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坂本龍馬について‐11

 坂本龍馬について延々と続いてますね。坂本龍馬が好きな方がいらっしゃれば、軽くコメントを残して下さい。お願いします。

 最近AIを使って調べているのですが、なんと龍馬さんが梅毒にかかっていたとサラリとこいていました。流石に信じられないぜよ。そう言えば、磯田道史氏の「龍馬史」を読んでいた時にサラリと書いてありましたね。

 みなさんどう思います? 御意見をよろしくお願いいたします。

 慶応三年(1867)1月13日頃、溝淵さんや松井さんの周旋によって長崎・清風亭で龍馬さんと後藤さんの対談が実現しました。

 木戸先生宛ての龍馬書簡(1月14日)では、

 「後藤象二郎と対談したところ、土佐藩の幕府一辺倒の藩論は一新していた。現在では土佐藩は幕府の役に立たなくなっている。そして、今年の7月か8月には文久期のような、薩長土3藩による連携が成し遂げられるのではないかと楽しみである」と楽観的に伝えています。

 この会談により、龍馬さんと後藤さんが和解したと考えて良いと思います。過去には、後藤さんは叔父さんの吉田東洋を土佐勤王党に殺されて、龍馬さんは土佐勤王党のメンバーのまま脱藩しました。

 その後、山内容堂公の意向によってですが、土佐勤王党を弾圧しました。後藤さんにとっては叔父殺しの憎き土佐勤王党ですから喜々として潰しにかかったのではないでしょうか。

 これにより、一度は脱藩を許された龍馬さんでしたが、再びの帰藩命令が出ました。もし帰れば殺されるかもしれなかったので帰りませんでした。それで又脱藩の罪に問われる者となってしまいました。

 結果的には帰らないで正解で、土佐勤王党首領の武市半平太、平井収二郎、岡田以蔵など多くの盟友が捕縛され拷問の末斬首されました。武市さんは白札なので拷問は無くて切腹だったそうです。

 それにしたって、龍馬さんから見れば辛く悲しい処断であって、後藤さんを恨んだと思いますよ。まったくもって悲しい連鎖ですね。

 事情を知っている周囲の人は心配をしてこの会談をセッティングしたものです。ところが始まってみれば、お互いの怨嗟を忘れてこれからの日本と土佐藩のために建設的な話し合いがなされたそうです。良かった良かった。それが良いですよ。龍馬さんにとっても土佐藩にとってもね。

 土佐藩から見れば龍馬なんてただの脱藩浪人ですが、長州ではヒーローで、薩摩では有能なエージェントなわけですから、びっくりしたと思いますよ。そして是非とも土佐藩に復帰して土佐藩の為に働いて欲しいと思ったわけですね。そこで彼の脱藩の罪を許そうという機運が高まるわけです。

 通説では、慶応三年(1867)2月16日、四候会議開催にあたって、山内容堂公の上京を要請する為に西郷隆盛が土佐に来て謁見した際、龍馬の脱藩赦免を要請した。とありますが、それを証明する一次史料はありません。


 4月8日付の菅野覚兵衛・高松太郎宛の龍馬書簡では、龍馬が海援隊隊長となり、菅野らもそのまま海軍修行ができるように都合がつけられた。として、それを西郷が容堂公に直接依頼した。そして福岡孝弟が土佐から長崎にやって来て龍馬に伝えた。という経緯がわかりました。

 因みに中岡慎太郎は陸援隊隊長となり、海援隊と陸援隊を合わせて翔天隊と名付けられたそうです。


 いよいよ、かの有名な海援隊結成です。これは事実です。しかし亀山社中はフィクションです。そして海援隊は、龍馬さんが結成したものではありません。土佐藩が結成して、その隊長に龍馬さんが任命されたのです。

 確かに龍馬さんは人望があってみんなから頼りにされる人物です。ですが、お金がありません。龍馬さんが海援隊を結成するにしても、人はいますがみんな食い詰め者です。お金が無ければ立ち行かないのです。

 土佐藩は前年(慶応二年)4月に開成館を創設して、本格的に富国強兵策を進めていました。この年の3月までに長崎で3艘の蒸気船と帆船を1艘を購入、又銃砲弾薬も積極的に購入していました。

