坂本龍馬について‐7
新年がスタートしてもうすぐ2月になろうとしています。日本国内は、新型コロナのオミクロン株が猛威をふるっていて、蔓延防止対策が広がっています。そして亜種であるBA-1、BA-2が発見されて、まったく予断を許さない状況です。
北朝鮮が又飛翔体を上げています。ロケットマン再びです。NEWSで見る金さんは、どうも人が変ったようですね。御当人は今どこでどうしているのでしょう。是非ともあのダミ声を聞かせて欲しいものです。
北京冬季オリンピック・パラリンピックが間近ですが、いまいち盛り上がりに欠けます。というのも新型コロナのオミクロン株問題、中国・台湾問題などがあるからです。日本は今のうちに有事に備えておきましょう。
ロシア・ウクライナ問題も平和的解決にはほど遠く、睨み合いが続いています。頭が良く優秀なはずの人々でも、今時戦争を始めるのでしょうか。
天変地異もやっぱりあるのでしょうね。まぁこれは人間がどうこうできませんが、それでも私は坂本龍馬について調べて分かったことをここに残しておきます。
非常に残念なことですが、ロシアが遂にウクライナに侵攻してしまいました。諸外国が、あれほどやめるように言ったのに、経済制裁しますよとあれほど警告したのに、プーチン大統領には届きませんでした。もう一週間以上になります。連日戦争の映像が流れていますが、テレビ塔やマンション、原発に砲撃した映像を見て絶句しています。まるでマンガや映画の映像のようですが現実です。
あれを見て、どう思いますか? 私はショックで暫くこれを書けませんでしたよ。でも思考停止がヤバいので書くことにします。
このロシア、ウクライナの問題だけでなく、上海問題やミャンマー問題もありますが、どれもこれも支持しません。後者のことは後に回します。
始まったものは仕方がないです。一日も早く停戦して欲しいです。プーチン大統領の発言を聞いていると、どうもおかしいです。(すみません。2万文字制限があるので詳しく書けないのがもどかしいです)
クリミア半島問題もそうですが、平気でウソをつきますよね。それでことが済んだ後でウソだったことを認める。そうしておいて平気な人物なのです。桁が違いますがオリンピックのドーピング問題もそうです。今回も双方の発表は大きく食い違っています。
この事実を捉えても、ロシアを到底信用できません。近々ロシアは経済制裁を被るでしょう。そうやってこれが又悪い方向に出るかもしれませんが、怖いのはロシアは有数の核兵器保有国だという事実です。まさかとは思いますが、これを使うなんてことはないよね。何とかロシア国内で有志が結束して立ち上り、プーチン大統領を止めて欲しいところです。
そして今度は、中国、台湾問題です。中国は今回の問題で、世界がどう動くのか学習して欲しいです。現代は軍事力で他国を制しても、経済が回らなくなってしまうのです。北京パラリンピックの最中ですが、どうか台湾に踏み込んでもらいたくないものです。
坂本龍馬についての新情報です。先日、坂本龍馬が歴史の教科書から消えるかもしれませんと書きましたが、存続が決定しました。その理由は、全国から存続の陳情が多かったからだそうです。
私個人としては、どちらでもかまいません。改めて彼の人気の高さを認識しました。でもね、日本中に広まってしまった、いわゆる坂本龍馬ヒーロー伝説の数々を信じてしまって、あんなに凄い人物をもう教科書に載せないなんて反対だと実際に声を上げた人々には本当に気の毒ですが、彼について真面目に調べた自分としては、「坂本龍馬が教科書から消えるのもやむなし」と判断せざるを得ないです。
その理由をこれから記していこうと思います。
私はこれまで、ネットや書店・図書館で彼について調べてそのキャラクターや行動を分析し、一次史料を優先して、これはウソ、実はこうと進めてきました。うまくいっていると思っていました、
それは甘かったのです。昔は司馬史観というのが本当にあって、歴史上の人物が、激動の時代に生き生きと活動する物語を多くの人々がそれに魅了されて広まった時代があったのです。(明治時代に汗血千里の駒・昭和時代に竜馬がゆく・平成時代に大河ドラマ龍馬伝などがありブームとなりました)
激動の幕末に、何の後ろ盾も無い一人の男が、幕府を倒し侍の世を終わらせて現代の民主社会を生んだと思ったら、面白いじゃないですか。痛快じゃないですか。凄いじゃないですか。格好良いじゃないですか。好きになった。憧れた。私もそれはとても良いことだと思います。
しかしそれを史実と信じ込んではいけないのです。何故か? 辻褄が合わないからです。
そこで、ここは一つ自分で調べてみようと思い立ったわけです。しかし図書館の本は古いので、司馬史観に染まった本が多数あって、その中から信じて良い史料を見つけ出すのに、自分で一次史料リストをつくって引用・出典を調べました。
それほど気をつけて組み立てても、ダメでしたね~。非常にショックでした。何故それに気がついたかというと、新しい龍馬本に出会えたからですよ。それも司馬史観に縛られず一次史料だけをまとめたものです。
町田明広著、集英社インターナショナル、2019年10月12日第一刷発行 「新説 坂本龍馬」 です。
重要なことをコンパクトにまとめておられるので、非常に難しいです。何度か読み返してやっと理解出来ました。幕末維新の知識があまりない方にはおすすめできません。しかし、知識がある方にとっては「なるほど」と納得の 一冊です。宣伝ではありませんが、私にとっては出会って良かった本です。
この、「坂本龍馬についてーX」シリーズを読み返してみると、時代背景や歴史的事件が非常に多く、龍馬さんの部分がとても少ないことに気付かされます。そうです、ペリー来航から始まり、長州の暴走、徳川幕府の御威光が崩壊し、長州と薩摩が朝廷を取り込み、武家政権の終焉の日本史の流れから見れば、坂本龍馬については、これくらいのものなのかな。と感じます。
そして、今まで知らなかった人物が数多く登場していることにも注目しています。龍馬さんがヒーローで、何もかんも全部彼が思いついて行動し、薩摩も長州、そして土佐もみんな巻き込んで日本を洗濯しちゃった。というミュージカル風にまとめて理解していると、本当に功があった人物が坂本龍馬に塗り替わっていたのです。
自分自身そうであったと思いましたので、この作品では、なるべくそういうザックリ感を正していこうと思います。
私が坂本龍馬について調べた歴史は、ざっと以下のところまできました。
・生い立ちから、不自由なく成長して脱藩して頭角を現す。
・勝さんの弟子となり、海軍創立を目指すも挫折。
・神戸海軍操練所開設・閉鎖に二度目の脱藩。
・薩摩藩の庇護の下で薩長盟約締結に活躍。
・第二次長州征討戦に参加して長州藩主・毛利敬親に褒められる。
・因縁が深い土佐藩と遂に和解。
これが坂本龍馬について-1~6です。そして、7では、改訂版としながら、その先へ進むとします。
物語はいよいよ大政奉還編なので、終盤にきています。
坂本龍馬について-生い立ち・家庭・家族【改訂版-1】
龍馬さんは天保六年(1835年)11月15日生まれとされているが、生まれ年は正しいが、月日については曖昧である。通説では、誕生日に殺害された。となっているが、これは月日が曖昧ならばいっそ亡くなった月日としよう。その方が劇的だからという後世の人の作為があった。
天保六年11月15日は、西暦に直すと1836年1月3日になるそうです。和暦と西暦では年末年始にずれが生じるそうです。
本家の才谷屋は成功を収めた地元では指折りの豪商でした。坂本家は分家の際に多額の財産を分与されて郷士株を買って四代目が龍馬たちの兄弟です。
龍馬さんは非常に裕福な家に生まれ何不自由なく育った。家族から愛されながらも厳しく教育されてきました。12歳の時に母・幸が亡くなってとても悲しんだそうですが、八平さんの後添えの伊予に躾けられた。
龍馬さんには四人の兄姉がおり、長兄・権平とは21歳、長女・千鶴とは19歳も年齢が離れており、次女・栄生没年不詳、三女・乙女は3歳年上でした。
こうした恵まれた環境は、龍馬さんの人格形成に良い方向に影響したとしています。具体的には、コミュ力、人脈形成力、リーダーシップです。
私は龍馬さんのファンでは無いので、生年月日は初めから興味ありませんでしたので、坂本家の家族関係なども割とさらりでした。後はヨーロッパおじさんこと猪三郎さんがあったので嬉しいです。
坂本龍馬について-剣術修業・江戸行き【改訂版-2】
嘉永元年(1848年)、龍馬さんは14歳で地元の日根野弁治道場に入門し、五年間熱心に稽古に打ち込んだ。
