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坂本龍馬について-8

 令和4年(2022年)4月18日、新型コロナ問題は依然としてあります。中々しぶといですね。ウィルスは変異を続けて、罹患・死亡者が減少したことで一頃の騒ぎは収まっています。勿論亡くなった方は本当にお気の毒でご冥福をお祈りします。「インフルエンザと同様と認識して、かかったら体力勝負」ということでしょうか。

 世界中で流行したものですから、国によって対策や方針が異なるのは当然で、日本はワクチンを接種して様子見の状態です。早く経口薬が出て欲しいですね。

 ロシアのウクライナ侵攻はまだ続いています。日本を含めた各国はウクライナ支援しています。プーチン大統領は「地政学的悲劇」と発表し、終わる気配がなく更に激化します。更にロシアは日本の北海道について権利を主張し始めました。アイヌ民族の解放を主張して軍を送り込もうとしているようです。どこまで本気なのか不明ですが、勘弁して欲しいものです。

 北朝鮮の核・ミサイル発射実験問題もこれからどうなるのか注視しましょう。中国の台湾問題もありますね。これも「地政学的悲劇」を招く可能性があるし、中国はロシアウクライナ侵攻がどうなるのか注目していることでしょう。日本も確実に巻き込まれます。何とか平和に行こうよ。日本は危ないのです。


 このシリーズも第8弾となりました。7に続いて修正加筆版として、龍馬さんが殺されてしまった真相を書きたいと思います。


 フルベッキ写真というものを御存知ですか? オランダ人宣教師フルベッキとその子供を中心に大勢の侍が映っている写真です。詳しくはネットで検索すれば幾らでも見ることができます。

 問題なのは、映っている侍一人一人に幕末の志士の名前が記されていることです。例えば、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、桂小五郎、明治天皇などです。

 本来ならば対立しているはずの討幕派と佐幕派の侍が一同に会しているということで、幕末から明治維新の出来事は全て馴れ合いの出来レースだったと主張しているのです。

 トンデモない無茶苦茶な話です。ところが、フルベッキ写真を根拠にそれを信じている人が現れては、公式に否定されては消えて、何年か経つと又信じる人が現れては否定されるということが繰り返されているようです。

 私も見ましたが、まぁ酷い。ぜんっぜん似てません。幕末明治維新がやらせだった。というのもまったく支持できません。説得力ゼロです。信じてしまう人が周期的に出てくるのが理解できません。

 まぁジョークの一つとして「こんなのあるんだぁ」くらいにとどめて下さい。迂闊に信じていると時間を無駄にしますよ。


 さて、蛇足はこれくらいにして本題の続きに入ります。

 第一次長州征伐で、長州藩は戦うことなく解兵条件を全て受け入れて決着したことで幕閣は過信しました。

 慶応元年(1865年)1月15日、老中・水野忠精は、長州藩に対する今後の対応は江戸で行い、将軍・徳川家茂の進発を取りやめることを知らせました。

 同年同月25日には、前年9月の参勤交代・諸侯妻子在府復旧令の厳守を諸大名に沙汰し、同年2月1日に姫路藩主・坂井忠績が大老に就任して幕府体制の強化をはかりました。

 幕府は征長総督・徳川慶勝に対して、毛利父子と五卿の江戸送還を繰り返し命令しています。こうした幕府の動向に対して、朝廷や一会桑(一橋・会津・桑名)勢力、西側雄藩から痛烈な幕府批判が沸き起こりました。

 幕閣は現状の打破を目指して、幕府の出先機関でありながら、朝廷と癒着して江戸幕府を蔑ろにしている一会桑勢力を中央政局から離脱させることを画策します。

 そこで、老中・本荘宗秀と阿部正外は、計三千の幕兵を率いて、2月5日、7日に相次いで上京し、禁裏御守衛総督・一橋慶喜の東帰(江戸へ帰参)、京都守護職・松平容保と所司代・松平定敬の罷免を目指しました。

 2月22日に両老中が参内すると、薩摩藩の意向を踏まえた関白・二条成敬が、一橋慶喜の東帰と将軍上洛取り止め等を詰問・叱責し、顔面蒼白となって回答に窮しました。

 結局、老中・本荘宗秀は摂海防御のために大阪へ、老中・阿部正外は将軍の早期上洛を周旋するために江戸帰還を朝廷から沙汰されました。

 「三月二日御沙汰書」が幕府に交付されて、参勤交代・諸侯妻子在府の復旧と毛利父子・五卿江戸送還中止が決定されました。幕府の面目丸潰れですわ。


 幕府は事態を好転させるために慶応元年(1865年)5月16日、将軍・家茂が江戸城を進発しました。陸路で閏5月22日に入京、参内してから25日に大阪城に入りました。こうして江戸と京都に分断されていた幕府機構は畿内政権といえる政治体制を敷くことになります。

 幕府は一会桑勢力と融和しましたが、長州藩の支藩の藩主や長州藩の家老に大阪に召還する幕命を発したものの、無視されてしまいました。

 そもそも長州藩の処分について、幕府は将軍が進発したという報を知れば、長州藩はその威光に屈して、すぐに服罪の使者を大阪に派遣するものと考えていたのです

 進発はしたものの、当初から幕府が武力発動に消極的であったことから、幕府権威の更なる失墜を招くことになりました。

 しかし、これ以上の現状放置は許されず、9月16日、家茂は征長勅許を得るために大阪から上京しました。長州藩が病気を理由に支藩主などの召喚に一切応じない現状を、朝廷の権威によって打開しようとする窮余の策でした。

 一会桑勢力は長州征伐の勅許を獲得すべく、二条関白や朝彦親王へ働きかけを繰り返し、更に会津藩士・広沢安任、桑名藩士・森弥一左衛門、久留米藩士・久徳与十郎、土佐藩士・津田斧太郎らも朝彦親王に謁見して勅許が叶うように盛んに建言しました。

 そして、22日零時に至って、長州征伐が漸く勅許されたのです。長州憎しと思っている人々は相当喜んだことでしょう。


 さて、ここで面白い情報が入ってきました。幕府にとっては痛い話です。

 慶応元年(1865年)9月16日、英国公使ハリー・パークスら英仏蘭米の四ヵ国代表者が三条件を要求するため軍艦9艘(英5、仏3、蘭1)を率いて兵庫沖に来航したのです。 

 この三条件というのは、慶応元年(1865年)から二年前の文久三年(1863年)5月10日に長州藩が馬関(下関)で、外国船に向けて砲撃した事件がありましたね。これ長州藩が気が狂ったわけではなくて、天皇の命に従って攘夷を実行したのです。

 長州藩から見たら、日本のあちらこちらで異国の船は攻撃され異人は斬られていなければなりません。何しろ孝明天皇が命じて将軍がこの日に攘夷を実行すると宣言したのですから、これ程確かなことはありません。

 ところが、この日に攘夷を実行したのが自分らだけだったのです。「なぁ~ん、それ! 」ですよ。こんなヘンテコなことってあります? 脚色や創作無しでこれだけ面白い、いやいや、興味深い物語はそうそう無いと思います。しかもまだほんの入り口ですわ。

 それから色々ありますが、既に解説済みなのでここでは省きます。で驚いて被害を受けたのが四ヵ国ですよ。冗談じゃないですよ。いきなり砲撃とはそれなりの報復は覚悟の上なのでしょうな。ということで、

 元治元年(1864年)8月、英・仏・蘭・米は四ヵ国連合艦隊で長州藩に報復。馬関砲台を撃破占領。詳しくは「坂本龍馬について-3」を参照して下さい。

 ここでのポイントは、賠償金300万ドルを高杉さんが突っぱねて幕府に請求せよと主張。これが通ったのです。

 慶応元年(1865年)9月16日、四ヵ国代表団が幕府に突き付けた三条件とは以下の通り。

 賠償金300万ドルのうち3分の2を放棄する代わりに、

① 大阪と兵庫の早期開市。

② 通商条約の勅許。

③ 輸入関税の引き下げ

 という内容でした。当時の300万ドルといえば大金ですが、その後このように変わったことがわかったのは私としては嬉しいことなのです。


 薩摩藩は諸侯(有力大名)を上洛させて、衆議によって対応を決定すべきであると建白したのですが、一橋慶喜の政治力によって朝議で退けられました。

 同年10月5日、兵庫開港は不可と決定しましたが、通商条約は孝明天皇が勅許しました。これは大きいです。これによって即時攘夷は否定されて、未来攘夷に収斂しゅうれんしたのです。

 この間の混乱で老中の阿部正外と松前嵩広が失脚して幕閣体制は一新されました。幕府は慶応元年10月9日、老中格の小笠原長行が老中に、翌10日に慶喜を政務輔翼に、22日に備中松山藩主・板倉勝静を老中に任命しました。こうして幕府は板倉・小笠原体制を確立し、一会桑勢力と協調しながら第二次長州征伐に邁進するのです。


 長州再征と条約勅許で幕府がごたごたしている最中、薩摩藩は抗幕姿勢を鮮明化しました。近衛忠房、正親町三条実愛と結んで、長州再征の勅許反対および条約勅許をめぐる衆議のための諸侯召命の周旋を行いました。もう幕府の顔色をうかがいどっちつかずの態度を捨てて、正体を隠すこともしなくなったのです。

 そのため二条関白や朝彦親王の不興を買い、幕閣や一会桑勢力から甚大な嫌疑を受けることになりました。更に外国勢力からも疑惑の目を向けられて大きな問題に発展します。

 特にパークスから、条約勅許そのものを反対していると捉えられたことは想定外の事態でした。

 薩摩藩は英国と関係修復を至急図り、翌慶応二年(1866年)6月、パークスの薩摩訪問となり、関係は修復されています。


 慶応元年(1865年)9月、長州征伐の勅許阻止に失敗した在京の薩摩藩要路は、あくまでも諸侯召集の実現に固執していました。西郷隆盛、大久保利通、吉井友実らは西国雄藩の諸侯を京に参集させて、これによって長州再征を阻止し、通商条約の勅許問題の解決を画策していたのです。

