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坂本龍馬について‐9

 今日は2022年9月21日です。台風14号が消えてくれましたね。この強風や大雨の被害にあわれた方々におかれましては、本当にお気の毒に思います。何卒心を強く持っていただいて、復活なされるようお祈りしております。

 何かね。一つでも希望があればね。違うと思うんですよ。こんな私ですが、ここで作品を公開しておりますので、せめて休みの時間にでも読んでいただいて、クスリとしていただけたらと思います。

 さて、安倍元総理の国葬の件ですが、既に決まったことなのに反対が多いですね~。やめた方がいいと思います。やめる勇気も必要かなと思います。

 なんでかって? 決まっているでしょう。英国のエリザベス女王の国葬をTVで拝見したからです。(勿論全部じゃないです)いや立派でした。流石は歴史と伝統のある国は素敵ですね。服装もキレイ、カッコいいし、一人一人の所作・作法が美しく優雅。そして顔が精悍で厳粛な弔意を感じました。参列した方々も凄かった。(詳しくはNEWSを見て下さい)日本からは天皇皇后両陛下も参列されて良かったと思います。

 そして国民も立派でした。弔問のために女王の棺にたどり着くまで20時間て、それでもきちんと並んでそれぞれの”お別れ”を捧げたのですから、如何に国民に愛され親しまれて来たのかがよくわかりました。

 これを踏まえますと、安倍さんの国葬は妥当でしょうか? そこまで国民に愛され親しまれてましたっけ? 国葬するのしないので国会でえらい揉めてましたね。野党の一部議員は”参列しません”アピールなんかして、当人は恥かしくないんでしょうね。私は一国民として、とても恥ずかしいですよ。

 一般国民の反対デモは、国民の権利だから恥ずかしくないですね。本気なら大いにやるべきです。他人事ですから。私は絶対に参加しませんし、安倍さんのために20時間待ちがあったら辞退します。

 21日午前のNEWSでは、70代のおじいが油被って火を付けて病院に運ばれたそうです。国葬反対のメモがあったそうです。何もそこまでしなくてもと思いますが、先が思いやられます。やれやれ、反対する人はもう絶対真似しないでね。デモはいいけど妨害行為はやめるべきです。


 安倍さんの功績は認めます。亡くなり方も悲劇的で、御気の毒だと思いますが、”国葬”程じゃないことがハッキリわかったのであります。

 しかしですよ。もう決まったことなのでしたら、英国に負けないくらいしっかりやって欲しいと思います。張り合うということではありませんよ。日本だって歴史と伝統がある立派な国だからです。世界の人々が見ているのですから、ここで又大小にかかわらずテロがあったら大変なことだからね。

 とても心配しながら、それでも期待しています。




 坂本龍馬について-9を執筆中に、英国のエリザベス女王が亡くなった。という報を聞きました。2022年9月8日だそうです。私は英国人ではないのでよく存じませんが、それはそれは名君の誉れ高い人物であったそうです。96歳。謹んでお悔やみ申し上げます。

 女王が亡くなる直前には、バッキンガム宮殿の空に『ダブルレインボー』がかかったそうです。又ウィンザー城にも『レインボー』がかかったそうです。奇蹟。そんな言葉が大袈裟ならば、爽やかで素敵な旅立ちと表現させて下さい。これだけで偉大な方だったのだな、と私は思います。

 8日といえば、安倍さんの最期も7月8日でしたね。これは日本時間ですが不思議な一致でした。忘れまいと、ここに記録に残していますが、それまで大変に暑かったというのに、急に涼しくなったものです。

 そうです。全部偶然ですよ。わかってますよ。だけどこうして並べると、不思議なことだと思うのです。もう一つ不思議を並べると、令和天皇の即位の礼の時には、2つの台風が東京を襲うコースであったのに急にコースを変えてくれたのです。

 これも偶然です。考えられない、説明のつかない事象ですが、私の心には不思議なこととして深く刻まれたのです。

 エリザベス女王は国葬となるそうです。それに異を唱える英国民はいるのでしょうか? しかし安倍さんの国葬に反対する人は大勢いるようですね。そんなにアンチがいたとは驚くばかりです。私はどちらでも構いません。やるならやればいいしやらないならそれでいいです。

 但し、あれだけの方ですから世界の要人が沢山の参列が予想できるので、くれぐれも失礼の無いように、ましてやテロ事件など絶対に起きないように警備を万全にして下さい。何事もなく宗教やイデオロギーなどを越えて、全員が恙なく哀悼の祈りを奉げることができるように配慮して下さい。


 「国葬反対! 福祉にまわせ! 」御尤もです。「法的根拠が無い! 」そんなものありはしませんね。「在位歴代最長がなんだ! 」何故最長であったのかを考えて下さい。素直な気持ちになって、彼の功績や実績を知って下さい。こんな人他にいませんでしたよ。

 アンチ安倍も結構ですが、安倍晋三氏はもう亡くなったのですよ。もうそっとしてあげようなんていう情は無いのでしょうか? 私はそれが単純に可哀想な想いがするのです。


 坂本龍馬について-9は、これ以降に書くことにします。


 八月十八日の政変や禁門の変以来、犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩でしたが、漸く手を結ぶことができました。そうですこれが大事なのです。

 この談合は、両藩の腹の探り合いで十日を費やしても一向に進まず、長州が戦になって、こうなった場合にはこうしよう。というアウトラインをぼんやり浮かばせる位のものでした。

 これ以上の進展は無いと思った木戸先生は長州へ帰ると言い、薩摩藩側はそれならと送別会まで開いて見送りました。

 そんなところへ木戸先生の前に現れたのが龍馬さんでした。前に「半日も早く会いたい」と手紙を出しておいてから、実に1ケ月以上が経っていてもうギリギリで二人は会うことができて、龍馬さんが奔走したおかげで所謂「薩長同盟」が締結されたのです。

 龍馬さんは木戸先生が帰ると聞いて、薩長融和が決まったと思ったが現実は違いました。話を聞くと、以下の様に応えたそうです。

「考えてもみたまえ。現在の薩摩は中立するにしても、或いは誰に味方するにしても、その進退は自由である。一方、我が長州は天下を敵として、その包囲中に孤立している状態なのだ。

 毎晩の宴席でもてなされているが、肝心の融和の話は一向に出てこない。今それをこちらから言い出せば、まるで憐みを乞うようなものだ。それに、西国の雄藩を地獄に引きずり込むようなものだ。

 例え長州が焦土となったとしても、面目を落とすような見苦しい態度をとることは断じてできない。

 これ以上ここに滞在しても進展は見込めないと判断したから、きっぱり帰ることにしたのだ」

 龍馬さんは木戸先生の主張を聞いて、その辛い立場を理解した。それは自分の国である長州藩が滅亡してでも、見苦しいことをして汚名を後世に残してはならないという壮絶な覚悟が通じたのです。とりもなおさず薩摩藩邸に戻るように説得し、御供をしていた薩摩藩士も戻ることを勧めました。

 そんな木戸先生を龍馬さんは、全てを理解して攻めることなく「ちょっと待っちょれ! 」と言い残して小松・西郷の元へ走って訴えたのです。

「西郷さん! 桂さんから話を聞いたぜよ。なんでおんしの方から融和の話を切り出さんがじゃ! 」

「そいはあくまで木戸先生の方から切り出すべきことでごわす」

「それはわかっちゅう。西郷さん、木戸先生は死ぬ気ぜよ。それだけじゃない、例え長州が滅んでも、自分から薩摩を地獄に引きずり込むような真似はできんと仰せじゃ。これじゃあ、あんまりにも長州が可哀想ぜよ!

