の頃から、日頃は大人しいのだが、何か癪に障ると激昂することがあった。それに思い込みが激しいところがあって妄想する傾向が強く、それに現実をうまく結びつけることができずに、言動が周囲の人々を当惑させることがあった。しかし憎めないところもあり、欠点がそのままチャームポイントになっているような少年だった。
だから変わり者(問題児)扱いされることが多かったのだが、当の本人はそれを全く気にとめない少年だったが、一つ年上の親友の存在のおかげで、なんとか事件起こさないで済んだことが多々あった。その親友はアウグスト・クビツェクという少年で、おっとりとした性格で、自分にはない激しい気性の彼とは電極のプラスとマイナスの様に妙に気が合った。彼とは共通の趣味であるオペラ鑑賞を通じて意気投合した。彼の地式は豊富で批評は辛口、且つ適格だったので、クビツェクが感心したのがきっかけだった。
お互い決して裕福な家ではなかったが、彼は画家になる夢を、クビツェクは音楽家になる夢を語り合った。彼の父親は官吏で、息子の夢に断固反対のまま他界していた。クビツェクの父は家具職人で、オペラや音楽などは全くの無理解だった。そんな境遇が二人の結びつきを強くしたのかもしれない。
そしてお互いが成長して思春期を迎えた頃、彼は美男子として同年代の少女たちから注目されるようになったのだが、自分といえばその添え物くらいの軽い扱いを受ける様になるのだが、実際彼に比べれば冴えない容姿を認め、それでも彼との友情を大切にする気立ての良いところがあった。少女たちに囲まれて彼の名前を教えて欲しいとか、手紙を渡して欲しいと頼まれれば快く引き受けた。
しかし肝心の彼は少女らにモテると、喜ぶどころか顔を真っ赤にして逃げまくった。彼にとって女性とは、何でも知っているような顔をして遠慮なくどんどん近づいて来る恐怖の存在であった。ならば敵かというと決してそうではない。声も笑顔も愛くるしく身体も柔らかそうで、辺りに良い匂いをふりまき、自分の世界観を惑わすのだ。まったくどう扱っていいものやらわからない存在であったのだ。クビツェクは彼からそんなことを何度聞かされても、「そんなもんかな~ ボクは羨ましいよ、何とかデートでもしてあげなよ、勿体無いよ」と助言しようものなら、彼から「お前は事態を全くわかっておらん! 」と容赦ない反撃をくらうのだった。
そんな彼は16歳の時、町で一人の少女を見かけた時に熱烈な恋をする。「美しい、完璧な理想の女性だ」とクビツェクに向かって何度も絶賛し、彼女の素性調査を命じた。クビツェクは彼のために実直に彼女の素性を調べて彼に報告した。彼女の名は、シュテファニー・ラバッチュ、年齢は18歳、ウィーンで法律を学んでいる。未亡人の母と二人暮らしで趣味はダンス、住所は……。
彼はそれを夢中で聞き且つ信じた。「シュテファニー、なんという美しい名だ。二つ年上だがそんなことは問題ではない。シュテファニーこそは俺の生涯の伴侶に相応しい」彼は興奮してクビツェクにシュテファニーへの愛がどんなに真剣で誠実であるかをまくしたて、あげくに詩まで作って何度も聞かせた。そして偶然を装って彼女に会うために、母親と散歩に出かけそうな時間を見計らって、住所の通りでの待ち伏せに付き合わせた。
クビツェクにしてみればいい迷惑だが、彼はそれを苦とも思わず、彼のおそらくは初恋がうまくいくことを心底願っていた。そして運良くシュテファニーと遭遇してすれ違っても、彼は何一つできなかった。たまたま目と目が合って彼女が一瞬微笑んでくれた時には、彼はその場では平静を繕っていたが、その後でクビツェクに言葉を尽くしてその絶頂の喜びと感動を伝えて大騒ぎした。又、たまたますれ違いざまの目線がつれなかった日には、非常に落ち込み、深刻な泣き言をこぼした。クビツェクはうんうんと聞いて彼を慰めた。つまり、彼の初恋は一切声をかけることなどできず、すれ違いの瞬間が最高接近で、後は遠くからジッと眺めるだけだったのだ。これは片思いである。
クビツェクは彼からシュテファニーの異性関係についての調査を命じられ、彼女はもう軍の青年士官と婚約していることを母親から聞く。もしこれを彼に伝えれば、大変なことになると恐れたのだが、執拗な彼の要求により遂に聞いたままを伝えた。その時の彼の反応たるや、驚きと絶望、悲嘆にくれる姿は、オペラ並に大仰な芝居じみたものだった。それだけに留まらず、軍の士官を「見栄っ張りで空っぽな人間ども」と罵り呪い、遂にはシュテファニーを奪還して自分が彼女を救い出すと言い始めた。
付き合いの長いクビツェクは、「要するに、だからといって諦めきれない」ということだね。そうだ、彼女はダンスが好きだから、これを機会にダンス始めたらどう? と助言すると、「ダンスだと? あんな無意味で堕落的なものなどできるか! 」と反発されたが、クビツェクはその後、彼が家でダンスの楽曲をピアノで弾いて母親からうるさがられていることを知り、ダンスの本を隠れて読んでは、ステップの練習をしているのを密かに目撃していた。
これだけなら笑い話で済んだのだが、彼は更に思い詰めて『シュテファニー誘拐計画』をクビツェクにうちあける。その内容は、シュテファニーと母親が散歩に出ているところに、クビツェクが母親に話しかけて気をそらせている隙に、彼がシュテファニーを強奪するというものだった。クビツェクは自分の役割が計画に入っていることに驚きながらも、「シュテファニーを誘拐するのはいいとして、その後君たち二人はどこでどうやって暮らすつもりなんだい? 」と尋ねると、彼は明らかにそこまで考えていなかった様子で沈黙した。
クビツェクは、彼の言うことを否定したり反発したりすれば、逆効果になると心得ていた。だから一旦はそれを受け取り、それから普通の助言をすればたいてい大人しくなることを知った。
その数日後、いつもの様に彼とクビツェクはシュテファニー母娘を待ち伏せて、彼女に目線を送った時、彼女は御機嫌が悪かったのか明らかに煙たそうにそっぽを向けた。その後の彼の反応は、さすがのクビツェクも困ってしまった。
彼は深く絶望し、こう叫んだ。
「もう終わりだ。もうとても耐えられない。こうなったら橋からドウナウ川に飛び込んでやる! 勿論シュテファニーもろともだ! 」
クビツェクは彼がそれ程思い詰めていることを知り、それを引き取って、意識的にそれ(シュテファニーと心中計画)についての話題を避けてオペラの話題に切り替えて、彼が凶行に走らないように注意深く見守った。やがてそれが功を奏したのか数日も経つと、彼はケロリと忘れてしまった様だった。クビツェクはどれだけ安堵したことか。そして同時に、切ない片思いに苦しむ少年を何度も救ったのだった。
1906年、6月。今年もリンツで花馬車行列が開催された。色とりどりの花飾りを付けた数台の馬車が町で知られた美少女を乗せて練り歩くというお祭りであった。町の人々は沿道に並んでそれを見物しながら、屋台で花を買い、飲んだり食べたりして楽しんでいる。その中には彼とクビツェクもいた。
リンツは小都市なので、誰かがあの娘かわいいじゃないかと言えば、ああ、ありゃどこそこの誰々の娘さ、大きくなったもんさね~などという具合にみんなが誰かを知っていた。そんな牧歌的な催しだ。
そして二人は、ある馬車の中にシュテファニーがいるのを見つけた。彼は、ただポーっとして見つめていた。更にシュテファニーが乗った馬車が二人に近づいて来て、赤いヒナゲシ、白いマーガレットに囲まれて、その中心に民族衣装を着た彼女の笑顔が輝いているのがよく見えて、クビツェクが見ても最高に美しい姿であった。
シュテファニーはお祭り気分に相応しい無邪気な笑顔を振りまいて花を観衆に撒いていた。観衆はそれを受け取る度に沸いた。
彼の妄想の中では、シュテファニーが馬車を降りて、自分の元に立ち白いマーガレットを手渡してくれた。ことになっている。彼は恍惚とした表情のまま立ち竦んでいた。これで彼の初恋は一つの成就をみたのかもしれない。
『鳩の君』……。彼は彼女と挨拶を自然に交わす様になり、それから彼女の隣のベンチに陣取り、話が出来るようになっていた。だが、まだ名前を知らなかった。話をしてみると彼女も控え目な方で、あまり話が弾まず何となく聞きそびれていた。そして今日こそは名前を聞き出そうと思っていた。彼女は公園近くの時計工場に勤務していて昼休みは昼の12時から1時の1時間。ここで昼食を食べながら鳩にパンをあげるのが楽しみという。今日はあいにくの曇り空だが、彼はいつものベンチを陣取って、鐘が鳴ると鳩と一緒に彼女を待った。そして彼女は元気そうな足取りでやって来た。もう笑顔で挨拶をする間柄だ。
「……今は何を描いてらっしゃるの? 」
「ええ、今はここで絵ハガキを描いています。これなら、ここでも描けますから……。実は私はあなたとこうしているのが楽しくて、それであなたが仕事に戻ったら寂しくて、仕方なく場所を変えて絵を描いているのです」
「……どんな絵ハガキですの? 」
「教会です。これが一番売れ行きが良いんです。良かったら見ますか? 」
彼はカバンから絵の具が乾いた教会の絵ハガキを何枚かを渡した。彼女は、それを手にして見ると、まぁ綺麗。と笑顔を輝かせた。彼の顔は赤くなった。
「アタシ、これをいただくわ。お幾らかしら? 」
「いいえ、あなたからはお金などいただけません。それにそんなつもりで見せたのではないのです」
「実は丁度、里の親に絵ハガキを送ろうと思っていたの。アタシ、あなたのこの絵ハガキをぜひ買って送りたいの」
彼は根負けして、彼女から10ペニヒを受け取った。彼女はそれで嬉しそうだったので、心は晴れた。コインをポケットに入れて、いよいよ名前をきこうと「あのう」と言った言葉が彼女と被さってお互い笑ってしまった。それから譲り合い、彼が先に名乗ることになった。
「私は、アドルフ・ヒトラー です」
「良いお名前ね、高貴な狼ね。アタシは、エルナ・フークス です」
年齢はアドルフが24歳、エルナが20歳だった。これで二人の仲は又一歩進んだようにお互いが感じた。もうシュテファニーの時のように大騒ぎすることはない。
