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坂本龍馬について‐5

 2021年10月下旬、新型コロナがどんどん収束に向かっています。ふと新世紀エヴァンゲリオンのコンピューター・ウィルス型の使徒の話が頭を巡りました。最近観たもので。

 ウィルスの進化を促進させると死に向かうという話です。新型コロナは本物のウィルスですが、生存と繁栄の為にコピーを繰り返して、それがプラスの方向にコピーするとは限らないようですね。たまったまコピーしてみたら自滅型だった。という感じでしょうか。このまま終わって欲しいものです。

 でも、もう我々の日常は、元には戻りません。明治、大正、昭和、平成、令和と段々日本人は自由が無くなり、生きにくくなっていますね。

 これが時代が変わるということです。良い方向に変わるとは決まってませんから、悪い方向に変わることだってあるのです。おや、先ほどのウィルスの話を似ていますね。ではその先は? ブッキミー!


 何とか世界平和と日本の平和にならないかな、劣化した人が無茶するから、監視カメラが増える、法の規制(縛り)がキツくなるのです。これではどんどん人は劣化して法や制度に頼り、結果監視されて税金を絞られて生きにくくなるのです。追い打ちかけるように地震・災害なども人々を狙うのです。更に異国からの脅威もあるのです。

 もうミサイル飛んできても撃ち落とせばいいじゃん。なんていう呑気な防衛システムは通用しません。マッハ5以上で不規則に飛んで来ては、どうしようもないのです。


 来年は北京冬季オリンピック。無事に開催されれば良いですね~。


 水戸天狗党の乱が治まり。長州征討も西郷さん達の努力でなんとか治まりました。しかし、長州藩内では高杉さんが挙兵して諸隊と分裂。正義派と俗論派の抗争となりましたが、結局高杉さんと諸隊が融合して、俗論派の藩政府軍と戦となって勝ってしまい、長州藩は再び正義派が実権を握り、毛利敬親公も幕府と戦う腹を括りましたとさ。


 水戸天狗党の乱とは対照的に、長州藩の乱の結末は意外でとても面白かった。

「尊王攘夷」もいいけど、孝明天皇を困らせて京から追い出されて、これでせいせいしたと思ったら、なんでフル武装で京に来るんだよ。それも二千て、まぁまぁの数で来るんじゃねぇよ。それで禁門の変かい。


 二万と二千じゃ、まぁ戦にならんわな、それに御所に攻め込んだら朝敵ぞ、もう長州に帰れや。て、攻めてきた長州!


 うぅぅわ! 長州めっちゃ強いやないか。決死の覚悟で突撃して来て、圧されとるやないかい。おい、援軍の薩摩なんとかせぇ。薩摩参戦で勝った勝った。やっぱ薩摩強! 会津と桑名連合じゃ危なかったわい。で京都大火事やし。おのれ朝敵長州めが、どうするかみておれよ。


 長州征討で兵15万集めたわい。これで長州ぎたぎたにしてやる~。え? 長州が四か国と戦? で惨敗。ざまぁだね、飯うま~。これで攘夷など無理だって思い知ったろう。


 え? 停戦協定で? なんで我ら(幕府)が賠償金払わにゃならん? え? 砲撃は攘夷命令書に従ったまでのことで、長州藩の意志では無いだ? えーそりゃウソだね、あいつら攘夷めっちゃやりたがっておったではないか! 


 え? クーパー殿が、それを了承とな? で、幾らじゃ? さ、三百万ドルとな……。あーこれ、薩摩の生麦事件と薩英戦争を思い出したわ。クッソ証拠あるから逃げれんわ。トホホ……。


 長州の交渉人て誰よ? 高杉晋作? あの者伊藤(俊輔)らと組んで出来たばっかのイギリス公使館に放火した奴やん。バリッバリのテロリストぞよ。なんであやつが和平交渉してんだ。おかしいだろ。え? 最近まで脱藩の罪で野山獄につながれておっただと? そんな者を和平交渉に使うな~。おかしいだろ長州藩。えっ? 筆頭家老・宍戸刑馬と身分を偽っているだと? 誰かこの旨クーパー殿に知らせてやれ。


 彦島割譲要求をうやむやにしたとな。それは、まぁ良しとしよう。しかし勝手に下関で交易する約定を締結したのは重罪である。

 まぁ此度の征討で、長州の命運は尽きるが必定。フフフフ

 

 えっ征討終了? まだ何もしてないでしょ。三家老と四参謀の処分でOKて軽過ぎるだろ。朝敵としてぶっ潰せや。金が無い? 恩賞? 無論それは無いが長州の領地・領民でも分け合うかい。


 なんだと? 長州藩内で抗争があって攘夷派が勝ち、藩是が又尊王攘夷に戻り、武備恭順と? あやつら藩毎皆クルクルパーなのか。折角穏便に済ませてやったものをのう。そうなれば我らの思うつぼというもの。再び兵を集めて長州を懲らしめねばのう。


 こういう感じでまとめると、短くなったのですがね。でも、いきなりじゃ知識が無いから書けませんね。


 メインの龍馬さんの足跡を追っていると、龍馬さんと愉快な仲間たち(土佐6)は、元治元年(1864年)11月10日から、薩摩藩の庇護に入り、京都・大阪の薩摩藩邸に潜伏してから、翌年の慶応元年(1865年)4月5日の間、5カ月くらい足跡が無いのです。


 結構意地になって調べても徒労に終わりました。そこで出てきたのが、フリーメーソン説です。後で登場しますが、イギリス人の実業家トーマス・ブレーク・グラバーが龍馬さんに目をつけて、空白の5カ月の間に彼を渡英イギリス遊学させ帰国させていた。というのです。この主張を本にして出版している方(日本人)がいます。


 この本を購入する気にはとてもなれず、この本をベースにしたTV番組を観ました。中々面白かったです。しかし私にはフリーメーソンがわかりません。勿論ベースの情報は理解しました。要するに、古代から存在する世界最大の友愛団体です。でもその活動は非公開だそうです。それでは話にならないと思います。全ては憶測と想像の都市伝説というヤツです。


 信じる信じないは、あなた次第です。と言われれば、私は全く信じません。そもそも”信じる”ということではないと思います。支持する・しないが適当ではないでしょうか。

 薩摩も長州も、若い藩士を遊学させて、帰国後は要職につかせて活躍させています。かかる渡航費用や食費や寄宿費などの生活費や遊学費用は莫大で、それは藩が払っています。当時はそれほどの大プロジェクトだったのです。遊学する方も航海の途中で嵐に遭えば沈没するし、船内の生活も衛生的とは言えず病にかかってしまうかもしれません。無事に着いても生活環境が合わずに病気にかかるかもしれませんし、帰国する時には又危険な船旅を覚悟せねばならず正に決死の思いだったことでしょう。

 又イギリスでも、日本の侍がやって来たということで必ず話題になり、ニュースとして記録に残っています。

 しかし龍馬さんが、イギリスにやって来たという記録はありません。日本を出たという記録もありません。莫大な費用は誰が負担したのですか? グラバーさんですか? そんな記録はありません。グラバーさんは商人です。何故龍馬さんだけ自己負担で遊学させる必要があったのでしょうか? そんな義理も理由も無いと思います。

 龍馬さんの黒幕はグラバーで、彼を巧みに操って維新を成し遂げた。みたいなことを主張していますが、そんな簡単なもんじゃないぜよ! と言いたい。いや、言います。龍馬さんを留学させてやってうまいこと操って? 明治維新を成し遂げたって? あり得ません!

 明治維新は沢山の人物が、それぞれの思惑を持って行動した結果です。グラバーさんと龍馬さんしか見えていないから、こういう主張になるのではないでしょうか?


 確かに土佐6の一人、近藤長次郎さんはイギリス遊学しようとしましたが失敗しています。が、費用は長州藩が出そうとしていました。この詳細は後程。


 龍馬さんがフリーメーソンに加入したという証拠はありません。憶測と新説は違います。グラバーさんがフリーメーソンだったという証拠もありません。今もグラバー邸にある定規とコンパスにGマークの石碑は、グラバーさんの前から存在していたそうです。経緯は不明です。従って無関係という説が有力です。


 そして龍馬さんの性格は、明るくて素直、そしてポジティヴ。とても腹に溜めて隠し事が出来るお人柄ではありません。それが後に災いとなるのですが、もしも本当にイギリス遊学(上海遊学としても同じです)に行ったのならば、これほどまでに黙っておけるとは思えないのです。乙女姉やんへの手紙にその片鱗すらも無いのは、”遊学していない”と考えるのが自然だと思います。


 私は日本の維新には、フリーメーソンどころか、イギリスという国が大きく関わっていると思います。薩英戦争の時にイギリスは薩摩を高く評価しました。四国戦争の時にもイギリスは長州を高く評価しています。そして幕府を侮蔑しているのです。


 少し小ネタを挟みます。薩摩と長州は異国と戦って負けました。しかし負けたとはいえ、侍は死を恐れずに奇声と共に突っ込んできます。大抵は打ち倒されます。最初は相手は面白かったことでしょう。

 しかし彼らから見ればオモチャの様な弓矢が、意外と効いたという事実があります。あんな物とナメていると、命中精度が高く殺傷能力は十分なのです。それが何百何千と飛んでくれば、それなりの効果があったようです。

 槍・刀についても自慢の銃が弾切れしたら、接近戦となってその切れ味と威力の餌食となるのです。


 「おはんらともっとまともな戦がしたか…… 」

 「僕らは負けていない。僕らが本気で戦えば貴軍は負けるのである…… 」


 薩長の前のエピソードを思い出すと、上記の言葉はとてもそんなことが言える状況でない時に出たものです。イギリス人はそれを聞いて笑うのです。

 それが当時の世界の覇者として君臨していたイギリス人気質なのです。ユーモアセンスなのでしょう。でもどうでしょう、イギリス人でない者が同じ状況であったら「なにぃ! 小癪な」と怒るかもしれません。ここにものの考え方や受けとめ方が見えて興味深いと思いました。


 私は、フリーメーソン説を否定しません。率直に面白いと思いました。否定できる証拠が無いからです。否定できる立場ではないし、それを否定すれば、私も否定されて大喧嘩になってしまい。なにやっとんじゃてなるのがオチです。だから否定しないけども支持しません。


 それに、これをメインと考えては本質から外れると思います。例えば、エジプトのピラミッドは、大昔宇宙人がやって来て、スーパーパワーで造ったんだよ。と聞いたことがあります。


 でも、私には宇宙人がわからないし、スーパーパワーの中身もわかりません。だから全然納得できないのです。同様に、フリーメーソンという組織があるのはわかりましたが、その活動内容が不明では納得できないのです。無いも同じです。

 フリーメーソンのメンバーでない方が、フリーメーソンを語るのは、紹介に留めておいた方が良いと思います。


 ここでは、龍馬さんは時代のローションだったのか? を真面目に調べて行こうとしています。そこにフリーメーソンに御登場いただかなくても、納得できる史実はつかめると考えてここまで来ています。

 今のところ彼はまだ時代を動かすどころか、再びの脱藩浪人で薩摩藩に御厄介になっているだけです。しかし、歴史的人物と色々人脈ができました。薩摩藩でも一目置かれる存在になっています。更に蒸気船を操舵できる技術と技能を習得(完全ではないにしても)した愉快な仲間たちができたのです。勿論お龍さんもです。この間に子供でもできていれば、彼女の運命も又違ったかもしれません。