 薩摩藩・島津久光、越前藩・松平春嶽、宇和島藩・伊達宗城の上京を促すことにしました。

 同年9月24日、大久保は福井(越前)西郷は鹿児島(薩摩)、吉井は宇和島に手分けして出発しました。本来はここに土佐藩・山内容堂が入るべきですが見送られました。


 驚くべき史料が出ました。

 伊達宗城書簡・春嶽宛「狼兄(山内容堂のこと)方へも坂下ママ龍馬馳下事情陳論致すべきと存候」


 私も勉強になりました。(ママ)って何だよ。書簡は肉筆でさらさらと書くものですから、坂下は誤字なんだけども意味は通じるからそのママなわけです。史料としては、宗城公が坂下と書いたのだから坂下であって尊重して、その(ママ)と記述しているわけです。史料を読んでいると度々こういうのに出くわして、最初はわからなかったのですが、多分そういうことだと思います。これは間違いなく坂本龍馬さんのことです。

 「薩摩藩は我々(ここでは伊達宗城ら)同様に山内容堂に対しても使者を派遣する」そしてそれが龍馬さんだと明言しているのです。

 実際は龍馬さんは使者になりませんでした。だって脱藩中ですよ。恐らく宗城公はその辺の事情を御存知無かったと思います。龍馬さんは土佐藩ではなく、長州藩への使者になりました。

 その目的は、薩摩藩が卒兵上京するために必要な狼米ろうまいを借用するためでした。通説では五百俵です。龍馬さんは長州藩に知人が多いことが選ばれた理由だと考えられます。同時に、長州再征勅許の阻止に薩摩藩が奔走している動向を示すことによって、長州藩に更なる接近を図ったと思われるのです。

 西郷は龍馬さんと大阪を出発。9月29日に上関(現・山口県熊毛郡上関町)に到着後、龍馬さんは西郷と別れて、10月3日に三田尻に到着。そこで楫取素彦と二度目の邂逅を果たします。これが歴史を回転させます。

 龍馬さんは薩摩の政情をを詳しく語り、西郷からの狼米借用依頼の旨を伝えました。

 これを聞いた楫取さんは芸州藩に行く予定を取り止めて、龍馬さんと山口に戻り、藩政府に狼米借用の件を報告すると同時に、広沢真臣、松原音三を龍馬さんに引き合わせました。

 龍馬さんは彼らに以下の様に事情を語るのです。

 長州再征の勅許は下されてしまったが、これについては薩摩は大変に尽力したのですが差し止めることができなかった。

 この上は、薩摩藩の兵力を背景にして、争ってでも幕府を諫めるために、西郷が海路薩摩に戻り率兵して再度上京することになった。その際には狼米が必要で、何とか長州から借用できないか薩摩藩より派遣された。

 この報を聞いた長州藩の対応は素早いものでした。藩政トップの御用所役・手元役兼務の山田右衛門は、直目付・柏村数馬、直目付・林良輔に伝わり、それから長州藩世子・広封ひろあつと瞬く間に広まりました。

 山田らは馬関にいた木戸孝允に書簡を発して龍馬来訪を告げ、狼米の手配ついて、北條瀬兵衛と相談して至急確実に実行するように依頼しました。更に追伸として、北條が不在時の進め方まで示すという用意周到な面をうかがわせています。

 広沢真臣は木戸に対して、この決定について、「他藩の助けがあろうとなかろうと、決戦の覚悟は不動である。しかし、実際に皇国内乱の際、朝廷のために尽力する列藩は、薩摩藩を始め岡山、芸州藩等であり、これらの藩とはなるべく結びつきを持っておきたい」と申し送りました。


 坂本龍馬伝説では、「薩摩藩のために長州藩から米を送り、薩摩藩は長州藩に武器を送る。いがみ合うちゅう相手でも、互いに必要なものを送り合えるのがビジネスっちゅうもんぜよ。これによって薩摩と長州の結びつきは強うなるき」と龍馬さんが考えて、西郷さんに相談すると、それは面白いとトントン拍子で実現してしまうのですが、実際は龍馬さんの発案ではなく、薩摩藩の意向でした。

 実際は、今まであまり聞いたことが無かった人物が多数登場してきて各々の役割を果たすことで、長州藩は薩摩藩のために狼米を準備することができたのです。結局このお米は薩摩はやっぱり必要無いと言い、長州も一旦送った物だから要らぬというので、龍馬さんが頂いたことになっています。

 狼米調達の件は龍馬さんの発案ではなかったですが、納得して周旋したと思いますよ。そうじゃないとうまくいかなかったと思います。薩摩藩は龍馬さんを長州藩に派遣して良かったと評価して、更なる活躍を期待するのです。


 「非義勅命」という言葉を御存知でしょうか。天下万民が至当と判断しない勅許は「非義勅命」であるから、諸藩は奉じることはない。ということです。これは、龍馬さんが持参した大久保利通の書簡(9月23日付、西郷宛)に書かれたものです。

 この文書の意義は長州藩に広く伝わり、長州再征の勅許に断固として反対する薩摩藩の意向を強くアピールすることになり、通常では考えられない速度で狼米が手配されることになったのです。

 楫取さんは木戸先生に対して以下の様に伝えています。

「幕府は虚勢を張り、朝廷は微力であり、誠に嘆かわしい限りである」

「非義の勅命は朝廷が徳を失ったことを世間に暴露することになり、天皇の威光に疵がつく」

「国家のために薩摩藩の尽力を大いに期待する」

 龍馬さんが長州藩にもたらした長州再征の勅許の情報は、より一層の警戒感を持たせ、武備充実への決意を搔き立てました。

 同時に「非義勅命」を主張する大久保書簡によって、薩摩藩の長州擁護のための周旋状況が判明したことで、薩摩藩への信義の回復と周旋尽力への期待が飛躍的に高まったのです。


 慶応元年(1865年)9月21日に長州再征の勅許を得た幕府は、11月6日に長州藩主・毛利敬親、広封父子の解兵条件の履行に関する尋問のために、大目付・永井尚志ながいなおむね、目付・戸川忠愛、松川孫八郎を芸州に派遣しました。

 11月20日、永井らは国泰寺で、長州藩使者・宍戸璣ししどたまきを尋問して、翌21日に尋問書を渡して答申を求めました。その内容は、藩主が萩ではなく山口に滞在していること、山口城を修理したこと、武器を外国商人から購入したこと、大阪まで使者を派遣しなかったこと、などなど多岐にわたりました。

 24日、宍戸は答弁書を提出して藩の実情を陳述とともに、再征の方針を非難して、藩を挙げて断固として屈しない姿勢を示しました。又、11月晦日(末日)には長州藩使者・木梨彦右衛門および諸隊の代表河瀬真孝(石川小五郎)、井原小七郎、野村靖を国泰寺で同様に尋問。

 永井の一連の尋問は、極めて穏便なやり取りに終始しており、それが後で一会桑勢力との齟齬が生じる要因となりました。しかしこの方針は大阪城にいる幕閣のものでした。12月11日、永井は尋問の終了を告げて、16日に芸州を発ち、18日には大阪城で尋問の顛末を報告しました。


 こうして長州再征の緊張が高まる中で、龍馬さんは再び長州に派遣されます。永井らの動向に関する方法収集と長州藩の状況探索の目的をもって、慶応元年(1865年)11月24日に大阪を発ち、26日に上関に着き、馬関に着いたのは12月3日でした。

 龍馬さんは一緒に大阪を発った薩摩藩・岩下方平、吉井友美と10日後の12月13日頃に上関で合流して上京する予定でした。

 薩摩藩家老・桂久武の日記によると、午後10時頃に上関着で龍馬と会う約束をしていたので、中津権右衛門、木藤市助を上陸させて、人馬を手配をしていたのですが現れませんでした。

 結局龍馬から詳細な情報を得ることができずに虚しく帰船したということが書かれています。龍馬さんのすっぽかし事件ですね。

 龍馬さんが不在ということで、永井らの動向や長州藩の情勢がわからなかったので、桂は翌14日に上関在番の役人に尋ねたが要領を得ず、長州藩内の臨戦態勢の雰囲気のみがわかった程度でした。

 龍馬さんが現れなかったのは、「ユニオン号事件」に巻き込まれていたからでした。流石にマズイと思った龍馬さんは岩下、吉井宛に書簡を出しました。龍馬さんが上関に戻れず、代理の者を探していたところ、あいにく港の薩摩船に知人が乗っておらず、黒田清隆が馬関に滞在中だったので上関行きを依頼した。しかし黒田も馬関を離れられない用事があるということで、上関へ行けない事情を了承して欲しい。そして所用が済んだら黒田と上阪する。と申し送った。

 この書簡の後半で、龍馬さんが長州藩の状況を探索したところ、幕府大目付・永井尚志は長州藩政府と諸隊の離間策を採っており、幕府がどちらかに加担して反目させて長州藩を制圧する目論見である。ことを示し、永井らに同行した近藤勇ら新選組の動向まで伝えています。

 その上で、「長州藩は上下一致して兵威盛んで、やはり長州藩との連携を第一にすべきである。詳細は上京後に話す」と結んでいます。

 龍馬さんは薩摩藩士として、長州藩や幕府などに関する情報を薩摩藩要路に伝える重要な役割を継続して果たしていて、長州藩にとっても、薩摩藩を頼る状況下では、極めて重要なパイプ役でした。

 薩長の連携は、間違いなく龍馬さんを核にして推進されていたことがよくわかります。


 「ユニオン号事件」については、「坂本龍馬について-5」で書いておりますが、ここら辺から、龍馬伝説と現実が大きく乖離していることがわかりました。これから詳しく書いて行こうと思います。