二人はそれから色々な話をするようになった。彼はウィーンからミュンヘンにやってきたこと。理由はここミュンヘンには興味深い建築物がたくさんあるので、それらを研究するためだと説明した。勿論これはウソで、実はウィーンの徴兵から逃れるためであった。ミュンヘンの北レオンベルクからやって来た田舎娘である彼女は、ウィーン(オーストリア)から来たと聞いただけで凄いと思った。身なりは貧しそうだが、芸術的画家だと言われればそう見えた。自分だってそんなに上等な身なりをしているわけではない。
彼は自然と彼女の身の上話の相手になった。父は小作人で、お酒を飲んでは母に暴力をふるう人で、家はとても貧しかった。母は優しく美しい人だったが、自分を含めて四人の子供を愛し、一生懸命に働いて家を切り盛りしている姿を、ずっと見ていた。彼女は長女で物心ついた頃から妹や弟の世話をしながら農作業の手伝いをした。だから学校にはあまり行けず、最低限の教育(ドイツ語の読み書きと四則演算)ができる程度で、逃げ出す様にミュンヘンに出て時計工場に女工として就職した。
独身寮に住み込んで、工場では毎日時計のムーブメントを本体にはめ込んでネジとめ固定する作業をしている。単純だが気を抜くことができずにとても疲れる。訛りが酷く内向的だから友達ができずに初めての孤独を感じた。楽しみといえば毎月届く母からの手紙。自分も毎月母に手紙を書いて、家族の為に少ないお給料から幾らかをしのばせて送っている。それと昼休みにここで鳩にパンをやっているのを見ることだけだと、目線を遠くにやって呟くように語った。
それを聞いた彼は、心から同情して涙を浮かべた。自分の父も暴君ではあったが、そこまでの貧乏を味わったことはなかった。だがあなたの辛い気持ちは痛いほどわかる。
母を愛していたが胸の腫物が原因で亡くなった。今は妹パウラを親戚にあずけて、何とか芸術的画家として自立しようと奮戦の日々を送っているのだ。
「私も孤独だ。だが寂しくはない。私には芸術と文化があるからだ。絵画、彫刻、音楽にオペラ、そして、本だ。エルナさんは読書をしておられるかな」
「いいえ、本などとんと読んだことがありません」
「ならば、何か本を読まれるとよい。図書館へ行けばお金はかからない。世界はなにも御家族と時計工場ばかりではないのです。広く沢山の世界があるのです。読書をして考えを広げれば、世界と人を見る目を養うことができるのです。
例えば時計です。あなたやその同僚のなした丁寧な仕事の結果であるその時計は、人々に時刻を知らせ、朝には多くの寝坊助どもを叩き起こして日々の営みが回るのです。こう考えれば、いや事実だが、あなた方の仕事は非常に尊い。とすれば、その労働による疲労は、社会に貢献した証です。社会貢献した満足感とノルマをこなした達成感と疲労によって初めて、働く歓びというものを味わうことができるのです。しかも労働によって獲得した報酬、それによって命をつなぎ、又明日も働く歓びと社会に貢献したという誇りを得ることができるのです。それらを自覚すれば、それだけで歓びに浸る人生を送ることができるではないですか。
読書をして知識や知見を広げると、そういう見方や考え方ができるのです。仕事が辛い、貧しい暮らしは嫌だと人生に背を向けたところで事態は良い方へ向くことはありません。聞くところによれば、あなたは就職をして立派に働いて社会貢献をしておられる。それをもっと喜ぶべきです。誇るべきです。それに、遠く離れた母上に手紙を送り、遠隔操作によって一人の尊い女性を励まし心に灯をともし続けておられる。それだけに留まらず、仕送りまでして将来への投資も惜しまないとは、私はこれまであなたの様な献身的な女性を見たことがない! 」
彼が自分の思うところを語り終えた時、彼女は立ち上がって拍手を送っていた。涙ぐんでいる様子だ。彼女はミュンヘンに来て、これ程に認められたことはない。更に力強く励まされたのも初めてだった。彼女は自分に浮かぶ限りの言葉を尽くして彼に感謝を伝えた。そして自分もこれから図書館へ行き、本を読むことにすると言った。
それにあたりどのような本を選べば良いかを尋ねた。彼は優しく微笑んで、最初はメルヒェンなどが良いでしょう。わからない文字があれば辞書を引けばよろしい。そしてただ読むのではなく、楽しみ、理解し、吸収し、人生に役立てる心構えで読書を続けるのがよろしいかと。とアドヴァイスした。
それから二人は雨の日も同じ場所で会い、とても親しくなった。彼女は言われた通りに図書館でメルヒェンを読み、その話を嬉しそうに彼に語るようになった。彼はそれらを知っていて共通の話題として、人生の教訓として語った。これは二人にとってとても得難い交流となり、彼女は徐々に変わり始めた。活発になって表情が豊かになった。黒縁メガネを外すと、見違えるほどに輝き始めた。自然にブロンドの髪をかき上げる仕草などは、若く美しい女性の色香を感じるようになった。実は彼にはそれが苦手で、理性によって整えられた、自分の心を惑わせるようになったのだった。しかし彼は昔の様に逃げ出すことはなく、彼女の成長として喜ばしく受け止めた。
そんな彼女の変貌を察知し、卵を求めて這いまわる蛇のように舌なめずりをして見ている男が現れた。職場の直属の上司であるハンス・ポーツだ。ハンスは妻子があるにも関わらず女癖が悪く、立場を利用して部下に度々手を出していた。日に日に垢抜けて輝きを増す彼女を女として見る様になり、言いよる機会を狙っていた。
しかし彼女の心には尊敬する芸術的画家がいて、働く歓びを見出してはつらつと勤務していた。更にメルヒェンを読んで人生訓としていたので、巧みにハンスの誘いを切り抜けていた。しかしハンスは諦めるどころか、狩りを楽しむハンター気分で舌なめずりをしていた。
ある日の就業後、ハンスは仕事のミーティングと称してエルナを高級レストランに招いた。評判の良くないハンスに警戒していたが、今まで見たことのないゴージャスな雰囲気、食べたことのない美味な料理、優雅なドイツ・ワインを一つ一つ堪能しながらの甘言に、彼女の心は揺れ始めた。
ハンスは優しく、表情豊かにエルナの真面目で優秀な仕事ぶりを褒めて、組み立てラインの監査に昇進させるつもりだと伝えた。監査となれば報酬は三割増しとなる。エルナはとても喜び恭しく礼を述べた。それをあざといハンスは見逃さずに本題に入る。
それから、実は相談があると切り出す。エルナは耳を傾けると、最近妻との仲がうまくいっておらず、離婚を考えている。二人の子供もまだ小さいし、エルナ、君を愛している。だから、君と結婚を前提に交際して欲しいと真剣に申し込んだのだ。
思わぬ昇進と、浮気ではない真剣な結婚前提の交際。エルナからすれば、嬉しさと戸惑いが交錯する夜だった。勿論即答できることではない。ハンスはそれを十分に心得ていて、ゆっくり考えてくれとあくまでも紳士的に彼女を尊重してその夜は終わった。
そして翌月から彼女は実際に監査に昇進した。ハンスは彼女が監査の役目が務まるようにサポートした。彼女はますます働く歓びと誇りを持つことができ、且つハンスに好意を持ち始めた。これまで自分の心に灯をともしてくれたのはアドルフで、尊敬して好意を持っていたのは彼一人であったのに、今や少しずつハンスが入り込んでくるのがわかった。
もしハンスと交際し結婚となったら、中の上流の生活が得られることだろう。でもそうしたら、もうアドルフに会うことはできなくなる。でももし断れば、職場内だけに監査の役も危うくなるかもしれない。
でもアドルフと、恋愛や結婚ができるのだろうか? 彼には感謝しているし、尊敬の念と好意もあるけど、それは恋愛なのだろうか? 芸術的画家はまだ貧乏で結婚や家庭を築くことなど到底無理そうだ。
彼女はアドルフに相談したかったのだが、彼の口から、自分の恋愛観やましてや結婚などが出たことは無いし、考えたことすらない様子であったので、中々切り出しにくかった。しかし普段と様子が違うエルナに、アドルフの方から、何かあったのですかと尋ねられて、漸くエルナは事情を説明することができた。揺れる女心を知ったアドルフは、なるほど一生がかかった問題だと理解した。エルナは内心のどこかで、それなら私が、と言って欲しかったのだが、大切なことだから、よくよく考えて決めるようにとアドヴァイスにとどまった。
ついにエルナは自分なりの熟慮の結果、アドルフではなくハンスを選んだ。ハンスは喜び、必ず君を幸せにすると約束してエルナを抱きしめた。それ以降あの公園にエルナが来ることは無かった。アドルフは失意の中で彼女の幸せを願いつつ、画材道具をたたんで公園を後にした。
食うや食わずの自称芸術的画家アドルフ・ヒトラーは、翌年1914年6月になるとサラエボ事件に端を発した大戦争に、ドイツ帝国の軍に志願してバイエルン連隊に所属、約2週間の訓練を受けて前線へ向かった。8月3日のことであった。
彼の任務は伝令で、戦闘中は銃弾や砲撃などで電話線など直ぐに切れてしまうため、多くの兵が塹壕を掘って戦う中、任務となればそこを飛び出し銃弾が飛び交う危険をかえりみず、命を賭けて最前線から本隊間を往復して情報を伝えた。伝令兵を軽く見る向きもあるが、死亡率が非常に高い上に、情報によっては局地戦の雌雄を決することもあって、アドルフは勇敢に任務を遂行した功績を認められて、わずか2カ月目に「功二級鉄十字勲章」を拝して兵長となる。
部隊の中でも、拾った犬を可愛がり、大ドイツ帝国のために戦う歓びを吹聴して「変わり者」扱いされるが、当人は全く意に介さない。そしてどんな戦地でも生き残る「不死身の男」という異名も頂いている。
1916年10月5日、勇敢なる伝令兵アドルフは、遂にフランス・リールの戦闘で足を負傷する。すぐに戦線を離れてドイツ・ベルリンの病院へ送られる。それから約2カ月後の12月3日に退院してミュンヘンに戻った。勿論戦争は継続中なので、しばしの休息といったところで。人間らしい平和を享受し、記憶にあるところへ行き、かつての知人に会った。
貧乏な芸術的画家でひょろひょろだった男は、幾多の戦場を駆け巡り、荒れ果てた地に横たわる夥しい無残な死体を目撃し、けたたましいマシンガンの発射音、弾が空気を切り裂いて飛んでくる不気味な音、炸裂、爆発、悲鳴、怒鳴り声、静寂を聞いてきた。それに、粗末な黒パンとスープ、糞尿、汗と血と内臓、またそれらが腐敗した匂い、死臭、炸薬の匂いを味わい嗅いできた。そんな死線をかいくぐってきた経験は、彼を全く違った男に仕上げていた。その目には底知れぬ凄みが宿っている。