 今は藩の面目に拘っちゅう時じゃないき、日本のことを考える時じゃち思うがじゃ。西郷さん、ここは大人たいじんとして振る舞ってつかあさい! 」

 龍馬さんの激しい熱のこもった説得に西郷さんは大きく響いて、後は話が進んで薩長融和が決まったのでした。

 色々本を読んできましたが、一次史料としてあるので、龍馬さんの大活躍です。但し、成文化については木戸先生が大阪に戻った後に、自らが当時のやりとりを思い出しながら書いて文書化し、後はこれに坂本君に朱書きを書いてもらおうと思っていたところに、龍馬さんが幕吏に襲われ重傷を負うというあの寺田屋事件が起こるのです。

 龍馬さんは三吉さんと必死に抵抗して、幕吏二名を殺害してなんとか逃げおおせ、薩摩藩邸に匿われました。この辺りはあまりに有名ですし、既に解説済みですからこれくらいにしておきますが、関連した新史料を発見したので、御紹介します。

 この史料は、幕末の寺田屋事件で坂本龍馬が幕府側に襲撃された際、現場に残したとされる書面に「薩摩、長州の両藩が協力して幕府側を京都から追い払う取り決めがあった」と記した文書が、鳥取県立博物館で見つかったものです。(日本経済新聞2017年9月19日付朝刊他)との記事が各地に掲載され話題となったそうです。

 元は「京坂書通写慶応二年丙寅正月」(鳥取県立博物館蔵)とされる文書で、その後山口県下関市立歴史博物館で展示されました。

 どうですか、なかなか踏み込んだ内容の文書ですね~。

 そもそも、寺田屋事件において龍馬さんが書類を押収されていたことは既知の事実で、桑名藩士・立見尚文の伝記「立見大将伝」には、2月4日、坂本龍馬所持の書類を寫す(うつす)とあり、また、土佐藩京都藩邸史料「慶応二年1月伏見奉行所報告」(高知県立坂本龍馬記念館蔵)には、「坂本龍馬所持書類写し取り奉り差し上げ候」とある。

 このことから、奉行所から京都所司代(桑名藩)に龍馬所持の書類写しが届けられ、それを立見が直に見聞し、土佐藩はその写しを入手していたことがわかります。

 さらに新史料によって、鳥取藩も入手していることがわかりました。この情報が各藩の公用方などを通じて、ある程度流布していたことが確認できます。

 これまでの史料には、龍馬さんが所持していた書類の内容に踏み込んだものはなく、木戸書簡の中でしか確認できませんでした。この新史料の発見によって、更なる考察ができるというものです。


 以下に別の新発見史料を遺しておきます。わかりやすい文でね。


 「先ごろ御伝えした薩摩藩士の事ですが、土佐藩脱藩浪士で今は薩摩藩に抱えられ、薩長間を往来している坂本龍馬という者が、先月24日に京都を出発し伏見寺田屋で一泊しているところに召し捕りに向かいましたが、龍馬はなんとか切り抜けて薩摩藩邸に逃げ込みました。

 尤も所持品はそのまま寺田屋に放置されていたので取り調べた結果、格別な遺留品は無かったものの、只今まで長州藩士とやり取りしていた内容等の書面がありました。

 それによると、この度寛大な処分案に落ち着いたとしても、長州藩は決して妥協せず、かえって嘆願にかこつけて多人数で上京した場合には、薩摩藩はそれに応じて必ず会津藩を追い払う(邪魔をさせない)周旋をするであろう、との長州藩士への返書なども含まれていたとのことです。

 尚、既にその際に召し連れていた家来は長州藩士でした」


 いかがでしょうか? これ私が勝手に書いたものじゃありませんよ。

 これでわかることは、龍馬さんが土佐脱藩浪人で、今は薩摩藩に召し抱えられて薩長間を往来して周旋している者だと認識されている。ということです。勿論分の内容から察するに幕府側の者同士の文のやり取りの一部と思われますね。

 そして、木戸先生が入京したことは知られていないこと、長州藩の率兵上京とそれに伴う薩摩藩の行動計画が、格別なものとして認識されていないことです。

 これで、龍馬さんがフリーランスで自分の頭で考えて西郷さんや木戸先生に持論を唱えて日本を導いた。というお話は完全に虚構だとわかりましたね。

 実家がお金持ちなので、無心すれば生活・遊興費くらいは出してもらえてあの時代を生きていくことは出来たでしょうが、いくら性格が良くても天才的な閃きがあっても、ただの脱藩浪人では西郷さんや木戸先生を導くなんてことは到底無理で、会うことさえ出来なかったでしょう。

 しかし、実家への金の無心は無かったわけではありませんでしたが、それほどではありませんでしたね。生活・遊興費はどこからでていたのか? 身分制度が厳しい中、ただの脱藩浪人が薩長間を往来して確かに影響力を及ぼしている。

 私にはここが長年凄く疑問でしたが、新しい史料が出てきて個人的に本当にすっきりしたのです。

 やはり、薩摩藩に抱えられて藩是である長州との融和の為に西郷さんの手下として活動し、長州・木戸先生にも薩摩藩士・坂本龍馬と認識されていたからこそ、薩摩藩との融和をかけて接触が可能となったのです。


 もしも龍馬さんが間に合わず、木戸先生がそのまま長州に帰っていたら、藩主・毛利敬親に叱られたでしょうね。諸隊の者達もやはり薩摩憎しの念を払うことは難しかったでしょう。

 でも基本的に薩長の藩主レベルで融和促進で通じていたのですから、数カ月後には手を結んだと思いますよ。その時は時流が又変わっているでしょうからね。それがどのように作用してどのように幕末を迎えたのか。はわかりませんね~。


 9月27日、安倍さんの国葬が行なわれました。特に何事も無くて良かったと思います。海外から要人が沢山来てもらい、弔問に訪れた人々も大勢いて良かったと思います。これサイレント・マジョリティというのかな。私は賛成も反対もなく、ただの傍観者です。

 当日にもかかわらず「国葬反対デモ」が行われた事実は呆れました。これはノイジー・マイノリティというのかな。途中で「あれあれ? 私何やってんだろう? 」と疑問に思わないのかな。まぁ、思わないんでしょうね。

 岸田総理は、これから新しい政策を発表するそうです。因みに安倍さんは「三本の矢」「アベノミクス」で、異常な円高、異常な株安を緩和してくれたのです。今の日本は、コロナ問題は小康状態ですが、異常な円安、石油高騰、物価高で国民の生活が汲々としているのですから、期待せずにはいられませんね。

 外交だって、北朝鮮がミサイルを発射して来るし、中国もロシアも相変わらず領空に機を飛ばして来るし、韓国は徴用工問題を言ってくるしで、日本の周辺国はやっぱり変ですね。

 ここはいつから政治問題を語るところになったんだよ。と思われるかもしれませんが、全然そんなつもりはないです。本当は気楽にヘラヘラしたことを書いておきたいのですが、あんまり世間を無視してお花畑も書けませんからね~。

 今は令和4年10月30日です。今年もあと2カ月となりましたが、コロナは小康状態といえるでしょう。そして注目していた岸田さんの景気対策は、御子息を政策秘書にしました。という発表には呆れましたね。その他電気ガス代補填とか妊婦さんに10万円とか発表していますが、支持率はやっぱり低迷しているようです。頼むよホント。

 旧統一教会問題は、長引いていますね。被害者を政治権力で救って欲しいとは、具体的にどうすれば良いのでしょう。何をするんでしょう。これ下手すると宗教弾圧になりますよ。そんな世の中になって欲しくないな。

 もし何か手をうつならば、旧統一教会だけってわけにいかないでしょう。日本には約12万の宗教法人があるそうです。それら一つ一つを点検して信者が被害を訴えない宗教法人にすべきだと思います。