 5カ月間足跡が無いのは、特に目立った活動が無かったからではないでしょうか。やはり薩摩藩の御厄介になりながら、胡蝶丸などに乗って仕事をしていたそうです。普通に暮らしていただけだと考えた方が自然な気がします。だってこの頃の彼ら土佐6は、歴史上の人物とは目されていなかったのですからね。


 そして、

 慶応元年(1865年)4月5日、京都薩摩藩邸で、三条実美衛士・土方楠座衛門と会うのです。

 ここから彼の運命の歯車が再び動き始めるのです。くぅ~、楽しみです。


 土方楠座衛門は、京都にいるはずの坂本龍馬を探していた。土佐藩邸に出向いて、最近の彼の様子を訪ねてみたが、帰還命令を無視して今は出奔中であるため、所在不明。何かわかったらこちらに連絡するように。と言われた。


 土佐藩邸を出ると小腹が空いたので、角のうどん屋に入った。京出汁の匂いが懐かしい。人の運命とはわからんものだ。ほんの一年前、彼は神戸海軍操練所で修行に励んでいたはずだ。それが今では操練所は無くなり、出奔の罪で御尋ね者で行方知れずとは……。

 土方はうどんを啜りながら、自分の運命とて二転三転だな。と思う。京うどんと出汁を味わうたびに、昔のことが脳裏に映る。


 運命が転がり出したのは、勤王党に21番目に血盟してからだった。何か途轍もないことに参加できた気がして興奮したものだ。


 文久三年(1863年)藩庁命で間埼(哲馬)と上洛して、探索活動をする内に三条実美卿の知遇を得て、学習院御用掛となった時には武市瑞山(半平太)先生に申し訳ないと思ったな。


 それから直ぐに政変が起こり、三条卿の護衛として長州に流れた。「もう終わりや」と涙を流される三条卿を心から御労おいたわしいと思い。自分も悲嘆にくれた。


 長州での暮らしはそれ程悪くは無かった。しかし二卿がお亡くなりになったのは、心労が祟ったものとされた。三条卿が御達者なのがなによりであった。

 それから京への進発、蛤御門の変、朝敵認定と討伐から終結。と慌ただしかったが、五卿周辺の安全は保たれた。

 藩内が二つに割れて高杉晋作殿が勝って、武備恭順の尊王攘夷が復活したのは、三条卿も大層のお喜びで何よりと思った。

 この度は自分は、三条卿のお考えを広めるために坂本龍馬殿に会いに来た。中岡慎太郎も別命で京に来ている。何れ会うことになるだろう。


 さてさて、どうやって坂本殿を探したらええかのう。やっぱ土佐言葉を話す者に話しかけて、聞いて回る他はあるまい。もしも京におらんとわかったら、江戸の勝麟太郎先生を訪ねるぜよ。


 土方はそう決めると、お代を置いてうどん屋を出た。背中越しに「毎度おおきに」という店のおやじの声が懐かしかった。


 坂本龍馬の行方は程なく知れた。土佐藩邸に出入りしている御用聞きの者に尋ねたらあっさり教えてくれた。なんでも薩摩藩に厄介になっているらしい。藩邸の者も薄々は知っているが、相手が薩摩藩では到底手が出ないらしい。まぁ事勿ことなかれでいけば知らぬふりが得策なのだろう。

 早速薩摩藩邸に参ると、これもあっさり通された。三条卿の衛士という身分が効いたと思われる。ただ、今彼は御用で不在で夕刻には戻るということで、薩摩藩・吉井幸輔よしいこうすけ殿の御屋敷で待つことになった。


 この吉井殿は坂本龍馬と仲が良く、その明るいところが良いという。茶を飲みながら、お互いに世間話をしていると中々に楽しかった。夜になって龍馬がやって来ると、部屋が更に明るくなった気がした。


 彼とは初対面であったが、噂にはよく聞いていたし、出身が同じで共に勤王党にいたということですぐに打ち解けた。人見知りをすることのない彼は自分に大変興味が出た様で、挨拶をした後は質問攻めにあった。

 お互い自己紹介と近況や経緯を語り合う頃には、茶が酒に変わり小料理が出ていた。彼は聞き上手で話がうまい。それに吉井殿も加われば大いに笑うこともしばしばで、中々本題に入ることが出来なかった。


 「……ところで、御用の向きはなんでしたろう? 」

 「ようやく、それをお話しできる頃になりましたかな」

 「おうおう、どうぞどうぞ」

 「それでは、日本のこれからについて、坂本殿の御意見を伺って来いと三条卿から命を受けて参った次第でござる」

 これを聞いて龍馬は率直に驚いた。

 「この薩摩の厄介者に何ですろう」

 「先ずは今でござる。今の幕府の御政道について、どう思われますか? 」

 「いきなりなんぜ? がいなこと聞きゆう」と笑い出した。

 「まぁ、わしの考えを言うてもええんなら、ここが吉井殿の御屋敷で良かったぜよ……。今の幕府は、いかんのう。異国から侮られちゅう。薩摩がエゲレスといくさしておろおろ。長州が四か国と戦しちゃあおろおろじゃ。

 そのくせ、内側にゃあ滅法強がっちゅうが、安政の大獄はむしろ逆効果、蛤御門の戦じゃ薩摩がおらんかったら負けちょったぜよ。長州征討いうて数を集めても、自弁で恩賞も無くばやる気は失せるちゅうもんじゃ。

 西郷さんが戦無しで治めてくれて、皆薩摩に感謝しちゅう。いにしえの侍魂も金が無くてはのう。どうにもならんぜよ。

 ところが長州じゃ、せっかく西郷さんが穏便に済ませたというに、高杉さんがひっくり返してしもうた。長州はこの先何を考えちゅうか教えてほしいぜよ。土方さん」

 実は龍馬は薩摩が進めていた公武合体にも噛みつきたかったが、吉井殿がいる手前控えた。そしてボールは土方に行った。土方は確かに長州から来て内情はある程度知っている。しかし、この先どうするのか、勿論幕府が攻めてくれば戦うことぐらい誰でもわかる。

 龍馬が知りたいのは何故なにゆえか? である。折角恭順姿勢が認められて、滅亡の危機が去ったというのに、自らが幕府が率いる大軍と戦うと示したのである。勝算はあるんですか? と問うているのがわかった。

 土方は、どう答えて良いのかわからなかった。根はやはり土佐っぽであるから長州・正義派の真意はわからない。

 「……実は私もようわからんちや。所詮は土佐っぽやき実際に巡検士や幕府軍が去った時は正直ほっとしたもんぜよ。私は長州人は、勝つとか負けるとか、そんなこと関係無いところで動きよると思う。己の信ずることのためなら死んでもえい、例え藩が滅んでもかまわんちゅう心意気があるのは確かなことじゃ。

 坂本殿じゃから言うが、幕府恭順に反対したのは、高杉殿だけじゃった。たったの一人ぜよ。皆が説得にまわったがじゃ。それでも高杉殿は折れんかった。それで共が八十余名になり、諸隊の一部が加わって数百となって騒ぎが大きゅうなってから萩藩が鎮圧に出て戦となった。

 その数二千対数百やったそうじゃ。そんでいざ戦うてみたら、少ない方が勝ってしもうた。そんで形勢が逆転してしもうたんじゃ。これにゃあ三条卿は勿論皆驚くやら喜ぶやらじゃった。

 わしの御役目は、三条卿をお守りすることやき、それ以上のことはわからんちや…… 」

 この時は龍馬も、薩摩の吉井も息を飲んだ。圧倒的に不利な状況を勝つのは驚きと感動を呼ぶが、龍馬も以前久坂玄瑞と深い話をしたことがあるし、高杉晋作とも飲んだことがある。その時も、そんなようなことを言っていたのを思い出した。彼らは信念のために生き、戦い、死んでいったのだ。もっとも高杉はまだ生きている。生きて自分(龍馬)からみれば狂気の沙汰を藩是としたのだ。


 「……こうなった以上、幕府は再び兵を集めて長州を攻めるやろう。しかし今度こそ長州は負ける。藩毎滅びてしまうかもしれん。じゃが、じゃが三条卿は、そうしちゃならんと仰せじゃ。私もそういう気が無性にするんちや。坂本殿はどうお考えか? 」

 今度は龍馬の方にとんでもないボールが帰って来た。過激な尊王攘夷は狂気を孕む。それが長州藩を覆っていることが龍馬と吉井にも十分わかった。

 龍馬とて、この思想のおかげで、大切な友を何人も失った経緯が甦る。尊王攘夷という考えはそれほど悪くない。ではそれを進めると何が邪魔をするのか? 日本にとって絶対必要な海軍を造るという構想を、いとも簡単に潰してしまうのは何か?


 幕府である。内憂外患にのたうつ幕府である。


 龍馬の頭は目まぐるしく回転して熱を帯びていた。今は同じ日本人同士が争っている場合じゃない。と勝先生は言うておられた。確かにその通りだと思う。しかしその勝先生は失脚した。神戸海軍操練所は潰された。何故か? 

 幕府は日本の国のための判断を誤っている。国の為にならない判断・決断・行動をとった。何故か? それは幕府、ひいては徳川家の存続のためである。幕閣はそれが日本の国のためだと信じている。


 しかしこのままでは、幕府(徳川家)は異国の傀儡となって存続し、国内を治めて、利益は異国に吸い取られてしまう。そんな国に明るい未来があろうはずがない。幕府は古より日本の為になっていた。治安を治め、領民を良く治めていたからこそ長い間続いてきたのだ。だが今はもうだめだ。国のためにならない。ならなければもういらぬ。これはかつての吉田松陰の主張ではなかったか。龍馬の脳裏に熱く語る久坂玄瑞の顔が浮かび、彼の言う言葉が漸くわかった気がした。

 何のことはない。長州は日本を守る為に幕府と戦おうとしているのだ。その時、龍馬は漸く口を開いた。


 「わしは今まで、長州のやることなすことが全然わからんかったけんど。今はわかる気がしてきたぜよ。

 幕府は今まで日本を旨く治めちょったんでしょ。じゃからこれまで、天皇から政治を任されてきたわけじゃ。

 ところが異国がやって来てこれがえらい強いもんじゃき、戦を避けるために言いなりになってしもうて、日本からがいなきんや富が異国に流れて行きゆう。

 異国は日本を清みたいに戦を仕掛けて食い物にするのはやめて、幕府を影から脅して支配下に置いて、富だけを吸い取ろうとしちゅうがじゃ。幕閣は自分らが滅ぶと日本が滅ぶと信じちゅうから、それがわからんちや。

 幕府は自分らが生きながらえるために、日本を売りゆうわけじゃ。このままじゃったら、どんどん異国に骨の髄までしゃぶられてえらいことになるろう。

 土方さん。わしはやっとわかったがです。長州はそれを止めるために、幕府と戦うために立ち上がったんじゃ。そんなら、長州をこのまま見殺しにしたらいかん! 」

 龍馬がまくしたてると、吉井は彼の勢いに驚いていた。土方は納得したように同意した。

 「坂本殿。今の御言葉感服致しました。あなたのおかげで、長州藩の考えていることがわかりました。あなたならと見込んでまかり越した甲斐がありました。

 実は、私と中岡慎太郎という者が三条卿のお考えに同意して活動しておるのですが、やはり長州を助けようというものです。

 然るに、今二百余国の内で最も勢いのある薩摩が長州と手を組み幕府と対抗するのが良いのではと言うておられるのです」

「なんと。ないごて薩摩が長州を手助けせにゃいかんとな! 」

 薩摩の吉井が驚いて口を挟んだ。


 吉井が驚くのも無理もない。薩摩は野心を持って朝廷や幕府に取り入って公武合体を推し進めていた。実際うまくいっていないことはわかっていたが、国政参入の確固たる地位を得たという自覚を持っている。そこに長州が危ないからと手を差し伸べる策は、初めて聞くもので全く筋違いに思えたに違いない。