身体の一部が欠損した者、精神を破壊された者が多い中、アドルフは歩く時は少し足を引きずってはいるものの、皴一つ無い軍服に勲章を付け、背筋をピンと伸ばした身体は、昔の彼を知る者はみんな、立派な軍人さんになったと感嘆の声を上げて歓迎してくれたので、彼はちょっとした凱旋気分を味わった。
そんなひと時の平和な日々を満喫する中、彼は正午を狙ってO公園のあの場所を訪れた。もしかしたら、あのエルナがいるかもしれない。いて欲しいと願ってのことだ。年末の寒い日であった。冬の公園とは、緑や花々が消え失せて池がひっそりと存在するどこかうら寂しいところだ。見覚えのある通りを渡り、入り口に差し掛かった時、一人の女が声をかけてきた。
「兵隊さん。その軍服いかしてるわぁ。遊んでかない? 」
そのけばけばしい化粧に安っぽいコート、年季の入った営業用の媚びた笑顔。一見して売春婦とわかった。それも四十がらみだ。戦前はこのような者は一人としていなかった。なんということだ。この町にも不況が忍び寄っているということか。彼がそのようなことを考えて立ち尽くしていると、女はたたみかけた。
「高いことは言わないよ。若くはないけどその分テクニックは一流よ。なんだったら奥の茂みでさ、イイことしましょうよ」と思わせぶりにウィンクした。
「……御夫人、すまないが又今度ということで」
彼は品格を保ちながら断わって思い出のある場所へ向かった。
「ふん。何さ気取っちゃってさ! 」
脈が無いとわかるや豹変して罵声を浴びせる。その内容も個性があるもので、今の彼はそれすら背中で流した。道のベンチにはやはり売春婦の思わせぶりな微笑、あるいは卑屈な顔の物乞いの顔があった。
「なんということだ。戦況は尚予断を許さず、不況で国内に様々な不和が生じているとはいえ……。兵士も兵士でない者も、日々を生きるのはこうも過酷なものか」
「お兄さん。遊んでかない? 」
又しても背後からそんな声がした。彼は「やれやれ」とやんわりと断ろうと振り返ったその時、思わず目を疑った。
「……エルナ。君はエルナではないか」
グレーのコートを着てスカーフを首に巻き、厚化粧にやつれてはいるが、彼はエルナ・フークスだと認識した。彼女は名を呼ばれて戸惑い、やがてアドルフだと思い出すとその場を逃げ出そうとした。
「待ちたまえ! 私はもしかしたら君に会えるのではないかとここへ来たんだ。会えて嬉しいよ。エルナさん」
エルナの足は止まった。彼女にとってアドルフは、できれば会いたくない人物、そして又会いたかった人物でもあった。振り返って彼を見る。軍人として見違えるように立派になったアドルフ。それに比べて自分ときたら、そう思うと悲しくなってたまらず泣いてしまった。彼は優しく彼女に手を差し伸べ、どこか落ち着いた場所で話をしようと言った。
静かなカフェのテーブルに二人は向かい合わせに座った。彼はホットミルク(彼はアルコールを口にしない)、彼女は紅茶を注文した。彼は懐かしい友人に会って、嬉しそうな様子だが、彼女の表情は複雑であったが再会を喜ぶという点においては同意している様子だ。
「2年ぶりかな。君に又会えて何よりも嬉しいよ」
「……そうねぇ。色々な気持ちが混ざりあっちゃってフクザツ。会いたかったけど、会いたくなかった。だってどんな顔したらいいかわかんないんですもの。でも、アタイも会えて嬉しいわ。なんかこう、立派になっちゃったね。アドルフ」
「多分この軍服のせいでしょう。照れますな。君と会えなくなってから直ぐにフランスと戦争になって、今やドイツ帝国はUKとも戦っています。中々厳しい日々でしたが、大丈夫、きっと勝利するでしょう。私は去年の10月に不覚にも足を負傷しましてな。12月までベルリンで入院をしていました」
「まぁ」エルナが心配そうな表情をすると、アドルフは少し嬉しくなった。
「なに、今では大分回復しました。大丈夫です。もう少し静養したら、戦線に復帰します。私としての近況報告は、こんなものです。それよりも君のことだ。これも何かの運命と思う。何があったのか、話してくれませんか」
彼女は覚悟を決めた様子で、おずおずと話しはじめた。きっと思い出話になるとことわりながらも……。O公園で鳩にパンをやっている時にあなたと出会い、色々な話を聞かせてくれてとても楽しかった。オペラの話や読書は楽しみながら知識を付けて知見が拡がるということ、そして働く歓びのこと、アタイには本当に為になったこと、そしてあなたに好意を持っていたこと。そこに現れたのがハンスだった。あいつは昇進と結婚を仄めかせてアタイに近づいてきた。あなたに相談したんだけれど、自分で決めなさいと言われて、確かにそうなんだけど、それが少し寂しかった。
結局アタイはハンスを信じた。彼女はアドルフの瞳を見て、あの時あなたに救って欲しかったという想いを込めた。ところが、ハンスはアタイを囲い者にすると、調子の良いことばかり言って本妻と別れる様子は全然無かった。話が違うと抗議しても丸め込まれる間に妊娠してしまった。
そしたらあいつ(ハンス)は手のひら返しでアタイを厄介者扱い。職場で悪い噂を流していられなくしてクビにしたの! 妊娠した上に職も失って独身寮も追い出されて絶望したわ。次の職を探したんだけど、学歴も無いし不況でね。失業保険も切れてしまって、後はお決まりのコースよ……。アタイはあいつを恨んでる。教会で懺悔しても、慰めてくれるばかり、でもそれじゃあ救われないの。自分で決めたこととはいえ、こんなことってある!
そして、こんな惨めな姿を、あなただけには見られたくはなかったと、彼女は堪えていた涙の堰が切れた。
「……なんということだ…… 」
彼はまさかエルナが、そんな壮絶な人生を歩んでいたとは考えてもいなかった。そして、混乱してどんな言葉をかけたらいいのか、べきなのかわからなかった。自分はあまりに無力だと自覚した。芸術的画家の時も、兵長になった今もはっきりと無力なのだ。あの美しかった彼女がと思うと、ハンスとかいう男を許せないと思った。更に気の毒なことだが、彼女は性病(おそらくは梅毒の斑点)も認められた。
「お気の毒に……。それで、子供は…… 」
「産んだわ。カトリックなのよ。そして母に事情を話して実家にあずかってもらっているの。アタイは母親として、子供を育てることもできないのよ! 」
彼女は泣き崩れた。彼は言葉が出ず、ただ右手を添えてさすってあげることぐらいしかできなかった。彼女は涙を拭きながら顔を起こした。
「でも、アドルフ。あなたは不思議な人ね。なんというか、前も今も泥臭いところが全然ない」
エルナの言葉に、何も答えることができなかった。おもむろに胸ポケットから手帳を取り出すと、ペンでミュンヘンの兵宿舎の住所と電話番号を書いて渡した。
「エルナさん。何であれ、この再会を喜ぶべきと思う。これによって運命は必ず動く。どうか気を落とさないで欲しい。私にできることがあれば、ここに連絡してくれたまえ」
二人はこうしてカフェを出て別れた。
その翌日、兵宿舎にミュンヘン警察から電話がかかってきた。
「ハロー。アドルフ・ヒトラーですが」
「こちらはミュンヘン警察です。突然お電話してすみません。あなたはエルナ・フークス嬢を御存じですか? 」
「はい。彼女は私の友人です」
「そうですか。実は今日、彼女がO公園で首を吊って死んでいるのが見つかりましてね。所持品を調べたところ、バッグからあなたの連絡先のメモが発見されたんです。それで」
「なんですと! それは本当ですか。とても信じられない…… 」
「はい。残念ですが、事実です。それで、少し事情を聞かせて欲しいのですが、署まで来てもらえないでしょうか? 」
「勿論。直ぐに行きます」
「御協力感謝します。私はアイゼンと申します。受け付けにアイゼンに呼ばれたと言えばわかるようにしておきますので、何時頃にお会いできますか」
「それでは一時間以内に伺います。おそらくもっと早いことでしょう」
彼は電話を切ると身支度を整え、マントを引っ掛けてクリスマスが迫る寒い町へ出かけた。胸は重く、それが間違いであることを願った。
ミュンヘン警察署に着くなり、アイゼン刑事には直ぐに会えた。小柄で禿げ上がった四十位の男だった。型通りの挨拶の後、お互いに刑事として兵長として職務に忠実な信頼できる男であることを認識した。収容されて間もない遺体を見て、安らかに眠っているような女性がエルナ・フークスであることを確認した。彼は涙をハンカチで拭い、個室へ通されて調書の作成に協力した。それは、自分が思っていたよりも悲しく辛い作業であった。
彼女と知り合った経緯、そして戦場へ赴き、昨日二年ぶりの苦い再会、そして、彼女を転落させた張本人であるハンス・ポーツの悪辣な所業を語った。アイゼン刑事はそれを聞きながら記録していった。
「私の証言できることは、これくらいですな」
「……ヒトラーさん、証言していただきありがとうございました。後はこれをタイプして仕上げるだけです」
「アイゼン刑事殿」
「なんでしょう? 」
「エルナは、自殺したのでしょうか」
「……それはまだ断定できませんね。まあ、他の人からも証言を取っているのですが、それらを考慮して総合的に判断しませんと。でも自殺と考えても矛盾は無いようです。ただ、彼女はあなたのことや、前の暮しについては誰にも語っていなかったようです。時計工場に勤めていたということなので、当時の同僚やハンス・ポーツにも事情を聞く必要があります」
「ハンス・ポーツのような吸血ダニに、厳罰を与えることはできないものでしょうか」
「……あなたの憤るお気持ちはよくわかります。ただこの場合、彼女の死と彼のやったことは直接関係無いようです。年月が経っているのでね、確かに騙すような手口で囲い者にしたことは人道的には罪かもしれませんが、それを罰する法律が無いのです」
「なんと! 」
「あなたはまだお若い。私は警察官になってもう二十年になります。その間に様々な事件を担当してきました。私も若い時分には血気盛んでしてね。無残な事件には憤ったものですよ。でもね、(警察官が)頭に来たからって好き勝手やっていたら、それはもう法治国家とは言えないんですよ。
