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坂本龍馬について‐6

 坂本龍馬について調べていたら、短くまとめるつもりが第6弾になってしまいました。まぁ暇つぶしなのでね。

 さて、ここでは世相に関して日記の様に残しております。今日は2021年11月11日のゾロ目です。新型コロナの謎の収束。しかし世界は新型コロナと共存を選択。海底火山の噴火による軽石の大規模発生。ハロウィンに起きたバットマンの悪役ジョーカーに憧れた男の犯行がありました。この電車内での異常行動は、テロではなく幼稚なもので呆れるしかありません。やめてもらいたいですね。せっかく生きているのですから、もっと真剣に考えて欲しい。捕まった男もいつかわかる時が来るでしょう。

 昔通り魔事件が多発しましたが、これも世相を反映していると思います。毎日健康に生きているだけで大したものだと思います。

 眞子さまが結婚されて、小室眞子さんになられましたね。是非幸せになって欲しいと思います。色々取り沙汰されていますが、お二人の生活に多額の税金が注がれていることが原因だと思います。もはや一般人になったのですから、早く普通の生活を営んで欲しいものです。そうでないと、国民の注目はいつまでもやまないです。

 2021年11月になって、新型コロナのオミクロン株というのが広がって来ました。日本は近頃治まっていたのですが、世界から見ればちっとも治まっていなくて不思議だったので勝手に「自滅コピー」説で納得していました。オミクロンがこれからどう影響するのかわかりませんから、避けていきましょう。

 第6波を懸念しますが、来るでしょうね。年末年始も大人しくしていましょう。


 龍馬さんは幕府から要注意・危険人物どころか、捕吏二名を射殺して「御尋ね者」になってしまいました。又それを細かく手紙に書いて木戸さんや親戚一同に送ったのですから、おかしな人ですね~。悪いことをしたという自覚はゼロで、こうこうこういうふうに捕吏に襲われてこうこうで助かったよ。まったくお龍さんがいてくれたからこそだわ。と伝えているのですから、憎めない人柄が出ています。

 でも困ったことがあります。幕府方には伏せておきたい、薩長盟約(一般では薩長同盟とも言われていますが、私もその六条を読んでみると、”同盟”と呼べるほど強固なものを感じなかったので、薩長盟約で統一します)に関する文書が幕府側に押収されてしまったのです。

 これは薩長にとって本当にマズイのですが、龍馬さんが襲撃されて生還した事実が優先して、木戸さんはそれを責めず、心配したよ気をつけてねと返事を書いています。薩摩の方も目前で起きたことですから、そんなことは二の次になったのでしょう。例え叱責して責任を追及したとしても、龍馬さんはどうしようもないし、却ってそれで幕府の出方を窺うのも一手と考え、手間が省けたかもしれません。

 幕府は知っていながら、薩摩を追及しないところが興味深いです。すれば何と答えるのか怖いのでしょう。

 それともう一つ、龍馬さんの命を守った短銃が幕府側に渡ってしまったことです。当時は数が少なく高価だったと思うのですが、それを高杉さんはよくぞ気前よくあげたものだと思います。鋭い観察眼で龍馬さんを見て、高く評価するものの、脇が甘く何の後ろ盾もないのは危ないと見抜いたのでしょう。それが1月のことで、それが運命的なタイミングで大活躍したのです。さすがです。

 おかげで龍馬さんは命拾いしましたが、今は丸腰です。新しく買おうにもそんな大金はありません。でも、心配御無用! 今度は薩摩藩が龍馬さんに別の短銃を渡した記録があるのです。そしてなんとお龍さんにも渡したそうです。しかも女性でも扱いやすい小口径(おそらく22口径)です。後ろ盾の方も、薩長がついてきたとみて良いでしょう。これで龍馬さんはもっと活発に活動できるようになるのです。

 龍馬さんは寺田屋受難の後、襲撃の黒幕について思いをめぐらします。

 「この伏見への捕り手(捕吏)の来たりしを詮議するに、大阪町奉行は松平大隅守まつだいらおおすみのかみと云いて、同志の様に度々話など致し、面会時々したるに、この度は大阪より申し来たりとの事、合点ゆかず尚聞き合わすに、果たして町奉行は気の毒がり居りよし。

 この大阪より申し来たりしは、幕府大目付某が伏見奉行所へ申し来たるには、坂本龍馬なる者は、決して盗み騙りは致さぬ者なれども、この者がありては徳川家の御為にならぬと申して、是非殺す様との事のよし。この故は幕府の敵たる長州の間に往来して居るとの事なり 」

 どうも龍馬さんが奔走した薩長盟約成立のことが、幕府の知るところとなり、京都守護職の松平容保が龍馬が市中から離れるのを待っていたのではなかろうか。伏見に出たことで伏見奉行に探索を行なわせて急襲、討ち取りを命じた。ところが大阪町奉行が龍馬さんと面識があり、少し庇うことを伏見奉行所の者に伝えたが、幕府から暗殺せよとの命令が出ていると断られてしまう。

 「その事を聞きたる薩摩屋敷の小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)なども皆、大笑いにて、かえりて私が幕府のあわて者に出逢いてはからぬ幸いと申し合い候。この時嬉しきは、西郷吉之助(薩州政府第一の人、当時国中に而して鬼神と云われる人なり)…… 」

 小松さんと西郷さんは、龍馬さん一人が国家をひっくり返す実力者と見ている幕府をからかい、面白がって大笑いになったのでしょう。

 それにしても、西郷さんは当時、藩内では鬼神とまで崇められていたことがわかります。

 西郷さんは龍馬さんが襲われたと知るや、自ら駆けつけようとしたところ、吉井幸輔さんがそれをとどめて一小隊(六十人程)を引き連れて救出に向かったそうです。

 これは幕府を徴発する行為でしたが、幕府というより伏見奉行所は手が出せませんでした。

 これは龍馬さん嬉しいですよ。誇らしいですよ。龍馬さんは遂にここまでの人物になった。というあらわれでしょうね。


 慶応二年(1866年)1月30日、薩摩藩士・吉井幸輔の護衛を受けて、三吉、お龍と共に京都の薩摩藩邸に移る。以後、西郷の宿舎で療養。

 さて、龍馬さんの傷の具合ですが、「かの指のきずは、浅手なれども動脈とやらにて、翌日も血が走り止まらず。三日ばかりも小用に参ると目眩めまい致し候」とあります。

 大出血だったようです。酷ければ命にかかわりました。お龍さんは気が気で無かったでしょう。勿論三吉さんも薩摩藩邸の皆が心配したことでしょう。私も経験がありますが、血がいっぱい出てしまうと、ひどく具合が悪いんですよ。まるで酷い船酔いの気分です。身体を動かそうにも力がうまくはいらず確かに目眩しますね。

 当時は造血剤など無いでしょうから、止血と消毒を怠らずにじっと養生していたと思います。やがて血が止まり、更に血色が良くなるともう一安心です。本人も皆も大喜びしたと思います。なんか良いですね~。


 慶応二年(1866年)2月中旬、中岡慎太郎が入京。この頃、中岡さんの仲人で龍馬さんとお龍さんは結婚。

 龍馬さんは元気を取り戻し、中岡さんともすっかり意気投合して、「おまん、そろそろ、どうぜよ」と促されての結婚ではないでしょうか。

 思い起こせば、夢と青春をかけた苦しくとも楽しい充実の神戸海軍操練所修行時代からの閉鎖。それに伴う勝先生との別れ。絶望と悲嘆。相次ぐ友の死。再びの脱藩の罪。

 ここからの大逆転ですから、波乱万丈の冒険の数々。お金はそんなに儲からないけど、それ以上の大活躍で薩長幕も認める歴史上の人物です。そんな龍馬さんとお龍さんに、漸くビッグなプレゼントが薩摩藩から贈られるのです。