 先ずは「亀山社中」の幻想です。日本初の株式会社? 総合商社? 私には当初から疑問でした。実際はそんなものではなかったのです。

 慶応元年(1865年)6月26日、薩摩藩家老・小松帯刀が長崎に到着した際に購入船(海門丸)の運用のために小松の配下にある龍馬さん以外の土佐脱藩浪士グループです。ユニオン号の運用にも関わるようになったので、長州藩などに対して自分達を示すために「薩摩藩士の一団」として「社中」と名乗ったに過ぎません。「亀山」が付いたのは明治以降のことです。

 彼らは薩摩藩家老・小松帯刀のお抱えという存在でした。社中の功績として、社中トップの龍馬さんが西郷さんと交渉して名義貸しに成功し、長州藩の代わりにグラバーさんから武器弾薬・軍艦ユニオン号を購入運搬まで行った。とされていますが、そうではありません。

 当時龍馬さんは長崎におりませんでした。西郷さんも名義貸しを許可できるほどの権限はまだなかったのです。

 繰り返しになりますが、慶応元年(1865年)7月21日、薩摩藩家老・小松帯刀と長州藩士・井上薫と伊藤博文との歴史的会見によって名義貸しによる武器弾薬の購入が決定したのです。

 社中(正確には当時社中とも名乗っていなかった)の貢献があったとすれば、伊藤らにグラバーを紹介したり、彼らの身元保証をした程度でした。武器購入の交渉は伊藤らが直接グラバーと行っています。

 軍艦の購入については、井上が小松と同道して薩摩に行って根回しをして伊藤と長崎で合流し、購入した武器弾薬を薩摩の軍艦に積み込んで長州へ戻る段どりでした。ここに社中の出る幕はありません。

 ただし、軍艦を購入する場合は井上・伊藤では荷が重いのです。何しろ高額な買い物であるし、軍艦には長州藩の命運がかかっているのですから、強力で高い性能が求められるのです。失敗は絶対に許されないのです。

 高性能軍艦を適切な値段で購入するには、買い手側にそれなりの知識と経験を持った人物が絶対に必要です。そこで、近藤長次郎さんが選ばれたと考えられます。彼は優秀であり、短い期間とはいえ勝塾にいて修練を積んでおりますし、何しろ長州藩主からの信頼を得ているほどですから適任と言えるでしょう。

 それでは、この近藤長次郎さんという人物についてわかったことを記します。

 天保九年(1838年)3月七日、高知城下の水通町(現高知市上町)で「大里屋」という餅菓子商を営む商人・伝次の長男として生まれました。これが後世「饅頭屋長次郎」と言われる所以です。

 水通町は商人や職人が多数居住していてとても賑やかなところで、長次郎さんは幼いころからこの地で経済感覚や商売の仕組みを学びました。向学心が高く、家業を手伝いながら読書に勤しみ、叔父の門田兼五郎のもとで勉学に励みました。

 「大里屋」は長次郎さんよりも3歳年上の龍馬さんの家と近かったので、記録はありませんが一緒に遊んだかもしれません。

 安政二年(1855年)「大里屋」近くの築屋敷にあった河田小龍の塾に入門し、その後は神田村(現高知市神田)の岩崎弥太郎に師事しました。

 安政六年(1859年)藩の重役・由比猪内ゆいいないの従僕として江戸に留学して、儒学の安積艮斎に学びました。同年父母が死去したため急遽帰国し、家督を妹に継がせて翌万延元年(1860年)に再び江戸に遊学して、洋学を手塚玄海、砲術を高島秋帆のもとで修学しました。

 文久二年(1862年)、長次郎さんは勝先生の勝塾に入門しました。龍馬さんも同年10月から12月頃の入門です。長次郎さんの優秀さに関する評判は各地に広まり、諸藩からスカウトしたいとの申し出が勝先生のところに相次いだそうです。

 文久三年(1863年)、土佐藩から学問精励と能力の高さを評価されて苗字帯刀(武士の特権)を許されて武士に昇格しました。

 同年1月、勝先生と共に上京(京都)、6月下旬に神戸の勝塾に入門して航海術を修行しました。

 元治元年(1864年)5月、神戸海軍操練所が開設されて長次郎さんは「勝阿波守家来」として聴講生のような形で入所しました。

 その後勝先生が失脚して長次郎さん達は行き場を失い脱藩。勝先生は薩摩藩に援助を要請、薩摩藩も軍艦乗組員が不足に難渋していたこともあって、長次郎さんらを小松帯刀お抱えとしたのでした。

 近年になって、薩摩藩主・島津久光への上書の中に上杉宗次郎(これは近藤長次郎さんの変名です)のものが発見されました。これは大変異例なことです。おそらく体裁が久光公宛ではなく、上杉宗次郎という変名が発見が遅れた原因ではないでしょうか。

 久光公の手元にあった史料を編纂した「玉里島津家史料」に含まれていたことから、久光公が目を通したことは間違いなく、長次郎さんが小松帯刀に宛てて書いた上書が非常に示唆に富んでいたので、小松が久光公にもたらしたと考えられます。

 それにしても凄いことです。土佐脱藩浪人に過ぎない長次郎さんが書いた上書の内容が素晴らしいのは勿論ですが、それに感銘を受けた家老・小松帯刀が藩主・島津久光に渡す。そして藩主は捨て置かずに読むという、組織としての風通しの良さ。なんだか討幕という大偉業の発端をみたようで感動します。これが無ければ、先は無いのですから! 何と言うか幕末はこんなのばかりのような印象があります。

 では、長次郎さんが認めた上書の内容はどのようなものであったか? 以下に要約します。

 「今の日本は、水戸天狗党の乱と禁門の変が東西で同時に起こり、人心は極めて不安定な状態にあり、それに加えて異国人が猛烈な勢いで我が国に軍艦を差し向けており、通商条約で決められたことが守られていないと幕府を責め立て、その対応如何によっては直ちに戦争に訴える情勢にある」と分析しています。

 「そもそも我が光り輝く神州(日本)は周囲の夷狄に朝貢させ、その威光は海外に轟き渡り、継続して領土を拡張することが先祖代々の宿願であることは明白である」

 「日本は、東アジアにおける華夷帝国である」と堂々と主張しています。その根拠として、

 「すでに神皇后自ら海軍を率いて三韓を征し、府を彼の国に立て、人を彼の国に居へ、互市朝貢を監視す、若しその貢を怠れば、忽ち兵を遣りて之を罰す」と「古事記」「日本書紀」に記載されている神功皇后の故事を持ち出している。

 神功皇后の故事とは、仲哀天皇の后で、応神天皇の母である神功皇后が行った朝鮮(新羅)出兵のことで、新羅が降伏した後、百済・高句麗も日本の支配下にあったとされる。ことです。

 そして、日本の国体は「攘夷鎖港」ではなく、古くから広く海外と往来しており、「攘夷鎖港」は徳川将軍家によって止むを得ず祖法化されたもので、家康公がもう少し長生きしていれば「鎖港」政策をとることはなく、日本国旗が世界中にたなびき、現在強勢を誇る英国なども朝貢していることは間違いない。と言い切っています。

 また、「鎖港」政策に踏み切ったのは、キリスト教が広まることによって人心を擾乱し、不測の害が生じることを恐れたためである。と由来を説明しています。

 今後の対外戦略として、「日本は世界と通商して国を富ませ、海軍を更張すれば四夷を征服するに適した国土であり、先ずは朝鮮に進出し、清の諸港に商館を置き、兵乱で疲弊している人を助ければ、十年以内に清は日本に説き伏せられ、西洋征服への同盟に同意するであろう」と論じています。

 「こうして清を従えた上で、黒竜江を越えてロシアに至り、ロシアと盟約を結んでその物産を黒竜江まで運んでもらい、日本船も黒竜江まで出向いて出貿易を行い、更に上等な鉄を受け入れて、大小の銃を製造すべきである」と征韓論と、日露同盟論を展開しています。

 長次郎さんが考えていることは、通商条約容認を前提として、天皇の権威向上を背景とした富国強兵、海軍振興による未来攘夷の実現であり、征韓論と清やロシアと結んだ膨張政策、その後の東アジアに覇権を唱える東アジア的華夷帝国の形成、そして世界を圧する国家への発展を目指すということです。

 更に近々の課題として、造船ドックの建設、ロンドンへの留学生の派遣(選抜は身分に関わらず徹底した能力主義)による海軍士官の養成なども提案しています。

 薩摩藩家老・小松がこれ以降推進した小菅ドックの建設や薩摩スチューデントの派遣を想起させる内容であり、本上書が何らかの影響を与えた可能性が考えられます。

 論理性や先見性に富んだ近藤長次郎さんの上書が、「近藤は使える」というインパクトを薩摩藩に与えたことは間違いありません。


 まぁ、これは私見ですが、見た目は白紙に毛筆を使って墨で書いた素朴なものに過ぎませんが、その内容は凄い。よくここまで書くことができたものだと感銘を受けました。

 良いとか悪いとか、極右翼だとか、そんな批判はこの際やめましょうや。一人の男が、考えに考えて見事に上書にまとめたのですから、私は讃えるべきだと思います。

 令和四年(2022年)の今から100年先の日本を見通して論文を書いて、100年後の日本人が「おお、素晴らしい、大筋当たっているじゃないか」と思われるものを書くことが、どんなに難しいかを考えればわかると思います。しかも、超能力とかオカルトとか占星術無しで!