 口で言うのは簡単ですが、関係各所のお役人は大変なことになるだろうとお察しします。


 さて、ここで新史料に基づいた情報を一つ。禁門の変で長州藩が負けた後で京の町が大火事になって「どんどん焼け」といわれた件です。

 一体どこの誰が火をつけたのか? ながらく長州がつけたことになっていましたが、実際は一橋慶喜の命令だったことがわかりました。目的は長州藩の敗残兵狩りとのことでした。


 龍馬伝説の一つに、仲の悪い薩摩藩と長州藩を結び付ける策として、今で言うトレードを思いつきます。この背景として、薩長融和を前進させるために、龍馬さんと中岡慎太郎さんが周旋して、下関で木戸先生と西郷さんが会談をするという段取りをつけたにもかかわらず、結局西郷さんは下関で船を降りずそのまま京に行ってしまい、待ち惚けを喰らった木戸先生が激怒したという所謂すっぽかし事件の穴埋めのために龍馬さんが考えたというやつですね。

 長州は朝敵とされてしまって、幕府軍を相手にいくさをすることになった。となれば立ち向かうために強力な武器・弾薬・戦艦が必要になる。しかし、幕府の監視が厳しくて異国から購入が出来ない状態・現実がある。

 いくらビジネスとはいえ日本のまつりごとを無視して、幕府の掟を破って長州と交易を行えば、今後のビジネスに深刻な影響が出てしまうことは、異国人といえども理解出来た。

 当時は日本の豊富な金銀を目当てに他の国々所謂列強(イギリス・アメリカ・フランス・プロイセン・オランダ・ロシアなど)が群がっていて、どの国も日本(幕府)と戦争して利益を独占しようなどは悪手で、ましてや列強国同士の戦争などとんでもないことだと考えていた。

 だからいくら長州が武器・弾薬・戦艦を欲しても、相手にしてくれる国は無かった。このままでは幕府長州は15万の前に敢え無く滅んでしまうのは必定。

 そこで龍馬さんは、薩摩藩が飢饉で米が不足していることに目をつけて、米不足で困っている薩摩藩に長州藩が米を送り、武器が欲しくても買えない長州藩に薩摩藩が長州藩に名義を貸して武器を買うことができるようしようと画策するのです。

 なるほど、これなら薩摩は欲しかった米が手に入るし、薩摩名義で武器を買ったところで、金は長州から入るのだから損は無い。長州は強力な武器が手に入るなら米を送るなど容易いことだ。

 米や武器が実際に薩長の間をやりとりする最も危ない仕事は龍馬さん率いる亀山社中が請け負うという。

 いくら仲の悪い間柄でも、困った時にはお互いに助け合うことができる。それがトレードぜよ。それがビジネスぜよ。

 これには木戸先生も西郷さんも亀山社中の面々も大喜び。晴れて長州は武器を手に入れ、薩摩はお米を手に入れて飢えを凌ぎましたとさ。「凄いぞ龍馬! 」と薩長を結び付ける大偉業じゃー。というわけです。

 勿論これは龍馬伝説であり、事実ではありません。このお話は簡単に幕末の一コマを説明できて痛快で面白いので、多くの人々に浸透しています。

 しかし現実は、「すっぽかし事件」はありませんでした。だから木戸先生が激怒した。というのも創作です。

 列強諸外国が互いに牽制し合い、単独で日本・幕府に戦争をしかけて利益を独占できる状態になかったのは事実です。従って幕府の意向をくんで、長州が望む武器を売ることが憚られたのも事実です。

 いままで幕末の歴史には列強諸外国があまり登場していませんでしたが、実際の歴史にはこの異国ファクターが大きく関わっていたことをもっと重視してこれからも描きたいと思っています。

 それを打開する為に薩摩の名義で武器購入を言い出したのは、木戸先生でした。その実現に活躍したのが主に長州・伊藤さんと井上さんで、薩摩では家老・小松帯刀と近藤長次郎さんでした。

 「亀山社中」は存在せず、近藤さんがリーダー的存在の、海軍操練所・勝塾の残党組が「社中」と名乗った人々が活躍したおかげで、長州は強力な武器・弾薬・ユニオン号(桜島丸→乙丑丸)が購入できたのです。途中ユニオン号事件などがありましたが、結果はうまく行きました。もしもこれが不首尾に終わっていれば、幕末の歴史は大きく違っていたのです。

 薩摩は飢饉で米が欲しかったのではありません。京に兵を送るために兵たちが船の中で食べるお米が必要だったのです。これを粮米ろうまいといいます。これを長州から出してもらう為に周旋したのが薩摩藩・龍馬さんで、長州藩・楫取素彦さんらが迅速に動いて粮米を用意したのです。

 しかしこの粮米は龍馬さんがユニオン号で薩摩に運び込んだ時には、京に兵を送る計画が無くなったので要らないと言いました。(西郷さん? )驚いた龍馬さんが長州に粮米を返すと伝えると、「一度送った物を又受け取ることはない」と断られます。そこで龍馬さんが機転を利かせ、「この粮米は我らが国事の為に使わせてもらいます」と言うと、木戸先生は笑って了解したと逸話があります。

 もしも本当に薩摩が飢饉でお米を欲していたら、「やっぱ要らない」とは絶対ならないと思います。

 以上の様に、史実はいくらかいつまんで書いても龍馬伝説に比べると長くなり、登場人物も多く複雑になってしまうのですね。


 龍馬さんは所謂「薩長同盟」締結の後、寺田屋に潜伏中に幕吏に襲われて命からがら逃げおおせて、薩摩藩邸に匿われて怪我の治療をしてもらいます。血が止まらなかったようで、お龍さんがつきっきりの看病のおかげで、龍馬さんは一命をとりとめました。

 彼は後の乙女姉やんへの手紙に「この龍女がおらばこそ、この龍馬は助かりたり」と書いております。

 彼が襲われたと聞いて驚いたのが木戸先生で、「背筋が凍りつく程驚いたが、無事と聞いて飛び上がるほど喜んだ」と更には、「まったく何が起こるかわからない世の中なので、日本のためにも、細心の用心が肝要である」と龍馬さんに書簡で忠告しています。

 因みに、薩長の六箇条の覚書を成文化したのは木戸先生であり、その裏に「ここに書かれた内容は少しも間違いないですよ。龍馬」と書いたのが2月5日の日付けがありますから、寺田屋で襲われて怪我をして、ある程度回復してから書いたのでしょうね。

 木戸先生はこれを携えて長州に戻り、藩内の意見をまとめたのでした。


 西郷さんらは、龍馬さんとお龍さんを薩摩に連れ帰ることにします。地元には塩浸温泉など湯治には持ってこいだし、これだけの騒動になったのではほとぼり冷ます必要があると判断したのでしょう。

 それにこれまでの龍馬さんの働きを鑑みて、慰労の意味もあったと思います。西国の雄藩薩摩にとっては二人を静養させるくらいのことは何でもないのです。

 龍馬さんとお龍さんはこの薩摩のはからいに、さぞや喜んだことでしょう。日本初の新婚旅行といわれるこの辺りは既に解説済みですのでこれくらいにしておきます。恐らく二人にとって、最も幸せに暮らした約一カ月だと思います。

 ここでは、私らしいエピソードを書きます。歴史的にウソ・ホントは抜きにして下さい。

 慶応二年(1866)の薩摩といえば、薩英戦争(1863)から3年後になります。薩摩は勇敢に戦って戦死者こそ少なかったものの、イギリス艦隊のアームストロング砲の威力は凄まじく、城下町はかなりの被害があったと読みました。

 あれから3年ですから、復興は順調に進んでいたと思います。3月に薩摩の地を案内された二人は、家屋敷が新築された美しい街並みに感心したことでしょう。

 この戦争を生き残った人々はそれぞれ様々な想いを抱えて逞しく生きていたと察することができます。

 この藩は島津斉彬公の頃から色々と秘密が多くて、外部者の出入りを厳しく管理していました。龍馬さんが若い頃侵入を試みたが諦めた様です。それが今や怪我の療養という名目で、妻お龍と二人お世話になるところとなったのです。