 慶応二年(1866年)2月29日、小松さん、西郷さんの帰国に同行して京都を出立する。勿論お龍さん、中岡さん、三吉さんも同行です。

 同年3月6日、長州・馬関で中岡さん、三吉さんが下船。

 同年3月10日、薩摩に到着。お龍さんと二人で小松邸に入り、後に吉井邸に移る。これが有名な、日本初の新婚旅行といわれるものの始まりなのです。

 「京の警備がうるそうなってきて、坂本どんはもう市中に出られんこつなってしもうた。ほとぼりが冷めるまで京を出た方がよか」

 「そんなら、我らも帰郷すっで、坂本どん夫婦もお連れしたらよか」

 「おお、それは名案たい。ほんによかですか」

 「ああ、ええど。塩浸温泉にでも浸かって養生すれば、傷の治りも早かろう」

 薩摩藩にとって二人を客人としてお招きするなど造作もないこと、今回の働きはその値打ちがあるとふんだのです。活発なお龍さんは、きっと嬉しくって飛び上がって喜んだことでしょう。それを優しく受け止める笑顔の龍馬さん。似合いの夫婦をはたで見守る小松さんと西郷さんも嬉しくなったはずです。

 同年3月16日、龍馬さんとお龍さんの二人は、吉井さんの案内で浜之市(現・姶良郡隼人町)まで船で下り、日当山温泉に泊まる。

 同年3月17日、塩浸温泉に到着、負傷した両手の養生。龍馬さんはこの楽しい旅を絵入りで手紙にして家族に送って今に残っています。

 嘗て大隅の国にて和気清麻呂が庵をむすびし景勝の地「蔭見の滝」その滝の布は五十間(約90.91m)も落ちる。

 龍馬さんは余程感銘を受けたのか「実にこの世の外かと思われ候ほどの珍しき所なり」と称賛しています。しかしこの滝は「犬飼の滝」が正しいそうで、幅約22m、高さ約36mでした。但し、地元の方の発音では「いんけん」と聞こえるので、龍馬さんは聞いたままを書き記したようです。

 「ここに十日ばかりも泊まり遊び、谷川の流れにて魚を釣り、短銃を持ちて鳥を撃つなど、まことに面白かりし」とあります。随分とワイルドです。

 その後山深き道を進みて、28日には霧島温泉に泊まり、ここから山頂目指して登り始め、あの有名な「天の逆鉾」を一目見ようと、息を切らせ汗をかきかき、お龍の足では少しばかり厳しい様だったが、何とか登りきった。

 大河ドラマ「龍馬伝」では、この地は聖地であって女人禁制だったそうですが、お龍さんは男装で登ったエピソードが描かれています。本当かな?

 「馬のせこへまでよじ登り、ここで一休みして、又はるばると登り、遂にいただきに登り、かの天の逆鉾を見たり」

 二人は見ただけでなく引っこ抜いています。更に天狗の面をスケッチに残しているのです。

 「此の逆鉾は少し動かして見たればあまりにも両方へはなが高く候まま両人が両方よりはなおさえてエイヤと引き抜き候得ばわずか四五尺斗のものにて候間又又元の通りおさめたり」

 よくこの逆鉾を見れば、「これはたしかに天狗の面なり」と、やっとのことで腰を叩いて登り来れば、疲れも吹っ飛ぶようなユニークな天狗の顔つきに腹を抱えて「大いに二人が笑いたり」大はしゃぎする二人の顔が目に浮かぶようです。

 龍馬さんの手紙の原文(絵日記)を読むと、あくまでも二人で逆鉾を引き抜いたとわかりますが、別の本には、お龍さんが「(逆鉾を)抜いてみとうございます」と言ったという。何か確かな文献でもあるのでしょうか? どちらでもよいのですが、それなら手紙にあるように二人でやったことにすればいい。

 まぁ、本によってはお龍さんの提案に龍馬さんがのったというのもあります。勿論この件は二人だけでなく、田中吉兵衛という少年ガイドがいて、止めたのですが二人の勢いを止めることはできなかったようです。

 これを初めて読んだ時、「なんということを! 」と思ったのですが、多くは笑って許されたようです。あの二人じゃしょうがないね。という感じでしょうか。

 しかし、その後の二人の運命を辿ると、ロクなことになっていません。今更どうしようもありませんが、何とも余計なことをしたものだ。悪ノリが過ぎる。が私の率直な感想です。私は別に宗教や神話に拘りませんが、日本三奇の一つといわれる天の逆鉾にこのような所業は、単純に畏れを覚えるのです。もしですよ、この所業が無かったら、お二人の運命は又違っていたかもしれません。

 まぁ、今更これに言及しても仕方ありませんが、目に見えない筋書きがない数多あまたのドラマが現実世界の中で展開しているのですから、これが後のお二人の運命に影響を及ぼしたのではないかなと思った次第です。

 逆鉾引っこ抜きを思いついて、行動した結果を喜び、笑い、満足する。こういう二人は、世間での言動で、良くも悪くも様々な波紋を起こしますね。

 多くの人が賞賛する一方で、それが元で酷い目にあって恨む者も出てくるということです。龍馬さんの言うこと為すことは、大きな結果をもたらすことが多いので、それに喜び、満足、賞賛する人がいる一方で、反発、怒り、恨みを持つ人も出る。ということです。前者が薩長の人々、後者が伏見奉行所や幕府の皆さんと考えればわかりやすいでしょう。

 ちなみに手紙では四月と書いてありますが、これは暦の違いではないかと思います。さすがに月を間違えることはないと思うので、現在の暦では三月になります。

 さて、二人はもう薩摩藩にとっては客人です。ガイド付きの観光三昧に温泉に浸かって療養、そして御馳走三昧で栄養と栄気を養います。何の心配も要らず、龍馬さんとお龍さんにとって正に幸せの絶頂にいたと思います。この時に子供を授かっておれば、お龍さんの人生は大分違っていたでしょう。

 しかし、次第にお龍さんの御機嫌が次第に悪くなっていきます。それは龍馬さんが人気者過ぎて、夜のお誘いが引きも切らないからです。「のんかた」という酒宴に誘われれば、断るわけにはいかんのです。断れば具合が悪いのかと心配されるし、機嫌を損ねられても困るのです。

 勿論「のんかた」で酒ばかり飲んでゲラゲラ笑っているだけではありません。その席では、薩摩藩士が聞きたがる話が盛り沢山なのです。

 それは、薩摩と長州が創る新しい国家構想です。今まではみんな日本にいながらも、自分の国(藩)のことしか考えていなかったのです。幕府が国全体をまとめていたからそれで良かったのです。

 しかし、これからは異国が当たり前にやって来て、幕府を脅して富を持っていく時代。このままでは、いかんぜよ! さあ、どういたらええろう? なぁに、考え方を変えるだけでええ。天皇を中心としてみんなぁが日本という一つの国でまとまるぜよ。そうなったら、みんなぁで商売をして、異国と交易したら儲かる富も莫大なもんになるじゃろう。

 そしたら、大きな軍艦が買えるぜよ。そんで志のある者を鍛えて立派な兵に育てれば、強い海軍ができて日本全体を守ることができるぜよ。

 例えば年貢じゃ。今まで年貢は米じゃから、百姓しか取っちょらんかった。これを改めて、年貢をやめて税金制に変えるがじゃ。そうすりゃあ、商人からも漁師からも税金がとれるろう。これで国の富は倍じゃき。

 この時代、こんな話をする人はいませんでした。聞いた薩摩藩士はもれなく「おおお~! 」感嘆したことでしょう。所謂「富国強兵」です。勿論龍馬さんのオリジナルではありません。ただ彼はこの理論を自分のものにしているから、感心した藩士がどんな質問をしても、即座に答えることが出来ました。それから異国の民主主義の話など、薩摩人が聞いたらびっくりするようなことを幾らでも話してくれるのですから、モテないはずがありません。

 そして龍馬さんが聞きたがる話もあるのです。それは、薩摩が先代藩主・斉彬公から極秘で集成館で何をしゆうか? とか薩摩が独自に持ちゆう技術のことや、エゲレスと戦をした話などです。