 私の頭で考えると、日本どころか世界レベルで禄でもないことしか浮かびません。増えて長寿化する人間。高齢化。貧富の格差。食糧。未知ウィルスの恐怖。相変わらず止まない戦争・紛争。核戦争になれば人類が滅ぶ恐怖の中の平和。自然環境の激烈な復讐。大地震に津波。大規模な山火事などなど挙げればきりないです。

 そういう思いで、五島勉さんが書いた1970年代の本、「ノストラダムスの大予言」を開いてみて下さい。無い方はネットで検索すればヒットするでしょう。およそ50年前の本が、今かなり説得力ありますよ。

 以前アナザーストーリーズという番組の特集を観て面白かったから、「BOOK OFF」に行くと、現物が100円で入手できました。紙が日焼けして茶色くなっていて、とても不気味な感じでした。

 中身はノストラダムスの紹介と四行詩の翻訳と勝手な解釈でした。いやいや、ノストラダムスの四行詩の中身がどうのこうのではなくて、あんなものはホンのつかみですよ。むしろそれをテーマにした人類滅亡の可能性を五島勉さんが分析した内容がドンピシャなのです。

 ここの部分はオカルトでもなんでもなくて、人類の危機を食い止めようとする五島勉さんの必死さが伝わってきて、このままじゃこの先碌な事無いよ。と訴え続けているのです。もう亡くなったそうでお気の毒ですが、本でなら生き続けられるのです。

 まぁ、そんなものは抜きにしても、年々生きるのがキツくなってきたと思いませんか? 天変地異、自然災害、地震・津波、台風、大雨や猛暑、致死疫病、いじめ、激化する誹謗・中傷、ギクシャクする人間関係。異常な犯罪。それに伴う法律の縛り。物価高に上がる税金。せっかく交通死亡事故が減少しても、自殺者が増えてはダメじゃないか。


 長次郎さんの頭の中は、幕府などはもう吹き飛んでいて、天皇を頂点とした大日本帝国があったんですね。未来の日本は長次郎さんの上書をなぞるように、海軍と陸軍を創設、日清、日露戦争を勝ち、昭和になって大東亜共栄圏を捻り出して、アメリカを中心とする連合国と戦争をして負けましたね。

 そして今度は高度経済成長を遂げて、バブル崩壊で堕ちましたね。それでも我々は今こうして生きているわけです。

 予言書とは言いませんが、幕末において未来の日本は斯く斯く目指して斯く斯くすべしと、よくぞここまで未来を見通したものだと思います。


 龍馬伝説では、龍馬さんが長次郎さんを軍艦購入担当に任命したようですが、これはフィクションで、前述の様に長州藩から依頼を受けたのです。

 長次郎さんは、事実上社中の代表格となって、長州藩のために軍艦を購入するために尽力します。井上らと共に予算と、船の年式や大きさ、性能などを総合的にグラバーと交渉して、漸く「ユニオン号」という軍艦を購入する運びとなりました。


 通常のビジネスならばこれで長州藩がお金を払って、ユニオン号引き渡して終了。となるのですが、長州藩には直接軍艦を購入できない事情があります。前述の通り、薩摩藩が名義貸しして購入する迂回路を使うのですが、軍艦購入の場合は、幕府によって神奈川、函館、長崎奉行経由による発注に限られていました。

 幕府は諸藩の軍艦保有数を完全に管理していて、薩摩藩がユニオン号購入を長崎奉行に届け出ると、「薩摩は薩英戦争後に、既に十分な軍艦を保有しておる。この上軍艦を購入するはいかがなものか」目立ってしまい嫌疑をかけられる恐れがあるのです。

 従って、薩長融和を望む薩摩藩としても軍艦を購入には慎重にならざるを得ないのです。

 そういう事情があるにせよ、長州藩は今さらユニオン号を諦めるわけにはいきません。薩摩藩としても絶対に嫌だというわけでもありません。それならば、薩摩藩に利がある取り決めを起草すれば良いではないか。長次郎さんはそう考えて、長州・井上薫と協議した結果が「桜島条約」なのです。

 慶応元年(1865年)12月、「桜島条約」が長次郎さんから長州藩海軍局幹部・中島四郎と龍馬さんに対して示されました。

 「桜島条約」の主な内容は、

・旗号は島津家のものを借用。

・乗組員は社中の士官(高松太郎、菅野覚兵衛、新宮馬之助、黒木小太郎、白峯駿馬、沢村惣之丞)と従来からの召し連れの火炊水夫かしきかこ

・長州藩からは士官2名が乗船。船中の賞罰は社中士官が実行。

・諸経費は全て長州藩が負担。

・長州藩が使わない時は、薩摩藩が利用可能。

というもので、著しく薩摩に有利な内容です。

 社中を代表して近藤長次郎が中島四郎に宛てたものだが、中島の横に坂本龍馬の名があるのは異様である。これでは龍馬は長州人となってしまう。という声も確かにありますが、当時龍馬さんは薩摩藩士と認識されており、社中は薩摩藩の外郭団体と考えれば、長州藩の中島と薩摩藩士の龍馬さんに宛てたものと考えれば違和感ありません。

 実は、これだけ有利な条約を締結しても、薩摩藩の内部では多数の異論が出ました。薩長融和論がこの段階ではまだ浸透していなかったのです。長次郎さんは異論派閥を説得するために薩摩入りし、小松邸に滞在しながら反対する要人達を納得させるのに8日を費やしています。

 勿論小松帯刀のサポートもあったにせよ、頑固で気難しい薩摩隼人を説得するのは並大抵のことではなかったと思います。しかし、一度納得すればサッと切り替えができるのも薩摩隼人の特徴です。

 それにしても凄い交渉能力です。そして藩主・島津久光と二度目の公式拝謁を遂げているのです。これは大変名誉なことですね。

 更に、長次郎さんが中心となって武器を長崎から長州藩に運搬した際に、慶応元年(1865年)9月7日に長州藩主・毛利敬親に謁見を許され、ユニオン号購入への尽力を要請されました。そして、この間の武器購入と運搬の尽力に謝意を示されて三所物(小柄、笄、目貫)を下賜される栄誉を得ました。

 その後、長次郎さんは長崎に戻り、グラバーさんと長州藩・長崎在番藩士に根回しの上で、薩州聞役・汾陽次郎右衛門から長崎奉行にユニオン号購入の申請が行われました。慶応元年(1865年)10月16日のことです。

 前にユニオン号の購入代金は三万七千七百両という複数の情報がありましたが、五万両という値段もありましたのでここに記しておきます。

 長次郎さんの書簡井上薫宛て10月18日

 「第一ユニオン号のこと、これはかねてより御示談した通り、貴兄御存知の船印、国号を借用して社中と水夫も乗り組み、今日漸く船を受け取りました。一旦ユニオン号を薩摩に寄港させて、それから馬関に回航するので安心されたし」

 「船を受け取った際には、国旗引き替え、その日の役人へ酒を飲ませ祝儀を渡しました。その他石炭入れ込み、薪水、食料、水夫の給金などひたひたひた相困り」と膨大な諸費用の発生に困苦している様を綴っています。

 しかし薩摩の役人には遠慮して言い出せず、グラバーさんから千両借金して漸く賄ったので、いずれこの経費は帳面に明記して請求すると伝達しています。

 又、長次郎さんは、購入費用について、薩摩藩の長崎在番の役人が面倒なことを言い募るので困っており、代金は薩摩藩の大阪藩邸まで送金するか、馬関で本人(長次郎さん)が受け取りたいと井上に懇願しています。

 まぁ、なんというか大金が動くとなると、中抜きをしたい役人が出てくるわけですね。そんなの今でもありますね、パソナ竹中さん!

 そんなこんなで、ユニオン号は一旦薩摩に寄港させて、11月下旬の引き渡しを約束しています。

 フィクションでは、龍馬さん率いる亀山社中によって成し遂げられたことになっていますが、実際は近藤長次郎さんの尽力が大きいのです。

 近藤長次郎さんの活躍はユニオン号購入だけに留まりません。井上薫宛の書簡には以下のようなことも書いてあります。

1.ガンボート(小型の砲艦)2艘は、薩摩藩の名義貸しによってグラバーに発注済みなので安心されたし。

2.ロンドンへの留学生は長州藩士を薩摩藩士として派遣することは、もう少し評議する必要がある。

3.薩摩藩名義によるアームストロング砲(当時最強)の購入は今回は間に合わなかったものの、12月から1月までに輸入が叶い、馬関に搬入するとグラバーから回答があった。

4.薩摩藩での英学および砲術修行について、現在は教授が中止されているので暫くは様子見が妥当であろう。

5.ゲベール銃購入については、グラバーと交渉中であり、いずれ直接話したい。

 このように長州藩の依頼は軍艦、武器弾薬の購入から英国留学生の派遣、藩士の薩摩での英学、砲術修行の斡旋など多岐に及び、これらを実現させるためには長次郎さんの存在が不可欠なのです。

 長次郎さんは、小松帯刀、西郷吉之助の昨日の上京(長崎発)と久光の来月初旬に率兵上京を示唆しています。そして兵の数が多ければ京で大騒ぎが持ち上がるであろうと予想しており、それを長州に書簡で伝達していることが重要なところです。だから長州から信頼されるのですね。

 そしてここから、有名な「ユニオン号事件」が勃発するのです。

 慶応元年(1865年)11月8日頃、長次郎さんはユニオン号で馬関に到着しました。出迎えたのは、高杉晋作さんと伊藤博文さんでした。高杉さんは木戸先生に、近藤到着を知らせて至急馬関に来ることに求め、無理なら代わりに海軍局の中島四郎を派遣を要請しました。

 伊藤も木戸に書簡を出しています。詳しくは、「坂本龍馬について-5」を参照して下さい。内容は、ユニオン号購入のために近藤は並々ならぬ尽力に報いるべき。近藤は英国留学を志していたのに長州のせいで2~3カ月出発を遅らせてしまった。金なれば百金なり二百金くらい進呈してもいいじゃないか。というものでした。

 更に伊藤は、「薩摩藩の実情を直接、近藤から聞いて欲しい」と木戸先生と井上薫の来関を要請しています。

 高杉さんと伊藤さんは、ユニオン号購入をめぐる複雑な事情に、自分達では対処できないと判断しています。これらの書簡を回覧した井上は、「近藤は実直に過ぎるため、親しい人でないと交渉がうまくいかない」と述べて、12日には馬関に着きたいと木戸先生に伝えています。

 その後、井上と対面した長次郎さんは伊藤も加えた3人で山口に赴き、11月18日に藩主・毛利敬親に謁見を許されて、短刀を拝受し、労をねぎらわれた。近藤にとっては9月7日以来二度目となる謁見で、これは想像を超える厚遇です。長州藩の長次郎さんに対する感謝の念と一層の期待があったことは間違いありません。尚、伊藤さんが示唆した金の受領は認められず、藩政府で検討した形跡もなかったそうです。

 慶応元年(1865年)11月22日、藩政府はユニオン号を乙丑丸と命名し、海軍局の中島四郎を総監にすることを沙汰しました。そして馬関において、長次郎さん、木戸先生、井上さん、中島さんらが乙丑丸運用について協議することを命じました。

 しかし、長次郎さんは既に決定していた桜島条約の履行を強く求めて譲らず、事態が紛糾するのです。

 長次郎さんは長州藩が桜島条約の内容を守ることができないのであれば、ユニオン号を渡さないというのです。

 当然長州藩は怒ります。桜島条約の内容は長州側に不利なので、守るわけにはいかないのです。

 では何故、条約策定の時に申し立てなかったのですか?