嘉永六年(1853年)3月、龍馬さん19歳で「小栗流和兵法事目録」を習得します。それからの私費江戸遊学です。土佐藩は剣術修業目的では許可が出ないので、佐久間象山塾で砲術修行、そして剣術修業は北辰一刀流開祖・千葉周作が弟、千葉定吉道場へ入門。定吉の息子・重太郎と、娘の佐那と懇意となります。
ですが、一年やそこらの修行で北辰一刀流免許皆伝は、ありませんから。
この間、ペリー来航という大事件が起こり、約3カ月間江戸湾防衛のために駆り出されています。
嘉永七年(1854年)閏7月、15カ月の江戸修行の実績を評価されて、日根野弁治から伝目録「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を授与されました。
この辺はあまりしくじっていませんが、龍馬さんの剣術の腕前について、現代の2017年10月に新情報がありました。
安政四年(1857年)3月1日、龍馬さんと桂小五郎が、鍛冶橋・土佐藩上屋敷で催された剣術大会で対戦。結果2対3で龍馬さんが負けたという記録史料が、群馬県立文書館に保管されている。そうです。
ファンのみなさん良かったですね。桂さんに勝ったというのは創作にしても、負けたにせよ、桂さんから二本取ったのは大したものです。そして、こんなに早い段階で既に二人が会っていたことが面白いですね。
千葉佐那の追加情報ですが、安政三年、佐那さん19歳の時、宇和島藩伊達家の姫の剣術師範として請われて、伊達屋敷へ通います。
そんな中、後に九代藩主となる伊達宗徳27歳との試合で勝ちました。宗徳の養父で当時の藩主・伊達宗城は、「佐那は二か所ある伊達家の江戸屋敷に出入りする女性の中で、その美貌は随一である」と評しています。その他「千葉の鬼小町」、「小千葉小町」と称されるほどの美人であったそうです。
龍馬さんは土佐に帰藩後、河田小龍さんを訪ねるのですが、この時弟子の近藤長次郎や長岡謙吉を紹介されています。このことを私はカットしていましたが、後に近藤長次郎さんが大化けしますので、嘉永七年の出会いを強調しておきます。
この後の歴史は大体しくじりは無いのですが補足として、尊王攘夷の攘夷には、「即時攘夷」と「未来攘夷」の二つがありました。前者は通商条約を否定し、即外国船砲撃などの攘夷を実行! で後者は、通商条約を容認し、将来、武備充実後に攘夷を実行。という考え方です。
他には「小攘夷」「大攘夷」がありますが、意味は大体同じです。即時攘夷で熱くなっている人、未来攘夷で冷静に準備する人々がごちゃ混ぜになってぶつかって対立しているのがこの時代です。
補足情報 戊午の密勅
安政5年(1858年)8月8日、戊午の密勅が下されました。幕府・諸藩には内密に、水戸藩だけに勅諚(孝明天皇の御言葉)が下賜されたのです。
内容は、政治の執行を幕府に任せる「大政委任」という国の仕組みを朝廷自ら否定するという、極めて意義深い事件。
朝廷は幕府が勅許無く通商条約(日米修好通商条約)に調印したことを強く批難したのです。
そして、御三家及び諸藩には幕府に協力して公武合体の実を挙げること、更に幕府には攘夷推進の幕政改革を成し遂げることを命令したのです。
これは、伝達方法も内容も幕府の面目を丸潰れにするものでした。
この密勅は水戸藩による朝廷工作によって下賜されており、井伊は将軍継嗣問題で対立していた前水戸藩主・徳川斉昭が黒幕と睨んで、罰するために徹底的な捜査を命令した。ここに「安政の大獄」が勃発した。
結局、斉昭の関与は証明できなかったものの、捜査範囲は広がり続け、未曽有の大弾圧事件に発展し処罰者は百人を超えました。
そんな中で、安政七年(3月18日に万延に改元)3月3日、桜田門外の変で井伊大老は横死し、幕府権威の失墜は深刻なものとなりました。
「安政の大獄」は非常に大きな影響がありました。その全てを記すことは出来ませんが、その後の「桜田門外の変」でまた多くの人々に影響を与えました。
土佐藩では、一橋派として井伊大老と対立していた藩主・山内容堂が、参政・吉田東洋の助言を入れて、井伊大老に対して先手を打つ形で隠居したのですが、江戸詰めで謹慎となりました。
しかし、「桜田門外の変」で井伊大老が斃れると万延元年(1860年)9月に謹慎が解除されました。
補足情報 父・八平さんが、安政二年(1855年)12月に亡くなりました。享年59。龍馬さんは21歳でしたが、数日間泣いて食事もとらなったと記録がありました。
補足情報 水戸藩・住谷寅之助と大胡聿蔵の件
安政の大獄の渦中に大老井伊への反撃を企み、同志を募るために各地を遊説していたのです。
水戸藩に下された「戊午の密勅」の実現への協力、徳川斉昭の処罰解除を求めるための遊説だったそうです。
11月18日、彼らは土佐立川関に到着したのですが、反幕府的な活動を行うにあたり、変名を用いていたために土佐に入れませんでした。(ダッサ)そこで、龍馬さんと奥宮猪惣次に書簡を認め(したため)、土佐藩入国の協力を要請したのです。
11月22日、龍馬さんの同志の甲藤馬太郎と川久保為助が出向きました。翌23日、龍馬さんは立川関に出向いて住谷らと面談して、藩内の事情を説明して参政・吉田東洋と重役・小南五郎右衛門の名前を挙げて協力を約束しました。
しかし、城下に戻った龍馬さんから住谷らへの連絡はありませんでした。
結局、龍馬さんの立場では住谷らの入国のための周旋などできるはずもなく、その場をしのいだわけです。同志の奥宮猪惣次から「入国は無理」と連絡したので、龍馬さんはそれをもって終了と捉えていたかもしれません。
住谷らは土佐入国は不可能と知ると、失意のまま宇和島藩へ向かったそうです。
それで住谷は龍馬さんを酷評する日記を記して、後世の我々に伝えているのです。詳しくは「坂本龍馬について-2」を参照下さい。
文久元年(1861年)8月、江戸で武市半平太を中心に土佐勤王党が結成されました。9月に龍馬さんも加わりました。これは長州藩・久坂玄瑞の影響が強かったので、即時攘夷派の土佐組織ですね。
しかし、龍馬さんは沢村惣之上と文久二年(1862年)3月24日、脱藩するのです。その理由については、「坂本龍馬について-2」で述べましたので参照下さい。その後の困窮状態は事実です。
困った龍馬さんは江戸に行きました。文久二年(1862年)8月のことです。江戸には懐かしい千葉重太郎さんや佐那さん達がいて、再会を喜び合ったことでしょう。これは大正解でしたね。
そして補足情報です。
文久二年(1862年)12月4日、彼は当時幕府の政事総裁職・松平春嶽に会いに、間埼哲馬・近藤長次郎と共に常盤橋の福井藩邸を訪れました。この日は残念ながら所用で会えず、明晩なら謁見に応じると約束を得たのです。
文久二年(1862年)12月5日、彼は間埼哲馬・近藤長次郎と共に松平春嶽に会うことができたのです。松平春嶽といえば、当時幕府の政事総裁職にあり、今で言えば日本国の首相です。そんな大人物と脱藩浪人が、何故会うことができたのか奇跡的なことです。
と「坂本龍馬について-3」で説明しましたが、実は奇跡ではありませんでした。間埼哲馬という人物が、土佐勤王党の双璧と呼ばれる人物だったのです。龍馬さんの一つ年上で、家は代々幡多郡間埼の庄屋さんで、同群江之村の大庄屋となり、その後に郷士となりました。幼いころから神童の誉高く、参政・吉田東洋に師事して才覚を現しました。
嘉永二年(1849年)、16歳で江戸遊学儒学者の安積艮斎に学び、抜群の学際から塾頭に抜擢されました。
嘉永五年に帰藩して高知城の北、江之村に居住して塾を始め、門下に中岡慎太郎、吉村寅太郎ら多くの俊才を輩出しました。その後徒士の身分となり、群の官吏や文武下等役などを歴任しました。
文久元年(1861年)間崎は再び江戸に戻り、安積の塾に再び通い、同門の幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)と親交を結んだ。この頃武市と意気投合して土佐勤王党に参加した。
彼の人的ネットワークは非常に広く、幕臣から水戸藩、薩摩藩、長州藩など広範囲に及びました。
間崎の下宿に、勝海舟、清河八郎、住谷寅之助、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、周布正之助、樺山三円、高崎正風、岩下方平などがわざわざ訪れています。
間崎はゴリゴリの攘夷主義者ではなく、開明思想も培っており海軍振興策も説いていたので、周囲に優秀な人物が集まっていたのでしょう。類は友を呼ぶといいますが、優秀な人物同士は方向が同じなら引き合うものです。
これだけ名を馳せた間崎哲馬ですから、江戸の福井藩の者が知らないはずはありません。もしかすると春嶽公も知っておられた可能性もあります。従って龍馬さんが会えたというより、間崎がいたことが謁見の可能性をグンと上げたのではないでしょうか。