 これは当たり前でとても重要なのですが、龍馬さんの語ることは薩摩藩としても容認できるものだということです。だから薩摩藩に存在できて疵を癒し、元気に時勢を語ることができ、藩士は聞く耳を持ってくれているのです。例えば、仮に薩摩藩士が龍馬さんと同じことを語ったとしても「おはん如きがなにを言うか」と失笑されるのがオチなのです。

 龍馬さんの様に薩摩藩以外の出身で、松平春嶽公の覚えめでたく、勝先生の愛弟子で、今は無き神戸海軍操練所で修行した彼だからこそ言葉に力があり、説得力があるのです。又彼独自の親しみやすいキャラクターも大いに功を奏したと思います。

 綺麗どころを侍らせて、粋な三味の音を聞きながら、旨い酒に肴をついばみ、そんな話をすれば、味も又格別ぜよ。それに飽いたら、湯に入る。上がれば綺麗どころが床を敷いて待っておる。新婚のお龍さんはこの朝帰りセットがどうにも気に入らないわけです。

 お龍さんは本気で龍馬さんの浮気を疑っていたそうです。いやいや、こりゃわしだけじゃないきに。みんなぁで「のんかた」やりゆうことじゃき。わしだけ断われんちや。ごめんちゃ~。と謝る龍馬さんも又面白いですが、お龍さんは本気で怒り、結局機嫌を直して日中はラブラブの繰り返しですわ。

 お龍さんの献身と温泉効能と十分な栄養とリラックスして楽しい静養のおかげをもって、寺田屋受難の疵は癒えたようです。

 「私は、これより少々かたわにはなりたりけども、一生の晴れにてこれあり候。疵は六十日ばかりで致しよく治りたり。

 左の大指は元の如し、人指は疵口よくつげて、ただ思う様に叶わと申すばかりにて、外見見苦しき事無し。左の大指のわた持ちを削がれしは、一番よく治りたり。右の高指の先の筋、少々疵つけども直様治りたり」

 こうして龍馬さんは元気を取り戻しました。そこで、小松さんや西郷さんなどから、さあ、これから何をするのかと問われて、とりあえず海運業をやりたいと答えます。海運業の可能性を説き、それで身を立てたいという思いを語ります。それにはどうしても船が必要だとも付け加えます。

 そこで、小松さんは龍馬さん率いる社中に船を与えることにするのです。それが、「ワイルウェフ号」です。実は、Wild Wave (ワイルド ウェーヴ)だったんですね。当時のプロイセンが建造した小型木造帆船をグラバーさんの仲介で薩摩藩がスポンサーとなって、念願の船をゲットしたのでした。

 社中のみんなとは、手紙のやりとりで連絡を取っていたと思います。龍馬さんの回復を喜ぶと同時に小型帆船とはいえ(贅沢言いなや)船ゲットに大喜びしたと思います。「やったで、凄いぞ龍馬! 」となったことでしょう。龍馬さんと仲間たちは、夢と希望に燃えたと思いますね。


 同年4月14日、開成館を参観し、海軍養成の必要性を説く。

 同年4月28日、桜島丸(ユニオン号)は蒸気船で馬力がありますからワイルウェフ号を曳航して長崎を出航し、薩摩に向かっていました。

 桜島丸には、西郷さん所望した兵糧米五百俵を積んでいました。が、途中暴風雨に遭遇。衝突防止のため曳航索を切断後に遭難。5月2日未明、長崎五島列島中通塩合崎沖で沈没しました。


 もう龍馬さんの生き様は、アップダウンが大きくてドラマチックな出来事が多いですね。寺田屋受難から立ち直って、船を購入してもらって、これからやるぜよ! という矢先にこれですからね。更に、池内蔵太ら12人が亡くなりました。みんな大切な社中の仲間たちです。これも大きな悲しみです。

 当時は通信技術など無いですから、桜島丸が薩摩に入港すればお待ちかねのワイルウェフ号に会えると思っていたと思います。ところが見えるのは桜島丸だけです。詳しい経緯は、ワイルウェフ号の生存者と桜島丸の船長から聞くまでわからなかったと思います。

 ショックだったでしょうね。悲しかったでしょうね。近藤さんとは別の形で可愛がっていた池内蔵太を失い、その悲しみは大きかったと思います。

 

 西郷さんは兵糧米の受け取りを辞退したそうです。仕方がないので龍馬さんは兵糧米を積んだまま馬関へ戻り木戸さんに説明すると、一度やったものを受け取るわけにはいかないと固辞しました。

 又対面を気にしすぎる悪い癖が出そうになったところに、龍馬さんの機転が効きます。「虚しく米を腐らせてしまうのは無益なことじゃ。もったいないないきに。そんならわしがもろうて、国に尽くす元手にしたいがどうじゃろう」それを聞いた木戸さんは、それはいいと快諾したそうです。

 龍馬さんが薩長の立場をよく理解した上の提案がうまくいき、「人のふんどしで相撲をとるとは、このことだ」と笑ったそうです。人と人との付き合いというものは、ちょっとしたことでうまくいったりいかなかったりするものです。気の利いた一言エスプリが多かったり足りなかったりで、その後の未来が変るのです。龍馬さんにはそれが出来た(上手)という良い例でしょうね。


 同年5月29日、龍馬さんは小松さんや西郷さんに別れを告げる。

 薩長盟約からの寺田屋受難、それから薩摩藩邸と薩摩での静養と全面的なサポートを受けて傷は回復。更にこれからに向けてワイルウェフ号まで購入してくれたのですから、感謝しかありません。

 しかしそのワイルウェフ号は沈没、池内蔵太をはじめとする大切な仲間たち12名を失ったショックというものは大きなものだったに違いありません。龍馬さんは立ち直って前に進むためにも、ここで最大限の御礼をして、一旦薩摩の庇護に区切りをつけたのでしょう。


 薩摩藩としてもそれを十分に理解を示して、社中に桜島丸の借与を許可します。それは、長州藩に味方して長州征討(第二次)へ加わることになります。それは、藩という後ろ盾の無い個人レベルで参戦という、おそらく前例の無いケースなのです。しかも相手は幕府連合軍10万(15万説も有り)で圧倒的に不利な状況なのです。

 龍馬さんは以前から、長州をこのまま見殺しにしてはいかん。と考えていたので、桜島丸に乗ることに同意するのです。龍馬さんは長州が圧倒的に不利なことを知らないのでしょうか? それなら悲劇だし、知っていたら頭おかしいでしょ。しかも手紙に「戦見物させて」などと書いています。

 「富国強兵」や「海軍創設」を構想するのはわかりますよ。だけどこの段階で、いきなり私設参戦は飛躍し過ぎでしょう。しかも圧倒的に不利な側に……。これまで彼の足跡を追っていて、ここでの参戦は突飛過ぎです。前兆が全くない。

・ワイルウェフ号が沈んだから?

・仲間が大勢亡くなったから?

・長州が好きだから?

・あの高杉さんに誘われたから?

・長州が圧倒的不利なの知ってる?

・あなた戦(海戦)経験無いでしょ?

・まさか自分らが加勢すれば勝てると思ってる?