それじゃあハンスがやった程度のことを罰する法律をつくったとしたら、それで裁判の数は激増、刑務所は幾つあっても足りません。まったくやるせないですなぁ。あなたは彼女を騙したハンスが許せないと言っているのだから、おそらく、そんなことをしたことがないのでしょう。素晴らしいと思います。ただ、妻子がいながら何とか他の女とイイことをしている男はこの町だけでもごまんといるんです。この私だって妻子がいますが、もしもそういう機会があったら、どうするかわかったもんじゃありません。ただ、機会がなかったに過ぎないのかもしれませんね。
そんな私から見れば、あなたのその真直ぐな目が眩しいです。そして、あなたみたいな人がもっとたくさんいれば、世の中はもっと秩序正しくなるでしょう。どうか無事に戦争が終わって、そのまま良い人と結婚して幸せな家庭を築いて下さい」
アイゼン刑事は、アドルフ・ヒトラー兵長の様な、きちっとした若者(これほど軍服を見事に着こなし、一部の隙がなく、目は正義感に燃えて発言に淀みのない人物)を見たことがなかった。彼は安っぽい正義感に酔っているのではない。純粋にエルナの死を悼み、騙したハンスに憤っている。そしてその奥にはもっと深く強い意志が宿っていることがわかったのだ。そして自分(の様な男)などはいたたまれない気持ちになった。
彼は内心、エルナは自殺とふんでいた。しかし、転落してしまったエルナが、彼と会えば、慚愧のあまり自殺したくなってもおかしくないと感じた。
アドルフはアイゼン刑事の世慣れたお説を身じろぎもせずに黙って聞いていた。なるほど人生の先輩の言葉にはリアリティがある。彼が信頼できる立派な警察官であることは間違いない。だがそんな彼を達観させる警察機構、そしてこの世の中、つまり社会、そして国家(これはドイツ人の集まりである)はこれで良いのだろうか。疑問を持たざるをえない。警察機構に限界があるのなら、別の機関を創設すれば良いと思うのだが……。(後に彼は現実に警察機構の上にSSを創設する)
ミュンヘン警察はその後の捜査の結果、エルナ・フークスの死を自殺と断定して決着した。
その十日後の夜、夫が何者かに撃たれたという通報が入った。妻と称する女性からのもので、出動命令を受けたアイゼン刑事達は現場に急行した。そこは中流階級の住宅が並ぶ区域で、現場は庭付きの一戸建てだった。午後八時半過ぎに到着し、玄関から繋がっている簡易門をくぐると、玄関前に通報者と思われる女性が蒼ざめた顔をして立っていた。隣には初老の女性が肩を抱いて支えていた。左手の芝生に男が仰向けに倒れている。携帯電灯を照らしてみると既に死んでいた。左胸に血の染みがある。立ち尽くしている女性に警官身分証を見せた。
「こんばんは。ミュンヘン警察のアイゼンと申します。この度はどうも大変なことで、御察しします。あなたが通報した方ですか? ニーナさんと聞いていますが? 」
「……はい。ニーナ・ポーツです」
「それで撃たれたのが、御主人で? 」
「そうです。主人のハンス・ポーツです」
ハンス・ポーツと聞いて、アイゼン刑事はエルナ・フークス嬢の件をまだ記憶していた。現場で証拠・手掛かりを探すチームに向かって、遺体と現場の写真撮影が終わったことを確認して遺体収容の指示を出した、それから近くにタバコの吸い殻や空薬莢、足跡を重点的に探す様に指示を出した。それからニーナを気遣いながらも、詳しい事情を訊かないといけないので、署まで来てくれと依頼した。
アイゼン刑事はニーナを署の聴取室に案内すると、コーヒーの入ったポットからカップに入れて差し出した。ニーナはまだ恐怖していて夫の遺体を目撃したショックで怯えている。それでも彼は彼女から事情を訊き出さなければならない。
彼女の証言によると、夫はいつも通りに夕方6時過ぎには帰ってきて、7時には家族四人全員で夕食を食べていた。その途中、誰かが家のベルを鳴らした。それは訪問者を意味していて、とても珍しいことだった。夫は誰だろうと言いながら、玄関に向かって行った。内側からドアを開ける気配がして、その後パンッと銃声がした。大声や悲鳴は聞こえなかった。
銃声に驚き慌てて玄関に行って外に出てみたら、夫が撃たれて倒れていた。銃声がする前に話し声や口論の声は聞こえなかった。けれど子供たちと話をしていて、特に聞き耳を立ててはいなかった。
倒れている夫の手を握って呼び掛けたが返事は無く、既に脈も無かった。辺りには誰もおらず、門をくぐって通りに出ても誰もいなかった。怖くてそれ以上進むことはできなかった。大きな声を出して助けを呼び、それで(家に戻って)直ぐに警察に電話した。警察に夫の状態によっては救急車を手配するので、もう一度生死を確認するように言われて、再び脈をとったが、脈が無い上にもう冷たくなっていた。
ニーナは突如起こった惨劇を必死の形相で思い出しながら語ったことを、アイゼン刑事が簡潔にまとめた。その間、内容に不自然な点は無いか、隠していることは無いかを、表情や様子を含めて注意深く観察していたが、別段おかしな印象は受けなかった。既に深夜となったので、彼はニーナを車で家まで送った。途中、彼女を慰めながら、夜が明けたら家で現場検証をすることの了承を得た。
翌朝、彼は署でミーティングを開いた。ニーナの証言を発表し、現場の写真を見て、他の刑事の話を聞いた。収穫としては、被害者ハンスは左胸に正面から銃弾を二発くらっていた。ほぼ即死の状態。玄関と門との間は約20メートルの石畳の歩道で、玄関から見て右手には芝生があるが、その石畳と芝生の間に靴跡が残っていたので撮影した。彼は思わず身を乗り出して写真を見る。この靴跡を調べて、家にある靴の底を調べてどれとも違えば、犯人に繋がる物証になるかもしれない。その他に有力な物証は無いことがわかったので、靴跡に期待が集まる。
そして今日は、ハンス宅の靴底を全てチェックして、写真の靴跡が合うのか確認と事件の流れを再現して時間を測定し、事件の全容を調べてみる予定だ。その他の捜査員は近所に目撃者がいないかを調査、そしてハンス・ポーツという人物像を調査する。
アイゼン刑事は二人の捜査員を連れて車でハンス宅へ赴き、先ずは家中の靴の底と写真の靴跡を比較したが、どれとも違うことがわかった。ニーナは眠れていないらしくひどく疲れている様子だった。二人の子供は近所に住む姉の家にあずけていると聞いた。早速彼女に思い出してもらいながら何度も再現実験を行い、それぞれにかかった時間を記録した。これで色々なことがわかった。
ベルが鳴ってから銃声が鳴るまで。約四分かかっている。これにより、ハンスはドアを開けて、わざわざ玄関口のステップを降り、何か会話をしてから撃たれたという仮説が立つ。その会話の内容は聞こえなかった。怒鳴り声を上げればダイニングまで聞こえるので、普通の音量での会話だろう。
それから銃声がしてから、ニーナがダイニングから玄関に行き、ドアを開けて倒れたハンスを見つけて駆け寄るまで約三十秒。犯人がハンスを撃って走って逃走した場合、三十秒では門を出て少なくとも靴音が聞こえたはずとわかった。堂々と歩いた場合、三十秒では、門を出て右か左どちらに逃げても姿が見えた。当時は夜で暗くても、怪しい人影は見えたはずだが、ニーナはそれを見ていない。
そこでアイゼン刑事は、門前で車のドアを開けて待機させておいて、ハンスを撃ってから走って車に飛び乗って逃げれば、三十秒もあればニーナに姿を見られずに逃げることが可能とわかった。一人でハンスを撃って車で逃げた場合はニーナに目撃されたかもしれないが、運転手がいたとすれば更に余裕があった。
但しニーナは車の音は記憶が無いと言う。しかし彼女は銃声を一発と記憶違いをしている点を考えると、気が動転していて耳に入らなかったことが十分考えられる。更に写真の靴底は右足に見えるので、撃つ前に踏み出していたとすると犯人は右利きの可能性がある。この時代車はまだ珍しく、車を犯行に使ったとなると、犯人はかなり絞られる。アイゼン刑事たちは職業的に色々な推理をめぐらせてノートに記録した。
翌日のミーティングでは色々なことがわかった。先ずは現場に残っていた靴跡の鑑定の結果ドイツ陸軍の軍靴の右で26センチであることが発表されて「おお」と声が上がった。現場付近の目撃者はまだ見つかっていない。
付近の家では銃声に気付かなかったり、それを聞いたものの銃とは思わず、その後も静かだったので気にしなかったという。しかしニーナの悲鳴の様な助けを呼ぶ声には応じて駆け付けた人がいた。
この事件は手口が単純ではあるが、非常に手際が良いことは皆が認めていて、行き当たりばったりの強盗とみる者はいなかった。
ハンス・ポーツの人柄について調査した捜査員の報告によれば、時計工場の生産課長で、勤務は真面目だが、度々女工に手を出していて評判は良くなかった。ある女工などはハンスが死んだと知って「ざまぁみろ」と言っていた。勤務態度は真面目な一方で、人によって態度を変える器用さをもっていて、工場長の評判は良かった。しかし同クラスの者からはあまり良く思われていない様子。
アイゼン刑事はここで、エルナ・フークス自殺の件で彼に会った印象を述べた。別段悪い印象は持たなかったが、彼女が自殺したと知ると、さも気の毒そうな顔をしていた。しかし彼女を愛人にして妊娠したら捨てた件を話したら、ハンスは白を切るどころか苦笑いで、それを武勇伝のように語った。罪悪感など微塵も持っていなかった様子を話した。
借金は家の支払い程度で、他に大きな負債は無い。酒もギャンブルもほどほどにしている様だった。つまり中の上級の生活レベルを維持して妻と二人の子供と問題無く暮らしていた様子だった。総じて女癖の悪さを除けば、平凡なミュンヘン市民という評価が下された。
更に昨日行ったハンス宅での再現実験の結果を発表し、犯人はハンスを射殺後に車を使って逃走した説を説明した。それから、犯人が玄関のベルを鳴らしてハンスがドアを開けて、犯人が物乞いの様な者であれば、直ぐにドアを閉めたであろう。しかし彼は犯人の為に玄関ドアから出て近づいているので、顔見知りであった可能性がある。或いは不信感を抱かないそれなりの出立ちをしていたと思われる。その者が道などを尋ねたら、親切心からそれに応じる為に近づいたのではないだろうか。
彼は続けて推理を発展させる。
「先日発生したエルナ・フークス嬢自殺の件でアドルフ・ヒトラーという人物に会いました。彼はエルナと友人関係で、今やバイエルン連隊の兵長で、軍服をキチンと着て勲章をぶら下げていました。そればかりか軍人然とした振る舞いは私もさすがと思ったものです