そしてその場で話されたのは、摂海(大阪)防備の策です。春嶽公は「至極もっともな献策である」と賛同を示したそうです。
つい先日まで脱藩して放浪していた龍馬さんが、政事総裁・春嶽公を前にしていきなり献策したというのはやはり不自然です。ここは間埼さんが主に語って、と考えるとしっくりくるな~。むしろ間埼さんの方が龍馬さんと近藤さんを誘ったのではないでしょうか。
しかし! 同月9日、龍馬さんと近藤さんは再び春嶽公に謁見しております。この時、摂海防御の建白書を差し上げ、図面については11日に持参するとしています。
そして11日、近藤さんが図面を持参しましたが、春嶽公が取り込み中で面会出来ませんでした。15日条で、「近藤さんは、先日(11日)に来られたが会えず、忠を認めます。それにしても貧生の故、何となく金十両を勝麟太郎経由でお渡しした」とあります。
龍馬さんと近藤さんは、一念奮起して間崎さんから猛特訓を受けたはずです。
更に補足すると、春嶽公は間崎、近藤、龍馬さんだけと会っていたわけではありませんでした。
文久二年12月前半だけでも、
1日、高杉晋作から破約攘夷論について聞く。
6日、武市半平太とは、時間が無くお目見えのみ。
桂小五郎から、対馬藩や横井小楠のことを詳しく聞いている。
春嶽公は幕政のトップなのに時間の許す限り、身分に関係なく人に会っていたことがわかりました。(いい人だな~)
まとめます。これまで、脱藩浪人だった龍馬さんが政事総裁・松平春嶽公に謁見できたのは奇跡・謎・龍馬さん凄い! という通説だったのですが、龍馬さんというより間崎哲馬さんの俊英のおかげが強かったと思われます。
だって江戸入り前は、脱藩して後ろ盾を失いお金に困り知人からお金を借りて放浪していたのですから、それで江戸入りしていきなり春嶽公に謁見は無理があります。それよりも間埼さんは土佐の同郷で先輩ですから、「今度春嶽公にプレゼンする計画があるけんど、おまんら(龍馬さんと近藤さん)も来るかえ? 」くらいのノリだったと思います。
でも始めはノリでも、龍馬さんも近藤さんも間崎さんから指導を受けたはずです。でないと9日に二人で謁見できませんし、図面まで作成して11日に届けることもできません。まぁ、内容はともかく、春嶽公は懐の深い良いお方でしたので、「面白い輩」と好印象を持たれたのは間違いないと思います。やはり私は「凄いぞ龍馬!凄いぞ近藤さん! 」てなったと思います。
通説では近藤長次郎さんは、龍馬さんの下の秀才で活躍したという描き方をされていましたが、どうやら違うようです。近藤さんの活躍についてはおいおい解説します。
実は、龍馬さんと勝麟太郎先生がいつ出会ったのか不明のようです。勝先生は、俺を斬りに来た。なんて冗談を遺しているし、「海舟日記」での初登場は文久二年(1862年)12月29日条の「千葉重太郎来る。同時坂本龍馬子来る。京師の事を聞く」です。一方で12月11日条「当夜、門生門田為之助、近藤長次郎来る。興国の愚意を談ず」と突如門人として近藤さんらが登場しています。
そしてこの二日前の9日条に「此の夜、三輩来訪、形勢の議論あり」とあり、この三輩が、坂本龍馬、門田為之助、近藤長次郎だと推定されていて、12月9日説が有力です。
春嶽公も、勝への紹介状を書いて龍馬に渡した。と証言ありますが、それは明治になってからの話で時系列に乱れが生じているそうです。
数少ない客観的な一次史料は、龍馬さんの盟友平井収二郎の日記「隅山春秋」(文久三年1月七日条)には、「勝麟太郎、幕命を受けて、蒸気船に乗って摂津海に入り測量、砲台を設けんと欲し、而して謀略を作す、始め関東を発するに、同国生坂本龍馬、近藤長次郎従学したり」と遺っています。
又、「木原適処と神機隊の人々」によると、龍馬さんは文久二年10月初め頃に勝塾に入門したとあります。
木原適処は芸州(広島)藩士で、既に勝塾にいて龍馬さんの先輩にあたります。龍馬さんが入門する前から間埼さんを介して龍馬さんを知っていたのですが、入塾後は肝胆照らす仲となり、12月に木原が藩邸に居居を移す際には、龍馬から太刀を贈っているほどです。
その後、龍馬さんは慶応三年(1867年)に芸州の汽船・震天丸を借りますが、その実現に尽力したのが木原さんでした。これだけの関係を持つ
木原さんの証言は信憑性が高いと思われます。
勝麟太郎先生は坂本龍馬さんという人物に出逢って、見どころがあると思ったのでしょう。弟子にして海軍創設へ動き出します。先ずは神戸海軍操練所の立上げが決まりました。その前段階の勝塾の開設です。神戸海軍操練所が出来るまでの間、勝塾で生きて学ぶためにはお金が必要です。そこで、松平春嶽公から千両もの大金拝借に成功したのでした。これは凄いことです。
勝先生は下田にて土佐藩主・山内容堂を訪れて、龍馬さんらの脱藩罪の赦免を求めたところ。容堂公は腰扇に瓢箪を描くと、「歳酔三百六十回鯨海酔候」と認めて(したためて)、承諾の証拠として勝先生に下賜しました。これで晴れて自由の身となった龍馬さんらは勝先生に感謝し、勝塾で存分に働くことになるのです。
一方で、近藤長次郎さんも弟子となって土佐出身の仲間と同じ志を持って活動するのです。以前私は何も知らずに「龍馬さんと愉快な仲間たち」などと軽く龍馬さんを中心にまとめてしまいましたが、間違っていました。龍馬さんだけではなかったのです。
少なくとも近藤さんは、きちんと学問を修めた上で、日本の国の未来を真剣に考えて行動し、勝塾で同じ志士として活動しています。彼もまたこの後大活躍するのです。
さてこの時、軍艦奉行並の勝麟太郎先生は、何を考えていたのでしょうか?
勝先生も自分一人で日本のことを考えていたわけではありません。色々な人と語らい、様々な意見を交換して、取捨選択して自分の意見を持つのです。それは今でも変わらないのではないでしょうか。自分一人で組み立てた理論のなんと浅はかなこと。学識があればまだしも、それほどでもなければ大体が独りよがりで、抜けが多く、不十分なものです。
それがわかっておれば、他人の考えを聞いて考えて、更に自分の考えを述べる。意見が合えば賛同し、合わなければ反証を試みる。それで埒が開かなければ受け流す。ややもするとお互いが一つ高みに登った充実感を味わうことができるのです。
勝先生ほどのお方であれば、その辺は既に達人の域にあったと思います。それで色々な人と議論をしているのです。
勝先生が第一に考えていることは、日本を異国列強の侵略から守る! この一点です。その為にどうするか? これが大きな問題でした。
即時攘夷ではもうだめだ。未来攘夷でゆかねばならん。一刻も早く異国に対抗できる海軍創設は必定である。
これまで天皇や公家が上にいて、徳川幕府の統治下で諸藩が束ねられきたが、皆国という考え方が、藩ごとでばらばらなのだ。これでは人・金・物がばらばらだ。異国人のように、まず国という意識を持たなければ、あの清のように虫食い状態にされてしまう。
人はどうだ? 科学的知識を有した者が圧倒的に足らん。それに最先端の物づくりができる職人が全然足らん。金はどうだ? 諸藩で各々が持っていては大きな買い物ができん。物はどうだ? 食糧はともかく、最先端の蒸気船、武器・弾薬や色々な物が遅れをとっている。
そもそも、この問題を日本だけものと捉えるべきではないかもしれない。アジア諸国は異国に抵抗する者がいないではないか。それは異国の脅威に恐れをなして抵抗の気運を持たず、海軍を興さないからである。
これでは西欧諸国の帝国主義政策にはるかに及ばないのは必定。ならば日本からアジア諸国に広く同盟関係を持ちかけ、それぞれに海軍を勃興させて兵学を研究しなければ、西欧諸国の蹂躙を回避できない。まずは隣国朝鮮と、その後清国と同盟すべきである。という考えを持っていました。
異国人達は、自分の国の利益の為に活動している。幸いなことに金さえ払えば、軍艦だろうと武器だろうと知識や技術も売ってくれる。この機に異国に並ぶ力をつけなければならない。(勝先生は、軍艦などを自前で造る力をつけることはもっと先だと思っていたようです。しかし、ライバル小栗上野介はそこまで実現しようとしていました)
勝先生は幕臣でありながら、異国の脅威に対する幕府の対応に限界を感じつつ、それでも軍艦奉行並としての職責の中で、異国に立ち向かうための力として海軍創設・運営なのです。当然幕府・徳川の海軍、ではなく朝廷と幕府双方による挙国一致、つまり日本の国の海軍構想です。構想は更に発展して東アジア重視論・征韓論に至るのです。
文久三年(1863年)4月27日、長州藩・桂小五郎と対馬藩・大島 友之允に論じました。