 現代人、いえ私には、到底理解できません。この論理・思考・心理・行動パターンを納得できるように説明した本を探しています。


 幕府は薩摩藩を期待していましたが、正式に不参加を表明しました。が、それでも不利であることは変わりません。そこに社中が桜島丸で加勢しても、状況が好転するとはとても思えません。

 幕府は長州藩に対して、藩主自ら出頭して状況を説明せよ。という命令に応じません。出頭したのは名代。そして藩主親子の蟄居、石高10万石削封(30から20万石)に応じればよし。という提案をしましたが、これも無視されていよいよの開戦となります。


 同年6月2日、桜島丸で薩摩を出立。

 同年6月4日、長崎・小曾根乾堂邸にお龍さんを預ける。

 同年6月14日、長崎・中通島江ノ浜郷に赴き、ワイルウェフ号沈没と12人の受難者を慰霊する。遺体収容や積み荷の引き揚げ作業は入念に行われて、6月15日までに、船が123隻、人員875名が投入されたそうです。

 同年6月16日、長州海軍局は、桜島丸を乙丑丸と改名して正式に所属となり、龍馬さんと仲間たちは、海軍総督・高杉晋作の指揮下の加わる。とは言っても高杉さんとは旧知の仲なので、再会を喜び盃を交わしたことでしょう。


 幕府軍は瀬戸内海から侵攻する「大島口」(周防大島)に2万人、山陽道(安芸広島藩側)から侵攻する「芸州口」に5万人、関門海峡より侵攻する「小倉口」に5万人、山陰道(島根県・浜田藩)から侵攻する「石州口」に3万人を配備し、四方面から一気に攻め込む作戦をたて、長州征伐に乗り出します。作戦では、長州藩の本拠である萩を攻撃する「萩口」も入っていましたが、薩摩藩が参加を拒否したことにより萩口はなくなりました。

 これに対して長州藩は、大島口に5百人、芸州口に2千人、小倉口に1千人、石州口に1千人と、兵力では圧倒的不利な状況で迎え撃ちます。

 慶応2年(1866年)6月7日、遂に小倉口総督・小笠原長行が指揮する「長崎丸」から大島口へ砲撃されたことによって、第二次長州征伐が開戦。13日には芸州口、16日に石州口、17日に小倉口と、幕府軍対長州藩の戦いがそれぞれの場所で始まったのです。

 これを四境戦争(四境の役)と呼ばれています。


 【大島口の戦い】

 長州藩領である周防大島が戦場となりました。周防大島は、広島や四国の海から攻める際、本土を守る壁のような役割をする位置にあったことから、幕府軍はまずここを占領して、長州制圧の足掛かりにするつもりでした。

 長州藩においては、大島を占領されてもさほどの損害はないと判断し、大島在住の兵力5百人で防衛に当たります。


 幕府側は、松山藩、宇和島藩、徳島藩、今治藩が参戦するはずでしたが、財政難や幕府への不信感などから宇和島藩、徳島藩、今治藩の3藩は出兵せず、実際に兵を出したのは松山藩のみでした。

 しかし、幕府海軍の軍艦が大島の沿岸などに砲撃を加えた他、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩の兵が地元住民に乱暴狼藉を加えるなどの奇襲をかけたことにより、幕府軍が勝利します。

 大島口を重要視していなかった長州藩でしたが、大島の惨状を聞き付けた高杉晋作と第二奇兵隊、浩武隊が大島口へ反撃に向かい、夜陰にまぎれて幕府艦隊に近づき、「丙寅丸」(へいいんまる)で激しく砲撃して奇襲攻撃を開始。

 沖に停泊していた幕府艦隊が長州藩軍の動きに応戦し、戦闘は一進一退の攻防が続いたものの、激戦の末、長州藩が勝利し、大島の奪還に成功しました。


 【芸州口の戦い】

 長州藩(山口県)との国境にある大竹が戦いの最前線となりました。広島城に集結した幕府軍は、紀州藩主・徳川茂承とくがわもちつぐを総督とし、近代装備と洋式訓練を受けた幕府陸兵や、彦根藩、紀伊藩、高田藩、与板藩など、約3万人の軍勢が配備されます。

 一方、長州藩は岩国藩の吉川経幹きっかわつねまさを総督とする岩国兵や遊撃隊、御楯隊、干城隊などが集まり、総勢1千人が防備にあたりました。

 開戦の前夜、長州軍が広島藩領に侵入し、大竹の北側にある鍋倉山に陣取って(幕府軍の後ろ側)、鍋倉山から井伊家の軍勢へ砲撃をしたことにより開戦します。

 長州藩の数は少なかったものの、山を駆け下りながらゲリラ戦を展開し、最新鋭であるフランスのミニエー銃で彦根軍を一斉射撃。さらに小瀬川を渡ろうとする彦根軍を、川岸から集中攻撃し、長州藩側にある瀬田八幡宮山から大砲を浴びせました。

 槍や日本刀、甲冑(鎧兜)など旧式の装備だった彦根藩・井伊隊は、予想外の奇襲攻撃とミニエー銃や砲弾の攻撃によって大混乱となり、そのまま退却。それを知った高田藩・榊原隊や他の藩も戦うことなく撤退し、長州藩が幕府軍を圧倒したのです。

 この先鋒部隊の敗走を知った幕府軍は、征長総督直属の幕府正規軍を戦線に投入し、広島領内に布陣する長州藩軍を攻撃しましたが、逆に激しい猛撃にさらされ、幕府正規軍も敗走します。

 その後、幕府軍は、西洋式の装備を持つ紀州藩を投入し、大野四十八坂で再び戦闘となりましたが、一進一退のこう着状態が続いたことから、幕府側が勝海舟を派遣し、宮島の大願寺において、長州藩と交渉を行なったことにより、芸州口の戦いは引き分けに終わりました。


 【小倉口の戦い】

 小倉藩領だった赤坂(現在の北九州市)が激戦地となりました。

幕府側は、小倉藩の小笠原長行を総督として、小倉藩、熊本藩、久留米藩、柳川藩など、九州勢2万人の兵力が小倉城に集結。

 一方、長州藩側は、長州藩にとって馬関(下関)が軍事経済の中心であったことから、この小倉口が生命線と考え、指揮官には高杉晋作、参謀には三好軍太郎みよしぐんたろう、軍監に山県有朋やまがたありともなど軍略の才に長ける人材を投入します。さらに、山県有朋率いる最強部隊・奇兵隊を下関に布陣させました。

 戦闘前、高杉晋作が幕府軍に対し「いつでも長州に攻めて来い」と挑発する書状を送ったことから始まります。この書状を見た幕府軍は、長州軍は藩境を固めて、攻めてこないだろうと思い込みました。

 長州藩はその隙に付け入り、小倉藩領への上陸作戦を決行。関門海峡を渡って九州へ上陸し、門司を占領します。さらには、幕府軍が馬関の渡航用に用意していた船の大半を焼き払い、幕府軍の渡海を阻止しました。

 虚をつかれた幕府軍は、当時東洋随一と言われた軍艦「富士山丸」を小倉に回航するよう海軍に要請し、馬関を一挙に陥れる作戦を立てます。

 一方、その情報を得た長州藩は、石炭運搬船に偽装した3隻の小船に大砲を積み、それとなく「富士山丸」に近付いて機関部めがけて3発の砲弾を撃ち込みます。突然の砲撃を受けた幕府軍は慌てふためき、幕府軍の作戦は失敗に終わりました。

 長州軍は再び九州へ兵を進め、小倉藩領の大里を攻略し、本格的に小倉城への総攻撃が開始されます。しかし、小倉城を守るのは、当時の最強武器アームストロング砲やミニエー銃を有する九州最強の肥後熊本軍だったこともあり、長州軍は大苦戦。

 ぎりぎりの死闘が続く中、大坂城内で出陣中だった将軍・徳川家茂が急死したという訃報が届き、長州藩に流れが変わります。

 この報告に勝機のないことを悟った総督の小笠原長行は、本営から脱出して逃げるように大坂へと向かい、総督を失った幕府軍は統率が取れなくなり、諸藩は次々と帰藩。唯一、長州藩に一部藩領を占拠されていた小倉藩軍だけが戦っていたものの、これ以上戦うのは不可能と悟り、自ら小倉城に火を放ち、長州藩が勝利する形で幕を閉じました。


 【石州口の戦い】

 浜田藩領の益田(現在の島根県益田市)が戦場となりました。

 幕府軍は、先鋒部隊に津和野藩・浜田藩、その他に紀州藩、福山藩、松江藩、鳥取藩など、約3万の兵員を投入し、萬福寺と医光寺に布陣します。

 これに対して、軍略の天才・大村益次郎おおむらますじろうが率いる長州藩は、清末藩主・毛利元純を大将とし、南園隊、精鋭隊、育英隊など1千人の兵員で石州口防衛にあたりました。