そんな彼が約二年ぶりにエルナと再会して、その変わり果てた姿にショックを受け、又その原因がハンスであることを知り、彼もハンスを憎んでいました。そして私に言ったのです。「ハンスを厳罰に処せないか」と。その時の彼の目には暗く、強い恨みの念が宿っていました。それは確かです。
彼に会った十日後、ハンスは射殺されました。私はアドルフにはハンス殺害の動機ありとみています。現場の軍靴跡はその説得力を増し、犯行に必要な凶器の銃、逃走用の車は兵宿舎にいるのなら、調達可能と考えます。他にハンスを恨む人物はいますが、銃と車の準備は中々に簡単ではないと思います」
「なるほど。興味深い話だ。そのアドルフ・ヒトラーなる人物の足のサイズと事件当夜のアリバイを調べてくれ、その結果によっては、この件は解決に向けて前進するぞ」
上司のジーモンゾーン警部が言った。
「しかし彼は、ハンスとは面識が無く、住所も知らんだろう。エルナから聞いたかもしれんな」他の捜査員が言った。
「その可能性は低いと思います。私はエルナが自殺後に彼に話を聞いています。彼は出征して二年ぶりに再会し、身の上話を聞く内にハンスが出てきただけで、その時は憤慨したものの、ハンスを捕まえてどうこうしてやろうとまでは考えていなかったようです。時間も経ってますしね」
「では、何故ハンス殺しの犯人が彼だと? おかしいじゃないか」
「そうなんです。おそらくエルナの自殺でハンスへの憎しみが増幅され、更にもっと何かあったのではないかと思います。
それで名前で、電信電話会社発行の電話帳を見れば住所がわかります。私も調べてみましたが、ハンス・ポーツはこのミュンヘンに4件ありました」
「でも、顔がわからないんじゃ特定できないじゃないか。もし彼が一人一人調べていたら、不審に思う人がいるかもしれない。時計工場の従業員通用門で見張っていたら、やっぱり目立つ」
「その辺の目撃者はいないのかね? エルナ嬢が自殺した後の彼がどこで何をしていたかも調べてくれ。ただ、面倒なことがある。
相手は軍人だ。近頃兵士が町で色々といざこざを起こしているんだ。陸軍も神経を尖らせていて、こちら(警察)との関係が緊張しているんだ。だから対応は慎重に行なってくれ。
そして、他の容疑者の洗い出しも続けてくれ。金でプロを雇った可能性もある」
6名の捜査員たちはそれぞれに任務を与えられて、アイゼン刑事は面識があるということでアドルフ・ヒトラー兵長担当となった。
「こんにちは。ヒトラーさん、お散歩ですか」アイゼン刑事は散歩していたアドルフ・ヒトラー兵長に挨拶した。
「これはアイゼン刑事殿、御機嫌よう。私は天気の良い日は散歩を日課にしておるのです。足の為にね」
アドルフは機嫌が良さそうに笑顔を向けた。
「そうでしたか。ところで足の具合はいかかですか? 」
「ええ、もう大分よくなりました。気にかけてくれてありがとう」
「実は、少しお話があるのですが、どうです? そこのカフェで紅茶でも? 」
「そうですか。では」
二人はカフェに入った。天気は良いが寒い日だった。二人はエルナの件以来会ってはいなかったが、それでも一定の親し気な雰囲気があった。
「実は先日、あのハンス・ポーツが殺されました」
「はい。新聞で知りました。あの吸血ダニには勿体ない死にざまです」
「おお、これは手厳しい。それはまた何故? 」
「記事には射殺とありました。つまり弾丸が惜しいということです。あんな者にはロープ一本で十分です」
アドルフは皮肉っぽく笑った。アイゼンは愛想笑いを作った。そうしておきながらアドルフの表情をつぶさに観察していた。
「おまけに彼は幸せ者と言える」
「それはまた何故? 」
「警察が犯人を捜してくれるからですよ。戦場で殺されたらこうはいきません。とても犯人捜しどころではない。尤も犯人は姿形のないフランスかUKに決まっておるからね」
「なるほど」
アイゼンはそのブラックユーモアを笑うと、アドルフも笑った。
「ハンスが町で殺された以上、彼が天使だろうとダニだろうと警察は犯人を捜さないわけにはいかんのです。治安が乱れてしまうのでね」
「道理です」
アドルフはホットミルクにチョコレートケーキを頬張った。
「それで、私はヒトラーさんに質問があるのですが、よろしいでしょうか」
「勿論。なんなりとどうぞ」
「ハンス事件の夜、つまり四日前の木曜日です。その時あなたはどこで何をしておられましたか? 」
「ほう、警察は私が犯人だとお考えなのですな」
「いえいえ、そうじゃあないんです。というのもほら、あなた前にハンスに厳罰を。なんて証言なさったでしょう? それで可能性がある! なんてウチの上司が申しまして、彼は気になった人物は片っ端から証言をとって机に並べないと気が済まない性分でして、ほんの型通りの質問なんです」
「なるほど。四日前というと木曜ですか。私は日記をつけないのでね。つけても直ぐに飽きて続かないんですよ。だが夜は宿舎から出てないことは確かです。本を読んでいたか、部下のノイマンとチェスをしていたか、絵を描いていたかのどれかです」
「わかりました。あのう恐縮ですが、これは公式な証言となりますので、裏付け捜査をしてもかまいませんでしょうか? 」
「勿論。あの夜は宿舎を出ていません。ただ、新聞を読んでいたかもしれませんが、それで偽証はごめんですよ」
「わかりました。それと、足のサイズは何センチですか? 」
「26センチです」
「なるほど、後もう一つ。あなたはハンス・ポーツと会ったことがありますか? 」
「いいえ、ありません」
「彼の住所も知りませんか? 」
「知りません」
「そうですか。どうもありがとうございました」
アイゼンはこれで引き下がった。カフェの代金はミュンヘン警察が払うと冗談めかして言うと、ドイツ帝国陸軍兵士がミュンヘン警察に奢ってもらう理由は無いと笑った。ここは割り勘協定を締結してカフェを出た。
その後アイゼンは頭を悩ませる。刑事としての経験が「彼は偽証などしていない」と判断した。落ち着きはらい自信に満ちた表情で淀み無い声で証言し、その内容はリアリティのあるものだと判断したからだ。日常生活の中で、四日前の夜は何をしていたかと警察官に問われて、明確に証明付きで答える者はそうはいないものだ。もし答えたとすれば、それは用意されたものの可能性がある。しかし刑事としての勘が、彼が犯人だと指している。彼は先入観を捨てて、アドルフ証言の裏付けに着手した。
兵宿舎に入居している者は誰であれ、外出時と帰舎した時は、時刻を外出票に記入しなければならない。門限は午後十時となっている。許可を取ってそれをチェックすると、アドルフは夜の外出は事件当夜は勿論、他の日も記録されていなかった。一応管理人にも確認したが、彼は夜を恐れていた。戦場帰りの兵士では珍しくないらしい。その代わり日中はよく外出している。目的は散歩で、行く先は美術館、図書館、たまにオペラ鑑賞。ビアホールに行く者が多い中で、彼は特異な存在だった。
管理人にそのことを話すと、荒くれ者が多い中で、彼は規則正しい生活を送っている。変わり者と呼ばれているが、それをものともしていない。談話室では、大体一人で本や新聞を読んでいる。いや読んでいるなんてもんじゃあない。頭に入れているようだった。政治談議が好きでよく他の者と議論していたよ。大ドイツ帝国は如何に偉大かとかアーリア人はどうだとか、我々はどうすべきか、我が帝国は絶対に勝たねばならん! とね。みんなぽかんとしていたものさ。それでもいい奴だとわかっているから、問題無いさ。
あの日の夜(ハンス事件)なら、彼は夕食の後談話室にいたな。本を読んでいたよ。たまたま談話室にいた男(ミューラー氏)にも尋ねたが、談話室にいたことに同意した。
次に兵宿舎が管理する自動車の有無を尋ねると、三台保有しており、誰でも予約して借りることができるという。あの日はヨセフとマイク借りているな、ヨセフは上官の結婚記念パーティーの送り迎えとある。マイクは田舎の父母に会いに行っているな。いずれも問題無く返却されておる。残りの一台はキーを管理人室の金庫に保管してあるから、誰も使うことはできない。と言う。
「完璧だな」
アイゼンはがっかりして口を尖らせた。アドルフの証言は証人がいて、裏取りされた。一応兵宿舎の人々にハンス・ポーツを知っているか尋ねてみたが、誰も知らなかった。ハンスの住所を調べる軍服の男を目撃した者も未だに現れない。これで、アドルフとハンス事件の関連は断たれた。彼とハンスを繋ぐ線が見つからないのでは仕方がない。
しかし彼は、それさえあればと悔しがった。だからといって他に有力な容疑者は一人も見つからない状況に捜査員一同は焦り始めた。皆が突破口は無いかと考えを巡らせた。
「そうだ。前にハンスが死んでざまぁみろと言った女がいたろ」
「ああ、コリンナといって、エルナと親しかった女だよ」
「彼女にアドルフの話をしてみたかい? 」
「いいや、あの時はハンスのことしか聞いてない」
「俺はそのコリンナに会ってくる。連絡先を教えてくれ」
アイゼンは藁をもすがる思いで、今も時計工場に勤めるコリンナに会うことにした。
その日の夕方、時計工場に電話してコリンナにアポイントをとり、仕事帰りに通用門前に待ち合わせた。
「ミュンヘン警察のアイゼンです。すみませんですねぇ、何度も…… 」
「かまわないわ。ビール奢ってくれるっていうから来たのよ。コリンナ・フラーケです」
二人は駅近くのビアホールに入った。
「あなたは、ハンスが亡くなったと聞いた時、ざまぁみろと言ったとか」
「ええ、いけない? ホントせいせいしたの。アタシもあいつにゃ昔弄ばれたしね。おかげでまだ三十路なのに独身よ」
「それはそれは、で、あなたはエルナと親しかったと聞きましたが」
「ええ、といってもエルナは無口で大人しい性質だったから、他の人よりは話をしたって感じよ」
「で、もしやあなたはアドルフ・ヒトラー氏を御存知ですか? 」
「ええ、知ってるわ」
「本当ですか! どうしてそれを先に証言してくれなかったのですか? 」
「だってぇ、前の刑事さんは、ハンスが死んでその話ばかりきいてきたから、こっちから言うことじゃないでしょ」
「……そうですよね。でもそれを聞いてよかったです。その辺をもっとお聞きしたいのです」