対馬藩の財政危機の克服と長州藩の奉勅攘夷の実現が連動し。対馬藩を朝鮮進出の前線基地として征韓を実行するため、桂と大島が中心となって幕府に財政の援助と軍艦借与を求めている状況でした。
勝先生の意見は大いに賛同を得ることができました。これは征韓論として確立されて、この後多くの人々の運命と日本と朝鮮半島の国運に大きく影響するのです。
しかし、「アジア諸国と同盟を結ぶために先ずは朝鮮半島から~ 」ですが、言葉としては『同盟』ですが、実際はみんな、日本が上に立ってアジア諸国を傘下に置くことが前提で理解されておりまして、それって同盟でなくない? というものです。
それで朝鮮半島の人々に話を持ち掛けるのですから、当然断られて揉めるのです。彼らからすれば、中華思想の柵封体制という考えを持っておりまして、「清国が世界の中心で一番強くて偉い。我々(朝鮮人)は日本よりも清国に近いから兄であり、日本は弟ということになる。その弟が偉そうに何を言うか」という理屈なのです。
いや、これジョークではなく、本気で日本を下に見ていたそうです。現代人の私からしてもヘンテコに感じるのですが、日本だって「同盟」と言いながら実質傘下に入れと強引なので、まとまりません。
因みに、中華思想では、世界で一番強くて偉いから貢物をよこせばお前たちの存在を認めるぞ。てなもんで、宝石やら特産物、美しい女性などを捧げていたそうです。それで、「朝鮮」という本来の意味は、「貢物が少ない」という意味だそうです。
文久三年(1863年)5月15日、京都・二条城で、勝先生は幕閣の前で『征韓論』をプレゼンしたのですが、大激論となり、誰も賛同しなかったと「海舟日記」に記しています。でしょうね。
勝先生の構想はわかりました。それを実現するためには世論を動かさなければなりません。ここが彼の腕の見せ所です。
ここで重要な人物が浮上します。勿論突然降って湧いたわけではなく、この時代に生きた人物です。御存知の方は相当詳しいですね。その人物の名は、上級公家・姉小路公知です。
彼は安政五年(1858年)3月に、通商条約の勅許阻止のために、堂上八十八卿列参という抗議行動に参画し御所に押しかけた経緯があり、即時攘夷派の有力な公家です。
又、文久二年(1862年)8月の四奸二嬪排斥運動。10月の攘夷別勅使の派遣(姉小路は副使)に参画した、尊王攘夷運動の中核的存在でした。
同年12月に国事御用掛が設置されると任命されて、翌年2月には国事参事に転じ、この間国事の討議に加わる即時攘夷派の中心人物でした。
尚、堂上八十八卿列参は、延臣八十八卿列参事件ともいわれています。
四奸二嬪排斥運動は、四人の悪者と二人の女史を排斥したというほどの意味で、公武合体工作で和宮降嫁に尽力した公家らを、幕府に通じる悪者として排斥したものです。因みに四奸は、久我建通、岩倉具視、千草有文、富小路敬直、二嬪は、今城重子、堀河紀子です。
文久三年(1863年)4月21日、将軍・家茂は摂海巡見のため京都から大阪に下ったのですが、即時攘夷派はそれに乗じて家茂が江戸に戻ってしまうことを恐れました。そのため、朝廷から姉小路に沿海警備の巡見を命じて、家茂の動静を監視させることになりました。
同年同月23日、姉小路は長州、紀州、肥後(熊本)等の諸藩の即時攘夷派の志士120余人を率いて大阪へ下りました。この24日、家茂は勝先生の海軍創設の建言容れて直々に神戸海軍操練所設置を指示しています。詳しくは「坂本龍馬について-3」を参照下さい。
ここから補足情報です。
勝先生は、その実現の為には朝廷の理解も不可欠であり、たまたま大阪にいた朝廷内の実力者、姉小路公知に会ってプレゼンすることを決意しました。
お公家さんとはいえ、過激な即時攘夷派のリーダーです。容姿端麗で頭脳明晰、弁舌鋭く、貴賓もあると記録があります。うまくいくのかは博打のようなものです。結果は如何に? 頑張れ勝先生!
同年同月25日朝、勝先生は姉小路を訪問説得を試みました。
「摂海警衛之事を問はる。答云、海軍にあらざれば、本邦の警衛立ちがたし、云々。長談皆聞かる」(海舟日記)にあるように、摂海警衛の必要性や海軍の重要性を存分に説きました。
即時攘夷の考えに凝り固まっていた姉小路らにとって、それは正に青天の霹靂の内容でした。彼は大いに勝先生の説に耳を傾け、大いに理解を示したのです。
午後になり、姉小路は同志らと共に幕府軍艦・順動丸に乗り込んで兵庫に向かいました。勝先生は船の中でもプレゼンを続けました。当然激しい反発、鋭い質問や反論がありましたが、見事に説き伏せることに成功しました。
「嗚呼我が邦家の御為に此の説を主張するものの、殆ど七、八年、終に今日に至り、僅かに延処あるがごとし」(海舟日記)
「ああ、我が日本の為にほぼ7~8年にわたってこの説を主張していたが、芳しくなかったものの、本日姉小路らに説明したことで、実現しそうだ」
と思うところを書いています。嬉しかったでしょうね。又、姉小路も
「(即時)攘夷の非を悟りて是より、やや通商条約容認説に傾くに至る」
と心境の変化を残しています。重大な国事に関する考えを大きく変えることはなかなかできることではありませんが、必要とあらば、ぱっと変えるなんて凄いと思います。勿論、勝先生のプレゼンが素晴らしくて乗りやすさもあったのでしょう。
勝先生との出会いが、即時攘夷から未来攘夷への転換点だったに違いありません。さあ! これから未来攘夷に世論を動かして公武・海軍創設に乗り出していこう! 勝先生の夢は膨らみます。日本を欧米列強から守り、アジアの盟主となり、アジア諸国を守るのだ!
となるはずでした。
姉小路は巡見終了後、5月2日に帰京しました。その後の彼の活動は即時攘夷派の意に反し、未来攘夷派に傾いてゆきます。即位攘夷派のリーダー格の変節は、志士の驚きと動揺を招きます。そして同派の存続の危機につながるのです。
同年5月20日、朔平門外の変が起きました。何の変かって? 姉小路公知が暗殺されたのでした。犯人は勿論即時攘夷派の面々ですね。これには勝先生は大きなショックだったと思いますね。勿論勝先生も命を狙われていた事実もありました。
ここで、例の龍馬さんの手紙の「日本を今一度洗濯いたし~」の件の追加情報です。「坂本龍馬についてー3」で解説しましたが更に補足として、
これはあくまで乙女姉やんに宛てたもので、内容に関してはわざわざ口止めまでするほどのオアソビ、オフザケそのもの。なので、今現代の人々はあまり持ち上げて考えない方が良いと思います。
長州藩が孤軍奮闘して、アメリカ・フランスの報復攻撃大打撃を被ったことに非常に同情を寄せて、幕府は長州を傍観して、異人と通じて船の修理をしていると指摘していますが、こんな事実は全くありません。
そういう姦吏(幕閣)は戦して打ち殺し一掃しよう。というもので、幕府を倒して王政復古を実現しよう。などという大それたものではありません。
同年6月29日、龍馬さんは越前藩士・村田氏寿と談判し、「外国人を国外退去させて国内を鎮静すべきである」と主張しました。してその方法はというと、勝先生や大久保忠寛を説得して幕府から俗吏(悪い役人)を追放し、松平春嶽や山内容堂を上洛させて実行するのだ。というのです。
村田氏寿は内心「……そんな無茶苦茶な」と思いながらも、冷静に、長州藩の暴挙を指摘・批判して、龍馬さんの主張を大却下しています。
龍馬さんは勝先生の門人で未来攘夷志向でありながら、長州藩への同情するあまり即時攘夷的な主張をしたのでしょう。
まぁこれはこの場限りで終りまして、龍馬さんは越前藩の資金援助の謝礼として、騎兵銃1挺を持参して贈っています。
それから龍馬さんは土佐藩からの帰国命令に応じず、二度目の脱藩が確定しました。詳しくは、「坂本龍馬について-3」を参照下さい。この時土佐に帰っていれば、とんでもないことになっていたと思われるのは同じです。
そして元治元年(1964年)5月14日に、神戸海軍操練所開設を前提として、勝先生は、軍艦奉行並から軍艦奉行、更に作事奉行(建築行政の最高職)格に昇任しました。それで、大阪船手(大阪湾の警備、廻船の監査を行う幕府の役職)が廃止され、所属の船舶人員を操練所に付属させる命令が出ました。
いよいよ神戸海軍操練所がスタートし、29日に、関西在住の旗本・御家人の子弟、中国・四国・九州諸藩の諸家家来についても、操練所への入所・修行を許すとの沙汰が幕府寄り下されました。
しかしこの条件では、龍馬さんたちは脱藩浪士の身分のため、入所できません。幕府としては、公金で海軍士官を養成しようとしているのですから、怪しい人を入れるわけにいかないのはわかりますね。
近藤長次郎さんは、勝阿波守家来として入所しています。なので龍馬さんは、入所すら不可能でした。でも勝塾の塾頭として活躍したので、楽しくやっていたのは間違いないと思います。