 それに長州は薩摩と会津を激しく憎んでいる。薩摩と会津が共謀して長州を追い出し、その隙に朝廷に取り入ったと思っている。更に、蛤御門の変では長州軍を壊滅した恨みもある。

 長州藩士は、草履や下駄に薩賊会奸さつぞくあいかんと書いて踏みつけているという。これでは薩摩、長州の間では和解など絶対に絶対に無いことであって、俯瞰で見ている三条卿ならではの考えです。


 しかし、龍馬さんはその策に「そりゃあ、えい! 」と乗るのです。ここ重要だと思います。有名な”薩長同盟”は、龍馬さんのオリジナルではありません。土方さんでも、中岡さんでもないのです。三条実美卿は論文にして広めたかもしれません。では三条卿がオリジナルでもないと思います。岩倉具視も同様の論文を著しています。『叢裡鳴虫』『全国合同策』などが有名です。

 土方さんは衛士ですから、三条卿から「どや? 」という感じで聞いたか読んだ(論文)と思います。ここで全然納得できなければ、京へ行けと言われて龍馬さん会っても、前向きには活動できるものではありません。おそらく賛同したと思います。中岡さんも賛同したからこそ、精力的に薩長の和解に尽力できるのです。ここで龍馬さんも加わりました。

 彼は奇抜なことを言っています。

 「わしらは土佐者やき、長州、薩摩では見えんもんが見えるぜよ。わしらじゃったら、うま~く仲介できるかもしれんちや」


 ここが龍馬さんの薩長同盟活動の原点だと思うのです。龍馬さんは、わしがオリジナルじゃきと言ったことは一度もないはずですが、後世の人々がそのように仕立てています。子供が読む児童書は、特にこの傾向が強いです。わかりやすいから?

 私は誰がオリジナルか? はあまり興味がありません。誰でも良くないですか? でも龍馬さんがオリジナルではないことはハッキリしました。土方さんがこの日龍馬さんを訪ねて初めて薩長和解案を知り、乗ったのです。

 後で詳述しますが、実は同盟というほどものではありませんでした。只の口約束レベル。当時そんな危ないものとても文書にできませんね。今に残っている文書は、後に心配になった桂小五郎(木戸孝允)が文書化して、龍馬さんが裏に朱書きで保証したものです。


 「わしゃまだ長州についてまだわからんことがあるがです」

 「なんでしょう? 」

 「長州はこのところ、立て続けに大きな騒動を起こしよりますが、よっぽど銭がこじゃんとあるんでしょうなぁ。わしは長州がどうやって金を稼ぎゆうか知りたいぜよ」 

 「おおお、なんか急に話がやおう(柔らかく)なったのう」

 「わしの本家は才谷屋言うて代々商売をやりおって、それでつい商売とか金貸しとか銭のことが気になるがです」

 「なるほど。坂本殿は、長州の三白を御存知ですか? 」

 「なんぜそりゃ? 」

 「長州の特産品が白いので、そう言われているのです。先ずは塩で、三田尻の塩田が有名ですわ。それと紙ですな。後は蝋燭です。後は…… 」

 「なんぜ、三つやないんかい」

 「いや、これは実際住んでみたからわかったんやが、長州は三十万石と言われちゅうが、墾田が進んでおって実際はその倍はあるぜよ」

 「ほんまかえ。へぇ~凄いのう。わしはそういう話が大好きぜよ」

 「ほう、そしたらこんな話はどうぜ」

 「うん」

 「その昔、徳川家康公が天下をとった関ヶ原のいくさ知っちゅうかえ? 」

 「おう、こんまい頃に塾で聞いたような気がする」

 「慶長五年、東軍の総大将が家康公で、西軍の総大将が石田三成で主将が毛利輝元じゃった。で、戦の最中は毛利方に攻めてこなんだら領地は安堵すると手紙を送っちょいて、毛利氏は元々乗り気でなかった戦じゃったから、攻めんかった。結局東軍が勝って、西軍は負けた。

 毛利氏は本領安堵の書状を出して訴えたが、文句があるなら戦で勝ち取られよと言われて領地は三分の一に大幅減封されたそうじゃ。それ以降毛利氏はずうっと打倒徳川を誓っておったそうじゃ」

 「んなんという執念じゃ。ざっと二百六十年も恨んじょったんか。打倒徳川にゃあ銭がいる。その為に内緒で墾田して石高を上げ、特産品で銭を溜めちょったというわけか。

 よし! わしは乗ったぜよ。何としても長州と薩摩が和解するように動こうやないか」

 「おいおい龍馬。おはんまでそげなこと言うて…… 」

 「はっはっは、まぁええじゃいか吉井さん。あんた方(薩摩)はそげなことは絶対無理と言うが、それがわしをやる気にさせるんぜよ。

 もしももしも、和解がうまくいって長州と手を組んで動き出せば、ほんまに幕府を倒して新しい日本ができるかもしれんぜよ。うまくいかんでも、薩摩には何の損は無いんじゃき、じゃったらやってもえいじゃろう。まぁ、土佐の厄介者の腕前を見ちょって下さい」

 全く龍馬は面白い男よのう。吉井は薩摩方なので、日本の為というより薩摩最優先で物事を考えるのである。土方氏と龍馬が手を組んで何かするにしても薩摩に損が無ければ、目くじらを立てることは無かった。

 この夜はすっかり遅くなってしまって、吉井殿の好意で、土方さんと龍馬さんは屋敷に泊ることになりました。土方さんは律儀な方で非常に恐縮していましたが、吉井にとってみれば造作もないことで、こんな夜更けに帰しては暴徒に襲われるかもしれないから心配なのだ。龍馬の方は慣れたもので、御主人(吉井)そろそろ風呂になさいませ。とふざけている。

 薩摩と長州和解の為の周旋。龍馬さんは土方さんが驚くほどに楽観的だ。さすがは坂本殿と感心されているが、やがてそれが甘く、心底死ぬかもと震えることになるのです。


 慶応元年(1865年)4月19日、幕府は長州再征伐を布告。

 これは第二次長州征討と呼ばれているものです。これによって、長州は臨戦態勢に入り、その他の藩は兵の準備をしなければならないのです。

 慶応元年(1865年)4月22又は25日、龍馬さんは西郷さんに従って薩摩に向かう。

 この事実によって、西郷さんは龍馬さんを受け入れたとみてよいと思います。西郷さんは龍馬さんの人柄や度量を評価していました。

 同年5月1日、薩摩に着く。以降龍馬さんは西郷さんや家老・小松帯刀邸に滞在し、念願であった薩摩の集成館(詳細は省きます)を見学できたと思います。これは滅多に無いことですよ。

 そして龍馬さんは薩長和解を説き、自分達は船を操って海運業をやって自立して日本の為に(勿論薩摩の為にも)働きたいと熱く語ったと思います。勿論私設海軍を持ちたいとは言いません。ここが彼のエライところです。

 家老・小松帯刀は龍馬さんを気に入り、その夢の実現の為に資金を提供してくれるのです。龍馬さんは嬉しかったでしょうね。


 同年5月11日、土佐藩に囚われていた武市瑞山(半平太)が切腹しました。享年37。

 薩摩に滞在する龍馬さんに再びの運が向いてきた時、この悲しい知らせが届いたことでしょう。仲間思いの龍馬さんは「武市さん! 」と涙したことと思います。参政・吉田東洋様を殺して藩是を尊攘に変えて実権を握ったまでは良かったのですが、結局それが元で、山内容堂様の追及を受けたのです。京で人斬り以蔵と恐れられた岡田以蔵は斬首だそうです。可愛そうな気もしますが、仕方がないですね。


 この頃面白いエピソードがありました。

 当時の薩摩は斉彬公の集成館が稼働していまして、セキュリティは厳重でした。従ってよそ者が入ってくることは無いので皆殆ど顔見知りでした。

 だから龍馬さんのような、大柄で髪はぼっさぼさ、着た切りでよれた着物で町をうろつけば、非常に目立って直ぐに噂になりました。

 そんな折り、西郷さんの家にお世話になっている時に、さすがの龍馬さんも遂に我慢の限界がきて、西郷さんの奥方のいとさんに、古いのでええからふんどし替えたいと頼みました。いとさんは言われた通りに西郷さんのお古を渡しましたとさ。

 ところが勤めから帰って来た西郷さん、それをいとさんから聞くや珍しく激しく怒ったということです。「坂本どんは、お国の為に命を捧げる覚悟をを持っちょうお人じゃっど。そんなお人に古いふんどしなど、もっての他じゃ! 」だそうで、直ぐに新品と替えたそうです。

 もう一つ、龍馬さんが暇つぶしにお寺の軒で、一人囲碁を嗜んていたら、わんぱく童共がやって来て、「あれ見い! 浪人が囲碁をしよる! 」と囃したそうな。それを聞いた龍馬さん「わしゃ確かに浪人じゃ、浪人が囲碁しちゃいかんか! 」と怒鳴ると、童共は恐れるどころかどっと笑いながら散ったそうです。なんとも微笑ましいですね。


 同年5月16日、薩長和解周旋を薩摩から依頼されて、薩摩を出立。

 同年同月同日、将軍家茂、江戸を出立し、閏五月22日に上洛。

 同年同月19日、熊本にいる。横井小楠を訪問。

 同年同月24日、大宰府に三条実美を訪問。

 同年同月27日、同地、五卿に面会。その後、五卿随従者の安芸守衛(黒岩直方)が長州藩士・楫取素彦かとりもとひこに会うと、龍馬さんが薩摩から来たので、会って欲しいとつなげる。それで龍馬さんは楫取さんと話をする機会が出来ました。

 それで会ってみると、龍馬さんは初対面の挨拶と自己紹介の後、すぐ薩長和解の話をしたそうです。この話は既に薩摩藩士・大山格之助(綱良)と会った時に合意していたことでした。龍馬さんは長州馬関(下関)にいる桂小五郎に会ってこの話をしたい。しかし突然馬関に行っては殺されるかもしれないから、斡旋して欲しいと頼んだそうです。

 楫取さんは、坂本殿の考えは私も同意なので、桂氏に手紙を書いてやるのは造作もないことなので引き受けて、その旨を手紙にして出しました。

 するとすぐに返事が来たので坂本殿に見せたそうです。中身は、桂先生は龍馬さんに会うのを承知しました。

 どうやら既に薩長の中堅藩士の間では、和解の話は受け入れられているようですね。龍馬さんも殺されるかもしれないので、きちんと段階を踏んだうえでの会見を望んでいます。

 この件については、長府藩重臣・時田少輔ときたしょうすけの証言もあり、彼も桂小五郎宛てに手紙を書いています。ただ長州藩のリーダーである桂先生は薩摩嫌いなので、長州藩士の口から薩長和解の話はとてもじゃないが出来ないようで、土佐・龍馬さんの登場は渡りに船だったのではないでしょうか。簡単に龍馬さんの紹介を記し、お会いしたいそうですよ。龍馬さんは昔桂先生にお世話になったと言っています。くらいに留めています。