 それは諸事情により、自らが軍艦を買うことができなかったからです。だから薩摩藩の名義を貸してもらいたかったのです。そのためには薩摩に多少の利が必要なことを理解していたからです。

 左様。それで薩摩は幕府からの嫌疑を受ける危険を承知で名義を貸したのです。結果長州はユニオン号を購入出来て、我ら社中もこれを利用できる。そして運用においても桜島条約を履行するのが当然なのです。

 それはわかります。しかしこの条約によれば、火炊水夫、士官はそちらで固められていては、とても戦で使えたものではないと、長州藩要路が異論と唱えるのです。

 それでは桜島条約は破棄となり、ユニオン号をそちらに引き渡すことはできません。

 なななんと! それでは我らやそなた(長次郎さん)が今日までの奔走は無駄となり、我らは船を得られず幕府と戦になれば由々しき事態となります。

 ならば桜島条約を履行して下さい。

 それはできん。

 そもそも条約とは、立場の異なるものが話し合い手を組んで事を為そうとする事前の取り決めです。これがあったからこそ、ここまでこれたのではないですか?

 うーむ。それはそうじゃ。

 では桜島条約の履行を・・・・・・。

 それはできぬ。


 う~ん。なんか堂々巡りですね。

 木戸先生は自ら長崎入りして在番の薩摩藩士と談判すると主張しましたが、長州藩政府は政務多忙を理由に許可しませんでした。それならと井上薫を上京させることを進言しました。

 12月1日に藩政トップ山田右衛門は、このままでは薩長間に亀裂が走ると危惧して、薩摩藩家老・小松帯刀が京にいるので、井上を派遣して調停に努めることにしました。


 12月3日、龍馬さんが馬関入りしました。彼の目的は、木戸先生から幕府との広島談判(長州再征に際して幕府大目付らを広島に派遣し、長州藩の使者・宍戸らを尋問した件)の結果や長州藩の対応を聴取することにありました。

 しかし期せずしてユニオン号事件に巻き込まれてしまいました。龍馬さんも説得したのですが、長次郎さんが桜島条約と盾として断固として長州藩への引き渡しを拒み、海軍局代表の中島と龍馬さんに明文化した条約を開示して、その履行を求めて譲歩しませんでした。

 中島は桜島条約を改正て、ユニオン号を乙丑丸として自藩のものにすべく長次郎さんに要請したのですが、船の代金が完済していないので、長崎に回航すると主張しました。

 長州藩がますますヒートアップする中で龍馬さんは、代金の支払いを一時延ばしてユニオン号を上方に回航し、木戸先生が小松帯刀と協議することを提案しました。この案は高杉晋作さんの同意を得ましたが、長次郎さんはここでも譲りませんでした。

 これでは長次郎さんだけが頑強な態度でいるみたいですが、卓袱台返しをしたのは長州藩の方でして、長次郎さんは数十名の社中を代表して奮闘している状況が窺えます。

 この問題は高杉さんは早々に投げ出してしまい(でしょうね)中島、龍馬さんが説得にあたったのですが、長次郎さんは頑として受け入れませんでした。しかし、12月の後半になって漸く事態が動き出します。

 12月25日になって、長州藩の海軍局が制作した新桜島条約を藩政府に提出したことで事態は急展開します。その内容は以下の様なものです。

・旗号は島津家のものを借用するが、ユニオン号は長州藩籍と認定。

・海軍総監の権限が絶対。

・社中は、薩州より御乗り込み士官。長州藩側の意向に従うこと。

・長州藩が使わない時は、薩摩藩が利用可能。(但し、費用は薩摩藩が賄う)

 つまり、桜島条約で長州藩が絶対飲めない項目を整理してこれなら妥協できる案にまとめたわけです。

 そして、新桜島条約で藩政トップ山田右衛門が直々に馬関に行って説得したことで、ユニオン号をとりあえず長崎に回航することを条件に薩摩藩が妥協し社中も同意して長次郎さんも遂に折れました。


 1ケ月以上も揉めるとは誰も思わなかったでしょうね。それだけ長州藩は本気だったということです。四カ国戦争で海軍が壊滅状態でして、何としてでも旗艦が欲しかった。薩州名義貸しの負目があったが、漸く納得出来る形で乙丑丸をゲットできたのですから、さぞホッとしたことでしょう。

 長次郎さんの活躍は認めて最大限の評価を与え、又薩州、社中代表としてよく頑張ったと評価を落とすものではありませんでした。龍馬さんの説得があったと思いますが、決定打ではなかった。ということがわかりました。

 尚、新桜島条約には長次郎さんの名前はありません。旧条約の乗り組み士官の中にもありません。これは妙なことですが、予定されている英国留学のためなのかもしれません。前述しましたが、第二次薩摩スチューデント(慶応二年3月28日)に選ばれていたのかもしれません。長州藩からの英国留学の線は消えています。


 さて、上記の様なすったもんだの末に、長州藩はユニオン号改め乙丑丸と十分な武器・弾薬を得ることに成功し、後は訓練に励んで幕府軍に立ち向かうのです。

 しかし、長次郎さんは自刃してしまうのです。「坂本龍馬について-5」では、というか執筆の時点では慶応二年(1866年)1月14日、でしたが、長崎在番の薩摩藩士・野村盛秀の日記(1月23日条)には、「今晩八前、土州家前河内愛之助(沢村惣之丞)、多賀松太郎(高松太郎)、菅野覚兵衛入来、上杉宗次郎(近藤長次郎)へ同盟中不承知の儀これあり、自殺鶏致段申し届出候間、翌朝、御邸、伊地知貞馨、汾陽次郎右衛門その他へ申し届出候」とありますので、1月23日がその日だったと改めます。

 通説では、長州藩からの資金援助によって密かに英国留学する計画が社中の面々に露見したため、「何事も大小にかかわらず、はかりごとがあれば、社中のみんなで承認を得てから実行すべし。これに背くは切腹して謝罪せよ」という社中盟約に背いたと難詰された果ての自刃。とされています。

 私はこの話を全く信じていなかったので書いていませんでしたが、ここで書いておきます。

 長州藩は、長次郎さんに英国留学の資金援助などしていません。そもそも長次郎さんが英国留学の志があることは、長州藩士・伊藤博文でも知っていたのですから、それを今更社中の面々が知らなかったはずないと思います。  

 そもそも亀山社中がフィクションですから盟約なるものも存在していませんでした。社中で自刃した者は長次郎さんだけです。

 何事も合議して決めると民主制を掲げながら、違反すれば切腹ておかしいでしょ。優秀で薩長から高く評価され、英国留学を志す男が自刃しますか? 新選組の局中法度じゃあるまいし、無茶苦茶です。

 まぁ、こんな社中盟約など実際無かったのですから、この辺でやめときますがホント無茶苦茶です。あったとすれば局中法度以下ですわ。

 では、何故長次郎さんは社中の面々の前で自刃したのでしょうか? 私は自刃すらも疑っています。

 一番考えられるのが、桜島条約改め新桜島条約で、一番損をしたのは社中です。それでお金と将来の展望がきえてしまったという問題です。

「戦など年中やるもんじゃないき。それ以外はわしらぁがユニオン号を操って海運業で大金を稼ぐがじゃ」当時最先端の蒸気船を操舵できる貴重な能力を持っている社中の面々は、大いに期待していたことでしょう。

 でも、これはそもそもおこがましいのです。自分達は一銭も出さず、いや出せなかったのですが、それでユニオン号でこれだけ絡んでこれたのは、異才長次郎さんの尽力以外に無かったのです。長次郎さんも大いに頑張ったのですが、結局妥当なところに落ち着きました。

 それで社中の大きな期待は水泡に帰したのです。将来の金を稼ぐ術が無くなったのですから、その反動は長次郎さんに向けられたと思います。

 それにお金です。既に長次郎さんでさえ、ユニオン号をゲットする経費の為にグラバーさんから千両もの借金をしています。きっと社中の面々も、浮かれてあちこちで「ツケ」で派手に遊んで借金を抱えていたと予想されます。とかく彼らは、金銭感覚が乏しいのに遊び好きな傾向があると思います。そしてユニオン号購入で二千両の未払い金があったことです。

 長州藩はプライドにかけて全額払ったと思います。それがグラバーさんに届く前に誰か(伊藤・井上の可能性)がポケットに入れた可能性があるのですが、長次郎さんはそれを被った可能性があります。

 という事情があって、社中の面々は将来の希望を断たれ、その上借金問題を抱えて、相当厳しく長次郎さんを追い込んだのではないかと考えます。長次郎さんの自刃という衝撃によって借金問題は貸した方がみんな黙っちゃったのでしょうか、それ以降は問題になっていません。

 私は、近藤長次郎さんの写真を眺めています。袴姿で椅子に座って右斜めを睨む姿は緊張して真剣な様子が窺えます。顔立ちはハンサムであって、意志の強そうな感じがします。少し大刀が浮いている感がありますが、中々の人物であることが窺えます。薩長要路は龍馬さんよりも遥かに高く評価して期待されていただけにまったく残念ですね。

 「坂本龍馬について-5」でも該当部分は多くの文献を調べて情報を集めましたが長次郎さん自刃の真相までは迫ることは出来ませんでした。しかし、彼の死は薩長両藩要路に驚きと悲しみを与えました。