 幕府軍の先鋒部隊を任されていた津和野藩は、長州藩とは親交があったことから内応しており、長州藩が藩領を通過するのを黙認します。大村益次郎は1千人を率いて、陸海両路から一気に浜田藩領内へと進撃し、益田城の郊外に着陣しました。

 兵力では、明らかに長州軍が不利という状況の中、軍師大村益次郎は、敵陣の3方向を攻囲しつつも敵の突撃路を開けておき、そこに敵が突撃してきたところを一斉射撃で潰滅させるという戦術をたてます。

 この巧みな戦術により、福山藩・浜田藩軍は潰滅。益田城を陥落させ、長州軍はさらに浜田城下に迫りました。

 浜田藩は、幕府から援軍の見込みがないことが分かると、和睦の使者を長州軍に送って講和会議を進めようとしますが、この会合談判中に浜田藩側が、城に火を放ち、藩主以下藩士達が松江藩へと逃亡したことにより、石州口の戦いは、長州藩の圧倒的勝利に終わりました。


 大坂城で病没した将軍・徳川家茂の喪に服すことを理由に、2ヵ月あまりにわたって繰り広げられた第二次長州征伐も、最終的には講和が結ばれて休戦に持ち込まれましたが、第二次長州征伐は、事実上幕府の大敗という結果に終わり、この幕府の求心力低下が日本中に知れ渡ることとなりました。

 その後、長州藩や薩摩藩を筆頭に、国内の諸勢力が次々に反幕府に転じ、いよいよ国内は倒幕一色となっていったのです。


 龍馬さんは小倉口の戦いに加わり、その様子を手紙に残しています。乙丑丸は小倉藩の門司浦・田ノ浦を砲撃。幕府軍が慌てる中、長州軍は陸兵を上陸させ、瞬く間に田ノ浦・門司を占領し、幕府が渡海のために用意していた和船数百隻を焼き払い、幕府軍の渡海能力を喪失させてしまいました。

 それだけならまだしも、砲台を破壊し、兵糧や弾薬を盗み、民家に放火したかと思うと、嵐のように一旦下関へ撤退しました。

 一方、小笠原長行は幕府軍艦・富士山丸(当時最強軍艦)を小倉に回航するよう要請、その艦砲射撃で下関を一挙に陥れる作戦に出るのですが、高杉さんは民間船に大砲を積み、何気なく富士山丸に近付くと、猛烈な砲撃を加えるという陽動作戦を決行、富士山丸は敢え無く戦線離脱しました。

 同年6月20日、高杉さんと馬関で九州諸藩の操縦策を協議。もうこの二人は戦後九州諸藩をどうするかを話し合っています。酔ってたんですね。


 同年7月3日、高杉晋作は再び九州へ兵を進め、小倉城攻めの足掛かりを得ます。

 同年7月27日、本格的に小倉を攻めるため長州軍は進軍を開始。

 しかし、幕府側の攻防に苦戦しますが、長州軍は昼夜を問わず攻めかかります。

 同年7月29日、小笠原長行は将軍・徳川家茂の死を理由に小倉から秘密裏に戦線離脱すると、それを知った幕府側に付いていた九州諸藩の兵も8月1日の朝までに、ことごとく退却し、残された小倉藩軍は城に火を放って逃走するのです。

 その後、小倉藩と長州の間に和議が成立し、長い戦いが終わったのは慶応3年(1867)1月の事でした。


 こうして長州藩は四方から攻めてきた幕府軍10万(15万)を撃退したのです。高杉さんはへたへた笑いながら三味線を持って兵士たちに酒を振舞いつつ鼓舞し、大胆・斬新・適格な指揮をとっていたそうです。これは物凄いことです。四国戦争惨敗の後始末に成功し、たった一人で功山寺決起からの、藩是を覆してクーデターからの四境戦争勝利、正に鬼神と呼べる偉業です。

 龍馬さんも幸運でした。寺田屋受難で受けた傷が癒えるまで幕府軍が待ってくれたようなものですからね。しかも乙丑丸は無傷で、社中の仲間も無事なんですから喜びも一入ひとしおだったでしょう。

 幕府軍の方は士気が低かったと言われていますが、武器と戦法が古すぎました。その上、将軍・家茂公が亡くなるなんて、誰が予想したでしょう。これで諸侯は一気に士気が下がったのです。公式見解では「かっけ」(ビタミン不足)だそうですが、一部の噂で長期にわたって少量のヒ素をもられていたのではないか? という情報がありました。それ位タイミングが長州にとってはドンピシャだったのです。

 そして長州の大村益次郎さんという軍略の天才が大活躍してくれました。彼は額が大きく軍議となれば顔を紅潮させて喋るので、高杉さんから「火吹き達磨」というあだ名を頂戴しています。

 薩摩藩の方は、長州の快挙を驚きの目で見たことでしょう。薩長盟約があったので参戦せずに静観しておりましたが、ここまで鮮やかに撃退するとは天晴あっぱれと称賛したことでしょう。そしてこれからは共に討幕に乗り出そうと考えます。

 薩長盟約は長州征伐(第二次)の前に締結しておいたから値打ちがあったんですね。これ長州が幕府軍を撃退後だったらと思うと、薩長盟約なんて有り得ませんでした。でも、長州だけで幕府を倒せるわけがなく、諸藩に連合を募る時、やはり薩摩は手を挙げるでしょう。するとその立場の上下がはっきりするわけですね。

 さて長州藩から見たら、龍馬さんの活躍のおかげで最新武器が調達できて乙丑丸を導入できたのですから、いくら感謝しても足りないくらいです。藩主・毛利敬親公に謁見して、御褒美を頂いた記録もあります。

「その時は長州候にもお目にかかり色々の御話しあり、羅紗ラシャの西洋衣の地など贈られ、それより国(薩摩)に帰り、そのよしを申し上げて二度長崎に出たりし時は、8月15日なり」

 長州ではおそらく有名人となり、あちこちの宴席に呼ばれて歓待されたと思います。長州藩に厚遇で士官のお誘いもあったでことでしょう。勿論それは絶賛の御言葉に過ぎません。龍馬さんはそれを笑顔で聞き流しているところが凄いと思います。


 実際のところ、長州は武器等調達するおりに、幕府に気付かれないように龍馬さんなどの仲介者はもはや必要無いのです。

 薩長はこの勢いにのって徳川幕府を倒し、新しい政治制度によって日本を運営してゆく。と考えていました。これは所詮、薩長連合幕府ぐらいのものでした。木戸さんも西郷さんもそう考えていました。ということは薩長の総意とみてよいでしょう。

 ところが龍馬さんは、「どうしても徳川が政権を渡さんじゃったら仕方ないけんど、別にはなっから徳川幕府を倒す戦を考えんでもよくない? それに今のままでは、徳川が薩長連合にすげ替わっただけぜよ。どうせ新しくするなら、万機公論じゃき」と考えていたのです。

 これは、「でもくらちー」という異国の政治の仕組みで、国の舵取りをしたい者らぁが立ち、自分の考えを唱えて国民が誰が良いか入れ札で決めるがじゃ。一番人気がある者らぁが議会を創って何事も話し合うて決めて政治をやるぜよ。そんで4年位したら、又次の者らぁを入れ札で決めて政治をやる。その繰り返しぜよ。こうすりゃあ、組織が腐らんで済むぜよ。わしはこれを横井小楠先生から教えてもろうてから、「でもくらちー」が一番ええと思うちゅう。


 龍馬さんの考えていることは、今でいう議会制民主主義ですね。この政治体制の欠点は、手間と時間がかかり、後手にまわったり、機を失するところですね。

 当時は幕府が国の政治を行っていましたから、鎌倉幕府から数えればざっと680年も続いたのですからエライものです。当時の人々の殆どが、徳川様の世が終ったら今度はどなたが天下を取るのか? そしてその治世が続くと考えていました。それを一部の学者が知っている異国の制度「でもくらちー」に変えようと運動したのが龍馬さんなのです。