 桂さんも、薩摩に厄介になっている龍馬さんのことを手紙で知り、会ってみることを承知しました。

 頭脳明晰勘も鋭い桂先生ならば、龍馬さんが何のために会いにくるのかわかっていたのかもしれません。もしそうであれば、それを拒絶できないという状況があるのは間違いないですね。

 同年閏5月1日、大宰府から馬関下関に向かう。

 同年閏5月6日、長州・桂小五郎に薩長和解を説く。

 桂先生を相手に龍馬さんは堂々と、薩摩と和解をして活動しましょう。とアピールしました。端正な顔立ちの桂先生は、どんな顔で聞いていたんでしょうね。長州・桂先生が龍馬さんを受け入れたということは、薩長和解に向けて大きく前進したことになります。桂先生も龍馬さんも喜んだと思います。


 私は暦にうといのですが、うるう5月と、閏でない5月がありますが、当時はそうだったのでしょう。


 『龍馬手帳摘要』と土方の『回天実記』から、龍馬は閏5月1日に赤間関の入江和作の邸に行き、城ノ腰の綿屋に宿をとった。

 5日には上方から下ってきた土方久元および時田少輔と面会して、土方も綿屋に同宿することとなった。

 6日には桂小五郎と時田少輔がやってきて西郷来関について話している。この夜には野村靖之助(靖)が尋ねてくる。薩長連合には反対との趣旨を伝えにきたようだ。

 7日、8日には単独で木戸(桂小五郎)がやってきて話をしている。

 9日に土方は「薩長和解もいよいよ纏まった」として大宰府に五卿への復命の為に帰ることにことが決定され、昼頃に赤間関から船で彦島の福浦までいったが、海上があれていて、翌日10日の朝に出帆し、昼頃に筑前黒崎に到着している。

 龍馬は、京都の薩摩藩邸で薩長連合について支持を得て、中岡とともに下ってきた土方から「木戸を説得するために下関で自分は下船し、中岡は西郷を説得するために鹿児島へ向かった」という話しを聞いたようだ。


 ところが、ところがです。西郷は船で下関を素通りして京へ行ってしまったのです。桂先生は大激怒したそうです。まぁ当然ですね。面子丸つぶれですから、龍馬さんは困ったでしょうね。心底謝罪したことでしょう。これが世に言う『西郷すっぽかし事件』です。

 この事件については反省点が山盛りだったようです。

 ・西郷が京入りするついでに、馬関で桂と会談して欲しいというのは、あまりに急ごしらえ。

 ・龍馬や土方、中岡、五卿との連携がとれていない。

 ・薩摩藩主・島津久光を説得した上で、五卿と予め面会せずに来るとは考えられない。

 ・10日頃に西郷が来ると言っていた土方が9日に大宰府に帰ったのはいかがなものか。

 ・西郷の船は豊後水道を抜けて佐賀関を経由して上京する最短コースを辿っているので、始めから馬関に行く気は無かったと考えるのが自然。


 私の印象は、この薩長和解はあくまでも薩摩が長州に手を差し伸べる格好です。いくら和解した方が良いとわかっていても、藩是がそう決まってもいないのに、わざわざ不利な馬関に単身乗り込んで、桂と会うことはないでしょうね。従って、今回は龍馬さんが薩長の間を読み違えたと思います。


 同年閏5月29日、西郷説得の為、中岡慎太郎と共に上京。しかし、これで諦めないところが凄いと思います。現代人のメンタルなら、抜け殻になってしまうくらいの大失態ですが、龍馬さんと中岡さんは西郷さんを追って京に行くのです。

 同年閏6月24日、京都で西郷と面会し、長州藩との和解策として武器供給の便宜を要請する。

 この和解策は『すっぽかし』のもので、龍馬さんが桂さんにめちゃめちゃ謝って許してもらった時に、桂さんの方から提示されたものです。

 実は長州は異国から武器弾薬の購入を幕府から禁止されていて、異国の方もフランス公使ロッシが発議して幕府と足並みを揃えました、

 幕府の意向を無視すると他のビジネスに影響するので、他の国も一応に長州との武器の交易を断わっていて非常に困っていました。そこで、薩摩の名義を貸してもらって異国から武器弾薬を購入したいと言ってきたのです。

 なんと西郷さんはそれを承諾しました。交渉に励んだのは勿論龍馬さんです。かわりに薩摩藩は長州に米五百俵を要求しました。龍馬さんはこれを桂さんに伝えて承諾しました。薩長間の因縁はありますが、ここに商談と呼べるものが成立しました。凄いです。

 こうして名義は薩摩ですが、実体は長州が異国から武器弾薬を購入することになりました。手配するのは、イギリス人の商人トーマス・ブレーク・グラバーのグラバー商会、発注・値段交渉は、長州・井上馨、伊藤俊輔、土佐6・近藤長次郎、そして船(胡蝶丸)で長州に運ぶ役目が龍馬さんの土佐6に決まったのです。


 この閏5月の頃、所謂「亀山社中」が創立しました。創立したのは薩摩藩家老・小松帯刀です。リーダーは坂本龍馬さんで、社員は土佐6と臨時雇いの水夫さん達です。よく日本初の株式会社とか商社とかいわれていますが、当時の日本では株式市場が存在していないので、これは単純に現代人にわかりやすいからそう宣伝したのだと思います。

 当時の呼称は「社中」です。「亀山」は長崎にある場所の名前です。この社中が機能して、グラバー商会から、ミニエー銃四千三百挺を七万七千四百両、ゲベール銃三千挺を一万五千両で購入し、8月に薩摩船胡蝶丸で馬関に納品しました。


 同年9月24日、龍馬さんは西郷さんに同行して京を出立。

 同年9月29日、周防上関に上陸、長州藩家老・浦元襄うらもととし 通称・浦靱負うらゆきえに会い、山口に向かう。

 同年10月3日、長州藩に西郷から依頼された兵糧米供与を周旋。

 同年同月18日、土佐6・近藤長次郎の働きで、グラバー商会から軍艦ユニオン号を三万七千七百両で購入。お金は長州藩が支払い、名義は薩摩藩で名前は桜島丸と命名されて馬関に向いました。実はこの船は複雑な約束事「桜島丸条約」が原因で揉めに揉めます。詳細は後程。

 同年同月21日、下関で桂先生と会談。上京を勧めますが、それどころではありません。

 同年11月上旬、桜島丸が馬関に入港を待ってから上京。西郷さんに、長州への使者派遣を勧める。同月中旬、薩摩藩士・黒田良助(清隆)らが山口に赴く。

 同年11月24日、大阪から長崎へ出立。

 同年12月3日、長崎から馬関に帰る。

 同年同月12日、桜島丸を長崎に回航させて、近藤長次郎さんに事務処理を託して馬関へ出立。


 ここまで、なるべく客観的に土佐6の行動を記しましたが、薩長の為日本の為にあの西郷隆盛さんや桂小五郎さん相手を相手に大活躍でしたね。

 特に近藤長次郎さんの活躍は誰もが認めるものでした。しかい最初は、「わしは饅頭で商売したことはある。饅頭くらいなら失敗しても大したことはないき、じゃがミニエー銃やら何やら数も多いし金額も高い。万一不始末があったらと思うと、わしにはとても無理じゃき」と弱気でした。

 しかし龍馬さんは、算盤が出来て頭も良い近藤さんを元気づけます。

「なぁに心配無いちや。饅頭じゃろうと鉄砲じゃろうと売り物には変わりないき。おまんならできるとわしは信じちゅう! 」

 龍馬さんに励まされて、近藤さんは奮起して商談は成立したのでした。その場面を想像すると、いいドラマになりそうですね。誰が欠けても誰がしくじってもこの偉業はならなかったのです。

 これで長州は喉から手が出るほど欲しかった最新式のミニエー銃。ちょっと古めだけど、幕府軍の火縄銃に比べれば全然マシなゲベール銃が沢山と弾薬。おまけに最新鋭の乙丑丸(色々あってユニオン号から桜島丸からの乙丑丸いっちゅうまるです)まで手に入り、大喜びで打倒幕府軍を目標に毎日諸隊がめちゃめちゃ訓練に励んでいます。

 勿論、長州藩主は土佐6に大変感謝して、謝礼として近藤長次郎さんに三所物みところものというお宝を与えます。具体的には刀剣のこうがい、目貫、小柄です。報酬はこれだけです。後はいつもの月一人三両二分ぜよ。この当時は取引を仲介してマージンを頂くというビジネスは無く、好意で手伝っただけで終わりでした。これでは揉めていません。

 揉めたのは、先の「桜島丸条約」の内容です。名義はウチ(薩摩)だからウチのものだ。平時は交易に使うので土佐6が使う。土佐6は交易に使いたい。但しいくさの時は長州が優先で使う。という内容でして、長州の井上・伊藤はこれを承諾して成立したのです。これなら三者がそれぞれにメリットがある妙案とされました。

 しかし、これはおかしいと言い出したのが長州海軍局です。長州が大金を払って購入したものを所有権が薩摩との主張はいかがなものか、これまで名義を借りて武器弾薬を購入して、所有権は実質長州だったではないか。ユニオン号の時だけ所有権を主張するのは到底受け入れられぬ。と強く主張したのです。

 既に決まったことだから。と言っても、だったらユニオン号の時だけ取り決めを変えるのは駄目だろう。事前にそういうことなら断じて受け入れないぞ。とえらい剣幕で三者は大いに紛糾・困惑しました。

 当然、土佐6・近藤長次郎さんが責め立てられます。長州・井上、伊藤は小さくなります。これを聞いた薩摩藩家老・小松帯刀も、「今更何言ってんの? 」と彼を本気で怒らせてはえらいことになるのは必定というところまで行きました。

 そこで困った長州のリーダー桂先生は、かくかくしかじかで、よしなに頼むよ。という手紙を龍馬さんに送りました。

 龍馬さんも手紙を読んで驚き長崎へ行き、事情を詳しく知って大いに悩んだと思います。社中としては、これからの事業展開を見据えれば、なんとしても船が欲しかった。という近藤長次郎さんの思いがよ~く分かったのです。

 家老・小松さんから見れば、危ない長州に最先端の軍艦まで与える義理はなか。幕府は権威が落ちてきたとはいえ、まだ国内最大最強の勢力と閣僚で国を治めているのです。これが知れたら薩摩の立場が危うくなる。と考えていたのです。それに土佐6も可愛いから肩を持つのです。

 そして長州からすれば、先の四国戦争の敗北で、旗艦を失っており折角新品戦艦を買ったというに、そんなことをされては海軍の荒廃に関わる重大問題なのです。

 龍馬さんは滅茶苦茶真剣に考えたと思います。そして出した結論は、薩長の関係が艦の所有権がこじれて大喧嘩ではまずい。ここは土佐6が大いに引いて、小松帯刀には長州の必死の状況を語って理解していただき、「桜島丸条約」は事実上の破棄。桜島丸は長州の所有で、名前は乙丑丸となったのです。

 龍馬さんの辛い決断と誠意ある行動で、この大問題はなんとか解決をみたのですが、この問題を招いたのは近藤長次郎さんとなって土佐6の中で悪者になってしまったのは否めない事態になりました。龍馬さんはそういうのを許しませんから、いる時は大人しくしていても、いない時は公然と文句を言う者が出たようです。侮蔑を込めて「偽侍」だの「饅頭屋」と言われたようです。


 まだあります。

 近藤長次郎さんはイギリス遊学の志がありました。それをサポートしようとしたのが長州藩です。しかし、以下の様な手紙が残っています。


 伊藤俊輔(博文)から桂小五郎(木戸孝允)への手紙(現代訳)