夢と期待に胸を膨らませ、多くの若者がここで学び、訓練に励み、やがて海軍の一員として活躍を期待されていたのは本当です。しかし、僅か5カ月後の元治元年(1864年)10月22日、江戸へ帰れと命令され、11月2日に江戸に到着すると、10日後に軍艦奉行・作事奉行を罷免され、勝塾閉鎖を申し渡されたのです。操練所も一気に廃れてしまい、翌年慶応元年(1865年)3月18日、閉鎖となってしまいました。
さぞやお辛いことであったでしょうね。悔しかったことでしょうね。お察しします。自分の考えていることが認められて実現に動き出したところへ、新選組が池田屋を襲撃し、勝塾門弟二名が殺害されたのは不幸なことでしたが、彼らが不逞浪士と断定されたことが大きな問題となったのです。勿論それだけではないのでしょうが、申し開きのできない問題で勝先生は責任を問われた結果でした。
勝先生の失脚は、龍馬さん達を大いに絶望させました。海軍操練所閉鎖で帰るところがある人は良いけれど、彼らにはそれがないのです。彼らの今後について、「坂本龍馬についてー4」では、薩摩藩の御厄介になったことを書きましたが、これについて新情報があります。
勝先生が、龍馬さん達の面倒を薩摩藩の西郷さんに頼んだ。と書きましたが、追加情報があります。
実は、薩摩藩にも苦しい事情があったのです。
文久三年(1862年)7月2日、前年に起きた「生麦事件」後の賠償問題が拗れて(こじれて)、鹿児島の錦江湾で「薩英戦争」が勃発しました。このあたりは既に書きました。追加情報として、
薩摩藩側の被害は戦死者5名程度でしたが、英国艦隊の砲撃は凄まじく、鹿児島城の一部、集成館(洋式の近代産業の工場群)、鋳銭局(貨幣の鋳造工場。しれっと書いていますが、幕府に無断です)、民家約350戸、武家屋敷約1600戸が焼失しました。
更に、軍艦天佑丸、白鳳丸、青鷹丸が失われて、海軍は全滅状態です。
それだけならまだしも、文久三年(1863年)12月には、幕府から借用していた蒸気船が兵庫から長崎に向かう途中、豊前田ノ浦から長州藩によって砲撃されました。(即時攘夷決行中)逃走中に砲弾直撃は免れましたが火災が発生して、68人の乗組員中28名が海に飛び込んで溺死しました。(低体温症か)中には有能な士官、練達な機関士・ボイラー員が多数含まれており、藩の海軍力は壊滅的であったのです。
それではということで、元治元年(1864年)1月から安行丸(前年9月に購入)の運行を開始。同年中に、平運丸、胡蝶丸、翔鳳丸、乾行丸、豊瑞丸を長崎で購入しました。
でも、軍艦は買えば済みますが、深刻な乗組員不足を解消するにはほど遠い状態なのです。そんな時、神戸海軍操練所が御取り潰しで土佐藩の連中があぶれた。と勝先生から聞けば、正に天の助けだったのではないでしょうか。とはいえ、こちらの手の内は明かすことはなく、しょうがないなぁ的な体で彼らを引き受けたのでした。
更に興味深いのは、家老・小松帯刀のお抱えとして彼らを引き受け、坂本龍馬だけは別行動をとることになります。それは、人柄が明るく交渉上手で、長州藩に知り合いが多い点が見込まれて、我ら薩摩藩の言うままに政治的周旋活動を命じられたのです。
通説では、あくまでも龍馬さんが、薩摩藩の世話になりながらも自分で考えて活動して、薩摩と長州を結び付けたとされていたのですが、実は薩摩藩が初めから抗幕体制を採り、長州をパートナーとするつもりである。と龍馬さんに伝え、そうなる様に働いてくれと命じられたのでした。
勿論、龍馬さんはそれを断わることもできましたが、彼はよくよく考えて同意したのでした。従って以降の龍馬さんの活躍というのは、常に薩摩藩のの意向に従ったものになるのです。
私はしくじりました。龍馬さんが自分で考えて薩長を結び付けようと周旋していた,と考えていたのは間違いだったのです。よく考えれば、こちらの説の方が合理的ですね。
こう考えましょう。もしも薩摩藩が長州を敵視していれば、龍馬さんはその一員として、薩長融和の周旋活動をするわけですから当然邪魔な存在になります。
薩摩藩主・島津久光公の意に反していれば、龍馬さんは早々に殺害されていたことでしょう。薩摩藩はそういう非情な部分があるのです。
当時の時代の水面下では薩長融和運動が実際にあり、薩摩がそれを促進する考えと、龍馬さんという人物が合致していたからこそ、彼が生き生きと活躍できたのです。
これには、一次史料による根拠があります。
薩摩藩士・吉井友実は大久保利通を経由して、上海での貿易及び武器購入の実現を、藩主・島津久光に言上しました。(大久保宛書簡、文久三年(1963年)5月12日)
「この計画を実行する為に、海軍はここから発祥するだろうと注目される勝塾に属し、航海術に熟練している熟生を招集すること」と提案。
「本件は勝海舟に内談に及べば、勝はかねてからその意向を持ち、しかも、薩摩藩を敬慕しているので間違いなく同意するであろう」と読んでいました。
「兵庫から物産を積み込み、上海への航海を申し付け、大砲銃剣などを購入すればよく、五代友厚らがその実行を如何様にも画策できる」と断言しています。
「先ずは勝と交渉すること」を進言しました。これは神戸海軍操練所閉鎖後、塾生らの関係者を薩摩藩が召し抱える伏線です。
又、小松帯刀書簡(大久保利通宛11月26日)によると、
「神戸の勝塾にいた土佐藩脱藩浪士グループが外国船を借用して航海する計画があり坂本龍馬という人物が江戸に下って談判したところ、上首尾いった様子である」
「その船に乗り込もうとしている高松太郎(母が龍馬の姉・千鶴。龍馬と共に勝塾に入り航海術を学ぶ。海援隊では中堅幹部)などの脱藩浪士らは、国許からの帰藩命令に従い帰藩すれば殺されかねないとして、船に乗り込むまでの保護を求めてきた」と書かれていました。
小松帯刀は、「これを利用し、彼らをいずれ薩摩藩の海軍に役立てよう」と考え、その旨を西郷などとも相談の上、大阪屋敷に潜伏させています。
薩摩藩・大阪屋敷に潜伏したメンバーは、近藤長次郎、高松太郎、菅野覚兵衛、新宮馬之助、白峯駿馬、黒木小太郎、陸奥宗光、その他幕府士官と争って出奔した幕船・翔鶴丸の船舶器械取扱者や火炊水夫らと推測されています。通説よりも大勢です。このグループのリーダー格は、坂本龍馬と見て良いでしょう。
その後、龍馬さんによる外国船借用が不首尾となり、元治元年(1865年、4月七日に慶応に改元)2月1日、近藤らは安行丸で鹿児島に向かい、2月18日に大乗院坊中威光院を居所と定めました。
小松帯刀、西郷隆盛は4月22日に待京し、胡蝶丸で25日に大阪を発ち、5月1日に鹿児島に帰藩した際には、坂本龍馬さんが同行しています。
まあ、物語はどうあれ、一次史料では、薩摩は神戸海軍操練所閉鎖になって、土佐脱藩グループを取り込もうと画策しており、全体のリーダー格を坂本龍馬、そして脱藩浪士グループのリーダー格を近藤長次郎とみていまして、みんなもそう思っていたようです。
薩摩藩内で、久々に一同が再会できたことで、無事を喜び合い安堵したことでしょう。そして、龍馬だけ別行動をとることになるのです。
勝先生の失脚と神戸海軍操練所閉鎖によって、土佐グループは路頭に迷うと思われましたが、薩摩藩が丸抱えしてくれたので良かったのではないでしょうか。しかもリーダー格の龍馬さんが考えていることと薩摩藩の藩是が一致していることも良かったと思います。
これから龍馬さんは、薩長融和のための周旋活動をすることになり、先ずは長州藩の情勢を探索するために長州藩入りすることになります。今後龍馬さんが知り得た情報は、逐一手紙にして薩摩に報告する義務が生じます。
その連絡係は、なんとあの西郷吉之助さんです。龍馬さん発信の手紙や龍馬さんへの手紙は、長崎聞役の汾陽次郎右衛門が中継役となって転送していた様です。
当時は電話や無線などの通信インフラが無いので、手紙だけが情報伝達の手段でした。手紙はそれはそれは重要で、幕府や他藩に渡れば大変なことになります。まだ郵便システムは無いので、身内で内々に確実にやりとり出来る仕組みを確立させたのです。
ここで龍馬さんネタを御紹介します。龍馬さんが筆まめであることは有名ですが、私が見た龍馬さんの特番では、以下の様な説明がなされていました。
龍馬さんがなにやら手紙を書くと飛脚を使って送る。当時の飛脚便は大変に高価で、脱藩浪人の身分でどうして代金を払うことができたのか? そこで、龍馬さんには大きな後ろ盾がきっとあったはず。という論理を展開していました。たしかフリーメーソン説に誘導しようとしていたと思います。
手紙、飛脚、高価、脱藩浪人では無理、しかも乙女姉やんへのさほど重要でない内容に、フリーメーソンがお金を出してくれたと、、、何か変だと思ったのは私だけだったでしょうか?