 ですから薩摩の人々も閉鎖的なところに長年暮らしているのですから、ご近所さんは皆顔見知りです。だから噂が伝わるのは早いし、よそ者が来ればすぐにわかります。

 そこへ藩の中堅クラスの吉井さんらが二人を親しく町を案内しているところを見かければ、たちまち「あれは誰? 」となり、耳の早いもの知りがいて、「あれは坂本龍馬といって土佐者で、今は薩摩の為に働いておる者で、女子おなごの方はその奥方だ」身なりは小汚いが、怪しい者ではない。くらいのことは直ぐに広まったと思います。

 龍馬さん夫婦は、薩摩に着いてその日にいきなり家老・小松帯刀邸に招かれます。小松さんといえば薩摩のNo.2ですよ。凄いことじゃないですか。それほど高く評価されたということです。これ町の一般の人から見たら大変なことですよ。きっと大評判になったに違いありません。

 龍馬さん持ち前の明るいキャラは、受け入れられやすいと思いますからどこの屋敷へ客人として招かれても歓待されたと思います。

 例え目の前の御仁が小松殿であろうが、西郷殿、吉井殿であろうが、皆満足したことでしょう。龍馬さんは話題が豊富で話し方も上手だったと思います。さてと、一体何を話したのでしょうね。

 勝海舟の話などは食いつきが良いでしょうね~。何しろ勝塾の塾頭だったのですから、ネタは沢山あったと思います。松平春嶽公の話も沢山あるし話題は豊富なはずです。

 そればかりか、彼には自分自身が何をしたいのかがハッキリしていて、それを語らせたら、のほほんと万事が事勿れで暮らしていた人にとっては驚きと共に聞き入ったことと思います。

 逆に脅威を感じる人もいたでしょうが、危険人物とまで思う人はいませんでしたね。薩摩藩士にも色々いて、彼らは同じような毎日を過ごしていると、退屈なものでして、そこへ薩摩の為に働く土佐の坂本龍馬が来たと聞けば、一度話を聞いてみたいと思うでしょう。

 では龍馬さんと会ったことがない中級薩摩隼人が、龍馬さんと懇意の吉井さんに龍馬さんと話がしたいと打診して、OKが出れば日時を決めて、何人かでいくらか出し合って酒宴を催します。予約した夜にみんなが集まります。「坂本さぁち、どげな人じゃろ? 」などと言ってる傍からひょいひょいと龍馬さんが登場します。

先ずは自己紹介。やや固い薩摩隼人に比べて、龍馬さんの方は土佐の脱藩浪士の経緯から大うけだったと思います。だって薩摩に生まれて薩摩に終わる武士からしたら、ここから既に考えられないことだからです。

 宴は2時間程でお開きになり、笑い疲れて風呂に入り、「坂本どんはおもしろか~ 」などと余韻に浸れば、その後は久しぶりの芸者と一戦というわけです。そういうことがあって龍馬さんの評判は更に上がり、薩摩にとても歓迎されたと思いますよ。お龍さんには怒られたかもしれませんけどね。

 龍馬さんが考えていることは以下の様なものであったと思います。

 第一に、藩の垣根を越えた日本海軍を創設でしょう。これなくしては異国列強の圧迫を退けることは出来ない。これまでは幕府を頂点としてそれぞれの藩毎で政治・軍事を司っていましたが、それではもう通用しない時代なのだ。

 これは師匠の勝海舟さんの影響が大きいです。勝先生は突然この思想を持ったわけではなくて、若い頃から幕臣としてその才能を認められて長崎海軍伝習所の一期生として異国の造船・航海術・砲術・算術などを学び、遣米使節団の一員として渡米経験があります。

 詳しくはここでは解説しきれませんが、異国の技術を学び、肌で感じることで日本の有様と比較することができまして、非常な危機感を持ったのです。そういった背景があっての日本海軍の創設論なのです。

 第二に、蒸気船を沢山操って物資を運んで利益を得る商売、つまり海運事業で財を成そうというのです。どうやら龍馬さんは、「いくさの時は海軍として戦って、平時は開運事業をすればええがじゃ」くらいに考えていた様です。当時の龍馬さんは海戦など経験がありませんから、軽く考えていたのでしょう。

 第三に、その船で人の行き来を増やし、蝦夷地を開拓して新たな産業を立ち上げよう。と煽ります。

 勿論この他にも柔らかい話もしたことでしょう。相手に合わせて話題を選んで喜ばせて入説する手管を身に付けていたと思います。共通して言えることは、話題の全ては、薩摩藩の藩是に沿ったものである、或いは家老・小松帯刀が聞いても理解・賛同できることです。

 龍馬さんが「これから船で海運事業をしたい」といえば、「その船、薩摩が買い与えるからやってみんさい」と話が実現に向けて進むのです。それが後のワイルウェフ号です。龍馬さんは凄く喜んだことでしょう。それが又酒の席での話になる。皆大笑い。それでいて、これからの日本はどうあるべきか、特に異国の脅威から守るためにはどうするべきかをしっかり伝えていると思います。良い方向に転がりますね。

 様々な人と会い意見を交わし、お龍さんと気の向くまま散歩などして温泉に浸かって、心尽くしの名物料理や酒(焼酎かな)を堪能すれば、身も心も癒されること請け合いです。

 ここに至っては薩摩の狙いは先ずはそこなのですからね。結局龍馬夫婦が薩摩を立つのは、慶応二年(1866)6月2日ですから、80日位暮らしたのですね。前にも書きましたが、ここで子供でもできていたらな、お龍さんの人生も又変わっていたことでしょうね。

 この間、寺田屋での傷は癒えたのですが、楽しいことばかりではありませんでした。この辺は「坂本龍馬について-6」で詳述しておりますので軽く書いておきます。そのワイルウェフ号が沈没したのです。この船は、龍馬さん率いる「亀山社中」がお金を出して購入した様な伝説が広まっているようですが違います。

 当時の元勝塾・土佐脱藩浪士群が確かに存在しておりまして、蒸気船を操る技能を買って薩摩藩が召し抱えたのが実態です。彼らが便宜上自分らを「社中」と名乗っただけであって「亀山」は後世に付けられた地名に過ぎず、龍馬さんが率いていたのではなく、近藤長次郎さんが中心で薩摩の為に活動しておりました。

 だからワイルウェフ号は完全に薩摩藩が購入しています。慶応二年(1866)3月26日に、薩摩藩・長崎聞役の汾陽次郎右衛門から長崎奉行所に、グラバーさんからの購入希望が出ていますので、おそらく4月上旬には購入されたと思います。

 そこに龍馬さんが周旋した粮米(500俵)が長州からユニオン号に積まれて長崎に入港したので、ついでだからワイルウェフ号を薩摩に曳航することになったのです。

 両船は4月28日に長崎港を出ましたが5月1日に天候が悪化し、翌2日に五島列島の中通島の潮合崎沖で沈没してしまいました。ユニオン号は1日の波が荒れた段階でワイルウェフ号を切り離して鹿児島へ急行したそうです。非情なようですが、両船とも沈没するのを避けるための苦渋の決断だったと思われます。

 龍馬さんは、鹿児島でその知らせを聞き悲嘆にくれました。船は希望、そして船長・黒木小太郎、士官・池蔵太、水夫頭・虎吉、熊吉。水夫・浅吉、徳次郎、仲次郎、勇蔵、常吉、貞次郎、加蔵、幸蔵、〆て12人を失ったのです。

 池蔵太は龍馬さんにとって、土佐勤王党以来の同志、文久三年(1863)に土佐を脱藩して長州に走り、諸隊・遊撃隊の一員となり、大和天誅組に加わり、元治元年の禁門の変では忠勇隊の一員として戦ったという歴戦の勇士です。