 上杉(近藤長次郎)のことは、薩摩藩の長崎役人がかなり無茶なことを言っており、非常に苦心して事にあたってくれています。彼はイギリスに行く志があったのですが、我が藩の為に予定が3カ月も遅延していますので、藩政府から必ず御礼をして下さい。きんなれば、百金なり二百金くらいは進呈してやってもいいじゃないかと思います。


 手紙によると、長州藩のせいで近藤さんのイギリス行きが3カ月も遅れているので、必ず御礼をして下さいとお願いしています。


 当時もイギリス遊学は、別に悪いことではありません。幕府は禁止していましたが、資金があれば実質行っていました。手紙を書いた伊藤さんだって嘗て長州5の一人としてイギリス遊学してきたのです。まぁ遊学の途中でしたが長州がヤバイことになって井上馨と緊急帰国していました。


 ところが、近藤さんは仲間・同志である土佐6のメンバーに内緒で計画を進めていたのです。後にこれが発覚して、「何事も大小にかかわらず、はかりごとがあれば、社中のみんなで承認を得てから実行すべし。これに背くは切腹して謝罪せよ」という社中の盟約違反だと追い詰められて、慶応二年(1866年)1月14日、懇意にしていた小曾根家の別棟の梅花書屋で武士として切腹して果てました。介錯人はいなかったということで、物凄く苦しんだと思います。妻子もあったのに相当無念だったことでしょう。

 このような残酷無慈悲な集団が日本初の株式会社ですか? この宣伝をした人は、きっとこの惨劇を知らなかったのでしょう。私はそうは思いません。史実は史実として仕方がありませんが、社中は結社だと思います。

 それにしても、実質ナンバー2の近藤さんをそれくらいのことで龍馬さんに相談も無しに自刃て酷過ぎでしょう。それまでの彼らの行動を見ていると、この件だけ酷いのです。私も愉快な仲間たちと思っていただけに大変にショックです。これからは”愉快な”と削除します。

 近藤さんを自刃させなければならない事情がきっと他にもあったのではないでしょうか?


 近藤長次郎さんの自刃は悲しい史実ですが、その原因は辻褄が合わない点があります。その一つは、イギリス遊学の費用は長州藩が出そうとしていたというのが通説なのですが、先の伊藤俊輔さんの手紙では、既に遊学の計画が長州藩のせいで3カ月も遅れている。とあります。ということは、遊学の計画は既にあったことになります。

 長州藩が費用を担保していたとしたら、伊藤さんは知らなかったということでしょうか? 彼はまだ重役ではなかったので知らなかったとしても、桂先生は知らないはずはないと思います。


 又、「藤岡屋日記」という記録があります。これは古本業を営む藤岡由蔵が幕末の出来事を記したもので、当時の貴重な記録だそうです。その中に近藤さん自刃についての記録がありました。

以下現代訳


 英国商人グラバーから聞いたところによると、近藤長次郎が購入した船の代金の内、二千両が未払いだったので、船の返却を迫った。

 船中一同(社中メンバーと思われる)は既に支払い済みと思っていたので非常に憤慨した。

 又、以前「桜島丸」を下関に回航させて米を積み入れて、長州人を乗せて英国に密航しようとしたが、それも近藤の企てであったことから、社中のメンバーから詰問されて切腹させられたそうだ。


 そして、龍馬さんの妻お龍さんの談話録(千里の駒後日譚)がありました、以下現代訳


 長次さん(近藤長次郎のこと)は全く一人で罪を引き受けて死んだので、己が居ったら殺しはせぬのぢゃった。と龍馬は残念がっておりました。

 アノ伊藤俊輔さんや井上聞多さんは社(社中)の人ではないですが、長次さんのことには関係があったと見え、龍馬が薩摩に下った時、筑前の大藤太郎という男が来て、伊藤井上は薄情だとか卑怯だとか喧しく言っておりましたが、龍馬は、そんなに悔しいなら長州に行って言えと、散々やり込めたのです。


 藤岡屋日記は風聞記録で、お龍さんの談話録も決定的なものではありませんで、まとまりがなくなった感じがします。

・二千両の未払いの件そのお金の行方は不明。普通に考えたら、近藤さんが二千両を着服して、そのお金で渡英しようとしていたんじゃないですか? 妻子がいるので、イギリスで生活基盤ができたら呼び寄せるつもりだったのでしょうか。そんなのすぐに発覚しますが、船に乗ってイギリスに向かえば追いかけて来れんじゃろう。と考えていたのではないでしょうか。

 残念ながら仲間たちに見つかって詰問されて、後ろめたいことがあったから、切腹したのでしょう。でなければ猛然と反論するはずです。それで近藤さんが自刃して、色々探したら二千両が出てきてグラバーさんに支払って、桜島丸はそのまま薩長関係も事なきを得たのではないでしょうか。

・長州人を桜島丸で渡英計画。詳細は不明だが未遂に終わっているはずです。当時の彼らの技量で桜島丸で渡英て、荒唐無稽だと思います。

・全部近藤さんが罪を被って自刃した。それには長州藩の伊藤・井上さんが関与していた。説得力あると思います。明治になると「長州は金に転ぶ」と言われるくらい、長州人はお金に弱かったそうです。

・龍馬さんは「俺がその場にいたら自刃させなかった」これも説得力あり。


 全く別の情報、坂本龍馬関連文書 によれば

 薩摩藩家老・小松帯刀が費用を出して、グラバーさんが船の手配をして、イギリスへ留学する予定だったが、それを社中のメンバーに追及されて自刃した。というのがあります。

 とすると、近藤さんは二千両もの大金を欲しがらないと思います。でもあの二人(伊藤・井上)ならば、着服して近藤さんのせいにしそうな気がしますね。でもそうすると、英国遊学を黙って進めていたくらいのことを追及されたくらいで自刃するかえ? 死んでしもうたら遊学も何もないじゃろう。その場の雰囲気かえ? と元に戻ってしまいます。

 グラバーさんは二千両の未払いを絶対に回収したと思いますよ。近藤さんが自刃して責任をとったのだから、それに免じて水に流してくれ。とはいかないと思います。グラバーさんから見れば、近藤さんの死はお気の毒だが、それと二千両の件は別ですからね。


 さて、結局どれが真相なのかはわかりませんが、社中実質ナンバー2の近藤さんが、仲間に追及されて自刃したのは事実で、龍馬さんは大いに悲しみ、仲間たちも非常に悔やんだと思います。この事件の締めくくりとして、龍馬さんの手帳に記されていた文を紹介して終わりにしたいと思います。

「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(近藤さんの諱)身を亡ぼす所以なり」

 

 時代は下って龍馬さんも近藤さんも社中も全然関係無いですが、堺事件という史実を見つけましたので、ここに残しておきます。

 慶応四年(1868年)2月15日、堺事件が起こる。

 この日、堺港にはフランス海軍の「デュプレクス」という船がやってきていました。日本に駐在していたフランス副領事と、中国・日本方面担当の司令官を迎えるためです。

 遡ることこれより2カ月ほど前、大坂ではとある事故が起きていました。天保山沖にやってきていたアメリカ海軍のボートが転覆し、乗っていた提督を含む数名が溺死してしまったのです。

 そのため、フランス海軍は「アメリカの二の舞いにならないよう、どこが深くてどこが浅いのか、波の様子はどうか、調べておこう」としました。

 測量するのに、一般の水兵の力はあまり要りません。暇になった彼らは、大坂の町に繰り出して遊ぶことにしました。言葉も通じないのに、恐るべき行動力です。

 しかも、かなりテンションが上ってしまっていたらしく、フランス水兵たちは日が暮れても船に帰ろうとしませんでした。

 ただでさえ外国人慣れしていない日本人が、警戒したのも仕方のないことです。住民たちは当時堺の警備を担当していた土佐藩士の警備隊に、「異人たちが騒いでいて怖いので、何とかしてください」と訴えました。

 通報を受けた警備隊は、フランス水兵たちに接触し、船に帰るよう促します。が、言葉が通じません。仕方がないので捕縛して連れて行こうとしました。

 事態がよくわからないフランス水兵は、抵抗しました。そこで土佐藩の隊旗を奪うという暴挙に出てしまいました。

 言葉が通じないとはいえ、軍や国の旗を奪うというのは、相当失礼な行為です。しかもそれだけではなく、フランス水兵たちが逃げようとしたため、警備隊はやむなく発砲しました。銃撃戦の末、フランス水兵に多数の死傷者が出てしまいます。海に突き落とされて、溺死した者もいたようです。

 非はもちろんフランス水兵にありました。しかし仏国公使レオン・ロッシュたちは「何もしていないのにいきなり発砲された」と受け取り、日本側へ下手人の処罰その他の処分を求めます。

 フランス水兵の葬儀を神戸居留地で執り行った際、ロッシュは弔辞としてこんな風に言っておりました。

「私は諸君の死の報復をフランスと皇帝の名において誓う」

 どうやら静かに怒りを燃やしていたようですね。

 一方、日本側の当事者の上司である土佐藩主・山内容堂は、京でこの事件の知らせを受けました。

 たまたま京の土佐藩邸には、イギリス公使館職員アルジャーノン・ミットフォードが滞在しており、「この件に関わった藩士はきちんと処罰する、とフランス公使に伝えてほしい」と頼んでいます。

 ミットフォードはただちにロッシュに連絡を取り、日仏間で解決のために動き始めます。そしてロッシュは在坂中の各国大使と話し合った上で、下手人斬刑・陳謝・賠償などを求める抗議書を提出しました。

 時折しも戊辰戦争の真っ最中。明治新政府の軍はほとんど関東へ行っており、話をこじらせるわけにはいきません。

 もし砲撃でもされたら、堺や大坂の町が焼け野原になってしまいます。そうなれば、佐幕派が「何だ、官軍なんて大したことないじゃないか」と勢いづくおそれがあります。そのため、仕方なくフランスの要求を呑むことになりました。

 しかし、三条実美や岩倉具視が「フランスの言い分をそっくりそのまま呑めば、世論が攘夷に傾いて今後に支障を来す」として、落とし所を探るべきだと主張。

 こうして政府代表の外国事務局輔・東久世通禧、外国事務局掛・小松帯刀、外国事務局判事・五代友厚らがフランス側と交渉を重ねました。

 最終的に隊士全員ではなく、隊長以下二十人を処刑することで、話はまとまりました。隊長を含めた4人がまず死刑と決まり、他の16名は隊員の中からくじ引き。くじ引きは土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)で行われました。

 室町幕府の六代将軍・足利義敎のときもそうですが、昔はくじ引きそのものが神様の意志を尋ねるものとされていたので、必ずしもテキトーな方法ではないのです。結果は……。隊長の箕浦を含め、20~30代の壮年20名が決まりました。

処刑は、事件から8日経った2月23日、堺・妙国寺で執行。フランス側からの立会は、艦長アベル・デュプティ=トゥアール以下水兵たちです。

 ここで土佐藩士たちは、最後の最後でフランス相手に意地を見せつけています。なんと腹を切った後、自らのはらわたを掴みだして恫喝したというのです。

 元々、土佐藩士たちは職務に忠実な人々でした。彼らの横行を糺しただけ、という無念さが拭えなかったのでしょう。

 そもそも切腹で腹を切り裂き、中から臓物を引きずりだすことなど、医学的に可能なのか?これに対し、当サイトの歴女医・馬渕まり先生は「出血によるショックで途中で気を失う可能性は否めないが、相当な気合とテンションで乗り越えることもできる」という趣旨の見解を切腹の記事で書かれております。