「いいですとも。でもビールとホワイト・ソーセージもっと頼んでいいでしょ。こっちは夕食を浮かすつもりなんですから」
「どうぞどうぞ」
アイゼンは嬉しくなって気前良く振る舞うと約束した。コリンナは視線を上に向けて思い出す様に語り始めた。彼との出会いは、エルナが死んだ直後だった。エルナについて話が聞きたいということで知人に紹介されたそうだ。
「ヒトラーさんとは、カフェで会ったわ。軍服をバリっと着こなして、姿勢が良くってネクタイもキチッとしめてね。正にドイツ帝国陸軍の頼もしい兵隊さんて感じだった。
でもエルナがあんなことになって、元気が無かったみたいだった。それでも少しずつエルナの話をしたものよ」
コリンナはアドルフ・ヒトラー兵長を見て、敬意を込めて「さん」を付けて呼んでいた。
「それでさ、鳩にパンをやっていたエルナを見ていた時は貧乏画家で、そうそう『芸術的画家』っていうのが面白くてね、それで今は『芸術的兵士』ね。て言ったら笑ったの。その笑顔のギャップが印象に残ったわ。
エルナの第一印象といったら、典型的な田舎娘で、訛りを気にしてあまり話をしないし、黒縁メガネで殆ど顔がわからない地味で目立たない娘だった。ハンスだって全然興味無いって感じだった。それが急に活発で綺麗になったのは、ヒトラーさんのおかげだってわかったの。
それからよ、ハンスが手を伸ばしだしたのは、いつもの口説きが通用しないとわかると、今度は昇進と結婚を餌につけたのよ。キタナイやり口よね。アタシも気をつけなよって言ったんだけど、結局奴の手に堕ちた。後はエルナを好きなだけ弄んで、妊娠したらポイよ。みんな陰で、ああ又かって。工場を辞めてから会ってなかったけど、身体を売ってるって噂を聞いて、どうにもハンスにゃ憤ったし、やるせない気持ちになったわ。
アタシ、ヒトラーさんとエルナについて話し合って思ったのよ。こんなことヒトラーさんの前では言えなかったけれど、エルナがあんなふうになったのは間違いなくハンスのせいだけどさ、彼女が死を選んだきっかけは、ヒトラーさんとの再会だったんじゃないかって。
だってそうでしょ? はじめはヒトラーさんがエルナの隠れていた魅力っていうのかな、それを見抜いて引き出さなかったら、ハンスが手を出すことはなかったんですもの。結局はハンスの言うことをきいて、公園にも行かなくなって、もうヒトラーさんとは会わなくなった。ヒトラーさんは良い人だけども、どう見ても生活力無いし、恋愛して結婚して家庭を持つなんてタイプじゃあなかった。
それで何年か経って、売春婦になって声をかけた相手が、立派になったヒトラーさんだったなんて、悲し過ぎる。その後ハンスが誰かに殺されたと聞いて、ざまぁみろと思う気持ちわかるでしょ」
アイゼンは刑事として、エルナの自殺とハンス射殺事件が結び付いていることをあらためて確信した。そしてその核心部分にはヒトラー氏がいると思った。
「……色々と話してくれてありがとう。あなたのおかげで事件の全体が見えてきました。あなたは、ハンスの住所をヒトラー氏に教えたのですね…… 」
これで、彼をハンス射殺事件の容疑者として引っ張れると確信した。ハンスの女癖の悪さを知り、義憤に駆られて殺害計画を立てて実行するための銃と自動車を調達したと推理できる。
アリバイなど、結局身内で口裏を合わせたのかもしれないし、外出票など管理人の目を幾らでもごまかすことができる。車を使ったヨセフは確かに上官をパーティー会場の送り迎えをしたのだが、犯行があった時間帯は会場近くで待機していたという。
これなら管理人の目を盗んで外出したヒトラー氏を送り迎えすることだって可能だ。一見完璧なアリバイも、よく調べれば案外杜撰なものだったのだが、それではドイツ帝国陸軍が犯罪に加担したことになるので、これを暴くにはそれなりの覚悟と物証が必要なのだ。だが、コリンナからハンスの住所を知ったとなれば、状況は大きく変わるはずだ。アイゼンは内心興奮したが、その目論見は崩れ去る。
「いいえ。アタシはそんなことしてません。彼は別に尋ねもしなかった。ハンスは本当に憎いけれども、貴重な時間を奴の為に費やすことはない。て言ったの。さすがだと感心したわ。そして今はエルナのことを偲びましょう。てなった」
彼女の答えは意外だった。ヒトラー氏を庇うために嘘をついたのかと思って巧みに聞き出そうと試みたが無駄だった。彼女はハンスの住所を知っているので、尋ねられたら教えただろうとは言ったが、実際は教えていないという。彼女ヒトラー氏と会ったのはこの一度きりということで、アイゼンはコリンナを紹介したという女性の名前をおしえてもらい、苦々しくコリンナと別れた。
その後もヒトラー氏がハンスの住所を知る手段を調べ続けたのだが、それを証明する証言は得られなかった。エルナから聞いたのではないかという捜査員がいたが、二年ぶりの再会でハンスに騙されてから既に月日も経っていたので、復讐のために聞き出した可能性は低いと思ったし、それを証明することはもうできない。
ヒトラー氏はエルナ自殺の後、複数の女性に声をかけて、エルナの友人を探していて、その中の一人にコリンナを紹介された。そして実際に会ったのはコリンナの他にいないことが判明した。電話帳に載っていた四人のハンス・ポーツのうち、被害者を除いた家を訪ねてヒトラー氏の目撃情報はないか調べたが徒労に終わった。
ヒトラー氏以外に、動機があって軍靴を履いて、銃や自動車が使えるという条件を満たす容疑者は浮かび上がっていない。
年が明けて1917年1月、ミュンヘンの町は寒くて不景気だった。戦争が長引いて、人々の顔もどこかうかなかった。アイゼン刑事もうかない顔をしている一人だった。ハンス事件の捜査が暗礁に乗り上げているのだ。日々活動しているのだが、ヒトラー氏よりも有力な容疑者が出てこないことに頭を抱えていた。彼がハンスの住所を知っている裏付けが見つかれば即座に署に連行できるというのに。
彼は色々な仮説を立てていて、それを文書に残していた。その中の一つが、ヒトラー氏は、ハンスに憤ってはいたものの殺意までは持っていなかった。単にエルナの死を悲しむ中で生前の友人を探していた。
そしてコリンナと会った。その時の証言内容は特に不審な点は無かったが、実際に彼女はエルナの死を悼みながらもハンスへの憎しみを語り、彼の住所を黙って紙に書いて渡したのではないか。それでヒトラー氏はエルナのことも彼女のことも憐れんで、ハンス殺害を計画したのではないか。これならヒトラー氏は紙の住所を見ずに、犯行時に車の運転手に渡せばよくて、後は家のベルを鳴らして、出てきた男(ハンスだと確認はしただろうが)の心臓に二発銃弾を撃ち込んで現場を車で去ったのではないか。というものだった。
そう考えると、集めた証言の整合性がとれる。遂にアイゼン刑事は意を決してアドルフ・ヒトラー氏に連絡をとった。
「毎日お寒いですね。足の具合はいかがです? わざわざお呼びだてして申し訳ありません」
アイゼンは恐縮そうにアドルフ・ヒトラー氏を聴取室に招き入れた。彼はいつもの軍服にマントを羽織って颯爽と立っていた。
「足の方はかなり回復しました。気にかけてくれて有難う。それで近々戦線に復帰することになりそうです」
「それは本当ですか。いつ頃で? 」
「はっきりとしたことは、お答えできませんな。軍事機密というやつです」
「そうですか……。 実は警察官の中でも徴兵で出征した者が少なからずおりまして、戦死や負傷したとかの話を聞くことがあるのです。正直さぞ怖いでしょう」
アイゼンは顔を曇らせて言ったが、彼は平然としていた。
「私は兵士ですから戦場に赴き、命令に従って戦うことが本望です。それで死んでもかまいません。今この瞬間にも幾多の兵が死んでいることでしょう。だが私はそこへ赴くのです」
「勇敢なのですねえ。感心します。戦況によっては私も行くかもしれません。生き残る秘訣のようなものがあったらお教え願えないでしょうか」
「……妙なことを仰いますね。それがあるなら私も知りたいくらいですな。ただ私が言えるとすれば、戦場は確かに酷いところですが、何を見ても聞いてもおたおたしないことです。ただドイツ帝国の勝利を信じ、命令に従って一心不乱に行動するのです。結果私はこうして生きています。しかしこの先はわかりません。戦場は作戦による殺し合いです。誰かを特別に殺すことはありません。敵もそうだし我々もそうです。強き意志を持って1メートルでも前進することです」
「……御助言有難うございます。これを胸に秘め、その時には実行します。
ところで、恐縮にも話を変えなければいけないのですが、ハンス事件が中々難航しておりましてね。ヒトラーさんの御意見をお聞きしたいと思いまして…… 」
「そうですね。私はそう聞いて来たのです。なんなりとどうぞ」
「はい、それでは、事件のあらましからお話ししますね…… 」
アイゼンは捜査資料を元にハンス事件の内容をヒトラー氏に説明した。その間にヒトラー氏の反応を注意深く観察していた。彼はそれを黙って聞いていた。現場には26センチの右の軍靴の跡が残っていて、犯人のものかもしれない。あなたのサイズも26センチですねと言ってみると、いかにもとあっさり認めた。このサイズの軍靴を履いている者は他にもたくさんいると思うと、こともなげに続けた。
アイゼンはそうですともと引き取った。犯行には銃や自動車を調達しなければならないので、よほどの物持ちか大きな組織に関係している者の可能性が高いとを仄めかしても、彼の表情や態度は実に平然としていることに内心困惑する。自分はもしやとんでもない勘違いをしているような気がしてきたが、それでも気を取り直して、切り札をきってみる。
「あなたはコリンナさんとお会いになったそうですが、その時はどのようなお話をされたのですか? 」
「……私はエルナが亡くなった後、悲しくて仕方がありませんでした。あんなに素晴らしい女性が何故死んでしまったのか。どうにも辛かった。私は公園での彼女しか知らなかったのです。それで、私の知らないエルナの話を聞いてみたくなったので、時計工場に赴いて彼女の友人を探してもらってコリンナさんを紹介してもらいました。
彼女は気さくな人で、仕事に励む様子や日常の彼女を語ってくれました。非常に有意義でしたが、ハンスのことも聞きました。彼は抜け目なくコリンナさんにも手をつけていたそうです。気の毒なことです。それで彼女は恨み言を言っていましたが、その話は今はよしましょうとたしなめたものです。まあ、それ以外は良い思い出に残るものでした」