 樟脳の輸出が主な財源でしたが、藩の専売制を整備して藩内の他の生産物を交易にあてる計画があるようです。樟脳とは、医薬品・防虫剤・西欧では香料として使われていました。

 土佐藩としては、これからは色々と富国強兵のために活動するのに龍馬さんとその仲間たちを必要としていたのです。土佐藩代表の後藤と龍馬さんが会談して和解したとなれば、同年2月には脱藩が赦免されたそうです。2月に兄の権平さんと中岡さんの父源平さんが土佐藩庁に呼び出されて仰せつけられたと記録されています。


 ここで少し細かいところを解説します。龍馬さんは確かに2月の脱藩の罪を赦免されましたが、土佐藩に復籍とはいきませんでした。復籍でなければ、土佐藩の重臣にはなれないのです。ただ許されただけす。

 もう一つは、海援隊隊長に任命されましたが、坂本龍馬としてではなく、変名の才谷梅太郎が用いられました。というのは、龍馬さんは前年1月の寺田屋事件で幕吏を射殺して逃走しているので、幕府から見れば、坂本龍馬はテロリストで御尋ね者なのですから、とてもじゃないが土佐藩としては隊長に坂本龍馬と書けませんね。かといって余人をもって代えられないということだったと思います。


 では、海援隊とは、どんな団体だったのでしょう。規約を研究してみましょう。


 海援隊は、土佐から長崎に出張の出崎官しゅつきかん(藩の重役である参政一人と付属の書生二名)に属す。隊長は一名で、隊は風帆船を所持する。

 脱藩の者(他の藩の者も)、海外開拓に志がある者が入隊する。


 土佐藩の所属としないで出崎官の管理下に置いて、緩やかな管理体制にして自由闊達な行動が出来るようにするというものです。


 凡そかつて本藩を脱する者、及び他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る、運輸、射利、開拓、投機・本藩の応援をなすをもって主とす、今後、自他に論なく、その志に従って、選びてこれに入れる。

 凡そ隊中の事、一切隊長の処分に任す。決して違背するなかれ、もし暴乱事を破り、妄謬盲謬害を引くに至りては、隊長その死活を制するも亦ゆるす。

 凡そ隊中、艱難相救い、困危相譲り、義気相責め、条理相糺し、もしくは独断果激、儕輩さいはいの妨をなし、もしくは儕輩相推し、乗勢して他人の妨をなす、これもっとも慎むべきところ、決して犯すなかれ。

 凡そ隊中修行分課、政法、火技、航海、汽機、語学などの如き、その志に随して之を執る、互いに相勉強に励み、決しておこたる事なかれ。

 凡そ隊中、所費の銭糧、その自営の功に取る。亦互に分配し、私するところあるなかれ、もし挙事用度足らず、あるいは学科欠乏致す時は、隊長建議し、出崎官の給弁をまつ。


 凡そかつて本藩を脱する者、及び他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る、

 (上文は現代語に訳したものですけど。出ましたね、これですよ。入隊の資格はわざわざ土佐藩の脱藩者と他の藩の脱藩者、そして海外について志がある者に限定しています。隊長が脱藩者でしかも御尋ね者ですから、隊士は浪人者ばかりとなります。ちょっと怖いですね。大体ろくでなしが多いのですから。まぁ入隊志望者は隊長・龍馬さんが面談して決めると思います)


 運輸、射利、開拓、投機・本藩の応援をなすをもって主とす、

 (海援隊の活動内容になります。何をするにしても土佐藩のためになることでないといけません)


 凡そ隊中の事、一切隊長の処分に任す。決して違背するなかれ、もし暴乱事を破り、妄謬害を引くに至りては、隊長その死活を制するも亦ゆるす。

 (隊の中での乱暴狼藉や間違いをして隊に害を及ぼしたら、その処分は隊長に任せる。場合によっては死んじゃうかもしれません。中々に厳しいですが、龍馬さんが死刑を命じたことはありませんでした)


 凡そ隊中、艱難相救い、困危相譲り、義気相責め、条理相糺し、もしくは独断果激、儕輩さいはいの妨をなし、もしくは儕輩相推し、乗勢して他人の妨をなす、これもっとも慎むべきところ、決して犯すなかれ。