 その後音信がなかったものの、慶応元年(1865)5月に馬関でばったり会ったというのです。「天なるかな、奇妙奇妙」と手を叩いて喜び合ってからというもの行動を共にしていたのです。

 幾多の戦場を巡っていながら、一度も弾に当たったことのない幸運の持ち主が、こうしてあっけなく海の藻屑となってしまったのです。

 帆船の操縦に習熟していなかったのだろう。12人が死に、助かったのは4人だけでした。

 仲間からの人望も厚い惜しい人材を失い、「人間一生実になお夢の如し、と疑う」これが口癖だったそうです。

 そういえば、近藤長次郎さんが自刃されたのはこの年、慶応二年(1866)の1月14日だったのですね、この頃の龍馬さんは、薩長盟約に向けて京都でわちゃわちゃしていた頃です。

 詳しいことは「坂本龍馬について-5」等で解説済みですが、長次郎さんは武器を長州藩に運んだ際に、藩主・毛利敬親に謁見を許されて、ユニオン号購入への尽力を要請されています。更に、この間の武器購入と運搬の尽力に謝意を示されて、三所物を下賜される栄誉を得ています。長次郎さん俄然やる気になったことでしょう。慶応元年(1865)9月7日のことでした。

 そして、長州藩主・毛利敬親父子から薩摩藩主・島津久光・茂久父子への礼状を託されたのです。(同年同月8日)この内容については既に説明済みなので省きますが。薩長融和に向けた重要なものでした。

 薩摩の名義貸しによる長州が軍艦購入の発案は木戸先生によるもので、これを龍馬さんが受けて薩摩藩要路に伝わり、長次郎さんが中心となって尽力してユニオン号が選定されて、実現したというのが事実であって、龍馬さんから長次郎さんに任命されてのことではありませんでした。

 「凄いぞ長次郎さん! 」となったに違いありません。

 しかし、その運用について締結された桜島条約がその後大問題となりました。龍馬さんも説得をしたのですが不首尾に終わりました。結果、12月25日、長州藩・海軍局が、桜島条約に問題があるのだから、改めて議論し直して実際に効力がある新桜島条約を締結して解決を見たのでした。

 社中代表格の上杉宗次郎こと近藤長次郎さんが、薩摩、長州、社中の三方に利があるように考えに考えた末に桜島条約をまとめたのですが、結局は三方から不満の声が上がり、頑強に抵抗していた近藤さんが遂に妥協したのです。これで社中の同志から厳しく責められて、いたたまれなくなって自刃した。という説を最近発見しました。

 「術数余りて至誠足らず」これが長次郎さんが身を滅ぼした所以だと龍馬さんは評しています。又、わし(自分)がおれば死なせはしなかった。と嘆いた。と言います。私もそう思います。

 「読み直す日本史 坂本龍馬とその時代 佐々木克すぐる著」2022年3月1日第一刷発行、原本2009年に刊行されたものの復刊だそうです。私はこの本を評価して、この説を支持します。

 本の宣伝をするわけではありませんが、中々納得できるものが無いだけに貴重なので、良い出逢いの記録として残しておきたいと思います。しかしこれとても中身全部を支持するわけではありません。中には矛盾もありますが、それを見抜くことができるには、様々な関連本を読んでおく必要があるでしょう。

 本ばかりではありません。私は坂本龍馬や幕末関連のテレビ番組やYOUTUBEなども観て新しい説得力のある情報を得て更に考察を深めて、ここに記録を記しています。

 特筆すべきは、NHKスペシャルの「新・幕末史」前後編ですね。この番組は幕末史の流れの中で、列強諸国がどの様に関わっていたのかを紹介するものでした。実際に現地に赴いて当時の記録史料を取材するという念の入れようでして、とても参考になりました。この辺の情報を織り込みながら、私なりの龍馬さんの活躍は続くのです。

 

 慶応二年(1866)6月2日、龍馬さんは桜島丸で薩摩を出立します。この船を長州に引き渡すのが目的です。

 同年同月4日、長崎着。小曾根乾堂邸にお龍さんを預けます。小曾根さんは資産家で龍馬さんの理解者です。小曾根邸は龍馬さんが長崎滞在の際には定宿にしているようです。小曾根さんは商人ですから、龍馬さんに良くすることで後ろに控えている薩摩藩とビジネスをして利益を得ている。と考えた方が私としては理解しやすいです。

 考えてもみて下さい。龍馬さんは一介の脱藩浪人ですよ。しかもお金も持っていません。龍馬さんの人柄や語る夢や理想に賛同して、というのもあるでしょうが、所詮は薩摩藩の意のままに動く手先に過ぎません。そんな者に長崎きっての豪商が何かと支援するには、もっとわかりやすい小曾根さんの利益につながるものがあった。と考えるのが自然だと思います。

 同年同月7日、第二次長州征討が遂に開始されました。

 同年同月14日、五島列島中通島江ノ浜郷に赴き、ワイルウェフ号沈没の殉難者を慰霊しています。長州藩としては、既に第二次長州征討が始まっていて一刻も早く桜島丸からの乙丑丸が欲しいというのに、これをしますから、又誰も文句を言わないところが龍馬さんの”至誠足る”とこなのでしょうね。

 同年同月16日、桜島丸を無事に長州藩海軍局に届けます。これより船名は正式に乙丑丸になりました。

 本来ならば乙丑丸に乗っていた龍馬さん一行は御役御免だったのですが、長州藩海軍総督があの高杉晋作なので、大歓迎されるのです。

 龍馬さんも高杉さんとは旧知の仲なので、一仕事を終えてどんちゃん騒ぎですわ。そして宴もたけなわの頃合いで、「おぬしも乙丑丸で戦に参加してくれろ」と口説かれます。

「え? またまた~。高杉さんも冗談キツイぜよ。わしゃ海戦なんぞしたこと無いきに~勘弁して欲しいぜよ」

「冗談じゃないけ~のう。実は乙丑丸を動かせる者がおらんのじゃ~、じゃから宜しゅう頼みます。この通りじゃ」と頼まれれば、龍馬さんは引き受けるのです。

 というわけで、龍馬さんは大して難色を示すことなく、高杉さんの指揮下に加わるのです。

 しかし、幕府は友好国オランダと契約して海軍力を増強させていたのです。旗艦・開陽丸は当時最強のクルップ砲を搭載して、その威力はイギリスのアームストロング砲を凌いでいたのです。

 更にオランダから指導者を招いて軍事訓練を強化して、近代的な海軍を作り上げていたのです。言うまでもなく当時としては国内最強で、この幕府海軍が小倉口に控えていたのです。

 高杉さんも龍馬さんも、この事実を知っていたのかな? 強大な幕府海軍の前にのこのこ現れたら、全滅は必定でした。おそらく知らなかったことでしょうね。でなければこんなに呑気にどんちゃん騒ぎはないと思います。

 翌17日早朝、高杉さんは丙寅丸に乗り込み、癸亥丸、丙辰丸も含めて指揮を執り、龍馬さんは乙丑丸の船長格として参戦。小倉藩領の門司浦、田ノ浦を砲撃して長州藩勝利に大きく貢献したのでした。龍馬さんは「誠に面白きことにてありし」と感慨を述べています。

 最強のはずの幕府海軍はそこにおらず、撤退していたのでした。何故か? 幕府は小倉口に主力艦隊を送り込み、馬関(現下関)を攻め落とす計画だったのです。しかーし! イギリスがこの戦局に介入してきたのでした。イギリスの駐日特命全権公使であるハリー・パークスがわざわざ小倉藩の幕府本陣に乗り込んで来て、老中の小笠原長行と談判します。