しかし、薩摩藩が大きな後ろ盾になって龍馬さんをエージェントして雇い込み、探索して知り得た情報を手紙にして送り、薩摩藩からの指示も手紙によって汾陽経由でやりとりするシステムが出来ました。という説明であれば納得です。
龍馬さんは当時でも高度な情報伝達システムを手にしたのです。知恵の働く彼のことですから、「ついでじゃき、ええじゃいか」てなもんで、乙女姉やんや身内への手紙も転送したと思います。相手は薩摩藩士です。おそらくはみんな剣の腕が立ち、実直であったと思います。龍馬さんの御役目を理解して、手紙を転送していたと思います。龍馬さんが身内に書いた手紙とあれば、快く引き受けたと思います。ただ正直に土佐まで送るのではなく、そこは手紙ですから、土佐藩の物品を配送するところへ届ければ、あとは土佐藩士が実直に坂本家に送り届けたと考えられます。
さて、これから龍馬さんの活躍を一次史料を元に描きます。時期的には、土方楠座衛門が登場する。あの有名な、西郷さんのすっぽかし事件です。
既に「坂本龍馬について-5」でそれなりに追及したつもりでおりましたが、まだ甘かったです。おそらくこれが最終形で間違いないと思います。
「坂本龍馬について-5」では、慶応元年(1865年)4月5日、三条実美衛士・土方楠座衛門が京にいた龍馬さんを訪ねて、薩摩藩邸経由吉井幸輔邸で話をする史実を元に寸劇を描きました。
その内容は、土方さんが薩長融和論を龍馬さんに説いて、龍馬さんが同意するというものでした。薩摩藩の吉井さんはこれを奇説として受け止めるという立場です。その他、長州藩・高杉晋作の功山寺決起からのクーデターのダイジェストと、長州の三白があるから、お金があるのだ。という説の紹介。更に幕府(徳川)打倒の思いは古の関ヶ原の戦いで三分の一に大幅減封された恨みがあったことを御紹介しました。これが寸劇にした意図です。
ところが、既に薩摩藩は長州藩と融和する考えを既に持っており、土佐藩士グループを囲い込み、龍馬さんはその為に活動するエージェントとして雇われていたのです。
ここに三条卿・衛士と薩摩藩・吉井さんと龍馬さん、という立場の異なる三者が、薩長融和論で意見が合致していることを確認できたわけです。そういう意味で大きな意義があったのですね。
慶応元年(1865年)4月19日、幕府が長州再征伐を布告。
慶応元年(1865年)4月22又は25日、龍馬さんは西郷さんに従って薩摩に向かいます。
慶応元年(1865年)5月1日、薩摩に到着、西郷邸・小松帯刀邸に滞在します。
慶応元年(1865年)5月11日、盟友・武市半平太切腹。享年37。
慶応元年(1865年)5月16日、薩長融和に向けて付き添いの薩摩藩士・児玉直右衛門と薩摩を出立。同日、将軍が江戸を出立。閏5月22日に入京。
慶応元年(1865年)5月19日、熊本の横井小楠を訪ねる。長州藩の処遇について意見が割れる。
慶応元年(1865年)5月23日、大宰府入り、翌24日に三条実美ら五卿に謁見。これは長州藩に潜入する為の手引きしてもらう目的があります。当時は誰でも簡単に移動できるものはありませんでした。特に長州藩は幕府から再征伐の布告が出ておりピリピリ状態でした。下手をすればここで終わりです。無理に長州に乗り込んでも捕えられて人質にされるか処刑されても文句は言えないのです。
5月23日、長州藩・楫取素彦、及び長府藩士・時田少輔、熊野直助は、4月上旬に派遣されて来た五卿使者・中岡慎太郎への返礼という長州・長府各藩の命によって大宰府へ赴き、三条らに謁見していました。全くの偶然ですが、龍馬さんは楫取さんと再会するのです。
「坂本龍馬について-5」では初対面として書きましたが、新しい情報として、1年3か月前に長崎で会っておりました。勝先生が龍馬さんを連れて長崎出張していた時、元治元年(1864年)2月29日、長州藩士として楫取素彦さん(小田村文助)が、訪問したのです。
楫取さんは、長州藩の窮地を勝先生に救って欲しいと懇願し、勝先生はそれに応え、長州藩の情勢を在京の幕閣に知らせて「寛典処分」(寛大なる処分のこと)を申し立てました。
この時に龍馬さんとも知り合いになったのです。お互いに好印象を持っていたことで、大宰府での邂逅(思いがけなく出会うこと)は懐かしさも手伝って話はとんとん進むのです。
勝先生のことや海軍操練所のことも語ったでしょうが、今は薩摩藩から派遣されて長州藩との連携を目指している旨を語りました。
楫取さんが薩摩藩を恨んでいる長州藩士でなくて良かったですね。尤もそんな長州人が大宰府に派遣されるはずはありませんが。
当時楫取さんは藩ではまあまあの立場にあり、藩要路(藩政に深く関わる上級藩士のこと)が、藩の窮地を脱する為なら薩摩藩との連携もやむなし。と考えていることを知っていました。特に木戸孝允の意向をよく知っていたことから、「おお、それなら木戸先生と会うてみたらえかろう。長いこと行方知れずじゃったが、このほど藩政に復帰されたんじゃから、わしが紹介状を書いちゃろうか」とこともなげに龍馬さんに言いました。
「ほ、ほんまかえ! ぜひお頼みします! 」龍馬さんは飛び上がって話に乗ったと思われます。だって今の立場で長州の実力者と会談できるための工作は相当に難しいと予想されていたのに、一瞬で実現できるわけですから、本当に運が良いですね。
表向きでは「薩賊会肝」と忌み嫌いながらも、上級藩士となれば苦しい立場を現実的に分析して、やはり薩摩との連携が必要と見据えていたのです。
表立っては薩摩憎しとを言い、腹の底ではその逆を考えている。それではどうにもならずにジリ貧。やはり討幕を実現するためには、薩摩と連携が必須。
そして、目の前の楫取さんが、よりにもよって復帰されたばかりの木戸先生と親し気なことです。木戸先生は長いこと雫石で隠遁していて、劇的に藩政に復帰した経緯があり、この事実は龍馬さんは勿論、西郷さんも薩摩藩の誰も知らなかったのでした。
慶応元年(1865年)閏5月1日、五卿従者の土佐藩浪士・黒岩直方に先導されて、龍馬さんは下関入りを果たしました。
龍馬さんは商家・奈良屋の当主入江和作を訪ねています。入江は直ぐに時田少輔に知らせ、時田は直ぐに、目的は「大宰府で約束した木戸先生との面談だ」と理解して、翌2日に楫取さんに龍馬さんが下関入りを伝えました。
更に時田は楫取さんに「この機会に木戸は下関に来て、龍馬から薩摩藩の情勢を聞き出すべき」と付け加えています。
念押しに木戸先生に対しても龍馬の下関入りを知らせ、「旧知の龍馬と面談して、薩摩藩の事情を確認して欲しい。尚この事は楫取にも知らせてある」と伝えています。
これを受けた木戸さんは、3日に、龍馬と面談するために下関に行くことを明言。龍馬さんと下関で面談することと、必要ならば大宰府に出張できる『藩命』を獲得しました。
この迅速且つ入念な長州の動きは、事前に楫取さんから、龍馬さんは既に薩摩藩付けになっており、薩摩藩が長州藩との連携を志向していること、そして長州藩の情勢探索のために(下関に)やって来る。とわかった上でのものです。
長州藩の実情はもう大変な時期で、何とか藩是を一つにまとめて幕府に立ち向かわねばならないわけですから、木戸先生も決して暇ではありません。しかしそれを押しのけて最優先で龍馬さんと面談するのは、薩摩藩との連携の可能性を潰したくないからです。その相手が龍馬さんであれば話がしやすいと思ったことでしょう。又、同行している黒岩直方が三条実美卿の従者であることも考慮したのでしょうね。いやいや、出張一つでもこれだけの術数があるのは感心します。
先ずは龍馬から薩摩藩の情勢と意向を十分に確認して、間違いが無ければその足で大宰府に出向いて三条実美に謁見して、薩長融和の仲介を依頼しようと考えたのが理解できます。木戸先生はこの機会を捉えて、一気に薩摩藩と提携する可能性に賭けていました。
こうして5月6日、木戸先生と龍馬さんは面談を果たすのです。その内容は記録に残っていません。でも薩摩藩と長州藩の御互いの情勢を伝えたことでしょう。
最大の関心である、薩長提携の可能性については、6月18日頃、英国人が情報探索のために来関した際、通訳として同行した越前藩士・瓜生三寅が7月以降に木戸先生に会い、龍馬との対談について直接聞いた話の内容が肥後藩の探索書に記載されています。それによると、薩摩藩は自前の海軍を興す予定で、龍馬自身も関わっている。長州藩と薩摩藩の提携について、前向きの姿勢を示し、龍馬も同意した。そうです。
西郷さんの来関情報に踊らされて、大宰府出張は流れたものの、木戸先生と龍馬さんの面談は、薩長融和に前向きの姿勢を伝えたこと。それに薩摩藩の抗幕姿勢を確認できたので、当初の目的を達したと考えているようです。