 もしも、当時既にカール・マルクスの共産主義があったら、龍馬さんはきっと「みんなぁが平等で、みんなぁが笑うて暮らせるがじゃ。素晴らしいじゃろ」と、飛びついたと思います。時代がズレていてああ良かったと個人的に思います。


 「尊王攘夷」か「開国か」という構図で、幕末を考える人がいますが、私なりに考えるに、これは全くの初期の段階で、時代が進むと色々なことがあって慶応の世では、みんなが尊王で、攘夷は無理、開国して儲けて国力をつけようと考えていますね。それなら別に揉める必要無いじゃん。

 ですが、もう幕府体制では駄目なのです。徳川幕府は、異国を畏れ、どんどん譲歩し、国を売ってででも徳川家を存続させようとしているからです。特にこの度の第二次長州征討失敗は、武家の棟梁としての面目が丸潰れとなり、国内統制も危うくなってきたのです。

 これは国内外に、徳川幕府体制の衰退を広く知らしめることになって、「討幕」か「佐幕」かという構図に変化したと思います。「討幕」は、幕府なんかもういいから倒そうぜと活動する長州藩とその盟友薩摩藩で、目下同盟してくれる藩を募集中です。

 一方の「佐幕」は、いやいや徳川は最大の勢力を誇る政策・武力集団。「討幕」派など何するものぞ。という立場です。

 ここが注目すべきですが、大体は藩で藩是を決めて活動していますが、龍馬さんは土佐脱藩浪人ですから、個人レベルで活動しているのです。しかも、「佐幕」ではないけんど「討幕」でもないき。

 「討幕」ではなく、幕府に「大政奉還」をしてもらって、それから「でもくらちー」ぜよ。と考えています。この考えは勿論龍馬さんのオリジナルではありません。多くの本やマンガ、映画・ドラマは龍馬さんの発想のように描かれていますが、多分この方がわかりやすいからでしょうが、これが誤解の元かもしれません。

 「でもくらちー」も「大政奉還」も当時の知識人ならそれなりに知られたもので、おそらく松平春嶽公や横井小楠先生から龍馬さんにもたらされたと思います。龍馬さんは実現させるために活動した初めの人物でしょう。

 尤も多くの人は龍馬さんの考えを聞いても、賛成・同調する人は少なかったでしょう。「でもくらちー」いうても馴染みがないし、公方様くぼうさまが素直に「はいそうですか」と政権を朝廷にお還し奉るわけがないと考えるのが当たり前だったのです。


 同年7月25日、薩摩藩士・五代才助(友厚)に会う。龍馬さんと仲間たちは乙丑丸で勇敢に戦って長州藩に大いに感謝されました。しかし期待のワイルウェフ号が沈没。大切な仲間を12名も失って社中の経営はどん底になってしまいました。肝心の船が無いのですから、仕事も収入も無いので、水夫や機関士を貸し出すことになりました。

 この時、大洲藩(伊予国現在の愛媛県大洲市)が薩摩藩・五代友厚に、水夫と機関士を若干名借り受けたいと依頼し、社中にその旨を申し入れたのです。勿論龍馬さんは二つ返事(OK)です。

 同年7月下旬~8月上旬、長崎・薩摩・馬関を往復。龍馬さんは以前にもまして忙しく奔走します。第一義はなんといっても、船の調達でしょう。次は仕事が無いので、仲間たちに暇を出しています。

 社中を去る者もいましたが、死ぬまで一緒にという者もいたそうです。後は水夫や蒸気船操舵の請け負いです。講演会もやったかもしれません。もうこの頃はもう薩摩藩から一人月三両二分は無くなったようですね。

 龍馬さんは、どこかの藩の庇護を受けていては、二君を得ることとなって自由にものが言えんぜよ。と手紙に書いていました。

 同年8月15日、薩摩から帰り、長崎・小曾根邸を定宿とする。この頃、越前藩士・下山尚に会い、松平春嶽公に大政奉還策を伝言する。長崎の小曾根乾堂さんは、長崎では名士で富豪。龍馬さんの良き理解者です。小曾根さんから例の三両二分を頂いていた記録があります。

 私はここが龍馬さんの大政奉還策実現の第一歩だと思いますね。春嶽公もこの策を知っておられてきっとわかって下さると確信していたと思います。

 一脱藩浪士が地方で頭の固い輩にいくら語ったところで、何も変わりませんからね。ただ春嶽公も幕府側の重鎮ですから、この策を迂闊に唱えれば謀反人の汚名を着せられて失脚の憂き目に遭いますから、気をつけなければなりません。

 おそらく春嶽公はこの策を聞いて、驚きと共に幾何いくばくかの期待の気持ちを味わったことでしょう。龍馬の考えていることはわかる。だがその行動は危うい。幕府はもとより、薩長とも異なる策だからである。ここは静観しつつ機を窺う構えと決めたと思います。


 同年10月28日、プロシア商人チェルチーから帆船を購入し、太極丸と命名。大阪・兵庫に社中の仲間を常駐させる。

 やりました龍馬さん! この契約は、薩摩藩が承認して商人・鳴海屋与三郎が買主で、小曾根英四朗(乾堂さんの弟)が保証人となって成立しました。嬉しくて夢が膨らむ龍馬さんは、再び「蝦夷地開拓」を企画したそうです。こうして全然お金を持っていないのに、周りの人々が色々援助してくれるのは人徳があったんですね。

 とはいえ、全ては龍馬さんを信用して応援してもらったものですから、それを裏切るわけにはいきません。龍馬さんは大きな借金を抱えたことには違いないのです。この船を元手に海運事業を始めるとして、もっと実入りの良い商売はないかえ? と知恵を絞ります。

 同年11月初旬、薩摩藩・五代才助、長州藩・広沢兵助と会談し、薩長共同出資の商社の設立を企画。

 この商社は、馬関(関門)海峡を通過する船を差し止めて、積み荷を押さえ仲買貿易を行うもので、五代才助さんのアイデアだったようです。もし実現していたら、長州・薩摩そして龍馬さんがこの商社経営を行うことになれば、莫大な利益が転がり込むところでした。ヒャッハー!

 これからは異国貿易や国内の流通は、船で大量に物資を運ぶ時代が到来することは誰の目にも明らか、そして馬関を通る船は日に日に増えて鰻登り。  

 ここを避けるとすると京・大阪などの航路は大回りとなってしまうだけに、多少のお金を払ってでも馬関を通るメリットがあるのです。

 これには馬関の領主の認可が必要ですが、何しろ龍馬さんは長州の英雄ですから、龍馬さんが自分でやると上手に説得すれば、毛利敬親公もきっと嫌とは言わんじゃろう。と五代さんが語ると、龍馬さんはもう大乗り気です。

「五代殿! おまんは天才じゃ~。よう思いついてくれたぁもんじゃあ。これで銭がガッポガッポぜよ! 」

 龍馬さんは例によって又しても乗ってしまうのです。これは藩で折半すれば収入としては大した額ではないにしても、龍馬さんの商社からすれば、大金なわけです。龍馬さんから見たら五代さんは菩薩の様な五光がさしていたことでしょう。

 しかし、この案は世間から非難されることをおそれた長州藩・毛利敬親公の反対に遭い挫折してしまいます。「そうせい公」として知られた敬親公も、さすがにこれは「そうせい」とはいかなかったようです。残念です。せめて高杉さんの口添えでもあればとも思いましたが、まあ、諦めましょう。

 多分龍馬さんは周囲の人々に大いに語ったと思いますよ。それでさんざ盛り上げておいてからのガッカリですよ。なんか空騒ぎからの溜め息の光景が目に浮かびますねぇ。龍馬さんのそういうところ、私は嫌いじゃないです。