 (これは隊士としての心得ですね。困ったことや苦しい時は互いに助け合い、正義感をもって道理を深くわきまえる。独断・過激な言動で仲間を押しのけ妨害するようなことは最もさけなければならない。互いに助け合うのは仲間ですから出来るとしても、正義感や道理は人によって異なるしねえ。前は近藤長次郎さんを切腹にまで追い込んだ人達ですよ)


 凡そ隊中修行分課、政法、火技、航海、汽機、語学などの如き、その志に随して之を執る、互いに相勉強に励み、決しておこたる事なかれ。

 (隊士は上記のことがらについて、各自の志向に応じて修行すること。勉学に励み決して怠ってはならない。中々厳しいですが、何かのスペシャリストになりなさいということです。元が何もない浪人ですから、何かに秀でてよ。ということですね。みんな海軍操練所崩れですから航海術はあったでしょう)


 凡そ隊中、所費の銭糧、その自営の功に取る。亦互に分配し、私するところあるなかれ、もし挙事用度足らず、あるいは学科欠乏致す時は、隊長建議し、出崎官の給弁をまつ。

 (原則として、隊の経費は自前です。自分らで何かして利益をあげなさい。その代わり土佐藩への上納の義務はありませんでした。でも赤字になった場合は、隊長・龍馬さんが建議して出崎官が補填します。でも後藤さんですからその辺は融通がきいたと思われます)


 かの有名な海援隊はどうでしょう。これだったら、別に土佐藩のために働かなくてもよくね? と思われがちですが、それでも隊長・隊士は一律で月5両もらっていました。だから何をするにもかなり自由があるにしても、土佐藩の為に働かなくてはいけないのです。

 ここで番頭として登場したのが、あの岩崎弥太郎さんです。生真面目な彼は後藤さんにいわれるまま龍馬さんに100両渡したのですが、龍馬さんは「これは隊士の分。じゃが隊長のわしの分はどうなるがじゃ」と要求したそうです。

 隊士と隊長の給料が同じじゃ格好つかんぜよ。というのです。困った岩崎さんは後藤さんに相談しました。

 後藤さんはそれ以上やらんで宜しいとの返答。しかし岩崎さんは龍馬さんの迫力に負けてしまい、藩の公金から自分が借りた形にして更に100両出したそうです。龍馬さんらしいですね、そういう龍馬さんのちゃっかりしたところは、

後でも存分に発揮されるのです。お楽しみに!


 海援隊の隊士は20余名と言われています。お名前は以下の通り。

土佐出身 坂本龍馬、沢村惣之亟、菅野覚兵衛、高松太郎、新宮馬之助、石田英吉、山本洪堂、中島信之、長岡謙吉

越前出身 渡辺剛八、小谷耕蔵、腰越次郎

越後出身 白峯駿馬、橋本久太夫

紀伊出身 陸奥元次郎

讃岐出身 佐柳高次

 上記16名に新たに入隊した者が判明しました。

土佐出身 安岡金馬、野村辰太郎、吉井源馬、坂本清次郎、宮地彦三郎

越前出身 山本龍二、三上太郎、佐々木栄


 紀伊出身の陸奥元次郎は、維新後に陸奥宗光と名を変えて経済、商法に通じていて外務大臣として活躍しました。

 龍馬さんは「我が隊中の者は大小の刀を取り上げれば路頭に迷う奴ばかりやが、一人陸奥だけは食うに困る男ではない」と語り高く評価していました。

 越後出身の橋本久太夫は幕府の軍艦の乗組員だったが、脱走して龍馬についた。元々船乗りだっただけあって、航海術にかけては絶品で龍馬さんは

「橋本の仕事は実に潔い。俺の抱える者はみんなこんなものだ」と語ったそうです。

 越前出身の小谷耕蔵は、佐幕思想(徳川幕府を守ろうという考え)を抱いていることから、他の同志と衝突することが多々あったそうです。遂にたまりかねて龍馬さんに小谷の除隊を迫るに至り、龍馬さんは、「海援隊は政治研究所ではない。航海の実習を目的とするものだ。主義の異同はあえて問わない。