 実はこれと同様のケースが、織田信長の息子・織田信孝でもありました。信孝は腹を切った後に壁に向かって臓物を投げつけ、切腹を命じた豊臣秀吉相手に怒りの辞世の句を詠んだというものです。

 同エピソードは否定される方も多いですが、堺事件のときはフランス側の記録があるため、おそらく事実でしょう。

 トゥアール艦長もさすがにショックが大きかったようで、フランス側の死者と同じ11名の土佐藩士が切腹したところで、処刑中止を要請しました。

日本側もこれを受け入れ、残りの9名は助命されています。

 艦長は「帰路で他の藩士に襲われることを懸念した」ともいわれています。しか、本人の日記では「このような処刑では、戒めではなく侍の英雄視につながってしまうから中止させた」としているそうです。

 おそらくフランス側としては、フランス革命でのギロチンのような大量処刑をイメージしていたのでしょう。

 あれは罪の有無や大きさよりも、見せしめや復讐の意味が大でしたから、同事件の処理でも似たような効果を期待していたところ、実際に切腹を目にしてみて、これはそうではないことに気付いた……というところでしょうか。

 その後、明治天皇からもロッシュへ謝罪と朝廷への招待を兼ねた使者が立ちました。ロッシュは「犠牲者と死刑執行済みの人数が同じになったので、他の9名は助命してかまわない」と伝え、招待にも応じています。

 彼の参内時には明治天皇が直接謝意を伝え、無事に国家間の問題としては解決しました。もしかしたら、この経験が大津事件のときにも生かされたかもしれませんね。堺事件のとき、明治天皇は16歳という多感な年齢でしたから、強く印象に残ったことでしょう。

 この間、処刑を免れた9名は熊本藩や広島藩に預けられていました。ロッシュの参内が済んだ後、彼らには土佐の入田(現・高知県四万十市入田付近)への流罪が決まります。

「国のために異人と戦ったのに」ということで当初は納得できなかったようですが、「朝廷からのお達しだし、そんなに長くならないようにするから」ということで、何とか流罪を了承させたのだとか。

 流罪なのに自国内。しかも袴・帯刀・駕籠つき、かつ庄屋の宇賀佑之進預かりという扱いでした。

 江戸時代の刑罰でいえば「所払い(元々住んでいたところから追放する)」くらいの感じでしょうか。流罪というと「死刑よりちょっとマシ」「島流し」というイメージがありますが、実際にはそうとも限らず、いくつかの段階に分かれていました。

 江島生島事件の絵島も流刑になっていますが、離島ではなく、高遠藩(現・長野県伊那市)での幽閉になっています。とはいえ、絵島は生活の大部分に厳しく制限を加えられていました。

 堺事件の生き残りたちはおそらくそこまでの扱いにはなっていないと思われます。「異性絡みのスキャンダルより、外国人をブッコロしてしまった罪のほうが軽いの?」と考えると、なんともスッキリしませんが、その辺は当時の社会通念・事の経緯・感情といった面が主な理由です。

 それを示す逸話として、こんなものもあります。事件の舞台となった堺、そして大坂では、「土佐の攘夷が大当たり」などとはやす歌がはやり、切腹した11人を「ご残念様」と呼んで、お墓に参詣する者が絶えなかったそうです。

 また、助命された9人は「ご命運様」と呼ばれ、彼らの処刑後に遺体を入れられるはずだった大がめに入って、幸運にあやかろうとする者もいたとか。それもどうよ。

 流罪になった9人は、明治時代に入ってから正式に恩赦が出て、自由の身になりました。それまでに病死してしまった人もいたそうなので、全員とはいきませんでしたが。

日本が欧米と対等に付き合えるようになるまでには、堺事件のように日仏双方でも多大なる犠牲があったんですね。


 本筋に戻ります。


 慶応二年(1866年)1月1日、調布藩士・三吉慎蔵と対談。遂に年が明けました。三吉慎蔵さんはこの後、龍馬さんのボディガードとして活躍します。おそらく、桂先生の紹介で意気投合したのだと思います。


 同年同月10日、三吉と共に京都へ向けて馬関を出立。池内蔵太、新宮馬之助が同行する。


 同年同月18日、大阪城に大久保一翁を訪問、厳重手配の忠告を受ける。龍馬さんはもう、幕府から睨まれているのです。だって、薩摩の庇護を受けながら、長州に武器弾薬、軍艦まで運び込んだことは、既に幕府に知られています。そんな中よく大阪城に行きましたね。無謀と言うか大胆と言うか、大久保一翁さんも慌てたと思います。

 まぁ龍馬さんも、自分の後ろにゃ薩摩が控えちょるからいきなり斬りはせんじゃろう。という思い込みがあったと思います。

 

 同年同月19日、京都伏見の寺田屋に入る。

 同年同月20日、薩摩藩邸で桂、西郷と面談する。

 同年同月21日、西郷、小松帯刀、大久保一蔵(利通)桂と会談。薩長同盟の密約が成る。


 はい、年表を見ると、いわゆる薩長同盟は20日に龍馬さんと西郷さん、桂先生(この頃は木戸孝允)と面談して簡単に成った様に思われがちですが、私もそう思っていましたが実際は違いましたね。


 なんと、木戸さんは京都に行って西郷さんに会うことを頑なに拒んでいました。以前馬関ですっぽかしを喰らったので、絶対に嫌だ。他の者が行けばよいというのです。これにはさすがの高杉さんも困ったそうです。(もうみんな一癖あるね~)

 それで困った正義派上層部は、藩主・敬親にお願いして藩命として、京都行を命じたのです。ここ重要ですよ。長州藩主が、薩長同盟の為に動けと命じているのです。木戸さんもさすがに藩命に背くわけにいかず、京都・薩摩藩邸に行くのです。しかもそれが慶応二年(1867年)1月8日、京都着ですよ。実は木戸さんは10日あまりも早く京入りしていたのです。


 同年同月11日、木戸さんを連れてきた薩摩藩士・黒田了助と別室で話し合い情報収集。勿論木戸さんを下にも置かないおもてなしをしています。

 同年同月12日、木戸さんからの贈答品「箱入付鍔大小」を西郷さんと小松さんが受け取り、藩主・久光が名代、桂久武の元へ運びました。贈答品を持ってきたということで、木戸さんを長州からの賓客としてもてなすことを決めたそうです。

 藩主名代・桂久武がこれを受け取ることで、京都薩摩藩邸での手続き(儀式)が完了し、木戸一行は準藩邸「お花畑」に移動しました。

 品川弥二郎の回想録に、西郷のところに三四日おり、その後我らは近衛公の小松別荘に移った。とあり、符合します。

 西郷のところ(寓居)は、薩摩の若者や諸国の志士が寝泊まりする下宿の様なもので、木戸一行には落ち着けるものではなかったようです。例えるなら、旅客機でエコノミーからファーストクラスに一気にアップグレードできたようなものです。

 同年同月14日、名代・桂久武がお花畑に向かい、木戸さんと会談します。その後、連続して諏訪(島津伊勢)、西郷さん、黒田嘉右衛門の順で懇談しました。おそらく御挨拶と顔見世でしょう。

 同年同月15日、江戸に行っているもう一人の家老岩下方平の用人宅に行って話をしています。内容は不明ですが、多分散歩でしょう。

 同年同月17日、国許から久武へ内田仲之助と奈良原を伴って帰国せよとの手紙がもたらされます。久武は木戸が只今上京しているなかで、この手紙は心乱れるところだったでしょう。

 同年同月18日、有名な「国事会談」が御花畑で開かれます。出席者は小松、西郷、諏訪、大久保、吉井、奈良原に久武が加わります。

 このメンバーでは奈良原が長州に対する最強硬派でしょう。久武は久光名代としての立場を守らねばなりません。小松は全体の責任者ですから自由な発言はできないでしょう。

 このメンバーで一致できる方針は「薩摩藩は長州の汚名を雪ぐためにあらゆることを行うので、いったん幕府の処分を受け入れよ。処分については骨抜きにするから」というものであることは青山忠正氏が「吉川経幹周旋記」をもとに復元され、定説化しています。

 これに対して木戸は「武備恭順」方針を主張し、幕長一戦も辞さずの態度に終始します。この時、久武は上京する途中、12月13、14日に寄港した上関の様子を思い浮かべていたことでしょう。

 久武はこの時、坂本龍馬の消息を気にしつつ、臨戦態勢にある長州の雰囲気をできるだけ探ろうとしていますが、十分ではありませんでした。この場で木戸の決意を聞いてあらためて長州の決死の覚悟が伝わったのではないでしょうか。

 一方、木戸はこの会談の内容には不満足で、これはもはや望みなし、離京するという決意を固めたようです。とてもではありませんが、六箇条などあらあらでも成立しようがありません。薩摩藩が一方的に長州の汚名を雪ぐ努力をするという言い方さえ、奈良原には受け入れがたいものだったのではないでしょうか。

 このような状況の中で木戸の方から同盟を切望するなどというのは憐れみを請うに等しいこととなります。木戸は有名な「自叙」のなかで、朝敵でもない薩摩藩に同盟をしてくれなどとこちらから言えるはずもなく。と述べていますが、逆に木戸はこの場で何度も同盟を請いたかったでしょう。しかし、信頼関係の雰囲気が全くないこの場でそんなことを言い出すことはできなかったのです。18日に六箇条が成立したとはいえない状況でした。


 坂本龍馬は19日に伏見に着き、20日に上京します。龍馬がまず会ったのは西郷でしょう。そこで、話が全く進展していないことに驚きます。おそらくその対策を練ったと思います。

 木戸の「自叙」には「薩州亦俄に余の出発を留む。一日西郷余に将来の形情図り六條を以て将来を約す。良馬亦其席ニ陪ス。其翌京都を発し浪華に下り留る数日」とあります。薩摩側は具体的にどように木戸を引き留めたのでしょう。「一日」の意味はなんでしょう。「六條」を西郷と約した日はいつなのでしょうか。その翌日に木戸は離京したと書いています。


 木戸のものは後年の回想です。このことについての同時代史料はどうでしょうか。龍馬の同行者三吉慎蔵日記には1月23日の項に「過ル廿一日」に桂小五郎(木戸)と西郷の談判が行われて約決したと龍馬から聞いたことが明記してあります。坂本龍馬手帳摘要には「廿二日木圭、小、西、三氏会」とあり、22日に小松を含む会談が予定されていたことが記されています。


 「上京日記」には21日に前日急遽帰国が決定した大久保が「谷村・奈良原・黒田嘉右衛門・同良介・大久保・得野良介・堀直太郎等」のメンバーを久武が見送る記事がでています。

 多くの論者はこの時に木戸ら一行も大久保等とともに下坂したとみています。その通りだと思います。さて、注目すべきは、この記事の中で谷村の次に奈良原の名前が記されています。

 この二人は木戸を迎え入れたことに不満をもっていたと思われます。両黒田と大久保はもちろん薩長提携に前向きな人物です。あとの二人は得野と堀直太郎は宴会メンバーなどで名前がでるだけで薩長会談には関わっていないようです。

 この記された順番に久武の意図を感じます。さらに堀直太郎については、このあと柴山良介に送った手紙の中で正月5日に江戸から上京し、そのうちの帰国準備をしていたところ前日になって急に大久保ととともに帰国することを命ぜられたとあります。(『忠義公史料』4巻61P)