 すこし時間が戻りますが、徳川家のことを書きます。

 慶応二年(1866年)7月21日、第14第将軍・徳川家茂が21歳で亡くなりましたね。その死因は色々囁かれていますが、第二次長州征討の最中(小倉口の戦い)でしたから、幕府の威信は失墜してしまいました。

 勝先生は家茂公が亡くなった時、「心中密かに思う。徳川氏、今日にて滅亡す」と嘆いたそうです。

 そればかりか、武士(侍)の面目をも失墜したのです。

「なんでぇなんででぇ、今まで散々威張りやがって。十万で長州攻めて負けただ? 冗談じゃねぇぜ全くよ。おまけに異国にゃぺこぺこしやがって、何の役にも立っちゃいねえじゃねえか。それでいて自分じゃ一切働かず、百姓から年貢を搾り取り、商人あきんどから金をせびるたぁけしからん」

つまりもう武士要らねんじゃね? 論が始まるわけです。

 次期将軍は、英名高い慶喜よしのぶが就任するのですが、色々事件を起こしています。長州との終戦協定締結の為に、勝先生を安芸の宮島に派遣します。

 勝先生は長州藩の広沢兵助(真臣)・井上聞多らと、9月2日に休戦調停の会談をし、休戦の諸条件を妥結します。

 ところが慶喜は、勝先生とは別に直接朝廷に休戦命令の勅書を出させ、一方的・高圧的に休戦を通告してしまうのです。

 勝先生が妥結した休戦の諸条件は全く無視されたことで、勝先生は怒って辞職願を出して江戸に帰ってしまいます。(顔を潰されたのですからわかります。後に「ゆがんだ主従関係」といわれた慶喜と海舟の人間関係がこのへんでも伺えます)

 その慶喜ですが徳川宗家は先に相続したのですが、将軍になることをなかなか承知しません。

 松平春嶽が「ねじあげの酒飲み」といったほどのすねてすねてすねまくったらしい・・・。ようやく将軍を引き受けたのは12月5日でした。

 そして。12月25日には、孝明天皇が崩御し(享年36)、家茂の死と共に公武合体勢力も衰退します。

 時代が変わる時とは、こうもトントン運ぶものでしょうか? この年は龍馬さんにもですが、本当に色々ありました。その結果、徳川幕府と家臣団にとっては、幾多の衝撃と共に逆境の淵に追いやられたのではないでしょうか。


 龍馬さんは長崎で船で荷物を運んで普通に生活していますが、幕府から見れば、彼は幕吏を二人も射殺した御尋ね者で、土佐藩藩からみれば脱藩者です。しかし顔が広くて有名で、手紙をやり取りしている相手が、長州藩の事実上のリーダー木戸さんなどですから、もの凄く面白い人です。

 さて、ここで一人の土佐藩士が現れます。溝淵弘之丞みぞぶちひろのじょうさんです。この方は龍馬さんよりも8歳年上で、子供の頃からの付き合いで親しかったそうです。昔は佐久間象山の塾で共に砲術を学んだそうです。古い史料では共に千葉道場で剣術も学んだことになっていますが、今ではこれはカットされています。

 そんな彼が長崎に行ったのは、砲術と洋学を学ぶためでした。溝淵さんはもはや有名人の龍馬さんを訪ねるのです。懐かしい溝淵さんが訪ねて来たらとっても嬉しかったことでしょう。私は土佐藩・参政の後藤象二郎の意図があったと思います。

 土佐藩はこれまで幕府寄りの態度を貫いていましたが、ここにきて揺らいできたのです。そこに龍馬さんや中岡さんが勤王開明派として大活躍の情報を聞いていると、土佐藩としても公武合体論が事実上消えた今となっては時流に乗り遅れていることが見えてきました。

 今となっては土佐藩は取り残されておるのに、脱藩者の坂本(龍馬)・中岡(慎太郎)が時代の先端を走ってというわけです。

 以前であれば、土佐勤王党の武市一派のように弾圧したかもしれませんが、長州藩が四方から迫る十万の幕府軍を追い払ったとあれば、もはやそれは愚手悪手。この両名を旨く利用すれば、土佐藩は薩長と肩を並べることができるのではないか。と考えたのではないでしょうか。

 その為の一手として、「おい溝淵、おまんは坂本とは親しゅうしよったのう。長崎へ行きや。行って坂本と逢うて探りを入れてきいや」くらいの策を講じる人物だと思います。

 龍馬さんはそんなことを知ってか知らずか、溝淵弘之丞さんを歓迎して旧交を温める他に長州の木戸さんを紹介して、会見を果たすのです。(同年12月)

 溝淵さんからすれば、長崎に来ただけでもまるで異国に来たような物珍しさを感じたでしょうが、旧友の龍馬さんに再会しただけでも十分だったのに、更に飛躍して長州の高名な実力者と会見できたわけですから、藩命とはいえなんとも濃厚な日々となったものです。

 溝渕さんは木戸さんの人物と見識に、すっかり感服したそうです。木戸さんは、溝淵さんに理路整然と以下の様なことを説きました。

 日本の将来を考えるに異国の出現で、もはや旧態依然とした幕府体制ではまんまと餌食になってしまう。それを食い止めるために、天皇を中心にして僕らが一つにまとまり、強くなって異国と対等になければならない。

 貴藩(土佐)が関ヶ原の戦の古から以来、徳川恩顧のお立場であることは、わかる。しかし、今となっては時勢を冷静に読み取り、日本の国を守る為に雄藩連合をつくる決断をすべきではないか。

 溝渕さんはこれで心酔しましたね。土佐藩にいては、「君はどう思うかね」などと問われることはありませんでした。なんの権限も無いので大殿様(山内容堂公)に謁見など決して叶わず、直属の上司の言うなりだったのですから、これまで経験することのないものだったからです。

 一部の隙もない木戸さんの時勢考察と、徳川十万の軍勢を追い払った実績を伴った弁舌を聞いて、衝撃を受けるのは当然として、「わしに聞かれてもわかりません」と答えれば、わかる様に説明される。「ならばわかるようになればよい」となり、もし反対しても論破されます。そして「僕らの言うことを聞いて行動すればよい」となるのです。これを入説にゅうぜいといいます。かつて龍馬さんが今は亡き久坂玄瑞さんから受けたような衝撃を味わったのかもしれません。

 溝渕さんは、こうしちゃいられないと長州を後にして大宰府から長崎に戻りました。そして土佐が一刻も早く遅れをとってはいかんと土佐藩参政・後藤象二郎さんに会見の内容の詳細を進言し、それをお膳立てした龍馬さんを絶賛して、是非一度会って欲しいと懇願したのです。すると後藤象二郎さんは意外にもあっさりと龍馬さんと会うことを受け入れました。


 意外にもと記しましたが、それほど後藤さんと龍馬さんとは確執があったのです。大元は土佐藩における厳しい身分制度でした。わかりやすい例では、武士に上士の下に下士が差別があって、長い間下士は上士に虐げられておりました。

 そこに風穴を開けたのが、武市半平太(瑞山)さんです。彼は当時の長州藩に尊王攘夷思想を入説されて土佐勤王党を結成し、下士の集まりながら無視できない勢力となりました。勿論龍馬さんは武市さんとは幼馴染でいきおい入党しています。藩是を尊王攘夷にする様当時の参政・吉田東洋に何度も建白しますが無視されています。

 土佐藩は代々徳川恩顧です。そして異国の強さとその脅威を十分理解しており、尊王はともかくむやみな攘夷など無知蒙昧として実質無視しておりました。

 しかし、業を煮やした武市さんは参政・吉田東洋を殺害して藩の実権を握ってしまうのです。後藤象二郎さんは殺された吉田東洋の甥子で、激しい怒りと恨みを持ちました。

 やがて長州藩が京都から一掃されると、山内容堂公が反撃に出て土佐勤王党と弾圧します。後藤さんはこの動きの中心になりました。武市さんをはじめとする幹部は切腹となって土佐勤王党は壊滅して、後藤さんは復讐を果たしました。