薩摩藩要路からすれば、龍馬はもう木戸と面談して、長州藩の情勢を早速伝えてきた。しかも内容はこちらの望む結果に満足しているはずです。龍馬さんへの信頼も上り調子の評価だったと思います。「あんにせは使えもす」といったところでしょう。でも月々三両二分ぜよ。
さて次は、有名な「西郷さんすっぽかし事件」の改訂です。
慶応元年(1865年)5月16日、征夷大将軍・徳川家茂は長州再征のために江戸を進発し、京を目指しました。これで幕府が本気であることを示したのです。
長州は迎え撃つと腹を括ります。薩摩はとても神経を使うところです。京都の薩摩藩邸では、家老・島津伊勢を中心とする在京要路は大きな不安を抱いていました。やはり小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通がいないとどうして良いかわからないのです。
そこで4月30日の段階で、要路の一人・岩下方平が、自分達の手には負えないとして、大久保利通と西郷隆盛に至急の状況を要請していましたが、将軍進発を知るや追い込まれました。
同年5月24日、岩下らは大久保、西郷の上京を促すために帰藩する決断を下しました。情けないかもですが、それほど切羽詰まっていたのでしょう。その際に、土佐藩脱藩浪士・中岡慎太郎と衛士・土方楠座衛門を同伴することになりました。
中岡らが岩下らに、西郷が上京する途中に「西郷が馬関(下関)に立ち寄り、桂小五郎(木戸孝允)と面会致させ、篤と前途の見込みをつけて両藩同心協力をもって大いに尽力致したく」(回天実記二)と、西郷・木戸会談を提案したことが、「西郷さんすっぽかし事件」の契機となりました。
この提案は、4月30日に下関で中岡さんが木戸先生と会談した際に、薩長融和に対する木戸先生の反応がまんざらでもなかった事実が反映しているのです。中岡は既に薩摩藩の薩長融和の動向を熟知しており、木戸先生が長州藩政に復帰を大きな好機と捉えたのでしょう。
岩下ら要路は、この提案に賛同したようです。しかし帰藩の目的はあくまでも小松、西郷、大久保の上京を促すことであり、中岡の提案を実現させる権限はありませんでした。
土方楠座衛門は閏5月3日から下関に滞在し、6日に木戸先生と面談する機会を得た。彼も「西郷が10日前後に下関に立ち寄るので面談して、これまでの経緯を越えて国家のために薩長融和に尽力して欲しい」と主張しました。これに対する木戸先生の反応の記録はありませんが、7、8日を含めて連続して会談しているので、かなり乗り気であったと思います。
しかし、西郷が馬関に来るというのは土方の希望的観測に過ぎません。しかも、その期日が10日前後というのも彼の推断でした。なんでそんな大事なことを軽々に、しかも長州藩のリーダーにするんでしょうか。しかも乗ってきているじゃあありませんか。その場の勢いでつい言ってしまい引っ込みがつかなくなった感じですかね。
土方さんは、「これで薩長融和がようやくまとまり、自分の用は済んだ。五卿に報告する」と言い残して9日に大宰府帰ってしまいました。西郷来関の前にドロン。ということは、これは勘の鋭い木戸先生は気付いていたと思います。
閏5月5日に龍馬さんは土方と再会した時の書簡(渋谷彦助宛て)では、木戸先生が復帰による長州藩の変化を喜んでいるものの、西郷来関については一切触れていませんでした。こんな大事なことを龍馬さんが見逃すとは思えません。
蓑田新平・渋谷彦助書簡(西郷宛て閏5月14日)でも、来関について全く触れられていないのは不自然との指摘があります。
小松書簡(大久保宛て、閏5月15日)によると、「岩下が閏5月6日に帰藩し、将軍進発は間違いないとして、要人の上京を依頼してきたが、岩下の出発前に大久保が京都に到着していれば岩下が帰国する必要はなかった。
その後、岩下から島津久光に対して中央政局の情勢を詳細に言上したところ、尚検討すべしとの沙汰があった。大久保一人で十分であるが、一人よりは二人の方が大きな力になると判断したため、西郷も派遣する」と伝えています。
家老・小松帯刀から中央政局対して切迫した心情は全く感じられません。薩摩藩として西郷を下関に送るつもりがなかったことの証と理解できます。
最後に、西郷を下関で待っていてすっぽかされた木戸先生が大激怒した。というエピソードは、土方さんが明治に入ってからの後日談でしか確認できず、もう土方さんには、後世の人間はやられっぱなしですわ。
まとめると、西郷の京都派遣は、岩下らの報告を受けた久光の意向が反映された結果であり、通説にして広く知られた、大久保利通からの書簡による懇請に応えた。というものではありません。そもそもこの大久保書簡が未だに発見されていないということは、創作であったと考えるのが自然なのです。
通説では、慶応元年(1865年)閏5月18日、西郷が佐賀関(現大分県大分市)に到着した際、大久保から至急上京を求める書簡が届いたため、馬関に立ち寄っての木戸先生との会談をキャンセルした。
というは創作の可能性が高いです。
土方さんが木戸先生に薩長融和を説き、10日に西郷が来ると言ったのは事実。そして来なかったのは事実。なぜなら薩摩側ではそんな話は無いからです。
西郷さんは普通に京都に行きました。これに木戸先生大激怒はウソ。実際は信じていなかった。従って龍馬さん平謝りもありませんでした。
龍馬さんからの武器調達周旋の提案。ではなく、木戸先生からの依頼でした。要するに、「西郷すっぽかし事件」は無かったのです。
「坂本龍馬について-5」でも書きましたが、色々龍馬本を読むとこの「西郷すっぽかし事件」はもう毎回出てきました。
おそらく、土方さんのまことしやかな嘘に乗った木戸先生が面白い。中岡慎太郎と龍馬さんの糠喜びが面白い。からの土方さん去りいの西郷さん来ず。そして木戸先生大激怒に平謝りの龍馬さん。の流れがスムーズで喜怒哀楽がまとまっていて面白いからでしょう。
更に龍馬さんはこの大失態の穴埋めとして、薩摩藩名義で武器・弾薬や戦艦を購入し、長州に渡す周旋を提案するのです。木戸先生はこれで怒りの矛をおさめて、龍馬さんは薩摩藩に掛け合うのです。創作としては、非常に面白い流れですね。
これが本当に土方さんが薩摩藩に周旋して、西郷10日来関の確約を得てから木戸先生に薩長融和を説得していて、実際に来なかったとしたら、これはエライことです。薩長融和は遠のいていたかもしれません。事態の収拾には切腹者が出ていたことでしょう。
長州藩が異国から武器・弾薬購入を幕府から禁じられている背景を付け足します。
幕府は安政5年(1859年)の開港当初から、諸藩が武器を自由に購入することを許可していたが、文久三年(1863年)7月以降、届け出制にしています。
軍艦については、文久二年7月以降、諸藩の購入を許可しましたが、神奈川奉行、長崎奉行、函館奉行経由による注文制としました。
つまり、諸藩が武器・弾薬、軍艦を購入する時は、幕府の承認が常に必要だったのです。このような統制下では、朝敵となった長州藩は武器を調達しても承認が降りることはないのです。フランス公使・ロッシの発議もあって、武器調達は絶望的な状況でした。
何としても軍備を整えたい長州としては、苦肉の策として薩摩藩が武器を購入したことにして代金を長州が薩摩に支払って受け取る。という名義借り策を講じたのです。
木戸先生から伊藤俊輔(博文)へ龍馬さん、中岡慎太郎に依頼した記録があります。名義借りに成功した場合は、龍馬さんが下関に戻ると約束しています。
かくして龍馬さんと中岡さんは閏5月29日、下関から京へ出立したのです。伊藤さんは別の策として、上海や香港まで渡航して購入することも考えていました。何しろ長州は追い詰められているのですから、この二人に賭けることはできないのです。
これまでの通説では、「龍馬さんと中岡さんの京都行は、西郷さんから名義貸しの承諾を得るためで、そして成功した。凄いぞ龍馬! 」とされていました。
しかーし現実は、二人の京都行きは伊藤の依頼に関係なく、長州藩の情勢探索の結果を報告する義務があったからでした。ちゃん、ちゃん。
薩摩藩が長州に名義貸し・・・こういう高度な政治判断を下せるのは、藩主・島津久光か家老・小松帯刀しかいないのです。このことがもしも幕府に知れたら大変な騒ぎになりますから当然ですよね。
西郷さんは当時まだ大番頭格で役料高180石なので、とても手に負えません。龍馬さんから話を聞いたとしても、小松殿に相談するべき案件です。小松帯刀は京都にいなかったので、名義貸しの件はここで止まりです。
龍馬さんが次に長州藩に向かったのは9月下旬のことですから、結果として伊藤さんとの約束は反故にしています。以上の様に、長州が望む薩摩藩名義貸しの周旋には、龍馬さんは機能していませんでした。
それでは、長州藩はどうやって薩摩藩名義貸しを得たのでしょうか?