 龍馬さんの妻お龍さんは、「長次さん(近藤長次郎のこと)は全く一人で罪を引き受けて死んだので、己が居ったら殺しはせぬのぢゃった。と龍馬は残念がっておりました。」と談話を遺しています。

 又、龍馬さんも、「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(近藤さんの諱)身を亡ぼす所以なり」と遺しています。術数とは、「はかりごと」で、それが有り余ったのですから、頭の回転が速くて色々と策謀を巡らせることが多かった。しかし至誠が足りなかったというのですから、人に対して誠実さを欠いていたので、人望を得ることができなかった。それが身を亡ぼすことになってしまった。ということでしょう。

 優秀だが、頑冥、独断専行、実直に過ぎて誤解されるところがあったようです。又、社中の面々に難詰された時も、皆非情な鬼では無いのですから、日頃からの人望があれば、誰かが止めたのではないでしょうか。或いは長次郎さんが追い詰められて咄嗟にしてしまったのかもしれません。もしかしたら、誰かが斬って自刃にと証言したのかもしれません。

 当時は今の様な警察組織はありませんでした。それほど人々の自治能力が高かったのですね。少し羨ましさを感じますが・・・・・・。



 日本の幕末に歴史は、止まることを知らず流れて行きます。龍馬さんの活躍は、所謂「薩長同盟」に差し掛かります。

 「坂本龍馬について-5」でも該当部分は、実は同盟と呼べるほどのものではなかったことを指摘しています。

 前々から薩長トップの間では、互いに融和政策を進めていた背景があって、下関での西郷すっぽかし事件が無かったということで、木戸先生はそれ程西郷を嫌う理由は無くなりました。

 慶応二年(1866年)1月8日、長州藩用談・用所役・木戸孝允は、薩摩藩・黒田清隆に先導されて入京しました。薩摩藩要路にとっては唐突なもので、いささか対応に苦慮しました。勿論そのようなことは木戸先生には気付かれませんでした。ここからの展開は既に書いた通りですが、

「これから薩長同盟を締結しようじゃありませんか」という趣旨で会談が行われたわけではないのです。

 全体の流れは「坂本龍馬について-5」で説明済みなので割愛しますが、長州藩を代表してお供を連れて乗り込んできた木戸先生は、準藩邸御花畑に臨みました。

 薩摩藩としては、小松、西郷、諏訪、大久保、吉井、奈良原、桂久武が参加しています。

 薩摩藩は幕府には秘密裏に抗幕姿勢決めています。そして長州藩と手を組みたいと、龍馬さんや長次郎さんなどを使って名義貸しによって長州藩に武器弾薬と軍艦乙丑丸を手に入れる手助けをしました。

 その上で、近々に幕府から下される長州藩に対する処分を受け入れるように勧めるのです。それで長州再征を回避し、後は我ら薩摩が長州藩主の復権を嘆願するから。と提案しました。

 しかし木戸先生は、処分なら先の第一次長州征伐の処分(三家老と四参謀の切腹)で既に済んでいる。我ら(長州藩)はこれ以上の処分を受ける理由が無い。既に我らは武備恭順の藩是を決めておる。と断固として同意しませんでした。

 そればかりか、長州征伐阻止に向けた薩摩藩の周旋に満足せず、藩主父子が剥奪された官位の復旧、これ即ち長州藩の復権の周旋がされていないと不満をぶつけ、薩摩藩はそれに向けた周旋尽力をするように強硬に迫ったのです。

 ううわ。木戸先生は強気ですね~。長州藩は既に幕府10万と戦うことを決めて、腹を括っているからこその姿勢です。これに対して薩摩藩要路は困惑したのではないでしょうか。

「このままでは、長州は滅びてしまうぞ。そして次は我ら薩摩かもしれん。そもそも三家老と四参謀の切腹は、先の征伐の幕府解兵の条件でしかなか。

 長州はこの度の再征で何か処分を受くるべきじゃ。勿論長州が受け入れ入れることができる範囲の処分でなければならん。これこそが一番穏便にことを治める手じゃなかろうか」

 薩摩藩は幕府から距離を置いて、将来の戦に備える抗幕姿勢を決めています。そのためにも西国の雄藩である長州は連携相手としては最適なのです。しかし今、幕府との関係を悪化させてまで長州と手を結ぶ必要は全く無いのです。更に幕府は既に嘗ての武威・威光を失っていて、本音では長州再征を望んでいないことを見透かしていました。

 1月12日、小松、桂久武、西郷は、あくまでも木戸先生に幕府からの処分案を受けるよう迫るか、或いは拒否した場合は長州藩主の官位復権に周旋するのかを議論しましたが結論は出ません。翌日桂久武が木戸先生と面会し、再度議論することになりました。

 1月14日、桂久武は小松帯刀邸にて初めて木戸先生と対面し、小松を交えて時間をかけて国事について話し込みました。この結果、桂久武と小松帯刀は木戸先生の意向に沿うことを決定したのです。たった一人で薩摩藩要路の考えを変えちゃうんですから、木戸先生の政治力は凄いですね。

 つまり、木戸先生の主張は一貫してぶれないのです。我ら長州は幕府に逆らわず恭順すると言っている。ただしこれ以上の責めを負わせようとするならば、戦やむなしである。貴藩(薩摩)はもっと戦阻止に向けて周旋してもらいたいが、例え我らが戦に敗れて滅んだとしても、後は貴藩が新しい世を築いてくれるだろう。

 貴藩はこれまで我らの武備について色々と周旋してくれたことに感謝する。しかし、我が藩主の官位の復帰のための周旋がまだ不足しております。

 我が藩主の官位復帰がなってこそ、朝敵の汚名がそそがれるのである。これは幕府と戦をするしないに関わらないのである。

 幕府は今や異国の言うなりで、徳川家の存続と引き換えに日本の富がどんどん流出しているのである。これは具体的に金銀の換算率の不利でも明白である。このままでは我ら日本国に未来無く、異国に蹂躙されるままである。

 だから我らは朝敵の汚名を受けながら、日本の国のために幕府と戦うも辞さぬである。

 薩摩藩要路は、木戸先生の理路整然としたプレゼンに畏敬を抱き、長州が幕府の処分案拒否を黙認する決定し、そして長州藩主父子の官位復帰の周旋に動くことも決定したのです。

 1月18日、有名な「国事会談」が開かれましたが、結果は木戸先生の主張が長州藩の主張と認められ、上記のことが大筋で決まりました。

 いえ、ここが重要なのですが、これは後世言われる「薩長同盟」ほどの強いものではありません。内容はあくまでも薩摩藩が考えていた薩長融和の既定路線から逸脱するものではなく、長州藩のためにそれ程踏み込んだものではありません。それは「坂本龍馬について-5」で解説済みです。

 しかもこの段階では、文書にもなっていませんでした。木戸先生からすれば文書化、成文化したかったでしょうね。だって口約束レベルでは、後でもし幕府に追及されたら、どうとでもはぐらかされるかもしれないからです。それに、長州に帰って報告する際にも、長州代表は一人だけなので信憑性に乏しく、元々木戸先生上京に反対だった諸隊(奇兵隊)勢力から信用されないかもしれないからです。

 でも、木戸先生から成文化を要求することはできなかったのです。もし、言えば「我ら薩摩を信用できんとですか」と望まない空気になるのは必定だからです。薩摩藩としても、木戸先生に押し切られた格好なので成文化は抵抗があったのです。

 そんな思いが交錯しながら、木戸先生は長州へ帰ることになって1月20日に送別会が行われて、木戸先生は21日に出立したのです。


 そして、龍馬さんらが木戸先生を追いかけて引き留めにかかります。木戸先生はその説得に応じて戻り、所謂「薩長同盟」が締結されるのです。いや~ギリギリのところで龍馬さんが登場して、歴史のドラマを感じました。

 今の研究では、「同盟」と呼ぶには弱いもので、「盟約」が妥当ではないか。いやいや、「盟約」でしょうか。これは薩長要路が互いの意見を述べ合って理解を深めて成文化したものであって、「小松(帯刀)・木戸(孝允)の覚書」と位置付けるのが妥当ではないか。という意見があるようです。


 私も成文化したものを考察せずに、「龍馬伝」を観て薩長同盟成立だ。やったー! と思っていました。そこから、成文化された六条を考察すると、これが「同盟」と呼べるのか疑問が湧いて、「薩長盟約」説を採りました。


 そして今や単に「小松・木戸の覚書」説になっているのです。随分と格が下がった印象ですね。残念な気もしますが、私は賛成します。既にご存知かもしれませんが、その理由をこれから説明します。


① (長州が)戦いに入った時は、薩摩は速やかに兵二千余りを卒兵上京させ、又大阪へも千人ほどで京阪を固めること。


② 長州の旗色が良くなったら、ただちに朝廷側に働きかけて長州を支援し、講和成立に尽力すること。


③ 万一、長州の敗色が濃くなっても、半年や一年で壊滅はあり得ないので、その間に援護策を講ずること。


④ 幕府軍が関東へ引き上げたならば、ただちに朝廷に図って、長州の冤罪を取り除くことに努力すること。


⑤ 一橋、会津、桑名などが朝廷を利用し、薩摩の周旋を妨げる時は、すぐさま決戦に挑むこと。


⑥ 冤罪が晴れたうえは、薩長は誠意をもって皇国のために尽力し、天皇親政を実現すること。


 有名な六条を現代文に訳して番号をつけて説明します。

①は、薩摩兵についてです。薩摩藩は朝廷守護を藩是としているので、幕長戦争が勃発した場合、御所と守るために御所や大阪の治安を守るために三千余の兵を出すことは、可能なことだし幕府に対しても説明がつくので問題無い。

 これだけの兵が京阪上方に存在するとなると、幕府としてはガラ空きとなったところに薩摩兵が進軍して挙兵謀反を警戒しなければならないので、それなりの幕府軍を配置しなければならないので、そうなれば長州へ向かう兵がそれだけ減ることになり有利だと考えているのです。