 そういう経緯があって、下士の龍馬さんから見れば上士は嫌いだし、多くの盟友を死に追いやった後藤さんには、やはり怒りと恨みの感情を持っていたでしょう。おまけに自分は脱藩の罪人なのですから無理もありません。

 一方土佐藩二四万石の参政である後藤さんから見れば、下士で脱藩浪人の坂本龍馬など、身分が違い過ぎます。しかしながらその活動は目覚ましく、今や天下に名を轟かせているのです。

 だから、後藤さんが龍馬に会うてみようと受け入れたのが、溝淵さんから見れば意外だったのです。しかし後藤さんは、龍馬がそんなに秀でているなら会うてみよう(利用して土佐も時流に乗ろう)と考えていたと思います。そして翌年(慶応三年1月)実際に会見は実現するのです。


 龍馬さんの慶応二年という年は、非常に中身の濃いものでした。薩長盟約。寺田屋受難。からの復活。ワイルウェフ号が沈没して不死身の池内蔵太をはじめ11人の仲間を喪失。四境戦争・小倉口の戦いに参戦、数十発の砲撃で小倉藩の砲台を無力化。長州藩は10万(15万)の幕府軍を撃退して停戦。そして太極丸で再起を図ろうとしています。

 数々の奇跡の場数を踏んできた龍馬さんですが、今度は大政奉還の実現です。これこそは薩摩・西郷隆盛、長州・木戸孝允も無理だと断じています。そして、徳川800万石の巨大勢力に楯突く危険なものであるのです。

 後輩である我々は結果を知っているのですが、私はこの大仕事のプロセスについて調べているのです。

 大政奉還実現のためのプロセスの第一歩は、松平春嶽公への伝言でしたね。そして土佐藩参政・後藤象二郎の接近が大きく関わってくるのですね。それはこの先の物語ですが、慶応二年の年末と三年の年始は平穏無事に楽しく過ごしたと思います。それを私は良かったなと思います。


 そして慶応三年1月中旬。土佐藩参政・後藤象二郎さんが長崎に出向き、清風亭という料亭で会談が行われるのです。

 後藤さんは参政の身分ですから当然家来を複数連れています。なので龍馬さんを守るために仲間が複数同行しました。事と次第によっては刺さば突こうという緊張と覚悟をしておったとのこと。

 ところが龍馬さんが清風亭に入ると、馴染みの芸妓お元さんがいました。後藤さんのはからいで呼ばれたと知ると、彼の気遣いが伝わり、これまでの経緯や身分の違いなどを越えて、只々土佐藩、そして日本の行く末についての議論ができると確信した様です。

 そして龍馬さんと後藤さんは、落ち着いて話ができました。過去のことは一切語らず、龍馬さんの活躍を認め、土佐藩を薩長に負けないように時流の先端に導くために龍馬さんに働いて欲しいと言った様です。そして中岡慎太郎さんについても同様の思いだと伝えました。

 龍馬さんは土佐藩の為に働くことを約束しますが、隷属は避けてもらいました。これは大きいですね。そして脱藩の罪が許されました。(実質は2月)そして海援隊と陸援隊という組織を創設して合わせて翔天隊と名付け、海援隊隊長に龍馬さん、陸援隊隊長に中岡さんを任命しました。

 さて、次は具体的に何をするのか? という問題です。藩を挙げて交易をして儲けるぜよ! ということで土佐商会を創設して岩崎弥太郎を主任に抜擢しました。後に三菱を興して大成功します。大河ドラマ「龍馬伝」では悉く龍馬さんに対抗しては逆に引き立てる役回りでしたが、実際は土佐商会から付き合いが始まるようです。

 龍馬さんは後藤さんに、「薩長は勢いづいて討幕に踏み切るに違いない。そこで大政奉還ぜよ。そうすれば薩長は倒す相手がいなくなる」と説きます。「ただ討幕に参加するだけでは、薩長の後塵を拝するだけぜよ。ここは土佐藩ならではの策(大政奉還)を掲げて堂々と幕府や薩長に進言すればえい」と更に説明します。

 「後藤様から容堂公にこれを進言して、容堂公が慶喜様に言上し、慶喜様が応じて下されば、徳川をお守りできるし土佐藩は一気に失地を取り戻せるがじゃ。

 容堂公は徳川家への影響力がとても強い間柄、その容堂公が将軍・徳川慶喜に「大政奉還」を言上したら、これまでになく実現の可能性が高いのです。

 「今更大政奉還したところで、朝廷がまつりごとを取り仕切れるわけがない。必ず幕府を頼ってくる」

 「ということは、言われた通りに政を朝廷にお返したら、天子様ら(天皇や公卿様)がお困りになって、公方様や幕府のお偉いさんにご相談なさる。

 そんで公方様はこれまで通りの御政道をこれこれこうでこうでと御指南される。そんなことならいっそのこと、再びお任せした方が早いと違うか? てなるわなぁ」

 「アホ! そしたら今までと同じやないかい」

 「こらまた失礼いたしやしたと」

 という感じで、「今は薩長の矛先をかわすために大政奉還をして、そいでも結局は慶喜様が御政道の筆頭になるのは必定。大したことはないき」と、その影響を過少に説いたのではないでしょうか。

 龍馬さんの説得に、後藤さんは納得して会談は終わるのです。龍馬さんも凄いですが、相手もタイミングもどんぴしゃりでした。

 これまでの流れをおさらいすると、海軍操練所が廃止されて落ち込んだと思えば薩摩藩が手を差し伸べてくれました。そして長州藩が危ないと見るや長州の木戸さんに接近して、薩摩藩との盟約締結に奔走して成功します。

 長州藩が武器が購入できないと知ると、薩摩藩名義で大量の武器弾薬・軍艦をグラバーさんから調達します。更に幕府と戦となれば、自ら軍艦に乗って戦い勝っちゃうのです。

 そして今度は大政奉還です。こればかりは薩長までもが無理じゃと言います。むしろそれはいらんことです。無論手を貸してはくれません。こればかりは一人夢想で終るのかと思いきや、なんとこれまで全然無視だった土佐藩が接触して来たのです。しかも大政奉還を実現の可能性が一番高い勢力なのです。

 しかも土佐藩・後藤さんは、別に大政奉還がしたくて龍馬さんに会いに来たのではありませんで、とにかく今大活躍の龍馬さんと中岡さんを取り戻して何とか土佐を上げて行こうとしてたら、龍馬さんから一番やりたくないこと(大政奉還)を言われた感じです。






























 坂本龍馬について時系列に調べていますが、いつの間にか尊敬と親しみを込めて”龍馬さん”と書いています。それどころか、主要な人物を”さん”と書いています。

 調べが進むと時代が進み、そろそろ「大政奉還」に差し掛かります。これはこれで凄いことです。当時これを聞いた人はさすがに、机上の空論と受けとめたと思います。ところが、龍馬さんは本気でした。

 今の時代と単純には比べたらいけませんが、新型コロナの暗い雲、世界第3位の経済国にも関わらず国民所得が一向に増えない状況が続き、どうしようもないデフレ感、閉塞感を感じます。この辺を誰かが払拭してくれたら、凄いことになりますね。

 国民の収入が上がらず、原材料が値上がりしても製品・生産物の価格に転嫁できない企業や商店。気の毒の悪循環です。それでも大企業は最高益を更新しています。こんな時代が長く続いています。だから息苦しい。安倍政権があれほど言ってもダメでした。菅政権になって漸く携帯電話の使用料を値下げに動いたくらいです。困ったものです。

 元々民間企業の人件費について、政府が口出しするのはお門違いですが、それをせずにはいられないほど日本企業は人件費を上げず、日本人のひたむきな頑張りを搾取しているのです。

 それでもこのままいくとも思えません。どうしたらよいか。私も含めてみんなで考えて行動しましょう。一億総中流と言われた時代(昭和)がどんなに豊かだったか。古臭いとか言わないで真剣に考えましょう。



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