ヒトラー氏はエルナのことを思い出したのか、少し目を潤ませていた。
「なるほど。あなたは、コリンナさんからハンスの住所を知らされてはいないですか? 彼女はそんなようなことをもらしましたよ」
アイゼンは彼を揺さぶりにかけてみた。いわゆるカマをかけたのだ。彼の反応を窺うと、彼はカッとアイゼンの目を見据えた。
「アイゼン刑事。それは事実ではありません。あなたは嘘までついて私を陥れようとしている。これはとんでもないことですぞ! ただちにあなたの上司か署長、又は両氏をここへ呼びたまえ! 」
「待って下さいヒトラーさん。落ち着いて下さい。これはつまり、何か新しい展開を見出そうとする一つのテクニックでして、あなたの反応を見たかっただけなのです」
「ええそうでしょうとも。まったく残念ですよ。そのテクニックの反応がこれです。思い知るがいい。せっかく貴方達ミュンヘン警察の何か役に立つのならと来てみれば、まるで犯人扱いだ。到底我慢なりませんな! 」
ヒトラー氏の火の出るような抗議を聞きつけたジーモンゾーン警部と同僚が駆けつけてきた。ヒトラー氏は冷静を取り戻し、警部に事の次第を説明した。警部はアイゼン刑事に事実確認をして顔を赤くして謝罪した。彼は悠然と腕を組み、コリンナの証言の事実を確認させた。彼女はヒトラー氏にハンスの住所を教えていない旨の調書を確認した。重ねて、ヒトラー氏はハンス事件の当夜、ミュンヘンの陸軍兵宿舎にいたことを証明するドイツ帝国陸軍が発行した公式文書を確認した。そして、ヒトラー氏はハンス事件とは無関係であると確認させた。それなのに、何故まだ私を疑い、嘘までついて陥れようとするミュンヘン警察の捜査方針は断じて受け入れられない。近いうちにドイツ帝国陸軍の然るべき立場の人物から、正式に書簡が届くであろうから、卒のない対応をすることを御忠告しておく。そう言い残して、ヒトラー氏はスタスタとミュンヘン警察署を後にした。
「これはエライことになる。何ということをしてくれたんだ…… 」
ジーモンゾーン警部は頭を垂れ、力なく呟いた。
この一週間後、ミュンヘン警察署長宛てにドイツ帝国陸軍の将軍から正式な書簡が送られた。内容は格調高いものであったが、変則的な事情聴取によってアドルフ・ヒトラー氏を殺人罪に陥れようとした事実を遺憾と述べ、再発防止を要請していた。警察署長は慌ててジーモンゾーン警部とアイゼン刑事を呼び出して事実関係を確認し、反論の余地の無い事実を知ると、ミュンヘン史の汚点として二人を処分し、時間をかけて真摯な返答書簡を送って漸く落着した。これまでミュンヘン警察は事情聴取での仄めかしは対象者を心理的に揺さぶり、反応を見ながら自供に導くためによく使う手法であったが、裏付けが無いと今回の様に手痛い反撃を受けるので禁止となった。
結局ハンス事件は、他に有力な容疑者が見つからず、捜査活動が実質凍結されて迷宮入りとなった。アイゼン刑事は、今までの実績を考慮されて三カ月の停職十%減給処分となり、資料管理課に転属となった。反省の日々を送ったが、事の次第を何度も思い返していた。あの程度の仄めかしなど、しょっちゅうやっていた。それで幾度事件を解決したかしれない。自分はヒトラー氏が、あれ程毅然と反論してくるとは予想していなかった。それは彼が白(犯人でない)だったからだという向きが大多数だったが、何度自分に問い掛けてみても、やはり黒(犯人)としか思えなかった。自分の落ち度で事件を迷宮入りにしてしまったことは悔やまれて仕方がなかった。
同じことを何度も思い出しては悔やんでいると、いつしかそうなってしまった理由付けをするようになり、ヒトラー氏を甘く見ていた点が強調されてきた。幾ら公式なアリバイがあったとしても、警察が自分を怪しいと思っていたのはわかっていたはずだ。だからといって、警察の事情聴取の要請を断われば更に怪しまれるから応じる。そこでハンスの住所を、知っているかいないかが重要になってくるのもわかっていたはずだ。そこでの仄めかしに、何故ああもきっぱりと嘘だと見抜いて即座に反撃に出ることができたのか? アイゼンはそれに気がつくのに数カ月を要した。
つまりアイゼンは、ヒトラー氏を勝手に只の容疑者の一人とみていたのが過ちだった。実は人間心理の駆け引きにおいては、彼の方が数段上だったのだ。アイゼンは相手の表情を見て心理状態を読み、自白へ誘導してきた自信があったが、自分が裏付けのない仄めかしをした瞬間の表情の揺らぎを見抜かれたに違いないとわかった時は、妙に納得がいき。負けと認めることができたものだ。アイゼンは、自分とは別格のアドルフ・ヒトラー氏の恐ろしさを静かに思い知った。
1917年3月、アドルフ・ヒトラー兵長は、フランス戦線のバイエルン第16連隊に復帰。任務は伝令であった。彼は早速伝令兵として活躍し、剣付三級戦功十字章を拝した。翌18年、一人で15人ものフランス兵を捕虜として連行し、部隊幹部を驚かせる。この功績が認められて8月4日、「功一級鉄十字勲章」と連帯感謝状を拝した。その後も忠実な勤務ぶりが評価されて、三級軍務勲章を拝して伍長に昇進した。しかし同年10月13~14日夜、イーペルの戦いでUK軍の毒ガスで目を負傷(失明)。シュテッティン近郊の病院に運ばれ、戦傷者勲章を拝する。
それからのドイツ帝国は以下の如く凋落してゆく。
同年11月8日、クルト・アイスナーが共和国宣言してバイエルン共和国が成立。同月9日、ベルリンで革命が起きヴァイマル共和国宣言。同年同月10日、皇帝ヴィルヘルム二世退位。同月11日、休戦条約調印し、ドイツは降伏して負けた。アドルフ・ヒトラー伍長はこの敗戦に、全ては無駄だったと激しく嘆き悲しんだ。その後治療の甲斐があり視力が回復して同月19日に退院。その後バイエルン第2歩兵連隊に転属となる。明けて1919年2月、バイエルン共和国ミュンヘンのレーテに入る。
更に、致死率が非常に高い悪性の風邪(後にスペイン風邪と呼ばれる)が流行し、人々は恐怖した。そして1919年4月7日、ミュンヘンでも政変が起こり、バイエルン・レーテ共和国が樹立。しかし5月、ヴァイマル共和国軍に占領される。国が分裂を始め混乱する中、6月28日悪夢のヴェルサイユ条約調印。これにより、ドイツは天文学的金額の1320億マルク(当時の国家予算は68億マルクだったので約20年分)もの賠償金を連合国側から請求された。その他全植民地支配の放棄など、非常に厳しい内容で英国首相ロイド・ジョージは「レモンの種が泣くまでドイツを絞れ! 」と公言した。
物資や食料が不足し、物価が上昇する中で、1923年1月11日、滞る賠償金の支払いに痺れを切らしたフランス・ベルギー軍6万が、ドイツ最大のルール工業地方を軍事占領した。これにより政府が大量に紙幣を印刷したため、ライヒスマルクは信用を失い、US1ドルに対して大いに下落した。ハイパー・インフレ(最高384億倍)、
年 月 為替 備考
1914 7 4.2 戦前
1919 5 13.5 戦後
1919 12 46.8
1920 1 64.8
1920 6 39.1
1921 7 76.7
1922 6 320.0
1922 7 493.2
1923 1 17,972 ルール占領
1923 7 353,412
1923 8 4,620,455
1923 9 98,860,000
1923 10 25,260,280,000
1923 11 4,200,000,000,000 レンテンマルク発行
レンテンマルクとは、土地や不動産を担保にした不換紙幣で、発行量、国債引受額も制限されたものであったので、信用が回復してデノミ政策が可能になった。交換レートは、1レンテンマルクに対して1兆ライヒスマルクに決定されてハイパー・インフレは漸く鎮静化した。
この様な状況下に、民衆の生活は困窮した。餓死、栄養失調からの病、自殺。殺人、強盗・窃盗などの犯罪が急増し、警察は治安を守るために必死に対応した。アイゼンも揺れる社会に懸命にしがみついていた。日々の仕事や生活に追われてハンス事件はおろかヒトラー氏のことなど完全に忘れていた。
レーテに所属していたヒトラーは国軍の軍属情報員となり、上官に命じられてドイツ労働者党(DAP)の調査に入った。この時、オーストリアとバイエルンの連合を唱える大学教授バウマンと論戦になり、創設者であるアントン・ドレクスラーに演説の才能を注目される。これがきっかけとなってヒトラーは1919年10月、入党して破竹の活躍を見せた。
翌20年2月20日、党名を民族社会主義ドイツ労働者党(NASDAP)と改称し精力的に活動して人気と支持を獲得する。当時は他の政党が党の集会に殴り込みをかけて妨害する事件が多々あったので、会場警備を専門とする25名程度の部隊を「整理隊」と名付けて設置した。(これは後の突撃隊(SA)である)
アイゼンは署のデスクで新聞を広げていた。1923年11月8日に、政府打倒を目的としたブッチ(ミュンヘン一揆)の首謀者であるアドルフ・ヒトラー氏を、同月11日に逮捕した。という記事だった。「遂に捕まったか。彼もバカなことをしたもんだ。終ったな」彼は一人呟いて新聞をたたんでコーヒーを飲んだ。数年前から彼が救世主になるかもしれないという記事を読んで、名前と顔を思い出すと共に、驚きと不安を覚えていたが微かに期待を持っていた。しかしこの町のオデオン広場で警官隊と衝突した時には反感を持ったがあえなく鎮圧されると、それも終わったと確信したものだ。
ところが彼はこれで終らなかった。この暴挙で逆に注目が集まり人気が高まって、翌年の1924年2月26日の裁判で、自らの政治信念と心情を訴えると裁判官や検事らが同情し、終身刑でもおかしくない量刑が4月1日禁固5年となった。しかもランツベルク刑務所では、刑務作業免除、面会・差し入れ自由、敷地内散歩の自由、身の周りの世話はナチ党員が行うという特別待遇。この間「我が闘争」を口述執筆し、約9カ月後の12月20日に仮釈放されている。アイゼンは日々の新聞で成り行きを追っていて再び驚いた。