 大久保帰国の決定は20日ですので、堀直太郎もそのときに命ぜられたのでしょう。そして、21日に大久保とともに久武に出発を見送られた。ところが、この手紙の中で直太郎は「先月廿二日京出立」と明記しています。これはどうしたことでしょう。

 以上が同時代史料です。では回想録は木戸の「自叙」や「品川弥二郎述懐談」などが中心ですが、山本栄一郎氏が『真説・薩長同盟』で注目すべき回想録を紹介されています。それは明治33年に末松謙澄が著した『維新風雲録:伊藤・井上二元老直話』です。

 この中で伊藤博文は「木戸は、不十分ながら京都を去ったのである。そうすると坂本龍馬が京都に居って、木戸を追駈けて伏見まで来て」と言っています。

 このあと伊藤は、龍馬が木戸に六箇条を書かせて、それを京都に持ち帰り、西郷、大久保に見せて龍馬が朱書きをして木戸に渡したと語っています。

 この部分に末松は、朱書きが入る手紙は大坂で木戸が書いたもので、だいぶ遅くに木戸に返送されてきたものだから伊藤公の話は違うとしつつ「伏見にて坂本に逢い、談合の不十分なりしを語りしに、坂本がそれでは不可として再び中間に斡旋したとの事は、予また親しくこれを木戸公に聞けり」ととわざわざ割註で書いています。

 また、木戸は末松に上京途中の龍馬に会ったと語ったのですが、これも末松は龍馬には三吉慎蔵が同行していたはずだからおかしいとも書いています。

 ここに末松謙澄の歴史家らしい部分がでています。回想には記憶違いがつきものと考えています。伊藤の話にしても直にきいた木戸の回想もおかしいところはおかしいと指摘し、その上で、なお「伏見で坂本にあった」という共通項があることを伝えています。

 別々の人物が別々の機会に木戸本人から伏見で坂本に会ったと聞いている事実は重要です。結局、末松はこのことを後日明らかにしたいと書きながら果たせていません。以下の考察では伏見で木戸と坂本は会ったということを全面的に採用して論を展開します。

 「慶応期西郷隆盛寓居の検討から『薩長同盟論』にいたる」(『霊山歴史館紀要』24号2019)で、坂本の登場、説得によって再度の木戸との会談をセッティングを西郷、坂本らは考えたのでしょう。しかし、18日のような状態では進展がのぞめません。そこで、大久保が最強硬派の奈良原や谷村を引き連れて帰国することによって彼らを京都藩邸から引き離すことが目的であったと考えます。

 20日、大久保の帰国決定がされたあと久武は大久保とともに帰宿してそこで昼食をともにとり、報告内容の打ち合わせをしています。そして、大久保がこのあと西郷に会うというので、今晩の別盃には不参加であると伝えて欲しいと言っています。

 従来、この部分は久武が大久保宅を訪ねたと解釈されていますが、近年上京日記を全訳(志學館大学人間関係学部『研究紀要』第39巻掲載)された鹿児島志學館大学の有松さんも同意しておられます。久武は西郷と直接会うのを避けています。

 さて、この別盃では薩摩琵琶の名手でまだ少年だった児玉天南が演奏をしています。この演奏に感じ入った木戸は漢詩を詠んでいます。

 木戸孝允関係文書8巻に所収されたものには「發京前一日薩州士某訪我潜居彈琵琶」と表題があります。

 潜居とは御花畑を指します。内容は「別離在近欲分袂忽聞坐邊四絃彈/曲是悲壯第一曲人是少年第一人/追懐往事感迫骨不覺紅涙自潜々/知是明朝淀水夢半在京城半故園」です。

 自ら帰国を決意した。会談内容を思い返すと紅涙があふれそうである。明日には淀川を下る。故郷にも帰りたいが京都にも思い残すことがある。というような意味です。とても会談が成功したようには見えません。この漢詩の揮毫を他日にも頼まれたみたいで、少し字句の違うものが複数伝わっています。いずれにしても18日の国事会談は木戸にとっては恨みの残るものだったです。

 21日に予定どおり、大久保らとともに京都を離れます。かなり大勢なので、高瀬船ではなく、徒歩で竹田街道を南下したことでしょう。伏見につくと伏見藩邸とその向かいの兼春に分宿です。

 ここで、追いかけてきた坂本は木戸に会います。木戸から会談の顛末を聞いて、坂本は西郷とも合意の上で木戸とともに京都に引き返すことを木戸に強く勧めます。木戸の自叙に「薩州亦俄に余の出発を留む」とあります。

 ここまで同行してきた大久保も坂本とともにそれを強く勧めたに違いありません。思いがけなく坂本が伝える西郷の意思と目の前の大久保の言によって木戸は「俄に余の出発」を留められたと感じたのでしょう。

 木戸は坂本とともに再び西郷と会談するために引き返します。この時、付き添いとして正真正銘の薩摩藩士である堀直太郎が付けられたのでしょう。

 他にも同行者はいたかも知れませんが、夜のうちに京都に入り、木戸と西郷は坂本立ち会いのもと再び相対します。ここで三吉慎蔵日記の龍馬いわく「六條の約決」が行われたでしょう。この時に六箇条に関わる書類が作成されたことは鳥取藩史料「京坂書通写」から分かります。場所は、最初に木戸が到着した西郷邸であったと思われます。なぜなら、この時点では秘密会談なので藩邸は避けられ、また御花畑には小松がいます。

 そして、翌22日、最高責任者の小松も加えての最終的な会談がセッティングされ、龍馬は手帳に「廿二日木圭、小、西、三氏会」と書くことになります。22日の会談後、木戸は堀直太郎に同行されて離京します。

 堀が22日離京したと書いた理由です。大久保らの一団に伏見で追いつけたかどうかはわかりません。午前中、京都に荷を運んできた高瀬舟の下りに乗船すれば意外と早くに伏見に到着できた可能性があります。もしそうできなくても淀川を下る夜行船が運航されているので、遅くとも23日の未明までには確実に大坂に到着したことでしょう。

 木戸は大坂に到着してすぐに坂本に六箇条の内容を自分なりにまとめて坂本に送りました。24日に龍馬が寺田屋で遭難したときに押収された書類の内容から22日の最終結果は後日、木戸の元へ届けられる予定であったと思われますが、木戸のせっかちさと龍馬の遭難、それをきっかけに盟約の内容が公になってしまい、さらに龍馬救出に薩摩藩が相当な決意をもって臨んだことによって確たるものになったといえます。

 決然たる行動は言葉の真実性を裏付けます。23日の朝の時点では一抹の不安を感じていた木戸もその後の展開を聞いて、小松や西郷は十分信頼にたる人物であると確信したに違いありません。

 木戸は岩国藩だから打ち明けるがと前置きしながら「実ハ常時之勢迚も薩之力ニ及不申、此上ハ是非ニ不能幕長一戦ニ相成可申歟、争端開候而も半年一年ニ勝負決候様ニハ参申間敷、一戦ニ及候ハヽ其節薩之言被行候と存込候」と答えたといいます。

 つまり薩摩は、幕長一戦はできないと考えていて、もし戦端が開いても半年一年は勝負がつかず、一戦がおこれば薩摩の約束は行われると確信していると答えてます。これはもう六箇条そのままの文言です。

 木戸がよほど、この盟約が結ばれたことを喜んでおり、またこのことをもって薩摩に対する信頼を深くしたかがうかがえます。木戸は幕長開戦前の薩摩の挙兵は求めておらず、そうなったあとの薩摩藩の実行力に信頼感を置いていたといえます。会談後の西郷らの動きがのんびりみえるのは木戸が幕長開戦時の薩摩挙兵を求めていないからで、西郷らの心情は、長州よとにかくここは踏ん張れ、おのが未来を自ら開けという気持ちだったでしょう。

 なお、「是非ニ不能幕長一戦ニ相成可申歟」を「この上は、幕長戦争が勃発しても致し方ない」と訳しておられる研究者もおられるが、「不能」なのは「幕長一戦」で、書き下すと「是非に幕長一戦能わずに相成ると申すべきか」、直訳すると「きっと幕長一戦はできないことになるだろう」と訳した方が会談当時の薩摩の考え方に即しているように思います。幕長一戦は仕方がないというような無責任な態度であったならば木戸の信頼感も損なわれたでしょう。

 桂久武はこのような経緯をほぼ知っていたと思われます。大久保が帰京するまで久武は国許の反応が気になって仕方がなかったことでしょう。

 大久保は2月21日に帰郷し、早速その足で報告にきています。翌日の22日には休日であったにも関わらず西郷、諏訪、伊地知、大久保、久武の5人で昼頃から夜の10時ごろまで会議を開いています。

 小松はこの時は病気で参加できていません。ここで今後の方針について議論をしたのでしょう。小松、西郷、桂久武が坂本龍馬夫妻を伴って薩摩に帰国することが決定されたのでしょう。大久保の帰国報告が国許で受け入れられた結果でした。上京最終日、久武は西郷とともに藩邸執務室に暇乞いにいっています。

 これ以後、薩摩藩の指導権は小松、西郷、大久保等に移り、割拠方針をとっていた久光の指導は後景に引いていきます。兵力の着実な上京や、小松原演習場の整備、諸藩への工作、兵站の整備などやることはやまほどあったでしょう。薩摩に向かう船の中で、小松や西郷は考えることが山ほどあったことでしょう。


 有名な薩長同盟は、テレビ番組の特集や映画などにすると、どうしても時間的な制限がありますから、ポンポンと手際よく視聴者に伝える必要があるので、同盟が簡単に成った。

 という印象があるのですが、記録文書や史料はそんなことはお構いなしですから、それをまとめると非常にまだるっこしく、一時は不成立かと思わせておいて、龍馬さんが木戸さんを追いかけて説得して再びの会談はドラマチックでさえあります。それにしても、ドラマや映画とはずいぶん違いますよね~。私もびっくりしました。調べてみて良かったです。

 先日(2021年)NHKの「歴史探偵」という番組で、真実の龍馬と綱吉という番組では、「最近の研究では、薩長同盟は慶応二年の前年、慶応元年(1865年)に長州藩主・毛利敬親と薩摩藩主・島津久光との間に親書が交わされていて、龍馬さんがいてもいなくても(何をしようとしなくても)早晩成っていた」そうであります。

 時代の趨勢からみても、そうだったことでしょうね。藩の命令として木戸さんを京へ差し向けたのも頷けます。だからといって龍馬さんは実際にいてできるだけのことをして、木戸さんを薩摩藩邸に戻してうまくいった事実を高く評価してもいいじゃないですか。

 まぁ、薩長同盟には、たくさんの人物が関与しています。これでも絞ったくらいですから実際はもっと多くの人物が関与してやきもきしていたと思います。又、長州藩・正義派、藩主・毛利敬親公はそれを望み、薩摩藩もスムーズに同意に持って行けたのは、龍馬さんの功績は非常に大きいと思います。

 有名な薩長同盟の六箇条は密約の為に文書化されませんでした。今残っているものは、木戸さんが後で書いたものです。それを龍馬さんが薩摩側に見せて確認をとったうえで、裏に朱書きで内容を保証しています。中身は以下の様です。(現代語訳)