木戸先生は、軍艦や武器・弾薬を購入できない閉塞状態を打破するために、これまで内々に話を通していたこともあって、井上馨と伊藤博文を長崎に派遣し武器購入に尽力させていました。
もしも万策尽きて見込みが無いなら、上海や香港で買い付ける決断をし、藩政府には事後報告で済ませるつもりであった。龍馬さんの周旋状況がわからない段階で二人を派遣を決めたわけで、長州は一刻も早く武器が欲しいのである。
井上と伊藤は、たまたま京から来関していた三条実美の従士・楠本文吉を伴って、慶応元年(1865年)7月16日下関を出発、17日に大宰府に到着して土方楠座衛門を訪ね、薩摩藩士への紹介を依頼しました。
土方の計らいで翌18日には、薩摩藩士・篠崎彦十郎、渋谷彦助と会談。武器購入のために長崎に赴くために必要な薩摩藩の通行手形を依頼すると、長崎在番・市木六左衛門の紹介状まで入手することができました。
これで二人は薩摩藩の者として長崎入りすることができ、武器買い付けのための活動ができるわけです。さすがに薩摩藩士の同行は断られました。しかしながら、家老・小松帯刀が長崎に滞在中であり、名義借りについては面談して交渉するようにと伝えられました。非常にラッキーなことなので、二人はさぞや喜んだことでしょう。
薩摩藩士・篠崎、渋谷だけでなく、大宰府在番藩士を含めた皆は、非常に好意的に二人を迎えており、薩長融和に向けて大いに積極的であると肌で感じ取ることができたそうです。「この分では、軍艦購入も可能じゃね? 」という自信を深めたそうです。
慶応元年(1865年)7月19日、井上と伊藤は五卿に謁見した後、再び楠本を伴って長崎へ向かいました。21日に到着すると、早速市木六左衛門を訪ねて事情を話し、早くも家老・小松帯刀と会見を果たしました。通信手段もない中でたまたま薩摩藩のナンバー2と会見できたのですから、これはトンデモないラッキーなことです。運命を感じざるを得ませんね。
しかも、井上・伊藤は小松に対して、長州藩の窮状を説明し、何としても武器購入の必要性を説き、名義借りを願い出たところ、小松は思い他あっけなく了解したのです。
小松は、長州藩への支持は薩摩藩のためでもあり、幕府の嫌疑などは見向きせず、どのような尽力でもすると約束したのです。
私は一連の流れは偶然ではないと思います。きっと木戸先生は、内々に小松が長崎にいることを知っていて武器の調達に井上・伊藤を差し向けたと考えた方が自然だと思います。
伊藤は小松を「余程良き人物と褒め居り申候」(木戸孝允関係文書・1)と極めて高い信頼と評価を寄せています。
この7月21日の小松と井上・伊藤会談は、現実的な薩長融和に向けたスタート地点と位置付けられています。
伊藤・井上は長崎で武器商人のトーマス・グラバーと交渉して必要にして充分な武器を買い付けることができました。この二人は「長州5」のメンバー五人の内の二人で、英国に遊学に行っておりましたが、現地で長州藩が大変なことになっていることを知り、急遽帰国したという経緯があります。
だから英会話には問題無いのです。「長州5」についてはそれなりに有名な史実なので、ここでは割愛します。薩摩藩でも「薩摩スチューデント」と呼ばれる優秀な若者を英国に送り込んでいます。
私はこれにかけて土佐浪士グループを「土佐6」などと書きましたが、史実とは全然当てはまらないので忘れて下さい。余計なことをしました。
その後、井上は8月1日に小松と共に鹿児島に到着し、20日間にわたって滞在しました。この間、桂久武、大久保利通、伊地知貞馨など薩摩藩の要人と会見を繰り返し、これまでの隔たりを無くして、皇国(日本)のために薩長の連携が必要であるという意見で一致しました。長州藩士として初めて薩長融和に向けて活動したのは井上薫でした。
これらの史実により、坂本龍馬率いる「亀山社中」が周旋したおかげで、薩摩が長州に名義貸しに成功、武器弾薬、軍艦までもたらした。という通説が根拠がない創作であったことがわかります。
坂本龍馬伝説のおかげで史実がねじ曲がって理解されて、その陰に埋もれてしまった多くの史実とそれに関わった人々が沢山いたことを知って欲しいと思います。
長州藩の大村益次郎は、「小銃入手が薩長融和に向けたまたとない機会と捉え、一石二鳥です」と木戸先生に喜びを伝えています。
薩長融和に慎重だった広沢真臣も大きな期待を寄せ、木戸先生の周旋に謝意を伝えました。藩政府トップの山田宇右衛門も銃の到着を歓迎し、薩長融和が政治レベルにとどまらず、経済レベルでも促進することを期待しました。
長州藩主・毛利敬親、広封父子は、薩摩藩主・島津久光、茂久父子は9月8日に礼状」を送った。
「千万御気毒之処奉存候」と心情を吐露。「長州藩は幕府の外国との対応が不行き届きとなり、人心が動揺して朝威も衰退したと考え、朝廷のために尽力したが、何かにつけ齟齬も多く、忠誠心も貫徹できずに現在の状況に至って残念である」と嘆息。
「薩摩藩が勤王に殊更邁進する様子を家来井上からうかがい、この間のわだかまりは全て氷解して欽慕している(敬い慕っている)」と最大限の賛辞を贈っている。その上で、一層の厚誼を依頼し、詳細は近藤長次郎より聞き取って欲しいと懇請せいしました。
ここに至って近藤長次郎さんの名が出てくることは凄いことです。鹿児島で井上が受けた厚遇に対する礼状という形式をとりながらも、ユニオン号購入を依頼した近藤長次郎に手紙を託すことで、更なる斡旋を期待しているのです。
又、長州藩内で9月9日に「他国船入港の取締りを厳重にする沙汰を出しているが、薩摩藩とは取り決めができたので、薩摩藩所有の軍艦、商船が入港した際は万事手厚く取り扱い、薪水その他、欠乏品購入の希望があった場合は速やかに売り渡すように」と達しが出されました。
このように長州藩からも関係改善を持ちかけており、薩長両藩のトップレベルが融和推進を企図していたことは間違いありません。
坂本龍馬について-7 では、大幅に修正を行いました。自分では司馬史観には注意していたのですが、修正できてよかったです。しかし、修正はまだ終わっていません。文字数が増えて読みにくくなったので、8に進むことにします。今後も新史料が発見されれば又修正するつもりです。
まさか、勝先生失脚で宙に浮いた土佐浪人衆を薩摩藩が丸抱えし、龍馬さんだけ別行動で薩長融和のために働けと言われていたとは思いませんでしたね。次回8では近藤長次郎さんが大きな働きを御紹介です。
2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻して、2カ月になろうとしています。ウクライナが善戦してロシアが停滞しているようですが、これからも続くでしょう。私などがプーチン大統領をいくら非難したところで事態は変わりません。街があんなに破壊されたら、ウクライナの人々の悲痛を思うと胸が痛くなります。両者はもう引くに引けない状態です。ロシアは1日も退いてくれませんかね。しかしこの先の予想は文字にしたくありません。
日本の新型コロナは相変わらずですね。感染者が増えたところで強毒変異しなければこのまま凌ごうとしています。うまくいけばいいのですが。
色々と問題がありますが、桜は咲いて散り、気持ちを和ませてくれました。元気出して行きましょう。これを読んでくれている方がいるのでしたら、何かコメントを残して下さい。辛くても頑張りましょう。