ヒトラーは、プッチの前に自分自身を守るために警護隊(アドルフ・ヒトラー特攻隊)を設置したが、翌25年11月9日、正式に親衛隊(SS)を創設した。ヒトラーの身辺警護専門とする部隊で8人程度であったが、やがて急速に拡大する。
この頃、疲弊していたドイツに大量のアメリカ資本が入り、デノミ政策が功を奏し、アメリカの仲介で賠償金の軽減と経済再建を目的としたドーズ案、ヤング案が導入されて、ドイツ経済に回復の兆しが見えたところであった。アメリカは戦勝国のUKやフランにも巨額資本を融資しており、世界最大の債権国となり大いに潤っていた。
そして1929年10月24日、アメリカ・ニューヨーク株式市場で株価が一斉に大暴落した。この影響は直ちにヨーロッパに及び、ドイツは地獄の二番底を経験した。アイゼンはミュンヘンの町しか見ていないが、人々の暮しは悲惨そのものだった。失業者が溢れ、商売はあがったりでパンとスープの無料配給に並ぶ列が目立った。警察官は治安維持に努めはするが、困窮する人々の助けにはならない。又犯罪が増えるがそれも仕方がない。世の中は戦争がなくたってこうなれば地獄だ。明日をどうするかなんて考える者より、明日のパンの心配をする者の方が多い町など悲惨だ。自分はとりあえず警察官なので、荒れてゆく人々の顔を見ていられることが辛かった。誰か何とかしてくれよと本気で願った。
そんな時に、「我々に任せろ! 」とがなり立てる集団に出くわした。民族社会主義ドイツ労働者党といった。そしてその党首は、あのアドルフ・ヒトラー氏であった。正直彼がこれほどまでに立派になるとは思いもしなかった。もう青白くヒョロヒョロとした印象はなくなっていた。髭を蓄え、髪を七三になでつけて険しい顔で政府の無能を批判し、民衆の怒りを代表してくれる。「私に任せてくれれば! 」と力強く訴えるその声は心に響いた。思わず「そうだ! 」と叫ぶ者がいてもおかしくはない。
揃いの褐色のシャツを着た若者達が、隊列を組んで通りを行進する光景が、日に日に大きくなり、次第に民衆の注目を集めて話題になり、人々の暗い気持ちを盛り上げたところでヒトラー氏が熱弁をふるった。新聞でも記事になり、人気は不動のものとなっていて支持率が上がっていた。アイゼンの様な大人は不信感を持ったが、若者(男も女も)達は熱狂した。
恐慌のわずか3年後の1932年、ヒトラー氏は大統領選挙に出てヒンデンブルグ氏に敗れるが副首相に打診されたがこれを拒絶、既に帝国議会で第一党であるナチ党の党首は主斑でなければと主張。翌33年1月30日、ヒンデンブルグ大統領ヒトラー氏を首相に任命し、ヒトラー内閣が成立した。翌34年8月2日、ヒンデンブルグ大統領が逝去してヒトラー氏は総統兼首相に就任。国防軍はヒトラー氏に宣誓。同年8月19日、大統領と首相の一元化(総統)が国民投票で圧倒的支持を得る。
これまでに幾多の政治家が首相になったが、別に世の中が良くなることもなく直ぐに解散していった。みんなはそれに慣れてしまっていた。アイゼンも、どうせ何にも変わらんさと高を括っていた。しかし今度の政権は違った。本気で世の中を変えるための組織を全省庁に送り込んできたのだ。なんでもこれからは、民族社会主義の国になるらしい。
そんなある日、親衛隊(SS=シュッツ・シュタッフェル)なる黒づくめの制服に、どくろの記章を付けた集団がミュンヘン警察署に乗り込んで来た、民族社会主義の理念の教育とナチ式敬礼を義務付けるために作法を教えに来たという。そして、これから突撃隊(SA)や親衛隊(SS)が町で行うことについて、理由があってのことだから、警察として邪魔をしないように警告された。最後に親衛隊隊員が怠慢と認めれば、懲戒解雇できる権限を持っているというので、全員の顔つきが変わった。これから全ドイツの警察・学校・病院に至るまで徹底するという。
アイゼンは勿論署長も含めた全員が、若く精悍な顔つきで制服を完璧に着こなした親衛隊員に身だしなみを指摘されては、何か言い返すことなどできない。敬礼は完璧にマスターするまで許されなかった。反発したり、ふざけたり、なおざりな態度をとれば厳しく叱責された。「言われたからやるのではダメだ。もっと能動的にやらないと美しくない」と諭された。
それから徐々に町は変わった。あちらこちらで大人から子供までもがナチ式敬礼をしていた。しないと注意されたり、白い目で見られたりした。そして、国中で華やかなマーチに乗ってパレードが繰り返され、ヒトラー氏が演説して国民に仕事を約束した。人々は熱狂して右手を真直ぐ伸ばして「ハイル、ヒトラー」と叫び歓声をあげたが、もうすっかり老いてしまったアイゼンには、そんな元気は無かったし、政策も半信半疑だった。しかし実際にあらゆる工場の稼働率が上がり活気が出てきた。公共事業であるアウトバーン建設が始まり、開始されて多くの労働者が歓んで働いた。急激にお金が回り出して物価が安定して、本当に町が戦前以上に明るくなった。
アイゼンがこれはどうしたことかと驚いていると、事件が激減した。犯罪者や荒くれ者がいなくなった。突撃隊の暴れっぷりの方が上回っていたからかもしれない。秘密国家警察が共産主義者とユダヤ人を摘発し、突撃隊や親衛隊がどこへともなく連れ去った。秘密国家警察は超法規的政治警察ということで、警察の仕事は急速に減少した。治安は劇的に良くなったと実感した。
アイゼンが最も驚いたのは、1936年に親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラーがSS全国指導者(5万人以上)兼全ドイツ警察長官になり、全ドイツの警察権力を手中にしたことだ。勿論その上にはアドルフ・ヒトラー総統が君臨している。この現実にはもはや戦慄を覚えた。
確かに国民がこの独裁体制を求めた。民主的、合法的に独裁者が誕生したのである。そして町は、いや国全体が活気を取り戻して良い方向に進んでいると認めざるを得なかった。もう定年を間近にしているアイゼンは、ただ傍観し、素直には喜べずにいた。
ある秋の午後、アイゼンは署長室に呼ばれた。「なんだろう」と行ってみると、署長と女性秘書、そして黒い制服を着こなした親衛隊(SS)が四人いた。彼らは相変わらず物々しい顔つきをしている。
「アイゼンです。何か御用で? 」
「アイゼン君。まだ君は敬礼が身についておらんようだな」
SSルドルフ中佐が鋭く言うと、アイゼンは弾かれた様に背筋を伸ばして右手を挙げて「ハイル・ヒトラー」と叫んだ。SS隊員と署長が即座に応じた。今のドイツはこの儀式を怠ると何事も始まらないのだ。
「ああ、アイゼン。君は昔のハンス射殺事件を覚えているかね? 」
署長が少し複雑な、まるで生徒に語るような表情で問うた。アイゼンはそう言われて、急いで脳内の記憶を辿った。
「ハンス射殺事件……、 ああ思い出しました。あれは私が担当していた事件です。迷宮入りでしたね…… 」
アイゼンはアドルフ・ヒトラー氏のことを喋りそうになったが、寸前で止めた。今や彼は国家の元首、総統なのだ。
「そうだ。私はSSのルドルフです。あなたは今資料管理に就いていると聞きました。直ぐにその事件の関係資料を全て持ってきてくれたまえ」
「承知しました。でも、何故? 」
「質問などするでない。あなたはさっさと持ってくれば良いのだ」
ルドルフと名乗ったSSは、高飛車な口調で言い放った。アイゼンはおとなしく「少々お待ち下さい」と従うほかない。地下の資料室に向かって歩きながら、あの頃のことが甦ってきた。あれから色々なことがあり過ぎて、すっかり自分は時代に追い抜かれてしまったような気がした。地下の資料室の一番奥のコールドケースの箱に一抱えの資料持ち出して署長室に向かう。1916年と書いてあったので、もう20年も前の事件だと認識した。今の自分の老いた姿を思うともの悲しくなる。
アイゼンは「お待たせしました」と応接テーブルの上に資料を置いた。
「これがそうか、間違いはないか」
「間違いありません」
「これで全部か、間違いはないか」
「間違いありません」
「ミューラー署長。あなたはこのハンス射殺事件を知っておられるか」
「これは私が就任前の事件ですな。見せてくれ」
ミューラー署長は資料をざっと見て、間違いが無いし、未解決として完結していると請け合った。
「ではアイゼン君、その資料を持って、中庭へ案内してくれたまえ」
品格を備えてはいるが、凶暴性も一品潜ませた顔でルドルフ中佐はそう命じて歩き出した。階段を降りて中庭に出ると、SS隊員の一人が持っていた一斗缶を地面に置いた。それから別の隊員がアイゼンから20年前の捜査資料を引き取って、一斗缶の中に放り込んで薬液をかけて火をつけた。
「な、何をなさるんで? 」
アイゼンは慌てた様子で燃えている一斗缶に近寄ろうとしたところに、ルドルフ中佐が鋭く制止した。
「見ての通りだ。これは総統命令によるものだ。私はこの書類が何だか知らない。だから焼却しろと命令されれば、少しも躊躇しない。しかしあなたは違うようだ。それは、この書類が何かを知っているからだ」
「……ええ、仰せの通りで…… 」
「あなたもミューラー署長も、穏当に定年を迎えて隠居したければ、忘れることだ。そして、今日我々がここに来たことさえも…… 」
アイゼンはルドルフ中佐の声と独特の“間”が恐ろしかった。そしてあの冷酷な目。SSは超法規聞いているから、必要なら即座に腰のルーガー拳銃を抜くのだろう。アイゼンと署長は立ち竦んで燃える書類が上げる炎と煙を見つめる他なかった。
もう7月下旬ですがヤシマ作戦終了後、コロナ感染が再び増えています。気をつけましょう。私は感染しておりません。大人しく暮らしていれば大丈夫です。そう思っていなければ、とても持ちません。
さて、今回初の短編作品を投稿したのですが、これは大筋は事実です。図書館に行き史実を集めて、物語として成立させたものです。
この物語の主人公の名前は、あえて伏せておきました。読者はどの辺りで彼だと気づいたでしょうか?
1913年、ミュンヘンのポップ氏? 芸術的画家? クビツェク? エルナ・フークス? 色々でしょうが、初恋の君で大騒ぎや、ハンス射殺事件後約20年後、総統となった直後にSSに焼却命令を出すなんて、奇妙な人物ですよね。
だって総統になって国家権力を掌握してから関係資料をわざわざ焼却させるなんて、自分が深く関わっていましたよ。といっているようなものです。(笑)