 「幕府は馬関周辺で長州軍との海戦を見合わせてもらいたい」

 「なんと! 馬関はこの戦においては要となる場所、何故なにゆえそのようなことを申すのか」

 「あの一帯は我がイギリスはもとより、各国の貿易船の通り道。流れ弾が当たって被害が出たら、幕府は責任をとれるのか」

 これには参りました。確かに海戦となれば外国船が巻き込まれる可能性は大いにありました。そうなれば、請求される賠償金のとんでもない金額についても既に経験済みです。そして、イギリスは事と次第によっては、全面的に介入する可能性を匂わせたのです。

 イギリス艦隊の恐ろしさは、薩英戦争や四カ国戦争で実証済みで、ここでイギリスの要求を無視すれば、下手を打てば長州征討どころか国の存亡をかけた大戦争になってしまうのです。

 幕府はハリー・パークスさんの要求を呑んで、幕府主力艦隊を小倉口から撤退させたのでした。そして6月17日の海戦は、長州藩のやりたい放題にされて、奇兵隊の上陸を許して敗北したのでした。

 そもそも幕府が海軍力を強化したのは、友好国であったオランダからの情報でした。「イギリスが日本と戦争しようとしている」というものでした。幕府はそれに備えて海軍の近代化を進めたのでした。

 NHKスペシャルの「新・幕末史」前編 では、今更ですが、当時イギリスは対日戦争計画があったことを放送してくれました。

 馬関から大阪の瀬戸内海を封鎖して、大阪湾から砲撃で大阪城を無力化して陸軍を送り込んで京都を制圧。天皇を人質にするのです。次は江戸城を落として、事実上の支配権を握るというものでした。

 しかし、幕府がオランダと結んで急速に海軍力を強化していることを知るや、対日戦争計画はボツにした経緯があるのです。

 つまりは、イギリスは日本を植民地にしようとしていたが、日本はオランダを通じてそれを知って海軍力を近代化してしまったので、戦をしかけると割に合わないからやめた。ならば、日本を新体制にして傀儡政権にしたら良いではないか。ということで、とりあえずは内戦状態の薩長の有利に動こうじゃないか。それで小倉口の幕府老中・小笠原長行と談判となったわけです。

 なるほどしかし……、イギリスの二段三段構えの戦略ですね。幕府側にとってはなんとも複雑でしたね。海軍力を増強して、大戦争は避けることはできたが、イギリスの介入で主力艦隊を小倉口から撤収させたおかげで、戦いに負けました。いえいえそれだけではありません。大島口も石州口も芸州口の戦いも負けました。

 幕府軍は非常に士気が低かったそうです。長州藩は朝敵でけしからんといっても、幕府がいっているだけで長州藩を滅ぼすほど憎む藩はありません。それにかかる費用は自前で恩賞も無いのですから、士気が低いのも仕方ないですね~。

 一方長州藩は必死ですよ。負けると滅ぶが同義ですからね。15万対5千なんて数字もありますが、勝利条件が15万を追い返せば良い。というのが大きかったと思います。

 不利なのは始めから承知の上で、それを何とかしようとしているわけですから凄いですね。相当緊張感を持って訓練に励んだと思います。士気の高さでは天地の差があったでしょう。

 そして、火吹き達磨こと村田蔵六(後の大村益次郎)さんの存在と活躍も大きかったと思いますよ。彼の軍略は彼の作戦立案と兵の指導は、非情なまでの合理主義で、もし彼の活躍が無かったら、長州藩はここで終っていたかもしれません。

 将軍・家茂を頭とする幕府軍は、一年以上も大阪城滞陣うんざりしており、おまけに病気も流行していたようです。

 どうしてもっと早くに征伐しなかったのでしょう。実は幕閣もやりたくなかったようです。だってお金が無いんだもん。やらずに済めばそれにこしたことはないですね。圧をかければ長州は恭順してくるだろうと考えていたふしがありました。

 ところが長州藩は武備恭順を主張して、なかなか幕府が示した条件を受け入れませんでした。幕府側も煮え切らないものだから、だらだら時間だけが過ぎてゆき、長州藩はその間にまんまと軍備増強に成功したのでした。おまけですが龍馬さんの怪我まで治りましたらね。早期に征伐しておけば勝てたはずでした。

 武器の性能が違ったそうです。これは仕方がないですね。長く天下泰平が続いて、外様は堕落したとまでは言いませんが近代化する理由が無かったし、もしやれば幕府から謀反の嫌疑をかけられたのですからね。

 高杉さんと龍馬さんが小倉口の海で、田ノ浦砲台を砲撃粉砕して、諸隊の兵が小倉藩に上陸して大暴れしてしたところまで時間を戻します。高杉さんは深追いせずに引き揚げました。丙寅丸が最後の兵を収容すると長州へ帰還しました。勿論乙丑丸船長・龍馬さんも一緒です。

 これで龍馬さんは、長州を救った英雄になってしまいます。感謝されるや讃えられるや、それはそれは下にも置かない大歓待だったそうです。6月20日には馬関の豪商・白石正一郎さん宅に滞在し高杉さんと面談。同月25日には山口入りして醤油醸造や質商いで財を成した三輪惣兵衛さん宅に滞在して歓待。27日、7月1日にも宴席が設けられ、2日には送別会も開かれました。特に1日は盛大で、木戸先生、井上馨らも参加したそうです。

 この日は藩主・毛利敬親に謁見を許されて羅紗の西洋服の生地を下賜される栄誉を得ています。これは凄いことです。実は高杉さんとどんちゃん騒ぎの中で参戦を引き受けただけなのにね。でもそれだけの結果を出してくれたからですね。それにしても、龍馬さんはその後も羅紗の生地で洋装したという話がどこにもないのが残念ですね。

 龍馬さんは山口の小郡村を経由して7月4日には馬関に戻っています。しかしここから先の足取りの記録がありません。

 小倉口の二度目の戦いは7月3日に行われました。龍馬さんは参加できませんでしたが、木戸先生に「どうぞ又野次馬させてくれないか」と手紙を書いています。

 結果はもう繰り返しませんが、別の情報として、5月13日からの数日間、大阪全域で激しい民衆暴動が起こりました。戦が起こるという噂で、正月頃と比べて米価が倍以上に高騰したのが原因でした。

 「この騒動の張本人はお城(大阪城)にいる将軍だ!」と抗議の声が高まった。そうです。東国武蔵でも大規模な世直し一揆が起こっていました。

 7月18日、芸州、岡山、徳島の三藩主が連名で、征長軍の解兵を朝廷に建白、20日には薩摩、26日には鳥取の藩主が続きました。

 7月20日は、将軍・家茂が病死しました。徳川宗家を相続して将軍候補となった慶喜は、自分が出陣して建て直すと息巻いたが、小倉口の幕府軍が敗走して、小倉城が8月1日に落城したことを知るや、あっさりと断念しました。小倉の幕府軍が勝手に降伏したのだからあきらめざるをえないでしょう。

 8月14日、慶喜は朝廷に休戦と解兵の許可を願い出ました。勅命で始めた戦争だから終るのも勅命で、ということだそうです。朝廷は自分で始末せいと言わんばかりの態度でしたが、18日になって漸く休戦を命じました。

9月2日に長州藩と幕府の間に休戦協定が成立して、第二次長州征討は幕府軍の敗退という結末をもって終結したのでした。

 乙女姉やんへの手紙には、「夫よりは国(薩摩藩)に帰り、其よしを申し上げて二度長崎へ出たりし時は、8月15日なり」だそうです。随分ざっくりですが、やっていたことはわかっています。勿論、桜島丸の譲渡、幕長戦争の状況、自分の行動などを薩摩藩要路に報告するためです。