一、(長州が)戦いに入った時は、薩摩は速やかに兵二千を卒兵上京させ、又大阪へも千人ほどで京阪を固めること。

一、長州の旗色が良くなったら、ただちに朝廷側に働きかけて長州を支援し、講和成立に尽力すること。

一、万一、長州の敗色が濃くなっても、半年や一年で壊滅はあり得ないので、その間に援護策を講ずること。

一、幕府軍が関東へ引き上げたならば、ただちに朝廷に図って、長州の冤罪を取り除くことに努力すること。

一、一橋、会津、桑名などが朝廷を利用し、薩摩の周旋を妨げる時は、すぐさま決戦に挑むこと。

一、冤罪が晴れたうえは、薩長は誠意をもって皇国のために尽力し、天皇親政を実現すること。


 この裏に朱書きで、


 表に御印しになられそうろう六条は、小(小松帯刀)、西(西郷隆盛)、両氏及び老兄(木戸孝允)、龍(坂本龍馬)等も御同席にて談論せし所にて、すこしも相違いこれ無く候。後来といえども決して変わり候事これ無きは、神明の知るところに御座候

丙寅二月五日 坂本龍


 同年同月24日、午前3時頃、伏見奉行所の捕吏に襲われ負傷。脱出して伏見の薩摩藩邸に匿われる。

 龍馬さんと三吉慎蔵さんが、寺田屋で伏見奉行所の捕吏に襲われた事件です。今ではみんな龍馬さんの味方ですが、当時としては龍馬さんはテロリストなのです。幕府から見れば、国を転覆させかねない要注意人物で、悪っちゃ悪です。薩長同盟が成立した矢先のこの襲撃は偶然ではなく、既に幕府は龍馬さんの動きや居場所を突き止めていました。

 ならばもっと早く捕縛しておれば良かったのにと思いますが、そこはもう仕方のないことですね。仮に龍馬さんの活躍が無かったとしても、薩長同盟は時期が遅れて成っていたでしょう。それが理解できました。


 お龍さんの後日談を発見しました。

 「風呂に入っておりましたところ、外から私の肩先へ槍と突き出しましたから、片手で槍を捕らえ、わざと二階へ聞こえるような大声で、女が風呂に入っているのに槍で突くなんて誰だ誰だと言うと、静かにせい殺すぞと言うからお前さんらに殺される私じゃないと庭に飛び降りて、濡れ肌にあわせを引っ掛け、帯をする間もなく裸足で駆け出すと、槍を持った男が私の胸倉を取って、二階に客が有るに相違ない、名を言えと言いますから、薩摩の西郷小次郎さんとあと一人は知らぬとでたらめを言いますと、ウムよく教えたとかなんとか言って表へバタバタと行きました。

 私は裏の秘密梯子から駆け上がって、捕り手が来ました。御油断なりませぬと言うと、よし心得たと三吉さんは手早く袴をつけて槍を持って身構え、龍馬さんは六連発の短銃を握って待ち構えました」(明治三十二年11月、土陽新聞連載)


 まぁ、御本人の証言とはいえ、時も経っていますし、土佐の新聞の連載ということで、それなりの見せ場を求められますから、このまま受け入れてはいけないと思います。

 捕吏がいきなり入浴中の人に槍を突き付けますかね?

 龍馬さんの手紙にもありますから、龍馬さんに危険を伝えるために半裸・裸足で駆け出したのは事実でしょう。

 捕吏の計画では、百人体制で深夜に押入って寝込みを捕縛するという算段でしたが、二人はまさかの夜型で起きていました。しかも入浴中のお龍さんに見つかって先にバレてしまったのでした。

 この後の展開は、龍馬さんは後日詳しく手紙に書いて、木戸さん、親族・親戚一同に送って記録に残っています。三吉さんも日記に残しています。


 お龍さんが風呂場から濡れ肌に袷一枚で飛び込んできた。龍馬さんは「お龍、前のものを始末せい! 」と諭すと、お龍さんは気を取り直して前を整えて捕吏が来ていることを告げます。「心得た」と身支度を整えて三吉さんは槍、龍馬さんは、高杉さんから貰い受けた短銃(S&WモデルIIアーミー6連32口径)を取り出します。

 小さな船宿の二階に通じる細い階段という状況で、百人からの捕吏達でごった返していました。「肥後守よりの上意につき、慎みおれ! 」と声高に呼び立つと、三吉さんは、「我は薩人なり! 上意を受くべきにあらず」と返しましたが、無駄でした。騒然とする中のテヘペロです。

 当時は冬で寒かったので炭団などあったでしょう。二人は灯りを吹き消した。勿論電灯など無いので灯りを消せば真暗です。捕吏は提灯を持っていたでしょうが、それでも暗い中、「上意! 上意! 」という声が響き、追い込まれます。二人は捕吏と言葉を交わしたそうですが、殺気を感じ取ってやむなく龍馬さんが発砲。捕吏の一人に命中して倒れました。

 これには捕吏のみんなはビビったと思います。これまで治安を守ってきた自負があったにせよ。おそらく小さな短銃が発する音と威力を目の当たりにしたのは初めてであろうからです。

 32口径弾は、あたり所によっては死ぬこともあります。現に龍馬さんは二人を射殺したそうです。捕吏一同は「おおー」と引いたと思います。これではもう飛び込めませんね。それでも勇気ある捕吏が、脇差で龍馬さんの隙を見て手元を斬りつけました。

「家内のいくさ、実にやかましくたまり申さず。その時又一人を撃ちしがあたりしやわかり申さずところ、敵一人障子の陰より進み来たり、脇差を以って私(龍馬)の右の大指を削ぎ、左の大指の筋を切り割り、左の人指し指の本の骨節を切りたり。元より浅手なればその者に銃を差し向けしに、手早く又障子の陰に駆け入りたり」

「さて前の敵、なお迫り来るが故に、又一発致せしに、あたりしや分からず。右銃は六丸込みなれども、その時は五丸のみ込めてあれば、実にあと一発限りとなり、これ大事と前を見るに今の一戦にて敵少ししらみたり」

「一人の敵黒き頭巾を着け、たちつけをはき、鎗を平正眼のように構え、近々寄りて壁に添いて立ちし者あり。それを見るよりまた内金を上げ、慎蔵が鎗持ちて立ちたる左の肩を銃の台にいたし、敵の胸をよく見込みて撃ちたりしに、敵丸にあたりしとみえて、ただ眠りて倒るる様に腹這うごとく倒れたり」

 このモデルは弾を装填する時、弾倉ごと外して空薬莢を出して弾を詰め替えるようです。龍馬さんは五発撃った後この動作に入ったのですが、二発は込めたが、負傷で手元が思う様にならず弾倉を落としてしまいました。

 すぐに探そうとしたですが、布団が引いてある上に火鉢の灰が散らばって、更に敵が何かを投げ込んだ物と混ざって見つかりません。

 慎蔵さんに銃は捨てたと言うと、然る時はなお敵中に突き入り戦うべしと言う。私(龍馬)は、この間に逃げましょう。と言えば、慎蔵さんも同意して鎗を投げ捨て、後の梯子の段を下りてみると、敵は唯家の店の方ばかりを守っていました。

 それから屋根のさんをくぐって、後ろの家に逃げ込んだ。家人はいなかった。これまでの隣家の捕物騒ぎに驚いて逃げたのだろう。夜具はそのままである。龍馬さんと三吉さんは後ろの町内に逃げ込もうとするが、その家は頑丈にできていて、容易には打ち破れない。

 それでも刀を以て散々に切り破り、足にて踏み破りなどして町に出てみれば、人一人も無し。これ幸いと五町ばかり走りましたが、龍馬さんは手負いで出血がひどく息が切れて動けなくなりました。

 着物は足にもつれ、ぐずぐずしていると敵が追い付くおそれがあるので気が気でない。(この時思ったのは、男子は脛から下に垂れる着物を着てはいけないな。この時は風呂から上がったままで、湯着を下にその上に綿入れを着、袴は着る間無し)

 それでもなんとか横丁にそれ込みて、御国の新堀(これは土佐の町名だそうです。読み手、つまり権兵衛兄さんや乙女姉やんがわかりやすいようにとの配慮です)のようなる所に行きて町の水門から這い込み、その家の裏より材木の上に上り寝たるに、折悪しく犬が吠えて実に困りたり。

 ここで龍馬さんは動けなくなるのです。追い詰められた三吉さんは、このまま敵の手に落ちるは見苦しい、ここで共に割腹しようではないかと提案します。龍馬さんはこれを受け止めますが、こう応えます。

 「死ぬ覚悟ならば、伏見薩摩藩邸へ走ってくれ、もし敵に見つかればそれまでとわしもこの場で死ぬのみ」

 龍馬さんは笑いさえ浮かべていたそうです。三吉さんは、これを聞いて奮起します。川で血を洗い、わらじを拾って旅人に扮し、伏見薩摩藩邸に駆け込んで助けを求めました。

 藩邸では留守居役の大山彦八が出迎えてくれました。一足早くお龍さんが寒い中袷一枚の姿のまま駆け込んでいて、肝心の龍馬さんの居場所が分からず困っていたところでした。

 三吉さんが場所を教えてくれたおかげで、薩摩の旗印を立てた手勢で龍馬さん救出に成功したのです。こうなっては、伏見奉行所では手が出せないのでした。


 深夜百人からの捕吏を差し向けて、たった二人の人物の捕縛に失敗したのですから、伏見奉行所の大失態でした。一番の要因は、龍馬さんの短銃に関する知識の不足と、その威力を目の当たりにしたことによる不安・恐れだと思います。

 これも長らく太平が続いて、捕吏達も段々こなれてきたのです。相手が刀・槍ならば、六尺棒で取り囲んで隙を見計らって飛びかかれば終いです。これに慣れてしまったのです。ところが今回は短銃です。捕吏達は六連発を知らなかったのではないでしょうか。しかも龍馬さんは五発込めでした。おそらく六発込めでは暴発を恐れたのでしょう。

 至近距離で五発の銃声をおそらくは初めて聞き、二人の仲間が死んだところを見ると、腰が引けるのも無理からぬと思います。みんなただお勤めに来ているだけですから、それが短銃を以て遠慮なく撃ってくる凶悪犯に出くわせば、銃前に進んで出る者はいないでしょう。もう誰も撃たれて死にたくないのです。それでも、よく脇差で龍馬さんに痛撃を喰らわしたと思います。

 それに五発撃って、弾倉を落としたのを見れば、銃に関する知識さえあれば、もう相手は手負いの丸腰です。一気呵成で捕縛できたはずですね。三吉さんの槍が幾ら凄くても、そんなものは捕吏からすればお手の物だったはずです。

 二階にいた捕吏は、下にいる捕吏に「賊は二人! 今下に逃げたり、もれなく捕縛せよ! 賊は短銃を持ちたり気をつけられよ! 」と叫んだらどうでしょう。声の調子でも雰囲気は伝わりますが、賊の二人は確認できたと思いますが、殺気立った二人を捕縛できませんね~。撃たれたくありませんから。それと秘密の梯子の存在ですかね。

 まぁ、伏見奉行所は残念でした。勿論お龍さんの大活躍、三吉さん大奮戦、龍馬さんの冷静で諦めない姿勢も見逃せません。素晴らしいです。まるで映画の様です。映画なら面白いです。事実何度も映像化されていますね。

 個人的には大河ドラマ「龍馬伝」の寺田屋受難のくだりが好きです。


 水戸天狗党の乱と長州征討をまじめに書いたら長くなってしまいました。

 短くまとめたつもりなのに予想を超えて長くなってしまい、分けることにします。色々本を読み、まとめて考察するのは手間暇かかるけど悪くないですね。

 ネットで、5分でわかる。とか、3分でわかる。とかありますが、それらが何を端折っているかわかるようになりました。薩長盟約からの寺田屋受難はセットですね。直筆の文はとても読めませんが、今は現代文に訳してくれているから助かるぜよ。


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