 ②③④は、幕長戦争で長州藩が勝った場合、負けた場合、戦争にならず幕府軍が江戸へ引き上げる場合分けをして、長州藩の復権に向けて薩摩藩が周旋する約束です。これは薩摩ではよく行われている郷中教育です。

 これは、地元の若者達の教育するシステムで、先輩が後輩に教えて導くものです。どのような状況になっても、あらかじめ場合分けしておいてやることを決めておけば、いざという時に慌ててしまって機を逃すことがないようにするための知恵ですね。これでこの六条の内容が薩摩人が加わっていることがわかります。

 これまでも薩摩藩は長州藩への寛大な処分を幕府側に唱えており、それ程の負担ではないのです。

 ⑤は、なかなか威勢の良いことですが、一会桑勢力に決戦を挑むのは長州藩なので、薩摩藩の負担はありません。

 ⑥は、長州藩が復権した暁は両藩が一致協力して皇国のために尽力することが謳われています。高次元の目標ですが、それだけに具体的に何をするのかはっきりしません。皇国とは王政復古を仄めかしているのですがそこまでなので、条文の最後の締めくくりのようなもので、薩摩藩が反対する理由はないし、負担も無いのです。

 というわけで、見直してみると、中身は薩摩藩が驚くべき内容ではないし、大きな負担を強いられるものでもなかったので、それほどのものではありませんでした。

 私は、この六条が成文化されたことに大きな意義があったと思います。更に坂本龍馬さんが、裏に朱書きを入れて証人になってくれたことで、説得力が大きなものになったことが画期的であったと思います。

 あっ、勿論長州藩の中だけですよ。現実に木戸さんはこの六条を長州に持ち帰って「薩摩が後盾になってくれた」と堂々宣言し、長州藩の士気が上がって権力基盤を盤石にしたのです。

 更に言えば、木戸先生はこの歴史的事実の前に、龍馬さんに「半日も早く京都に来てあって下さい」と手紙でお願いしているのです。

 慶応元年(1865年)12月29日、龍馬さんは長州藩士・印藤聿(いんどうのぶる)に書簡を発しています。その内容は、

「山口より木圭(木へんに圭、つまり桂さん=木戸孝允)よりも長々敷手紙参、半日も早く上京を促され候。然れどもこの度の上京は私一人の外に、当時船(ユニオン号)の乗り組み一人くらいの事。なるべく誰か(調布藩士)を京にお出しになれば、甚だ都合がよろしかるべし」というものです。

 もう少し説明すると、「木戸先生から長文の手紙が届いて、(その内容は不明ですが、当然長州の状況と薩摩の状況を論じて近々上京して薩摩要路と今後の時勢について語り合うつもりであることが書かれていたと考えられます。)更に龍馬さんも半日でも早く(当時は時計はありませんし、24時間制でもありませんでした。そして移動手段といえば、徒歩・馬・籠・船くらいのもので、それで半日も早くというのは”大至急”という意味合いがあります)上京して私(木戸)に会って欲しい。(勿論龍馬さんはそれに応じる考えです)

 というのが一つ。もう一つは、上京の際には例のユニオン号で揉め事が起こっているので、その説明役に乗り組み員を一人を同行させます。この時点で誰か未決定。それと調布(長州藩の支藩)藩士の誰か京都まで派遣して欲しい}と依頼しているのです。

 これにより、前者は新宮馬之助、後者は三吉慎蔵に決定しています。その理由は、新宮馬之助にユニオン号事件の説明を薩長要路にさせるためです。三吉慎蔵については、これから世話になる長府藩に薩長融和の動向顛末を的確に検分してもらうためです。龍馬さんは特に調布藩士ならば三吉さんでなくても良かったのは明らかです。

 この頃の龍馬さんの任務は、幕府から使節として長州に派遣された大目付・永井尚志ながいなおむねらの動向に関する情報収集と探索です。状況としては、長州再征をするのしないので揉めている頃で、長州藩が兵を解くのならば、幕府としては再征をしないでもないみたいなふわっとした感じでして、永井尚志使節団が直々に長州藩の担当に尋問するという、実際に戦になるのかならないか緊迫した頃でした。

 龍馬さんは同書簡で、

 「山口の方へは薩州人黒田清隆と申す人参り居り候故、この人ともに桂氏(木戸先生)は先日上京と承り候。その桂氏に諸隊(奇兵隊)の者人物と呼ばれ候人を七~八名も同行致せしよし申し来たり候」

 と記していて、木戸先生が黒田清隆と共に既に京都に向けて先発しており、その際に諸隊から七、八名の幹部を同行していることも伝えています。

 龍馬さんは木戸さんが京都入りしていることを既に知っていたことになります。

 「私(龍馬)の船は正月二日三日頃出しも仕るべきか、未だ不分明なり」

 と、年明け早々の二日か三日の出発となると述べています。更に長府藩からの人材選任を急ぐよう伝えています。


 慶応元年(1865年)11月24日に大阪を出発。26日に長州・上関に着、馬関到着は12月3日でした。遅れた理由はユニオン号事件に巻き込まれたためです。

 長州での仕事を終えた龍馬さんは、新宮馬之助と三吉慎蔵、そして旧友である池内蔵太いけくらたが加わって1月10日に馬関を出発して18日に大阪の薩摩藩邸に着いています。翌19日は伏見寺田屋に宿泊して、20日夜入京して21日は小松帯刀邸に移りました。

 この間の事情は、三吉慎蔵日記に残されています。漢文なので現代文に訳すと、

 「慶応二年(1866年)元日、私(三吉)は藩から京都探索のために坂本龍馬と同行することを命じられ、直ちに馬関に向かい、早速龍馬と対面を果たし、この時印藤氏より引き合わされた三名(黒田、池内、もう一人名無し)と事情懇談。(中略)10日に出帆す。風潮不順。同16日神戸に着。直ちに上陸す」

 です。これにより、龍馬さん一行は京都を目指して動いていたのは事実であると考えるべきです。ということは、これを読んで既におわかりと思いますが、木戸先生は、最初から龍馬さんを政治的に利用するつもりであったことは明白です。

 それにしても、ギリギリで間に合いましたね。木戸先生は薩摩要路の中で孤軍奮闘して軟化策を吹っ切り、1月18日の「国事会談」まで引っ張ったのですが、龍馬さんは現れませんでした。

 いよいよの21日に長州に帰る段になって、龍馬さんが現れたのですから、ドラマチックな運命を感じます。

 龍馬さんの出現によって、木戸先生は内心凄く救われただろうし、薩摩要路も「藩邸に、御戻りやんせ」と言い出しやすかったと思います。こうして一行は藩邸に戻って、木戸先生は、これまでに話し合ったことを六条にまとめ上げて成文化しました。そして龍馬さんがその裏に朱書きで証人となったのでした。

 勿論、薩摩要路は全員目を通して了承した結果で、龍馬さんの独断ではありません。そして木戸先生は、龍馬さんが{薩摩藩士}だと信じているから、これで長州に持ち帰って皆に見せれば、政治的にイニシアティブがとれて、士気も上がると確信したのです。だからこそ価値があるのです。

 なんだか、木戸先生の筋書き通りでめでたしめでたし。なのですが、実際龍馬さんはそれほどの立場ではありませんでしたね。

 坂本龍馬伝説では、龍馬さんが奔走した結果、犬猿の仲であった薩摩と長州が手を組んで「薩長同盟」成立ぜよ! となっているのですが、実際は会議に参加していませんでしたね。そして内容は「同盟」とは言えないのではないでしょうか?

 そんなことはない! 実際会議に参加していなくても、土壇場で木戸孝允を引き留めて六条にまとめて証人になったではないか! 確かにそうですが、18日の「国事会談」で六条のアウトラインが成立、21日に龍馬さんを証人として六条内容の確認、23日に成文化されて確定。という流れが自然な感じがしますね。

 龍馬さん一行が登場後、時間的にはわずか半日で六条が成立して承認になっているのですから、半日の時間でこれだけの内容の了解事項が異も無く成立したとは考えにくいです。

 私は木戸先生が龍馬さんの立場を勘違いしながらも政治的に利用することを画策し、龍馬さんがそれに応じて動いて、現実に薩摩と長州の六条の覚書の内容を証人となった事実が、後に薩摩藩の思惑を超えた歴史的成文になったことが大きいと思います。

 やはり龍馬さんの存在と働きは、当時の求められたところに位置して、必要な役割を果たした凄い人だと思います。


 この後、龍馬さんとお龍さん、三吉さんは伏見寺田屋で幕吏に襲われて手傷を負いながらも、薩摩藩に助けられます。世に言う「寺田屋事件」です。この一件は「坂本龍馬について-5」で説明済みなので、ここではその後知り得た情報を追記します。


 慶応二年(1866年)1月18日、大阪に到着した龍馬さん一行は薩摩藩邸の居留守役(幕府や他藩との連絡役)の木場伝内を訪ねました。

 木場伝内は、長州藩の処分をめぐって緊迫した状況であることを伝えます。すると龍馬さんはその晩に、三吉さんと一緒に幕臣・大久保忠寛の宿を訪ねて、幕府の動向を聞き出そうとしました。幾ら顔見知りとはいえ、大胆というか無茶です。

 しかし大久保忠寛は「坂本氏探索厳重の由、これに加え目今坂本氏上坂外に長州人同行にて入京の事相知れその沙汰に付き手配り致し候間、早々に退候方然るべき談有之」と内密に忠告しました。

 一番驚いたのは大久保忠寛でしょう。御尋ね者がのこのこやってきたのですから無理もありません。しかし大久保さんも龍馬さんのそんな人柄を知っていて、何も悪人ではないと思うからこそ、「お主(坂本龍馬)が大阪へ来て、長州人を伴って京に入ろうとしていることは、既に幕吏に知られている。もう指名手配されて探索は厳重だから、早々に立ち去られよ」と忠告したのです。