 龍馬さんは7月27日付けの書簡を長崎から出しているので、薩摩と長崎を忙しく往復していたようですね。

 ここで龍馬さんにとって辛いことがありました。主に土佐脱藩浪人で構成されていた社中は、近藤長次郎さんが中心になって活動していたのですが、ユニオン号事件によって近藤さんが自刃してリーダーを失ったところに龍馬さんが彼らの前に登場(勿論初対面ではないのですが)して、桜島丸を薩摩藩に運びワイルウェフ号が沈没というごたごたをうまく収拾して社中のリーダー的存在になりましたね。

 そして桜島丸に船長格で乗り込むと、長州に運びました。桜島丸は長州で乙丑丸となり、恙なく任務を終えました。後は「そいじゃ! 」と薩摩に帰るばかり。しか~し、高杉さんは龍馬さんを御苦労さん宴席に招き、小倉口の戦いに参戦を要請したのです。

 個人的には高杉さんは始めからそのつもりだったと考えています。だっていきなり船だけもらってもね~。うまく動かせないものね~。ならば戦はもう始まっているから、これまで操舵に手慣れた者共に手伝ってもらった方が色々と手間が省けるのです。

 龍馬さんじゃったら、知らん仲じゃないし、頼んだら引き受けてくれるじゃろう。高杉さんはそう考えていたと思います。

 既に解説済みなので、読んでみて下さい。こんなおもろい人いませんよ。高杉晋作さんという方は、奇人、魔人と呼んでも一向に過言の無い御仁で、今日こんにち長州が今の様な長州征討の憂き目にあっているのも、元々は彼がたった一人で立ち上がったのが功山寺決起で、それで同志を増やし、俗論派勢力をぶっ倒して藩是を「武備恭順」に変えちゃったおかげ様なのでございます。

 そんな御仁が龍馬さんをどうやって口説いたのでしょう。先ずは安心させることです。簡単な絵地図を描いて、ここが馬関で、対面のここが小倉口じゃ。貴君は明朝わしらと共に乙丑丸で出て、ここに敵の田ノ浦砲台があるから、ここを砲撃してぶっ潰してくれりゃあええんんじゃ。なぁに敵の砲は古いけえ遠くは飛ばん。一方我が乙丑丸の砲は最新式じゃから、遠くに飛ぶんじゃ。ええかい。田ノ浦砲台の砲弾が届かんところから砲撃すりゃあ絶対安全じゃ。

 田ノ浦砲台を潰してくれりゃあ、こっちは大助かりじゃ。後は諸隊を上陸させて敵を倒せばええだけじゃ。貴君は船を降りんでもええど。褒美は十分にとらすけえ、どうじゃいやってみんかい。

 ここは何度か書きましたが、海戦経験も無いのに引き受ける方が不思議なのですが、龍馬さんは引き受けるのです。嫌々ではなかったはずです。

 そして翌日、大活躍して田ノ浦砲台を壊滅させて御味方は勝利。長州の英雄となって、行く先々で大接待を受けました。「ようやってくれた! すげえわ龍馬! 」となりましたね。勿論、龍馬さんだけではなくて、同志と火炊水夫かしきかこのみんなも美味しい思いをしたのはいうまでもありません。

 さてそれから、社中は乙丑丸を長州に納めたら、船が無い現実に直面するのです。折角当てにしていたワイルウェフ号は沈没してもう無いので、乙丑丸の乗組員を解雇しなければならないのです。共に泣き共に笑った仲間を切るのはとても辛いことですが、龍馬さんはその旨をみんなに伝えました。偉いですね。龍馬さんは元々はこの社中の仲ではなかったのですから、しれっと「そいじゃ! 」とドロンしてもよいのですが、そこは至誠の人龍馬さん。みんなも龍馬さんを頼りにしていて、苦しい状況もわかっているのです。そんな中でも辛い宣告をする役目から逃げることはなかったのです。

 ところが、ここでドラマがありました。長府藩の三吉さんへ宛てた手紙には以下の様に遺っています。

 泣く泣く去った者は三人ほどいたが、大方は何処の地までも行って死を共にしたいと申し出て困っている。

 幕府方が目をつけて、金で釣り出そうとしても頼もしい者ばかりで誰も行かないという。

 貴兄(三吉)の長府藩が海軍を開いたら、社中の者を移したいと考えているところだ。

 龍馬さんが考えている海軍とは、戦争をするだけの集団ではなく、平時は蒸気船に荷を積んで運んで金を稼ぐという海運業を含んでいるのです。当時は何とも牧歌的な構想ですね。

 そんな頃、龍馬さんの元ににとって五代友厚が良い話を持ってきました。伊予の大洲藩から長崎の薩摩屋敷に掛け合いがあって、社中の水夫2~3人と蒸気方3人ばかりを拝借したいとのこと。

 龍馬さんは、千屋寅之助(菅野覚兵衛)、渡辺剛八、橋本久太夫ほかを大洲藩に貸し出すことにしました。勿論給金付きです。

 大洲藩は蒸気船いろは丸(160トン)を長崎で購入したのですが、操縦に熟練した者が足らなかったのです。当時幕府が蒸気船購入を自由化したので、ちょっとしたブームになっていたのです。大洲藩は6万石でそれ程大きい藩ではなくとも買う所は買うのでした。

 因みに元治元年から慶応二年にいたる3年で、幕府(8)、薩摩(9)、熊本(3)、久留米(3)、芸州(2)、土佐(2)、宇和島(2)、福岡(2)他に和歌山、金沢、佐賀、長州、小倉、大洲、松山が各(1)で14藩で38艘を購入していました。

 蒸気船はお金を出せば買えますが、誰が動かすの? あれ? というわけで、蒸気機関の仕組みを理解して正しく蒸気船を動かせる人が、国内ではそれ程いるわけではないことに気がつくのです。

 ちょっと間抜けな感じですが、蒸気船を手に入れたものの人手が足りなければ動きません。目的が海運業であれ海上防衛であれ。大金をはたいて蒸気船を購入したわけですから、一日も早く稼働させなければお金を回収できないのですから焦りもします。

 あの幕府方でも、というのは幕府なんだから、伝習所を運営していてそれなりに人材を養成していたはずです。それなのに海軍操練所勝塾の残党である龍馬社中の面々が欲しいのですから、蒸気船を操縦できる機能・技術がそれほど貴重であったかわかりますね。当然龍馬社中の面々は大変貴重な人材と注目されてきたわけです。

 五代友厚さんは前にも解説しましたが薩摩藩士で、龍馬さんとは前からお友達でした。長崎物産方に属して長崎に拠点を置いて、他藩への銃器・蒸気船の売買や仲介、九州米の買い入れと大阪方面へ卸し、上海への石炭輸出、造船所の建設まで手広く手がけていました。

 五代さんの仕事は、正に龍馬さんの構想そのものでした。きっと羨ましいと思い、自分もいつかはやりたいぜよと夢を語り合ったことでしょう。五代さんも龍馬さんのセンスを見抜いて、「おはんならできもんそ」と酒を酌み交わして盛り上がったと思います。

 五代さんは1年前の慶応元年3月には薩摩藩留学生を引率してイギリスへ渡り、紡績機械と武器を購入し、フランスとベルギーでは合弁で貿易商社の設立仮契約まで話を進めるも断念して今年3月に帰国したばかりでした。如何にバックに薩摩藩があったとは言え、これ程までのことはうまくいかなかったとはいえ、当時の日本ではまだ誰もしたことがなかったのです。


 五代さんは幕末を生き抜いて、明治の御代には明治二年に政府の役人(会計官権判事)をさっさと辞職すると、大阪を拠点に実業界へ転身して様々な事業に携わり、東の渋沢栄一、西の五代友厚と言われる人物となりました。


 龍馬さんの慶応二年8月16日付三吉さんへの手紙には、

 幕府はこれからイギリスの支援を殆ど受けられなくなるだろう。この様に家老・小松帯刀が予想している。フランスの「ミニストル(仏公使ロッシュ)」は幕府の援助ばかりしてきたが、今度江戸に来たフランスの「ミニストル」は近日、国に帰るそうだ。これは西郷談です。