 隊中ただ一人の佐幕の士を同化することができなくてどうするか」といさめたそうです。以後小谷は龍馬さんの度量の大きさに一層心腹したそうです。


 龍馬さんは海援隊の隊長として20余名をまとめ上げました。みんなも気持ちが一つにまとまって、月給も三両二分から五両に上がって生活の不安もなくなって一層士気が上がりました。月五両の価値をどれくらいなのかを調べた結果、当時男一人が余裕で暮らせるそう額だそうです。三両二分でカツカツだそうです。


 海援隊は、仕事の一つとして簡単な英語を日本語に訳した小冊子を発売しているようです。和英通韻以呂波便覧わえいつういんいろはべんらんです。どんなレベルで売れ行きは不明ですが、こんなの出してたんだ~。というネタです。


 さて、慶応三年(1867)の4月、海援隊発足の直後に、伊予の大洲藩所有の『いろは丸』を一航海500両の賃料で借り受けて、海運事業を興すことになりました。

 

 今日を始めと乗り出す船は、稽古始めのいろは丸 龍馬


 こういう戯れ歌がでるほど、みんな盛り上がったわけですよ。海援隊としての海運は初めてで、稽古始めと、いろは丸のいろはがかかっているわけです。中々うまいもんだと思いました。大洲藩は現在の愛媛県大洲市。いろは丸は、イギリス製で、全長約54メートル、45馬力の蒸気船ですが、3本マストがあって、帆船にもなります。


 慶応三年4月19日、いろは丸は長崎を出航、関門海峡を抜けて瀬戸内海に入り、大阪に向けて航海していましたが、23日の夜11時頃、濃霧の中で紀州和歌山藩の汽船明光丸と衝突したのです。最初の衝突後、一旦明光丸は後退したものの再び前進して再度衝突してしまい、いろは丸は積み荷もろとも沈没してしまったのでした。


 これも有名な、いろは丸事件です。これは事実で記録にもあります。さあこれからという時に、全くため息が出ますね。

 龍馬さんは運が悪いというか波乱万丈というか、良いところまでいくんですけどね~。これまでずぅ~っと調べてきて、つくづくそう思います。

 勝先生の門人となって、勝塾を開設することになり、越前の松平春嶽公から千両も出していただいて、勝塾の塾頭になって海軍操練所にも参加させてもらって、さあこれからやるぜよ! て時に、池田屋事件が勃発してしまい、この騒動に望月亀弥太が巻き込まれて自刃しましたね。

 龍馬さんにとってはとても悲しいことでしたが、あろうことか勝先生が管理監督責任をとわれて失脚して江戸に戻り、海軍操練所は僅か半年で御取り潰しになり、おかげで龍馬さんと仲間たちはいきなり路頭に迷ってしまい、薩摩藩に囲い込まれたのでした。

 それから活躍が評価されて、薩摩藩が帆船ワイルウェフ号を購入して龍馬さんらに進呈してくれてみんな大喜び、さあこれからやるぜよ! という時に桜島丸で曳航中に嵐に遭って沈没しました。これもショックなことですが、盟友池内蔵太をはじめ多くの同士を失いましたね。


 それで今回のいろは丸事件です。ですが、この事件このままでは終わらないのです。よく御存知の方もいるかと思いますが、意外と創作が出回っていますよ。大丈夫ですか?

まぁ、これから解説していきますが、そういう私が創作にはまっているかもしれません。

 お楽しみに!


 いやぁ~、好事魔多しといいますか、龍馬さんにとって上げ潮の時、必ず不幸が起こりますよね~。不思議な運命といえるでしょう。

 龍馬さんのメンタルはとても強いと思います。どんなに不幸なことに陥っても、必ず挽回するのです。この不屈のメンタルは本当に凄いと思います。

 今回は、大洲藩からの借り物である「いろは丸」が沈没してしまいましたが、幸いなことに死傷者はいませんでした。龍馬さんはこれからどうするかを考えます。

 相手は徳川御三家と言われる紀州和歌山藩で、かたや龍馬さんは海援隊とはいえ、土佐藩の外郭団体なのでかなり見下ろしてきてきています。










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