 それで龍馬さんはびっくりしたことでしょう。「ほんまかえ! 」と目を丸くした光景が浮かびます。本来ならばこの場で捕まってもおかしくないが、とりあえずは顔を伏せながら礼を言って薩摩藩邸に戻ります。

 そして、「いやいや危なかったのう 」とか言いながら、龍馬さんは嘗て高杉さんから進呈された短銃を、池内蔵太は元込め銃を点検し、三吉さんは大阪寺町で手槍を調達しました。

 歴史学者の中では、当時の幕府は龍馬さんをそれほど警戒してなかったという方がいますが、本当にそうでしょうか。幕府が龍馬さんを警戒していた事実は他にもあります。

 龍馬さんが大阪入りする直前の慶応元年12月3日、老中・板倉勝清、小笠原長道が肥後藩京都留守居役・上田久兵衛らを大阪城に召し呼んで、「坂本龍馬潜匿之一条、薩人之謀略等密密下問」と、二人の老中(今で言えば大臣クラス)が肥後藩の上田久兵衛に対して、龍馬さんを名指しして潜伏先などの情報提供を求めています。

 これにより、幕府にとって龍馬さんは、薩長融和の仲介を取り持つ最も忌々しい人物の一人であると認識されていることは明白です。

 しかし龍馬さんはその自覚がありませんで、これは大変に危険なだと大久保忠寛から忠告されて、自分が警戒され捕縛対象になっていることを知ったのは事実でしょう。

 大久保から忠告された翌日の慶応二年(1866年)1月19日、龍馬さん一行は、川船に木場伝内から借り受けた薩摩藩の旗印を立てて淀川を下り、伏見寺田屋に入りました。薩摩の旗印を立てておけば、幕吏は手出しは出来ないので安心なのです。

 そして20日、龍馬さんは三吉さんを寺田屋に残して、池内と新宮を伴って密かに京都市中に入りました。当初は薩摩藩の二本松藩邸に逗留していましたが、風邪をひいて寝込んでしまいました。21日になって木戸先生と合流する為に小松帯刀邸に移動しました。

 これで、前述の所謂「薩長同盟」が成立して、龍馬さんが単身で寺田屋に戻ったのは23日でした。池内さんと新宮さんは予定通り「ユニオン号問題」対応するために別れたと考えられます。

 この間寺田屋の三吉さんは、幕府方の厳しい探索にあっていました。21日には、「新選組廻り番昼夜厳重に人別を改む、依って此の時は二階夜具入れ物置等に潜みその場を避る」、あの「新選組」の探索を受けたが、物置に隠れ潜んで難を逃れたのです。更に翌22日、当時禁裏御守衛総督である一橋慶喜が宇治に下向するため、伏見界隈の宿屋厳重に探索されて、寺田屋は薩摩藩士が一名(三吉さんと思われる)宿泊中と記録されています。結局不審な者はいないとなりましたが、三吉さん日記で、「益々寸暇も油断相ならず、依って用意の銃槍夜具中に手当致し覚悟す」と、益々瞬時も油断できないとして、夜具(布団)の中に銃槍を忍ばせて、襲われても対応する覚悟をした決めた。と遺していますから、到底嘘とは思えません。

 そして運命の23日。龍馬さんは一人で伏見に現れて、当面は京都に滞在するつもりで三吉さんを呼ぶために戻ったのです。探索が厳しい京都といっても薩摩藩邸の方がよほど安全だと考えたのでしょう。

 二人が離れたのは僅かに数日でしたが、二人にとっては本当に危険で濃密な日々であったことから、話すことは山ほどあったことでしょう。先ずはお互い無事に会えたことを喜びあったと思います。

 三吉さんは幕府の探索がマジで厳しく、ヒリヒリしたこと。龍馬さんは長府藩士の三吉さんにとって関心が高い、木戸先生のことや薩長融和が初めて成文化されて、このわしがその裏に朱書きして証人となったこと。「ともかく万事首尾良くことは運んじょうぜよ」と語れば、三吉さんはさぞ喜んだことでしょうね。

 勿論、寺田屋にはお龍さんもいて、愛する人が幕府から追われてとっても危険だけれども、お国にとっては大事なお仕事がうまくいった様子がわかって、無事に元気で戻って来たことは、それはそれは嬉しかったことでしょうね。

 命の危険を感じるスリルを乗り越えて龍馬さんと再会できた三吉さん。長州が絶体絶命の中で、木戸先生が薩摩藩要路の中で孤軍奮闘され、更に目の前の龍馬さんの活躍で頼みの綱の薩長融和が確かなものになって、希望の一光が見えて、大いに喜んだと思います。

 愛する龍馬さんの妻になったお龍さんは、平凡な夫婦生活どころか、厳しく幕吏から手配されて、いつ捕縛されやしないかとヒリッヒリの心配が尽きず、それでも果敢に国事に挑む夫を誇らしいと思っていたに違いありません。そんな愛する龍馬さんが又一仕事を終えて無事に帰って来たのですから、嬉しいやら愛おしいやらテンションはマックスだったことでしょう。三吉さんを邪魔に思ったかもしれませんね。

 寺田屋の女将・お登勢さんもさぞや喜んだと思います。

 こんな時ってあっという間に過ぎてしまうものです。そして日付が変わって24日午前2時頃、あの「寺田屋事件」が勃発するのです。詳細は「坂本龍馬について-5」でまとめているので、参照下さい。




















 先日、「シン・ウルトラマン」を観てきました。日頃から YOUTUBE を観ているのですが、関連するものがよく出てきて観ていたら、子供向けじゃないから観たくなってね。行ってきましたよ。( ´∀` )

 個人的には面白かった。テレビ放送されたら又観るでしょうね。別にウルトラマンなんかどうでもいいです。細かい話なんてどうだっていいです。私はメフィラス星人に興味がありました。「郷に入っては郷に従え。私の好きな言葉です」久しぶりに笑わしてくれました。

 メフィラス星人は既に日本に溶け込んでいて、地球とか人類をどうするか。という重いテーマでウルトラマンと公園でブランコに乗りながら話し合います。すると治安部隊が駆けつけて取り囲まれます。二人は動じることも無く、「河岸を変えよう」とスーッと姿を消すのです。

 場面は飲み屋に変わって、二人はカウンターでの交渉になります。メフィラス星人はウルトラマンとは戦いたくないのです。でも地球が欲しいし、人間を巨大化させて生体兵器として使いたいのです。何とか彼を説得したいのですが、ウルトラマンは全力で阻止させて頂く。ときっぱり言って交渉は決裂しました。

 するとメフィラス星人は、あっさり諦めて財布を取り出して中身をちょっと見てから「割り勘でいいか。ウルトラマン」と伝えるのです。

 メフィラス星人は散々飲み食いして、ウルトラマンは終始無口でグラスにちょっと口つけただけなのに割り勘て、それに何も言わないウルトラマン。メフィラス星人の胡散臭さ。「割り勘。私の好きな言葉です」笑ったな~。別に公園の時のように、スーッと姿を消してもよいのに、これは新鮮で可笑しかったね。

 そしてメフィラス星人は日本政府に、人間を巨大化できる装置を供与します。デモンストレーションに女を巨大化させて見せつけから指パッチン( Finger Snapping )で元に戻します。日本政府はこれを手に入れてどうしようというのか? どうせ禄でもないことに使うに決まっているので、ウルトラマンはそれを実力で阻止します。

 ビジネススーツ(タイトスカート)の女をローアングルで録るとかセクハラ。ウルトラマンが女の体臭を嗅ぐのは気持ち悪いと訴える YOUTUBE を観ましたが、そういう人もいるんだね。何を感じ何を言おうと自由だけど。そんな人とは友人知人にはなりたくないね。面倒くさいです。

 何をやっても批判される御時世、作品のネタバレして捕まる御時世。嫌ですね~。私は映画なんて暇つぶしでしかありません。気に入れば何回だって観るし、音楽だって気に入れば何回でも飽きるまで聴きます。面倒くさいことは御免です。ましてや批判されたり、逮捕されるなんてとんでもないことです。

 もっとさ~、気楽に楽しもうよ。たかが娯楽映画じゃん。でしょ? 私には他に真剣に取り組んでいることがあるので、映画・音楽などは娯楽くらいしか捉えていません。気に入らなければ視聴しなきゃいいじゃない。私にもつまんない(と思った、感じた)映画・音楽作品ありますよ。でもそれを YOUTUBE にあげてまでして訴えようなんで思いませんね。そんな時は「ハズレだった」と忘れます。

 でも、気に入った作品なら訴えたい気になりますね。それはわかります。そんなに多くはありませんが、ここでも幾つか書きました。

 私も物書きを目指しているので、作品を批判するのにもエネルギーが必要であることはわかります。でもどうせエネルギーを使うのならば、気に入った作品を推したり、何かを創作するのに使いたいのです。

 今新作を書いているのですが、今度のテーマは、何をするにも時間とエネルギーが必要です。仕事として何か新しい作品を世に出すことができるクリエイターは極一部の人達です。大半はそれらを楽しんでいる方です。

 映画・音楽・ゲーム・演劇・スポーツ、エンターテインメントは多種多様ですが、それぞれ好きなものありますよね。それらは本当に楽しませてくれるし、人生を豊かにしてくれます。でも、ほどほどにしておきましょうよ。あまり度が過ぎて熱中すると、人生を占領されますよ。

 子供の頃、ゲームに熱中しすぎると親が注意してくれます。他にしなきゃならないことが沢山あることを親は知っているからです。だから言うことを聞いておきましょう。大人になると止めてくれる人はいなくなります。それで熱中しすぎると、身体を壊したり、偏執病になったり、時間をそれに使い過ぎて恋人や婚期を逃したりして、自分の人生なんだったんだ? となりますよ。

 私は何かを好きになったり、熱中するのは素晴らしいことだと思います。しかしそれを愛するあまり自分の時間(人生)が費やされて、自分本来の人生を謳歌することが失われてはいないだろうか。と次回作で読む人に問い掛けたいのです。

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