 イギリス公使・パークスは6月16~20日まで鹿児島に滞在して、藩主・茂久や久光と会談しました。先ほどの小松さんの予想は、この会談の内容を踏まえてのことです。

 今度江戸に来たフランスの「ミニストル」は経済使節・クレーです。幕府を支援する為に派遣されて、8月4日に総額600万ドルの借款契約を結んで帰国しました。

 などなど記されています。これらは全て五代さんから情報と言われています。当然木戸先生にも伝わりますから、長州藩としての藩是にも影響したのでした。これは、龍馬さんと五代さんとの信頼関係、龍馬さんと三吉慎蔵さんとの信頼関係が強固だったからこそのことで、でなければ長州藩は時代の趨勢を大きく誤ったことでしょう。

 幕府がオランダから購入した旗艦開陽丸の価格が40万ドルだったので、600万ドルの借款が如何に破格であったかがわかりますね。幕府は借款の担保として、生糸・繭種や茶を中心とした物品の独占貿易を約束したのです。幕府はこのお金で、軍備を一新して第三次長州征討を行う計画でした。

 これは本当のことです。但し、実現しませんでした。何故って? イギリスが強硬に反対して資金を止めたからですよ。これはヨーロッパ最強のイギリスが、幕府を見限り新政府樹立への後押しをしたからに他なりません。この事実は、先のNHKスペシャルの新幕末史でも放送されていました。













 2022年が終り、2023年となりました。令和5年となり、感慨に浸っております。北京オリンピックがあったんですね~。ロシアがウクライナに攻め込んで、これはまだ決着がついていません。ロシアは全然諦めていない中でウクライナがこれほど持ちこたえているのは、ウクライナ国民の固い団結とEUやアメリカの軍事支援あってのことだと思います。この戦争によって、小麦や石油などの価格が高騰してしまい、世界的なインフレが起こり、みんなが影響を受けているのは実感していると思います。

 今年も引き続いて支援が行われるのでしょうか? イデオロギーの戦いという面で見つめると、日本はウクライナを応援する立場ですね。共産主義と自由主義の代理戦争と言えるのではないでしょうか? ロシアからすればこの軍事支援が邪魔でしょうがないことでしょう。しかし西側諸国がこれからも巨額な軍事支援をしてくれる保障や義務はないことを考えると、ウクライナの首脳は恐怖していると思います。 

 ウクライナのお隣にポーランドという国がありまして、逃げてきたウクライナ人を難民として大勢受け入れています。そのことは道義的に素晴らしいことだと思います。しかしこれはポーランドに難民を受け入れることで経済的に大きな負担を抱える問題になっています。そこでポーランドはEUに経済支援を要請したのですが、「ウチ(EU)がお金を出すんならそらかまへんけど、あんたんとこ(ポーランド)もウチらみたいに民主化してな」とポーランドの政治体制に注文を付けているみたいで、反発が起きているそうです。

 いやはや、簡単には行かないものですね。イデオロギーの問題といえば、中国が台湾を呑み込もうとしていることも、台湾、アメリカ。日本が反対しているのですが、これもそうです。

 2022年下期に米中首脳会談があって、習近平さんとバイデンさんが通訳を挟んで、3時間この問題について話し合ったのですが結果は平行線でした。これからも話し合いを継続は一致で終りました。それでいて日本に対しては、「今後台湾問題に関わるなら、核攻撃は例外では無い」と伝えてきたのです。日本はこの問題について粘り強く中国と対話を続けるべきです。それだけでなく、尖閣諸島問題や領海・領空の侵犯のことも、話し合いを継続するべきです。

 中国・ロシア・北朝は、日本を良く思っていません。これはとても怖いことです。北朝はミサイルバンバン撃ってくるし、中ロは毎日領空・領海を伺って来ます。とはいっても海・空自衛隊が対応しており、陸上自衛隊も目立たないように防衛準備をしていますのでひとまず大丈夫と言えるでしょう。

 御存知のように政府は、反撃能力を持つということで増税しようとしてます。先の大戦以降日本は永らくの平和を享受してきましたが、今回ばかりはアメリカ頼みではいけないと思います。

 中国の台湾侵攻はいつなのか? というのが気になるところですが、年内は無いと考えます。その論拠は、アメリカの存在です。中国から見ればアメリカの存在はやはり大きいのです。彼らは今のロ・ウ戦争の動向を注視していることでしょう。ロシアは諦めないので、ウクライナはアメリカやEU次第とみているのです。それは日本も同じです。

 アメリカはバイデン大統領が中間選挙を乗り切り、今後もウ支援を続行するでしょう。一方台湾の支援も明言しているのです。一見アメリカは素晴らしいなと思うのですが、実際は中国の思い通りにはさせないぞ! という姿勢を強く見せています。というのも、中国は経済的にアメリカを凌いで世界の覇権を握ろうとしているからです。この野望はもう隠そうともしていないのです。そういう意味ではもはやイデオロギーの問題を超越しているのです。なのでアメリカは本気で中国の台湾侵攻を阻止に出る。日本はそれに乗っかることになるのです。

 次に新型コロナの存在です。次々に変異して、今のところその致死性は弱まっているようですが、感染力はまだまだ強いといえるでしょう。中国の「ゼロ・コロナ」政策に国民が反対して方針を転換したら、感染者が激増したという笑えない話もあるように、この問題が落ち着くまでは台湾侵攻はないと思います。

 次にロ侵攻問題の行方です。中国は注意深く見つめていると思います。それはみんなそうですが、彼らはロシアがどうなるのか? どんな制裁を受けるのか? それに戦い方が大きく変わりましたね。大金をかけた戦闘機や戦車が、比較的安い無人攻撃機やジャベリンなどのハンディタイプの武器にやすやすとやられている実態も注目していると思います。

 かつてソ連時代にはアフガニスタンに侵攻して約8年で撤退した経緯もあるのです。そして台湾侵攻タイミングを見極めると思います。 EUやアメリカが支援疲れ、というか「あれあれ? そもそもなんでワイらウクライナを支援してるんだっけ? なんかメリットあるん? ほんまキリないし、ワイらの税金やでこれ、元々同胞やったんやから元の鞘に戻ったらええんちゃうの」て世論になったら、ウクライナにとっては、とてもまずいことになります。ならばロシアはそれを待っているのかもしれません。

 ロシアはいわゆる「核の脅し」があんまり効かないことを知りました。核攻撃は現実的ではないことはみんなわかっているからです。それでも万が一核攻撃をやってしまったら、核による世界秩序が変るのです。そうなったら世界はどうなるのか? 想像してみて下さい。

 では実際に中国が軍事行動に出たら、戦場は台湾と日本の米軍基地周辺になります。台湾を攻撃した時、米日はどう反応するのか? 海があるので、ミサイル攻撃が主流になってくると思います。続いて無人機攻撃。米日が中国に反撃すれば、戦火は日本に広がります。そうなれば中国は楽には勝てませんよ。

 米日の政治家は中国に対して、台湾を併呑するリスクが大きいことを粘り強く説得しなければなりません。誰もそんなこと望んでいないのですからね。うまく行くかどうか。そんなこと考えずに説得に努めて下さい。

 中国は日本に対して恨みがあります。あの時日本は我々中国に何をした! 尖閣諸島は我々のものだ。そして埋蔵している石油も我々のものだ。台湾を併呑したら、次は沖縄、次は尖閣諸島と夢が広がる中国を争うのではなく、緊張は高まっていますが寸止めされたいまこそ粘り強く説得するしかないと思います。

 一個人としてはそれを願いつつ今年も生きてゆきます。今年も良い年になれば、と願わざるを得ません。




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